01-零-プロローグ
秋の朝は、ただ乾いていた。
四季折々の変化のない機械音で、白石美冬〔しらいし みふゆ〕は目を覚ました。
秋用の少し薄手の布団を無造作にめくり、足を床へ落とす。
つま先でひんやりとした木の感触を確かめてから、踵を静かに硬質な板の上に置いた。
皮膚の温かさを平面上に広げるように、主張するかのようにして、少しだけ力を入れて立ち上がった。
その冷たさも、その熱の広がりも、いつも通りのルーティンであるから、何か余計な思考が挟まることはない。
ドアノブに手を伸ばし、ゆっくりとひねる。
カチャリ、と小さな音がして、扉がわずかに開く。
枠の隙間が知っている廊下に変わる。
少しの躊躇いもなく、部屋の外に一歩を踏み出した。
扉の先に伸びる短い通路を、何も見ずに歩く。覚えている道をなぞっているだけだった。
彼女の部屋は、一軒家の二階の角にあった。それは、生まれたときから何一つ変わっていない。
階段を交互に下りていく。足裏に伝わる木の感触も、手すりに残る冷たさも、変わりはなかった。
やがて、一階のリビングの前で、自然と足が止まる。なぜ止まったのかは考えない。ただ毎朝そうしているから、そうしているだけだった。
リビングに続く扉は、開け放されたままであった。そこに人の気配はなく、窓に備え付けられた防犯用のシャッターは下りたままだった。その薄暗さが、室内の静かさを酷く強調していた。
それは、呼吸のように意識されることのない光景だった。音もなく進む時計のように、そこにあることすら忘れるほどの日常だった。
定められたルートをなぞるように、空虚な部屋を抜けてキッチンへ向かい、あらかじめ組み込まれた手順の通りに、彼女の身体はキッチンで弁当作りを始めていた。
昨夜、誰もキッチンに立たなかった。だから、作り置きという概念もなかった。
冷蔵庫を開ける。
中には、半開きになったプラパックに入った卵、袋に少しだけ残ったウインナー、洗っていないままのプチトマト。
一度も視線を止めることもなく、それらを順に取り出して、流れるように調理台へ置いた。
卵は溶かずにそのまま焼いた。フライパンの上で、黄身と白身が曖昧に混ざって広がっていく。
油をひかずに並べたウインナーは、しばらくすると小さく跳ねた。音にも反応せず、ただ時間を測るようにフライ返しを持つ。
トマトはキッチンペーパーで軽く拭って、そのまま仕切りの脇へ。
何も考えず、決められた配置に詰めていく。
彩りも栄養も、意図したものではない。
ただ、空白を埋めるための、朝の一工程。
やがて、弁当箱の蓋を閉じ、ゴムバンドで留める。
それを手に取ると、何の躊躇いもなく、鞄の決まった場所へと収めた。
朝食は作らない。なぜか朝は食べ物を受け付けないから。
台所の動きが終わると、再びリビングを横切り、階段を上る。
足取りに迷いはなく、身体だけが次の工程へと移動していく。
廊下の突き当たりにあるクローゼットの前で、足が止まった。
扉を開け、整然と並んだ中から制服を取り出した。
シャツに袖を通し、スカートを履き、ホックを留める。
動作は淀みなく、ひとつひとつが記憶をなぞるように滑らかだった。
ネクタイの輪を作り、無言で結ぶ。
結び目の高さも輪の大きさも、変わることはない。
姿見の前に立ち、ひと通りの確認をする。
目を細めるでもなく、表情を変えるでもなく、ただ鏡に映る自分を一度だけ見つめた。
乱れはなかった。思った通りの位置に、すべてが収まっていた。
制服の皺に指先をすべらせ、整っていることを確かめる。
整えるというより、乱れのない状態を“確認する”という感覚だった。
身嗜みを気にすることは、美冬にとっては習慣の一部だった。
美しさを意識しているわけではない。
それは、歯を磨くのと同じように、“そうするもの”として組み込まれているだけだった。
容姿が整っていることも、制服が乱れていないことも、彼女にとっては確認するまでもない「前提」。
それらは努力や意識によって維持されているのではなく、最初からそこに在るものとして、自然に日常に溶け込んでいた。
やがて、全ての準備を終えて、美冬は鞄を手に取り、玄関の前に立った。
ドアノブに触れる前に、小さく息を吐いて、ひとことだけ。
「……いってきます」
その言葉に返る声はなかった。
けれど、美冬は気にする様子もなく、靴を履き、外へ出ていった。
返事がないことも、それに対する諦めも、いつもの朝の風景に含まれていた。
昨日も、今日も、きっと明日も、それは変わらない。
美冬は、そういうものだと、静かに受け入れていた。




