02-壱-プロローグⅡ
駅前の広場には、いつもの朝が広がっていた。
近くで名前を呼び合う声。軽く手を振って合流する姿。
スマートフォンを見つめながら歩く高校生。
イヤホンをつけたままの社会人。
私服姿の若者が、手に持った缶コーヒーを傾けながら足早に通り過ぎる。
学校、会社、プライベート──様々な人影が、流れるようにすれ違っていった。
駅前の掲示板には、今週末のライブイベントの告知ポスターが貼られている。
足を止めて眺める若者たちは、誰もが“何か”を探しているような目をしていた。
白石美冬は、そうした酷く雑多な喧騒を一度も振り返ることなく、歩を進めた。
他人に勝手に注がれる視線も、他人が勝手に交わす言葉も、彼女の心音を揺らすことはない。
大きく掲げられた広告看板が視界に入っても、それに意味を持たせることはなかった。
目に映るものは、ただの光景。
耳に届く声は、ただの音。
彼女の中で、それらが色を帯びることはなかった。
駅構内に入った。
ICカードをかざすと、ピッという機械音とともに、改札のバーが開く。
一瞬の間にも立ち止まることなく、そのまま通り抜けた。
ホームに降り立った瞬間、冷たい空気とともに、視界が一気に開ける。
朝の光を跳ね返す鉄の柱。
濁ったガラスに貼られた古い広告。
人影の連なりと、背後で鳴り続けるアナウンスの声。
目に見え、耳に入ってきたはずのそれらは、まるで内面のどこにも届かず、色も温度も伝えてはこなかった。
認識はしている。形も、距離も、どこに何があるかも。
けれど、そのどれにも意味はない。
ホームの光彩はただの“情報の背景”でしかなかった。
(……疲れる)
理解し得ない色々に溺れるような、そんな感覚があった。
毎朝の登校時間は、多くの社会人の出勤時間と重なる。
だからこそ、帰宅時よりも、目に映るものが多く、気疲れが増す気がした。
(苦手だな……)
彼女の感性とはどうにも噛み合わない。足首に重りが巻き付いたかのように、気を抜けば転んでしまいそうであった。
駅に風が舞い、電車がホームへと滑り込む音がその中に溶けていく。
その扉は、彼女の前で正確に止まり、まるで待ち構えていたかのように開いた。
けれどそこには、どこにも行き先はなかった。
開いた扉の向こうにあったのは、別の色が混ざっただけの"情報の背景"でしかなかった。
ほどなくして、扉が閉まった。動き出した電車内には、湿度と人の熱気が緩やかに立ち込めていた。
すぐそばで交わされる声。指先で操作されるスマートフォンの画面。
呼吸、衣擦れ、吊革を握る手のわずかな震え。
全てが近くにある。けれど、どれも“関係のない存在”のように、意識の外側で止まっていた。
窓際に立ち、視線だけが外へ流れる。
ガラス越しに、朝の景色が動いていく。
駅を出た電車が軌道を滑り、街の輪郭を少しずつ後ろへ押し流していく。
信号待ちの車。コンビニの前で立ち話をする人。
眠そうな顔で歩く親子。風に煽られる看板。
すべてのものに形があり、動きがあり、きっと、音もしていたのだろう。
ただ、そのどれにも意味がなかった。
認識はされている。けれど、心の内側に何かが触れることはない。
電車の窓に映る風景は、ただ黙々と流れていくだけの無音のスクリーンだった。
鮮やかさも、温もりも、確かにそこにあるはずなのに、どれひとつとして記憶に触れてこない。
まるで、冴えないモノクロ映画のフィルムをなぞるように、世界は進んでいく。
そして、その無色の時間が、嫌というほどに、自分の感情の欠片を照らし出していた。
無音のスクリーンを眺めているからといって、降りるべき場所、見慣れた駅の手前に差しかかっていることに、気づかないわけではない。
あくまでも機械的に手荷物──鞄を確認して、持ち手を握り直す。
開くべき扉の前へと身を向けた。




