12-弐-日常
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「朝……か」
朝五時。無機質な電子音が部屋に鳴り響いた。
その音を頼りに意識を覚醒させた倉本琉亜は、ベッド脇に立ち上がると、近くのカーテンを引き、外の様子を確かめた。
(昨日の、あれは──なんだったんだろう)
まだぼんやりとした頭の中に、白石美冬という名が浮かぶ。
美しい容姿を纏った少女。
彼女と交わした言葉、彼女のとった行動は、琉亜の理解できる範疇を軽々と超えていた。
彼は動きやすい服に着替え、軽く体を伸ばすと、静かに外へと出た。
ランニングと鍛錬。毎朝の日課をこなすために。
アスファルトに靴底が触れるたび、乾いた音が静かに響いた。
朝五時十分過ぎ。空はまだ薄暗く、夜と朝の境目を曖昧にした色に滲んでいる。
琉亜は一定のリズムで足を運びながら、まだ人気のない住宅街を駆けていく。
道の両脇には、無機質なコンクリート造りのマンションが建ち並んでいた。
同じような外観の建物が、まるで規則正しく並べられた箱庭のように続いている。
低層階のベランダには、誰もいない洗濯物干し竿だけがぽつりと立っていた。
電柱が連なる細い路地を抜けると、大きな交差点に出た。
信号はまだ夜間モードのまま、黄点滅を繰り返している。
遠くの大通りでは、新聞配達のバイクが小さな音を残して過ぎていった。
琉亜は呼吸を整えながら、そのまま歩道の端を駆け続けた。
コンクリートの壁、ポツポツと並ぶ街路樹、シャッターを閉じた商店。
すべてが、まだ静かに眠っている。
吐く息は、わずかに白く。
その中に、かすかな冷たさと、目覚めかけた街の匂いが混じっていた。
ランニングを終えた琉亜は、人気のない公園の隅に足を運んだ。
アスファルトの地面に、軽く汗ばんだ息が白く溶けていく。
両足を肩幅に開き、体の軸を正す。
ゆっくりと、深く呼吸を整えながら、目を閉じた。
右足を一歩引き、膝を落とす。
左掌を前に、右掌を腰に添えた静かな構え。
無駄な力はどこにもない。ただ芯にだけ、僅かな緊張が宿っている。
掌を払うように突き出し、体ごと半歩踏み込む。
動きは流れるように続き、腰を回しながら肩を落とす。
単に腕を動かしているわけではない。
呼吸、視線、体重の乗せ方すべてが、ひとつに繋がっている。
膝を深く曲げ、腰を沈める。
脇を締め、腕をすり抜けるようにして掌を打つ。
空気を割る音が、かすかに広がった。
朝焼けに包まれた空気の中、琉亜はただ黙々と、動きを繰り返していた。
流れる呼吸と、正確な足さばき。
一挙手一投足に、言葉にし難い静かな気迫が滲んでいる。
呼吸を流すように整えながら、琉亜は型の最後の動きを打った。
掌が空を切り、膝を深く落とす。
静かに重心を戻し、両足を揃える。
目を閉じたまま、しばらくのあいだ呼吸を続ける。
内側にあったわずかな熱も、徐々に静まっていった。
薄く開いた瞼の向こう、朝の空はゆっくりと青さを増し始めている。
空気に溶けるように聞こえていた鳥のさえずりも、少しずつ賑やかさを帯びてきた。
琉亜は黙って頭を下げ、鍛錬を終えた。
再び体を整えると、歩き出す。
湿り気を含んだ冷たい風が、額に滲んだ汗を優しく冷やした。
まだ街は、ほとんど目覚めていない。
アスファルトの上に伸びる長い影を踏みながら、琉亜は静かに帰路についた。
「倉本さん」
背後から掛けられた声に、琉亜はふと立ち止まった。
振り返ると、朝の光を受けながら、白石美冬が静かにこちらを見ていた。
「あ、ああ。白石、おはよう」
琉亜は少し間を置いて、ぎこちなく挨拶を返した。
昨日の今日で、不思議で不理解な行動をした彼女を目の前に、彼は確かに戸惑っていた。
「おはようございます。いつも、こんなぎりぎりなんですか?」
彼女は、控えめに身を傾けた。
ホームルームのチャイムが鳴る五分前。
琉亜は学校という場所に馴染めず、いつも家を出るタイミングをぎりぎりまで迷ってしまう。
「家が徒歩五分だからさ。つい……な」
小さく肩をすくめながら、琉亜はどこかバツが悪そうに、言い訳のように呟いた。
「そうなんですね。もうチャイムも鳴ってしまいますし、早く行きましょうか」
彼の内心には気づくこともなく、美冬は言葉をそのまま受け取った。
そして、ためらいもなく昇降口へと足を踏み入れた。




