19-玖-変化Ⅲ
「お昼、一緒に食べませんか?」
白石美冬は、自分の所属するクラスではない教室へ、ためらう様子もなく足を踏み入れた。
教室の喧騒から距離を置こうとしていた琉亜の前に、美冬は迷いのない足取りで近づき、まっすぐ声をかけた。
その様子を目にした周囲の同級生たちは、ふたりの関係が本当だったのだと受け止め、ひそひそと囁き合いながら、その“事実”を自然と共有していった。
「いいよ」
居心地の悪さを感じながらも、琉亜は彼女の誘いを受けることにした。
断る理由があるわけでもなく、かといって断らなかったからといって大きなリスクがあるわけでもない。
むしろ、今の“仮初の関係”を周囲に通すうえでは、応じた方が都合がいい。
だからこそ、彼は人目も気にせず、小さくうなずいた。
美冬は琉亜の返事を聞くと、ふっと表情をやわらげた。
ただ頷いただけの彼に、まるで大きな承諾を得たかのように、少しだけ嬉しそうな色を見せる。
ふたりのやり取りに、教室の視線が一層集まる。
その空気を切るように、美冬は踵を返した。
琉亜はわずかに溜息をつきながら立ち上がると、彼女のあとを追った。
ふたりは並んで教室を出ていった。
「……お弁当は?」
手ぶらの彼を見て、美冬は小さな疑問を口にした。
「持ってきてない。作るのも面倒だし、教室じゃ食べる気にもならないから」
琉亜は肩を竦めて、どこか皮肉混じりの声で答える。
「一人暮らしなんですか?」
その言葉に含まれたニュアンスを汲むことなく、美冬は気になったことをそのまま尋ねた。
「そう。言ってなかったっけ?」
「聞いてないですね」
彼女は首を横に振る。
廊下の窓際まで来ると、琉亜はふと曇った空を見上げた。
「今日は……外に出られないな」
空には厚い雲が広がり、今にも雨が降り出しそうだった。
「こういう日は、どうしてるんですか?」
美冬が少し首を傾げながら尋ねる。
「別に、行き先なんかないよ。人がいない場所、人が来そうにない場所を探して、適当に時間を潰す」
そう言った琉亜の目は、どこか遠くを見つめていた。
「でしたら、食堂に行きませんか?」
私立翔南高校には食堂がある。
だが、琉亜はそこをほとんど利用したことがなかったし、美冬も数えるほどしか足を運んでいない。
「流石に、食べないのに座ってるのは悪いだろ?」
琉亜には昼食をとるつもりがなかった。
それは場所の問題でも、気分の問題でもない。一人暮らし故の節約の問題だ。
「そう……ですね。なら……」
美冬は琉亜の気持ちを尊重することにした。
彼女は昼食は食べるべきだと思ったが、自分も朝食を食べていない身なので、言及することは出来なかった。
「白石さえ良ければ、一つ心当たりはある」
食事を取るべき場所ではない。何なら学生たちは立入禁止となっている場所である。
「でしたら、倉本さんのお好きな場所で良いですよ」
美冬は琉亜の提案を否定する気はなかった。
「好きな場所ではないかな……」
だがしかし、美冬の言葉を琉亜は否定した。
「あら、そうなんですね」
「行く宛が無いってだけだよ。前も言ったけど、逃げているだけ、だから」
「そこに行きましょうか。逃げても何とかなるなら、逃げ続けてもいいんじゃないですか?」
どこを指しているのかは分からなかったが、美冬は行き先を任せると同時に、琉亜の在り方を肯定してくれた。
「……どうだろうな。白石の言う通り、逃げ続けてもいいんだとしたら、そう思えないのは……俺の心のせい、ってことかもな」
琉亜は目的地の名を口にせず、そのまま静かに歩き出した。
彼が受け取ったのは、彼女の“肯定”だけだった。
美冬は何も言わず、その背を追った。
「ここは……」
ふたりがたどり着いたのは、「立入禁止」と書かれた階段の前だった。
そこは校舎の屋上へとつながる場所。
「行くよ」
「あ、はい」
読んで字のごとく、そこに立ち入れば叱られるのは当然だ。
けれど、あまりにも琉亜の足取りが自然だったため、美冬も特にためらうことなく、あとに続いた。
階段は、平面を一段挟んで折れ曲がる構造になっている。
だから、登り切れば誰かに見つかることもない、隠れ場所のような造りだった。
屋上に続く扉の前には、何も置かれていない、薄く埃をかぶった踊り場が広がっていた。
美冬は階段の最上段に腰を下ろし、隣にそっと弁当箱を置いた。
「倉本さんも、少し食べます?」
「いや、気にしないでくれ」
琉亜も彼女にならい、その隣に腰を下ろす。
「もしよければ、倉本さんの分も作りましょうか?」
弁当箱の蓋を開け、一つひとつ丁寧に中身を整えながら、美冬は静かに提案した。
「……なんで?」
意図の読めない言葉に、琉亜は首をかしげる。
「一人暮らしだと、自分のために作るのって面倒じゃないですか。だから、そうかなって思っただけです」
「いや、そうじゃなくてさ。なんで白石が、そこまで俺のこと気にするのかって話」
自分たちは仮初めの関係に過ぎない。本物の恋人でもなければ、義務感に縛られるような関係でもない。
それなのに、どうしてここまで彼女が気を配る必要があるのか。琉亜には理解できなかった。
「人を気にかけるのに、理由って必要ですか?」
「……いや、まあ、確かに」
その一言には、反論の余地がなかった。
琉亜は、返すべき言葉を探したが、見つからなかった。
一方の美冬も、自分をいつも気にかけてくれる永野結芽のことを、ほんの少しだけ理解できたような気がしていた。
「でも、流石に悪いからやめておくよ。それが当たり前になったら、なんか怖いし……」
「別に、そうなってもいいですよ。
それとも、他に……食べない理由でもあるんですか?」
「うっ……いや、ない、です」
「どうしても嫌なら、無理には作りません。
ただ私は、今回の件のお礼も込めて、何か形にできたらって思ったんです」
今回の“交際”は、あくまでも美冬の事情から始まったことだ。
琉亜にとって、それは嫌なことではなかった。むしろ、困っている誰かがいるなら、自分が引き受けるのは当然だと考える質だ。
けれど、何も返さないままの“片側だけの善意”の状態に、その居心地の悪さに、彼にも理解はあった。
「……じゃあ、お願いしようかな」
琉亜は、わずかに苦笑を浮かべながらそう答えた。
「わかりました。提案しといてなんですが、残り物で作るので、彩りとかは期待しないでくださいね」
美冬は、どこか嬉しそうに、それでも少しだけ照れたように、笑ってそう言った。




