雨宿りにコーヒーと推理はいかがですか?
皆様、明けましておめでとうございます。
新年一発目は前々から言っていたとおり、鉄火市がとある文学賞に挑戦したものの、落選してしまった小説を投稿させていただきます。
普段書かないジャンルや文字制限に悪戦苦闘しましたが、それでも当時の私が頑張って書いた小説です。
落選作ではありますが、良ければ読んでいってやってください。
僕はいつものようにジョギングをしていた。
その日はふとした気分で帰り道を変え、偶然にも雰囲気の良いカフェを見つけた。
レトロチックな音楽に、こだわりを感じるアンティークな内装。
人によっては古臭いと感じるだろうが、僕は個人的にこういう店は結構好きだ。
おまけに頼んだコーヒーも香りが引き立っており、最高の時間が過ごせた。
いや、過ごしすぎたというのが正しいだろう。
「まさかこんなに降るとはな。さっさと帰っておけばよかった」
思わず溜め息が出た。
外は先が見えなくなるほどの土砂降りで、傘も持たない状態で飛び出していい生半可な状況では無かった。
(そういえば天気予報のお姉さんが昼から強い雨が降るって言ってた気がするな。あんまり真剣に見て無かったから適当に聞き流してたけど、こんなことになるなら携帯と財布くらいは持ってきておくんだったな)
今更しても遅すぎる後悔に頭を悩ませながらも、僕は立ち往生を余儀なくされた。
そんな時だった。
「凄い雨ですね。もしかして傘を持ってくるのを忘れたのですか?」
周りに人は居らず、立ち往生しているのは僕くらい。
だから、話しかけられたのはきっと僕なのだろうと、僕は声がした背後に振り返った。
そこには、英国紳士を思わせる身だしなみの齢四十前後と思われる男性が立っていた。
左手には杖、右手にはシルクハットという現代日本ではあまり見られない様相だったもので、僕はその紳士に視線を釘付けにされた。
紳士はこちらの反応を窺っているのか喋らないものの、ニコニコと人の好い笑みでこちらを見続けている。
その為、僕は慌てて言葉を紡いだ。
「あはは、見ての通りです。日課のジョギングを終えてこの喫茶店に入ったはいいものの、傘を忘れてしまいましてね。お金もさっきコーヒー代で使っちゃったんで家に帰れないんですよ」
「でしたら私がタクシーを取りましょうか?」
「いえ、見ず知らずの御仁にそんな迷惑はかけられません。どうせ今日は大学も休みですし、確か夕方頃には晴れるって予報でしたし、マスターにお願いして雨宿りでもさせてもらいますよ」
この喫茶店のマスターとは初対面だが、客も僕とこの紳士しかいない以上、無理に追い出すようなことはしないだろう。そう思って断ったのだが、紳士は何故か引き下がろうとはしなかった。
「そうですか。でしたら、私のチェスのお相手を願えますかな?」
「えっ……チェスですか?」
突然のお誘いに素っ頓狂な声が出てしまう。
別にチェスというボードゲームをやったことが無い訳では無いが、この見た目英国紳士のおじさんと良い勝負が出来る程の実力かと問われれば、流石に無理だ。
「僕、チェスは小さい頃にやったくらいで、あんまり強くありませんよ?」
「構いませんよ。話し相手が欲しいだけですので」
「それでしたら、折角ですしやりますか」
あまり乗り気はしなかったが、手持ち無沙汰であったことも事実。仕方なく僕は、この初対面の紳士とチェスをすることになった。
◆ ◆ ◆
そろそろチェスを始めて一時間が経過しただろうか。
僕は机に顔を突っ伏しながら絶望感に打ちひしがれていた。
既に五戦以上やったが、こちらに白星がつくことは無く、対局するごとに理解させられる一朝一夕では決して埋めることの叶わない実力差がそこにはあった。
今度こそはと感じることすら出来ない絶望に、チェスをまったく楽しいとは感じなかった。
だが、雨は止むどころか強まる一方で、やることのない僕にはチェス以外の選択肢が無かった。
(早く雨やまないかなぁ……)
かなり早い段階でわかっていたのだが、この人は傘を持っている。
それでも帰らないのは傘も金もない僕に気を遣ってか、それとも他にやることがなくて暇なのか。どちらにせよ、この目の前の紳士は帰る兆しを見せなかった。
「集中しきれていませんね」
まるで心の内を見透かされたかのように図星をつかれ、僕は慌てて現実へと舞い戻る。
「すいません。せっかく付き合ってもらっているのに」
「いえいえ、それも仕方のないことなのでしょう。一時間もすれば集中力の低下が見られるのは当然の事。休憩にしましょう。コーヒー、おごりますよ?」
「いえ、そんな」
「遠慮しないでください。チェスに付き合っていただいたお礼です」
そこまで言ってくれるのであれば、断るのも無礼というものだろう。
僕は差し出されたメニュー表を受け取り、メニュー表に目を通した。
僕個人としては、いつも飲んでるブルーマウンテンを頼みたいところだが、おすすめの欄に当店自慢のブレンドコーヒーと書かれてあれば、それを飲んでみたいと自ずと指が動いてしまう。
「ブレンドコーヒーをアイスでいただけますか?」
「おや、ホットではないのですね」
「ジョギング帰りでちょっと身体が暑くなってましてね。あっ、汗とか臭かったらすいません」
「いえいえ、気にならないので大丈夫ですよ。ではマスター、ブレンドのホットとアイスを一つずつ」
「かしこまりました」
紳士の注文にマスターが頷き、マスターはカウンターでコーヒーを作り始める。レトロな音楽が流れる中で見るその光景は、一つの癒やしとして存在していた。
「コーヒーが来るまでの間にもう一局と行きたいところですが、せっかくですし、推理クイズをしませんか?」
「推理クイズとは、また唐突ですね」
「そうかもしれません。ですが、他にやることといえばチェスくらいですが……」
「いえ、せっかくなんで是非やりましょう!」
少し食い気味だっただろうか。だが、流石にチェスは飽きた。
それをもう一度やるくらいなら、推理クイズの方が何万倍もましというものだろう。それに、推理物のドラマやアニメは結構好きだし、ちょっと面白そうと感じてしまった自分がいる。
「では、詳細は伏せますが、これは実際に私が現場にいた事件のお話です。今から三年程前、私は登山に行っていたのですが、そこで急な吹雪に見舞われまして、右も左もわからない状態になってしまいました」
「それは大変でしたね」
「ええ、あの日はもうここで人生の終幕を迎えるのかと諦めていたのですが、そこで偶然にも光を見つけました。そちらへ向かってみると、西洋風の館が建っていたのです。幸運なことに真新しい轍の跡や車が見えまして、人がいるならと、ダメ元で避難させてもらえないかお願いすることにしました」
「それで入れてもらえたと」
「ええ。館の主人は少々渋っていたようですが、彼の若い婚約者が外は危険だと入れてくださったのです」
「それは良かった。その人が入れてくれなきゃ貴方は今ここにいなかったかもしれなかった訳ですか」
「ええ、彼女は命の恩人と言って差し支えないでしょう。中では身内だけの婚約パーティーをやっている最中で、その場にいたのは私を除いて八人。まず、館の主人である今川……そうですね。ここはA氏と称しましょう。彼は四十二歳で恰幅のいい男、目つきや言動からあまり良い印象をいだきませんでした。そしてその婚約者であるBさん二十四歳」
「二十四歳! 僕と殆ど変わらないじゃないですか!」
「そうですね。私も歳を聞いて驚きました。黒く艷やかな長い髪が特徴的な方で、身長は百六十ある私と殆ど変わりませんでしたが、その童顔もあってか、実際の年齢よりも若く見える印象でしたね。次に、A氏の兄、C氏。彼もA氏と同様に恰幅のいい身体付きをしており、何杯もワインやウイスキーといったお酒を飲まれていたので酒豪の印象が強い方でした」
「なんか凄い情報が多いんですけど……酒豪や艷やかな黒髪とかの情報っていります?」
「情報の取捨選択は貴方が行うべきでしょう」
「なるほど。確かにそうですね」
紳士の答えに納得していると、注文していたコーヒーがテーブルに置かれた。
紳士のホットコーヒーが引き立たせる芳しい香りに、ホットにすれば良かったかなと思いつつ、僕はストローでアイスコーヒーを一口飲む。
個人的にはホット派だが、こういう時のアイスは格別だと心から思える素晴らしい味わいで、僕の気分が高潮していく。
「ふむ、たまにはコーヒーを飲むのも悪くありませんね」
「その口振りだと普段は飲まないんですね。やっぱり紅茶派なんですか?」
「そうですね。私も散歩の最中に雨が振られたものでして。コーヒー専門店とはついていませんでした。いえ、貴方に出会えたのですから幸運だったかもしれませんね」
そう言うと、紳士はカップをテーブルに置いた。
「続けます。次にC氏の妻、Dさん。言い忘れていましたが二人共四十五歳だそうです。Dさんの特徴は派手な格好と濃い化粧ですかね。そうそう、口調が毒々しかったのもよく覚えています。そして、二人の一人息子、E君二十一歳、彼は医大生だそうです。眼鏡をかけており、体格は母親同様痩せ型で、身長は百八十程でしたか。非力な印象が強い方でしたが、性格は二人と似ておらず、勤勉で真面目という印象を受けました。残りの三人は館の人間で、まず執事のF氏六十八歳男性。白髪の整えられた髪とモノクルが特徴的な方で、姿勢、時間管理、対応力、全てに満点をつけたくなるような方でした。そして、残った二人は館のメイドです。名前はGさんとHさん、共に二十八歳で同期なのもあって仲が良く、Gさんは茶色い短髪、Hさんは茶色い長髪で、執事のF氏の指示によく従う方達でした」
「なんか紙とペンってあります?」
「こちらをどうぞ」
紳士に渡されたペンに名前と年齢、それから関係性を書き記していくが、ここまでは特にこれといって変なところは見当たらない。
「お待たせしました」
書き終わってそう告げると、紳士は微笑ましそうにニコリと笑い、続きを語り始めた。
「最初は入れるのを渋っていたA氏でしたが、私の話を気に入ってくださったのか、最終的には歓待してくれましてね。秘蔵のワインまで開けてもてなしてくださいました」
館の主人が持つ秘蔵のワインということはそこらに売られているワインよりも桁がいくつも跳ね上がったものだろう。そんな代物を振る舞われるとは、相当気に入られたのだろうな。
「夕食の席では実に豪勢な西洋風の料理が並べられましたが、私が気に入ったのはその皿やカップといった調度品で、これがまた中々に珍しいアンティークものでしてね。興奮冷めやらぬ中、食事会は二十時頃に終わり、A氏も今日中に確認しなければならない仕事があると言って部屋へと戻られました」
「それで、皆が部屋に戻ったと」
「いえ、話し足りないとC氏に捕まりましてね。館自慢の遊戯室でゲームをしながら話を聞きたいと誘われ、無理矢理押しかけた負い目があった私は、C氏とE君と共に遊戯室に向かいました」
「ゲームって、ビリヤードでもやったんですか?」
「いえ、ポーカーというトランプを使ったゲームですよ」
「それを何時間してたんです?」
「そうですね。一時間程経った頃、C氏がそろそろ眠いからと部屋に戻っていきました。そこに風呂から上がったらしいBさんがやってきて、自分もゲームがしたいと言い始めたのです。E君がやけに乗り気でしてね。それならばと私もゲームを続行したんです。それから一時間程経過して、長時間運転した疲れが出たらしく、E君がゲームから抜けると言ってきました。時間は既に二十二時になっており、ゲームのお開きを提案したんですが、Bさんが私の話をもっと聞きたいと言ってきました。流石に時間も時間でしたし、断ろうとしたのですが、彼女は仕事が終わって部屋に戻ろうとした二人のメイドを呼び止めてゲームに誘ったのです。メイドの二人も私の話に興味があったようで、仕方なくゲームは続行となりました」
「ふむふむ。Cが一時間で抜けて、そのタイミングでBが入り、一時間後にEが抜けて、メイド二人も参戦っと」
「それから再び一時間が経ち、突然、驚いたような声が遊戯室まで響いてきたのです」
「おっ、遂に事件発生ですか!」
「ええ、メイドのGさんがそれは執事のF氏のものではないかと告げ、もう一人のメイドであるHさんが、F氏はコーヒーのおかわりをA氏の元に持っていったのではないかと告げた為、私は二人に案内を依頼し、急いで執務室へと向かいました」
「執務室ってことは、もしかして?」
「はい。執務室の前に行けば、そこには腰を抜かしている執事のF氏が、冷や汗まみれの驚いた顔を扉が開け放たれた部屋の方へと向けていました。そして、中を確認すると、そこにはカーペットの上で仰向けに倒れていたA氏と、お腹に深々と突き刺さった包丁が見つかったのです」
やっぱりという言葉を飲み込み、大きく息を吐き出した。
まさか、推理クイズで本物の殺人事件を用意するとは思わなかった。
「続けても?」
「……ええ」
大きく息を吐き出して答えると、紳士探偵は事件の概要を語りだした。
「A氏の変わり果てた姿に驚いていると、後ろからBさんが覗き込み、甲高い悲鳴が館内に響き渡りました。私は急いでHさんとGさんに警察と救急車の手配を頼みましたが、この吹雪で来るのは難しいと判断し、執事のF氏にカメラとBさんの介護をお願いしました。そして、カメラが届いた頃、Bさんの悲鳴によって起きたC氏とDさん、それからE君が執務室までやってきたのです」
「三人の反応は?」
「大層驚いた様子でしたが、その中でもE君だけは冷静を保っており、冷静な眼差しでA氏を観察していました」
「なるほど」
「暫くしてGさんが、吹雪で警察と救急ヘリがすぐに来るのは難しいという旨を伝えてきた為、私はカメラで現場の写真を撮り、検視の心得があるというE君と共に検視を行いました」
「それで?」
「死因は腹部の包丁による失血死、死後三十分から一時間という見解になりました」
「死因はとにかく、その死亡推定時刻は素人二人によるものなので、正確なものと言い難いのでは?」
「手厳しいですね。ですが、E君の医学に関する知識は私も脱帽するもので、内容も的確でした。少なくとも彼の言葉に矛盾点はなく、正確に近い検視だったことは明らかです」
「そうですか。なら、その死亡推定時刻はほぼ正しいと見ていいようですね」
「ええ。今回の事件において、E君の検視は正確でした。これは断言しておきましょう」
そこまで言うのであれば、死亡推定時刻に間違いは無いのだろう。
「ところで、凶器の包丁は外部から持ち込まれたものだったんですか?」
「いえ、館に置かれていたものだそうですよ。鉄製のもので、中々値の張る一品だと執事のF氏がおっしゃっていました。倉庫の中にあった予備のもので、いつ頃紛失したかは不明とのことです」
「館の物なんですね。……それで、現場の中になにか怪しい痕跡は無かったんですか?」
「そうですね。現場の中で異様だと感じたものは二つ、まず、A氏が抵抗した跡が見られなかったこと」
「即死だったのでは?」
「包丁が刺された痕は一回のみ。ましてや腹部に深々と突き刺されたならば抵抗出来ずに死ぬなんてことはまずありえません。悲鳴を上げるどころかもがいた痕跡が無いのは不自然です」
「なるほど、確かにそれはおかしいですね。それで、もう一つは?」
「包丁が異様に冷たかったことです」
「……外は吹雪だったんですよね。鉄製の包丁が冷えててもおかしく無いのでは?」
「そうですね。ですが、現場には暑すぎるくらいの暖房が入ってました。少なくとも三十分は刺さったままなのですから鉄製の包丁であれば熱を持っているのが普通でしょう」
「確かに、暖房が効いていたんならおかしいですよね」
「はい。包丁は冷たく、現場には抵抗した痕跡が見られない。A氏の殺人現場は、不自然で不可解なものと言うしかありませんでした」
「一応聞きますが、この事件は貴方が解決したんですよね?」
「ええ」
「警察の介入が入る前にですか?」
「そうですね。警察が入ったのは事件解決の約五時間後でした」
「つまり、外部犯でもなく、指紋採取といったこともしないで解決したってことでいいんですよね?」
「ええ、事件現場は二階にあり、外が吹雪かつ窓には鍵がかかっていた為、外部犯の可能性は限りなく低いです。ただ、ここは断言しておきましょう。犯人は私を除いた七人の中に居ます」
「四人では? メイドや婚約者のBさんは事件の起こったとされる時間、貴方とゲームをしていたのでしょう?」
「可能性の排除は視野を狭めます。確かに、彼女達は事件が起こったとされる一時間の間、お手洗いに立つこともありませんでした。ですが、それで除外するには早計というものです」
「アリバイ工作の可能性があると?」
「可能性は零じゃないというだけです。現場に不自然な点が多い以上、その可能性は視野に入れるべきです」
そこまで言うと、紳士探偵はコーヒーのカップを持ち、口に運んだ。それを見て、僕もコーヒーのストローに口をつける。
(アリバイ工作か。となれば、一番怪しいのはあの人になる訳ね)
アイスコーヒーを半分程飲み干し、僕は同じくカップを置いた執事探偵に質問を再開する。
「外部犯の可能性は無いと早々に消したとなれば、貴方は全員にアリバイを聞いたのではありませんか?」
「ええ、事件現場の不自然な点を見つけた私は、全員のアリバイを確認しなければならないと思い、皆さんに向かうよう言っていた食堂に向かいました。まず、メイドの二人、GさんとHさんは、A氏が食堂を出てからゲームに参加するまでの二時間程は殆ど二人でおり、それを執事のF氏も何度か確認している為、犯行はほぼ不可能といえるでしょう。逆にF氏の方は一人での作業が多く、アリバイは無いと認めていますね」
「メイドの二人は容疑者から除外、執事は可能位置。残りの四人は?」
「まずBさんですが、彼女は一度F氏がHさんに持っていくように指示したコーヒーを代わりにA氏の元に持っていったそうで、そこで無事なA氏と会っています。しかし、仕事があるからとすげなくあしらわれ、渋々出ていき、自室のお風呂に長時間入ったそうです。そして、私達と合流したそうですよ」
「そこから二時間ずっと貴方と一緒だった訳ですか」
「ええ、彼女は遊戯室に入ってから一度も部屋を出ることはありませんでしたが、部屋の時計を見ることが異様に多かったのは覚えてます」
「そうですか。……残りの三人は?」
「まずC氏ですが、彼はゲーム後、自室に戻り、部屋でお酒を飲んでいたそうです。その際、奥方であるDさんの姿も視認しており、それから三十分後、ベッドに入ったそうです。なので、事件の発生時はDさん同様寝ていたとのことです」
「Dさんもなんですね」
「ええ。酒に強くないようで部屋の風呂に入り、すぐに就寝したとのことです。悲鳴によって起きたC氏に起こされるまでは眠っていたと言っています」
「悲鳴によって起きたって、そういえばさっきも言ってましたね。そんなに大きな悲鳴だったんですか?」
「それもあるでしょうが、寝泊まりしていた部屋が近かったのもあるでしょう。ほぼ真下の部屋で寝ていたそうなので」
「なるほど。それじゃあEさんは?」
「彼も同様です。飲みすぎと長時間の運転による疲労で熟睡中とのこと。ちなみに彼の部屋は両親の隣だったそうで、現場からはそう遠くはありません。階段も近くにあったので行こうと思えば往復で五分もかからないでしょう」
「なるほど。事件当時のアリバイが無いのは四人ですか?」
「そういうことになりますね。他に聞きたいことはありますか?」
一見、アリバイトリックが成されたような形跡から、犯人が唯一アリバイのある婚約者に見えるけど、逆に言えば、アリバイトリックなんてものはブラフで、ミスリードを誘ったものの可能性もある。
そうなれば一番怪しいのは酒を部屋で飲んでいたと言っていたCさんだ。
被害者と喧嘩し、誤って殺してしまった結果、怪しい痕跡を残し、部屋に戻って酒を飲んで直前まで寝ていたと嘘の証言をしたのかもしれない。だが、それだと抵抗の無い死体の説明が出来ない。
でも、抵抗の無い理由は、多分だがわかった。
「コーヒーを婚約者が持っていったって言いましたよね?」
「ええ、確かに言いました」
「そのコーヒーに毒、もしくは薬物の検出はされたんですか?」
紳士探偵はその質問を受けると、黙って一口コーヒーを飲み、空になったカップをテーブルに置いた。
そして、一言で告げる。
「イエスです」
その解答ははっきりと成されたもので、他にどう考えても聞き違いのようには感じられなかった。
コーヒーから睡眠薬が検出されたのであれば、抵抗が無い不可解な死体の証明も出来る。
「カップには飲まれた跡があり、コーヒーの仄かな匂いの他に異臭を感じました。後々の検査で睡眠薬が検出され、カップからはA氏の唾液も出ました。また、椅子や椅子の近くにはコーヒーのこぼれた跡があり、そこからも同様の睡眠薬が検出されました」
「そのコーヒーを淹れたのは?」
「執事のF氏が淹れたそうです。そして、メイドのHさんに持っていくように頼んだそうですが、Hさんは運んでいる最中にBさんと出会い、持っていくと言われ任せたそうですよ」
コーヒーを淹れたのは執事、これは多分そうだろうなって思ってたから良い。メイドの人に運ばせるのもわかる。ただ、婚約者が最終的に持っていったのは引っかかるな。
「少し考えさせてください」
「もちろん構いませんよ。では、その間にコーヒーのおかわりをいただきましょうか」
にこりと微笑むと、紳士探偵はおもむろにメニュー表を取り出し、キリマンジャロのホットを頼みだした。
僕のコーヒーも殆ど空に近い状態だった為、追加をお願いしようと思ったところで、流石に遠慮した。
(流石におかわりを頼むのは申し訳ないからな。って、そんなことはどうでもいいんだよ)
もし、今回の事件にアリバイトリックが関与しているなら、この事件で一番怪しいのはBさんになる。
多分、それは聞いていた誰もが想像つくだろう。この紳士探偵はそういう方向に導くような語り方をしているからだ。
だが、実際にそうだったとして、どうやって殺す?
睡眠薬が中に入っていたのなら、眠らせて殺せば犯行は誰にだって可能だ。だが、そうなればコーヒーに関与していないあの三人には不可能だ。実質、二人に絞られる。
「……いや、別に飲んでいたコーヒーに薬を入れたタイミングに関しては、はっきりとしていないのか?」
思わず口に出してしまったその呟きを聞いてか、紳士探偵の口角が一瞬だけ釣り上がったように思えた。
「例えば被害者である館の主人に部屋へと入れてもらい、ハンカチかなんかに染み込ませた睡眠薬で主人を眠らせるとか。その直後に主人を殺し、睡眠薬をコーヒーに入れれば、コーヒーを服用したから眠ったと誤認させることが出来る。そうなれば疑いはコーヒーを淹れた人に向き、関係ない自分は容疑者から除外される」
「中々興味深い考察です。では、冷えた包丁に関してはどう思いますか?」
「鉄製の包丁が冷えていたのは長時間暖房の切られていた自室に放置していたからではないでしょうか。防寒設備があったとはいえ、部屋はそれなりに冷えたでしょう。となれば、同室で食後からずっと寝ていたという主人の兄夫婦の可能性は限りなく低いですね」
「貴方の考えを尊重すれば、そうでしょうね」
「となれば、犯人はEさんですね。一時間前だという死亡推定時刻も、本来は二時間前にする予定だったが貴方の登場で嘘だとばれるから本来の時間を告げたに過ぎない。貴方が告げた描写の中に、彼が主人の若い婚約者を好いていそうなものがあった。彼の動機は主人を殺し、傷心の婚約者を口説く為でしょう。そうすれば、婚約者が手に入ると考えてね。コーヒーに入れられていた睡眠薬も医大生なら入手するのは難しくはないでしょうしね」
「面白い意見ですね。確かに私の存在さえ無ければ、医学の心得がある彼が一人で検視をしたことでしょう。警察や救急の到着が遅れれば、より正しい検視は難しくなり、訂正のしようがなくなる。悪くない考えです。ただ、果たして本当にそうでしょうか?」
「どういうことです?」
「今回の事件は、A氏の別荘で行われた訳ですが、当日吹雪になる可能性は示唆されておりませんでした。もし吹雪になる可能性があれば私はそもそも登山をしようなんて考えていませんでしたからね」
「そういえば貴方は登山の最中に吹雪で遭難したんでしたね。でも、急な殺人になったとしたら」
「でしたら、睡眠薬はどう説明しますか。まだ二十代の若い彼が不眠症で睡眠薬を常に携帯していたとでも言うつもりですか?」
「でも」
「そもそも、殺人の疑いがかかれば彼のキャリアにも影響が出るでしょう。そんなリスクのある殺人を果たしてするでしょうか?」
「……意地悪ですね。素直に違うなら違うと言えばいいでしょうに」
「そんなことをしてもつまらないでしょう」
「つまらないねぇ……そういえば睡眠薬を携帯するで思い出したんですが、メイド以外の容疑者とされる五人が持っていたもので、携帯や財布といったもの以外で特徴的なものは無かったんですか?」
「そういえばその話をしてませんでしたね。私としたことがうっかりしてました」
わざとらしくおどけて見せているが、おそらくわかっていて黙っていたのだろうなと直感的にわかった。
「まず被害者の兄であるC氏の持ち物には着替えといった普通のもの以外に高価な酒がいくつかありました。ですが、これは彼が持ってきた酒では無いようです」
「どういうことです?」
「どうやら酒の置いてある貯蔵庫からいくつか拝借していたようです。館の主人であるA氏はお酒が大好きらしく、大量に保管していたようで三本程度ならと。最初はA氏から許可をもらっていたと言ってましたが、F氏があり得ないと断言したのもあって、問い詰めたら勝手に拝借したと白状しました」
「それはいつ頃ですか?」
「ゲーム後だそうです」
「なるほど。つまり部屋で酒を飲んでいたというのは嘘で、本当はその間に館の酒を盗んでいた訳ですか。とんでもない奴ですね」
「そうですね。酒は返却とすることで、今回は手打ちになりました。次にC氏の奥方であるDさんですが、彼女は睡眠薬を持っていました」
「睡眠薬をですか。その睡眠薬はコーヒーの中のものとは一致したんですか?」
「ええ。コーヒーの中の混入物と同様の匂いがしていましたし、後々の司法解剖でも明らかになりました」
だったらCさんにも犯行は可能そうだな。
酔っ払った勢いのまま頼みこんで、断られた腹いせに睡眠薬を仕込んでぐさりと刺しちゃったみたいな。
「ただ、こちらの睡眠薬ですが、執事のF氏が不眠症で困っていると相談を受け、食事前に渡しておいたそうですよ。保管している場所は館の救急箱の中だそうで、館に居た者であれば自由に取り扱える場所にあったそうです」
「じゃあそれが使われたということで間違いないんですか?」
「そうとも限りません。メイドのGさんの話では、睡眠薬等の薬は執事のF氏が管理しており、館へ着いた三日前から事件当日までの間に数が減っている薬はなかったそうです」
「だったら外から持ち出されたものってことなんですね」
「そこは敢えてノーコメントとしましょうか。ただ、Dさんは睡眠薬を就寝前に服用したそうですよ」
「つまり貴方はこう言いたい訳ですね。コーヒーの中に入れられていた睡眠薬はF氏が嘘をついていない限りは、館の外から持ち込まれたものだが、Dさんが飲んだと言って別用途で使ってる。もしくは酔っ払って飲み忘れたのを使われ、自分が飲んだと勘違いしているかもしれない、と」
「ええ、その通りです」
肯定し、優しく微笑んでくる紳士探偵を前に、僕は頭が痛くなるのを感じていた。
考えれば、考えるほどドツボにはまっていくような感覚だった。
一見、一番怪しいのは、間違いなくEさんだ。
薬も母親が執事の人からもらったものを譲り受けており、Dさんがそれを思い出して匿っているか、単純に忘れただけのどっちかと考えるのが妥当だろう。
そこまで思い至り、ハッとなる。
「そういえばまだ三人分しか聞いてませんでしたね。それで、他の二人、BさんとFさんはどうだったんですか?」
「まずBさんですが、彼女の部屋には腰程の大きさの冷凍庫があり、中には十個以上のカップアイスが入れられていました」
「冷凍庫、ですか?」
「えぇ、彼女曰く、アイスが大好きで、元々普通の家で暮らしていたせいかスーパーのアイスが忘れられず、本邸から持ってきていたようです」
「冷凍庫をわざわざですか。流石に重いのでは?」
「キャスター付きで持ち運びが便利だそうですよ」
「そうですか。最後に執事さんはなにか持っていたんですか?」
「彼は家族の写真が入ったロケットを肌身離さず持っていました。なんでも、十年以上前に会社が倒産して亡くなった息子と先月亡くなった奥さんと昔撮った写真だそうです」
「…………すっごく混乱するんでそういう背景足すのやめてくれません?」
「ちなみに息子さんの会社を間接的に潰し、自殺に追い込んだのはA氏らしいですよ」
「…………重すぎる。ていうか、なんでそんな大事なことを最初に言ってくれないんです?」
「言いたいのは山々だったんですがね。なにぶん、言い出すタイミングが難しくて言い出せませんでした」
「言われてみれば確かに。内容が内容なだけに、余計な偏見が出ていたかもしれませんね。まぁ、とりあえず執事の人にも完全な動機が浮かびあがりましたね」
「ええ」
カップを口に運びながら肯定した紳士探偵から窓へと視線を動かせば、雨はいつの間にか小雨になっており、もうそろそろ完全に止むであろうことが予測出来た。
そのことに気付いたのか、紳士探偵も視線を窓の外へと向け、カップを置いた。
「おや、そろそろお開きの時間になりそうですね。犯人はわかりそうですか?」
「正直ちんぷんかんぷんですよ。一番怪しいのはEさんだと思いますけど、貴方の反応からして多分違うんでしょう。だとしたら次に怪しいのはCさんになる。彼は窃盗という罪を犯し、被害者を殺す動機がある。睡眠薬の入手も奥さんが持っていた物を使えばいい訳だし、問題はクリアになる。ただ、包丁が冷たすぎる理由がわかんなくなるってのが問題になってくる。その次に怪しいのは、被害者の婚約者であるBさんですけど、貴方と事件の間ずっと一緒に居たというアリバイがある。でも、時間を気にする行動や事件が起きるタイミングで貴方やメイド達を無理矢理ゲームに誘ったのも不可解で怪しすぎる。だから、彼女が犯人だと証明するには彼女が仕掛けたアリバイトリックを崩す必要がある。でも、それがなんなのかさっぱりなんですよねぇ」
実際、執事探偵の言うことを信じるなら、事件が起きた時間に婚約者が被害者を殺すのは不可能だ。三人の人間が証明している以上、そこを覆すのは難しい。
だが、ようやく確信した。
この事件の犯人は婚約者だ。
あいつが殺したに違い無い。けど、どうやって殺したのかが、さっぱりわからない。
「正直お手上げですね。現場に居たところで僕には犯人がどうやってAさんを殺したのか証明することは出来なかったでしょう。僕の負けです。雨もやみそうですし、答えをお聞かせ願っても?」
結局、十分程悩んでもアリバイトリックを崩すことは出来なかった。
降参の意を見せると、紳士はふふっと小さく笑った。
「貴方は囚われすぎなんですよ。本当は見えていたはずなのに、余計な先入観が貴方の思考を澱ませた。いいでしょう。全てをお教えしましょうか」
その言葉の意味はよく分からなかった。
だが、紳士探偵はそんな僕に優しく教えるように、事件の真相を語り始める。
「まず事件の概要ですが、A氏は部屋の中央にあるカーペットの上で殺されていました。仰向けの状態で腹には包丁が深々と刺さっており、死因は失血死。抵抗された痕はなく、現場には睡眠薬入りのコーヒーがあり、その状況から、眠らせた後にカーペットの上に移動させ、抵抗出来ないところを刺し殺したのでしょう」
「そこまでは理解できます。問題は彼女がどうやってアリバイを作れたのかですよ! あっ、すいません」
自分が激昂していたことに気付き、僕はすぐさま謝った。
だが、紳士探偵はそんな僕に、いいんですよ、と告げると、たいして気にした様子も見せずにすぐさま続きを話し始めた。
「私もどうやって犯人がA氏を殺したのか悩みました。ですが、環境を上手く利用すれば別の場所に居ようがA氏を殺せるトリックを思いついたのです」
「環境? 吹雪のことですか?」
「そうです。明確には気温、犯人は氷を使った時限装置を作りだしたのです」
「氷を使った時限装置?」
「そうです。まず、犯人はA氏を眠らせた後、暖房を消し、部屋の窓を開けます。室内の気温はみるみる氷点下へと下がっていき、その間に犯人はA氏をカーペットの上まで運び、柄を氷漬けにしておいた包丁を天井に張り付けました」
「ちょっと待ってください。包丁の柄を氷漬けにしたって、そんなこと本当に出来るんですか?」
「柄を氷漬けにするのは案外簡単でしたよ。館の冷凍庫を使って作りましたが、水を入れたコップの中に柄を差し、凍らせ、今度は常温でコップを取り外し、再び冷やす。これで柄が凍った包丁の完成です」
「な、なるほど?」
正直まったく分からなかったが、柄を凍らせた包丁とやらが実際に作られ、使われたということは、腹に刺さっていた包丁が冷たかったという点から間違いないのだろうなということは理解した。
「部屋を氷点下にしたのも包丁を天井にくっつけさせる為ですか。ですが、それではいつ落ちてくるかわからないのでは?」
「暖房のタイマー設定ですよ。犯人は一時間後に入るようにタイマー設定をしました。これにより、事件が起きる時間を操作したという訳です」
「なっ、なるほど。暖房の影響で氷は溶け、溶けた水も血の染み付いたカーペットの上では判別出来ないということですか」
面倒な仕組みだとは思うが、それなら確かにあの女は別の場所にいようと殺すことは可能って訳か。
「質問があります」
「なんでしょう?」
「それは実際に可能なんでしょうか? 天井は腕を伸ばして届くような位置じゃないはずですが?」
「そうですね。Bさんが腕を伸ばしたとしても五十センチは離れてます。ですが、彼女はちょうどいい物を持っていました」
「なるほど、冷凍庫か。あの人は腰ほどの高さはある冷凍庫を持っていたと貴方は言っていた。しかもキャスター付き。それを使った訳ですか」
「そうです。犯人はそれを使って凶器を天井にくっつけました。それが今回の殺人トリックです」
「ってことは犯人は今川沙友理! やっぱり彼女が犯人だったんだ!」
立ち上がり、周囲に気を遣えていない音量で喜々として叫んでしまうが、何故か目の前の紳士探偵は首を横に振った。
「彼女は犯人じゃありません」
「ちょっ、ちょっと待ってください。彼女が犯人じゃないっていったい……」
思いもよらない言葉に、僕は言葉をつまらせてしまった。
てっきり肯定されるとばかり思っていただけに、彼の言葉に動揺が隠せない。
「確かに彼女はこの時限装置で自身のアリバイを作ろうとしていました。ただ、一つだけミスを犯したのです」
「ミス?」
「そう。被害者であるA氏の体格は恰幅のいい男でした。とても女性一人の力じゃ動かせない程に、なのに彼女はカーペットの上まで運べている。それは何故か、もうおわかりでしょう?」
なにも喋らない僕を、彼の細い目が竦ませる。
それ以上の言葉を、僕は聞きたく無かった。
「彼女には協力者がいた。屋敷のことに誰よりも詳しく、執事のF氏という協力者がね」
「あの人が……嘘だ……だってあの人は嵌められ……」
「それは貴方の勝手な妄想ですよ。今川霧斗君」
告げてもいない名前を告げられ、驚きの感情と共に、やはりかと納得がいってしまった。
「やっぱり……僕のことを知っていたんですか」
「ええ、申し訳ないですが最初から知っていました。貴方が三年前に殺されたA氏、いえ今川剛三氏の一人息子である今川霧斗君だということはね」
最初から、ということはこの人が最近僕の周りを探っていた人か。
てっきりパパラッチの類だと思ってたけど、まさかあいつの殺人事件を解いた探偵だったとは、正直驚いたな。
「これでも最初は普通に優しい紳士なんだなって思ってたんですよ。まぁ、途中からおかしいなって思ってましたが、僕は当時その場に居ませんでしたからね。事件の話を聞いても最初はまったくわかりませんでしたよ」
「ええ、聞いていますよ。貴方は当時、大学受験の為という名目でこの婚約パーティーには参加しておらず、ずっと事件の真犯人を追っていたとね」
「そうですか。僕は当時未成年だったこともあって、伯父から事件の概要はほとんど何も知らされていませんでしたから、正に暗中模索って感じでした。でも、別にあんな奴が死んだところで僕はどうだって良かった。あいつは親父として最悪でしたからね」
今でも浮かぶのは憎しみばかりだ。
賄賂や政敵排除は当たり前。親らしいことは何もしない癖に僕にトップになれと強要してくる最悪な親父だ。おまけに母さんが病気で死んだ時も接待と言う名目で夜の街に行き、すぐに若い女と再婚しようとしたクズ中のクズだ。
死んで当たり前だと思うし、清々したというのが偽らざる僕の本音だ。
「でも、あんな親父を殺したのがFさん……いや、木下さんだという話だけはどうしても信じられなかった。木下さんは僕が幼少期の頃から側に居てくれた人で、ちょっとは厳しかったけど、それでも凄く優しくて、本当の父親のように思っていた人だったんです。あんな優しい人が殺人なんてするはずが無い! 木下さんは絶対に嵌められたんだ! きっとあの場にいた連中が口裏を合わせて木下さんに罪をなすりつけたに決まってる!」
既に木下さんの判決は決まっている。
木下さんは罪を認め、有罪判決をもらい、僕は木下さんに会うことは出来なくなった。
再審請求をしようとしたが、木下さんと親族ですらない僕にその権利は無い。
必死に藻掻き、色々と調べようとしたが、あの場にいた全員が口を揃えて犯人は木下さんだと告げるだけで事件の詳細を教えてはくれなかった。
だから、僕は誰も信じることが出来ず、ただ一人で事件の真相を探った。けど、一人では限界があった。
そうこうと無駄な時間を過ごしている内に、僕は木下さんの訃報を聞いた。
「木下さんはもうこの世には居ない。今更足掻いたって木下さんが救われることは無いってわかってる。でも、せめて、僕はあの人の墓に無罪になったよと報告したいんです。だから、貴方からはなんとしても事件の真相を聞き出さないといけない。さぁ、教えてください! なんで木下さんがあの女の協力者になるんですか! 彼は嵌められた側じゃないんですか!」
「おや、気付いていましたか」
「それくらいわかりますよ。木下さんは優秀だったから殆どの仕事を一人で熟していました。ですが、逆に言えば、常に一人でいることが多いということ。伯父さんは伯母さんと基本的に一緒にいただろうし、息子の隼人君は人の恨みを買うような人じゃない。メイドの二人がほぼ一緒にいたってことは犯人役に指定されたのは木下さんだったはずです。それがどうして木下さんが協力者って話になるんですか!」
「それは木下氏がBさん、いえ、沙友理さんの犯行を目撃したからですよ」
「犯行を……目撃……?」
「木下氏はコーヒーを運ぶように指示したメイドがすぐに戻って来たことに違和感を抱き、すぐに執務室へと向かったそうです。そこで眠らされた剛三氏を運ぶのに手間取っている沙友理さんを見て、協力してカーペットの上まで運んだ。そして、沙友理さんの代わりに殺人装置を設置したのです」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってください! そこでなんで代わりに殺人する流れになるんですか!」
理解が出来なかった。
コーヒーを代わりに運んだという話を聞いて違和感を感じ、確認しに行ったのは理解出来る。
あの肥え太った親父をあの女の華奢な腕で運ぶのが難しかったのも理解出来る。
それがなんで殺人の協力に繋がると言うんだ。
それがなんで殺人を代わりに起こすことに繋がると言うんだ。
頭を巡らせ、必死に考えても答えは見つからなかった。
そんな僕に、紳士探偵は憐れなものでも見るかのような視線を向け、告げた。
「それは今川沙友理さんが木下氏の孫娘に当たる人物だったからですよ」
衝撃的な発言に、僕は身体が石のように硬くなるのを感じた。
木下さんに孫がいるなんて話は聞いたことが無かった。
「孫娘……あの女が……木下さんの?」
「その通りです。沙友理さんは当時中学生でした。彼女は家族三人で仲良く過ごしていた頃、父親の会社が剛三氏の介入により倒産し、父親は自殺を図りました。程なくし、母親もマルチワークの無理がたたって亡くなり、彼女は母方の祖父母に引き取られました。そこで愚痴るように知らされたそうです。父方の祖父が仇の執事として今も働いているということを。許せなかったんでしょうね。両親の仇である剛三氏も、その下で働いている祖父も」
「それであいつに近付き、婚約者となって、二人に復讐する機会を探った訳ですか」
「そうです。ですが、その最中に木下氏に気付かれ、止められました。ですが、木下氏は同時に思ったそうです。もし、ここで剛三氏を助けた場合、孫娘である沙友理さんは剛三氏に殺されるかもしれない、と」
「なるほど。確かにあの親父なら自分を殺そうとした奴は生かしておかないでしょうね。例えそれが自分の愛した女だろうと、地の底まで追いかけて殺しにいくでしょうね」
十八年間という決して短くない月日を共に過ごした僕がそう思うんだ。その倍以上の月日を側で仕え続けてきた木下さんならそう考えるのはおかしくないだろう。
「それを案じた木下氏は、自分が身代わりになることを選んだのです。元々剛三氏に殺意を抱いていたそうですから、迷いは無かったそうですよ」
「……納得したくないけど、多分木下さんならその選択を取ったんでしょうね。ですが、それは木下さんならそう考えるだろうって話です。庇ったのは理解出来ます。ですが、木下さんが殺人を犯したって証拠はあるんですか!」
僕の質問に目の前の紳士探偵は目を丸くした。
相当予想外だったんだろう。
僕だって本当は納得してしまっている。
木下さんなら自分の孫を殺人犯にしない為に自分が罪を被るだろうと。
それでも、僕の心が、まだ木下さんが犯人では無いと信じたがっている。
「証拠ですか。そうですね。君は先程汗の匂いは気にならないかと言ってきましたね?」
なんの話だろうと、一瞬思考が止まった。
だが、確かに僕は目の前の紳士探偵に対し、そう言った覚えがある。
「僕がアイスコーヒーを頼んだ時ですよね?」
「ええ。ところで何故そう訊いたのですか?」
「そりゃ、僕がジョギング帰りだったからですよ。時間が経ったとはいえ、それなりに汗をかいた自覚はありますからね。臭いとか言われたら普通嫌でしょ」
「そうですね。確かに君の汗の匂いはあまり感じませんでした。きっとコーヒーの匂いが汗の匂いを上書きしてしまったのかもしれませんね」
「何が言いたいんです?」
「木下氏からは香水では隠しきれない汗の匂いがしたんですよ」
その言葉の真意を、僕は理解出来なかった。
汗をかいたからなんだと、そう訊こうとしたが、その前に紳士探偵が語り始めた。
「木下氏は沙友理さんが造った殺人装置が上手く機能するか不安に思ったはずです。なにせ失敗すれば孫娘である沙友理さんの身が危険に晒されるのですから。しかし、中途半端な時間帯に殺せば沙友理さんのアリバイも崩れてしまう。木下氏にはどうすることも出来なかった。そこで木下氏は見守ることにしたのです」
「見守ることに?」
「ええ、木下氏はまず、二人のメイドが剛三氏の部屋に近づかないような仕事を任せました。万が一にも疑われないように、二人で行うようにと言い含めてね」
「それでメイド達は二人でいることが多かったんですか」
「ええ。その後、木下氏は剛三氏のいる執務室に戻り、鍵をかけ、沙友理さんのいた痕跡を消しました。窓を開けた際の雪もしっかり掃除し、引きずった跡やキャスターの跡、沙友理さんの存在を匂わせる証拠を全て綺麗さっぱり消し去りました」
「なるほど、木下さんの掃除テクニックは昔から凄かったですからね。でもコーヒーをこぼした痕跡があるって言ってませんでしたか?」
「コーヒーの痕跡を消せば、証拠隠滅が行われたことがばれてしまいますからね。メイドの介入がある以上、無かったことにも出来ませんし、胃の中を調べれば簡単に発覚してしまいます。消すという判断はリスクが大きかったのでしょう」
「なるほど。確かにリスクが大きそうですね」
「そうして、全ての証拠を消し去っている間に、タイマー機能で一時間後に設定されていた暖房が点き、部屋の温度はみるみる内に温かくなっていきます」
「さっき言ってた氷のトリックですか」
「ええ、氷はみるみる内に溶け始めます。その一部始終を木下氏は見ていました」
「……なるほど。元々このトリックを作ったのはあの女で木下さんにとってはイチかバチかの賭けでしか無いんだから木下さんにとっては気が気じゃないんでしたね。ちゃんと刺さるかどうかとか親父が途中で起きないかとか、氷はちゃんと溶け切るかどうかとか」
「ええ、木下氏にとって初めての殺人で、冷静じゃなかったのは否めません。ただ、一部始終を見る必要が彼にはあった。つまり彼は――」
「二時間以上その場にいた……ってことですか」
「ええ、その通りです。彼はその場に二時間以上いた結果、汗をかなりの量かいてしまった。ですが、氷が溶けきる前に出ることは許されなかった。結果、彼は我慢せざるを得なかった」
氷点下からいきなり暖房で温度を上げ、その場に二時間以上いたとなれば、汗の量は相当なものだろう。
「私も事件当初に見た時は冷や汗の類いだと思ったのですがね。部屋の中をもう一度調べると壁際の床に不自然な真新しい染みを見つけました。そこでわかったんですよ。犯人は長時間執務室にいた人物だということにね」
「……調べればわかる証拠って訳ですか。……なるほど。これはもう、どうしようも無いですね」
反論の言葉を、僕は紡ぐことが出来なかった。
「……ところで、伯父さん達は知っていたんですよね。この結末を」
「いいえ、彼らは知らないでしょう。私はこの推理を木下氏本人にしかしておりません。警察が来た際には、木下氏は自分一人の手で剛三氏を殺したのだと白状しました。氷の件は一切喋らず、ただ単に睡眠薬によって眠ったタイミングで刺し殺したと告げました。皆は信じていませんでしたが、動機もあり、不審な点が無かった為、特に再調査が入ることはありませんでした。なので、沙友理さんが殺しに関与したことは知らないでしょうね」
「そうでしたか……」
てっきり伯父さん一家も絡んでいるのかとも思ったけど、どうやら違っていたらしい。
伯父さんに話を聞いた時、あの人は少ししどろもどろとした様子で木下さんが親父を刺し殺したとだけ教えてくれた。
事件現場の別荘も僕が向かう前に伯父さんが壊させてたから、てっきり罪をなすりつけたのかと思ったが、話を聞いてようやく理解出来た。
あれは親父のワインコレクションを横から掠め盗った故の行動だったのか。
「木下さんがあの親父を殺した。自分の孫娘の代わりに……」
信じられないと、本当は言いたかった。
ずっと側に居てくれたあの優しい木下さんが、親父に殺意をずっと抱いていたなんて。
いったいどういう気持ちで僕の側に居たんだろうか。
僕なんか殺してやりたいと、本当は心の中で思っていたんじゃないか。
あの人がそんなことを思うはずが無いと断言したいのに、あの人のことを何も知らないという事実が、それを惑わせる。
「僕は……いったいこれからどうしたらいいんでしょう?」
あの女の罪を暴くことは許されない。
それは木下さんの意志に反するから。
それに、暴いたところで、結局木下さんが殺人という罪を犯した事実は変わらない。ただ、共犯者としてあの女も捕まるだけだ。
ただ嫌な女だっていうのならそれでも良かったけど、あの人は好い人だった。
遺産狙いの婚約だと思ってたけど、事実は違った。
あの人はきっと、親父が父親の会社を潰さなければ、健やかな人生を送れていたただの被害者だ。
第二の人生を歩みだした彼女を、僕が邪魔していいはずが無い。
「今日、私が推理クイズと称し、事件の真相を貴方に伝えたのは、木下氏に頼まれたからです。未だに自分の無実を信じ、大学生活を二の次にしてまで真相を探ろうとする貴方に折れ、自分が死んだ後に真相を伝えてほしい。とね」
「木下さんがですか?」
「木下氏は貴方を恨んでいませんよ。むしろ貴方に感謝すら覚えていたそうです」
「感謝?」
「ええ、一人息子を失い、殺意すら抱いた木下氏を止めたのは幼い頃の貴方でした。幼かった頃の貴方に父親を失う辛さを味わわせるのがどれ程酷なことか。結局、木下氏は動けないでいたそうです」
「僕が悲しまない為に……それだけの為に木下さんは……」
「貴方にとって、それだけだと思う内容が彼にとっては大きなことだったんですよ」
そう告げると、紳士探偵は席を立った。
「雨はやみました。話はここで終わりですね」
窓を見れば、確かに道行く人は傘を差してはいなかった。
だが、雨が降っているかどうかは窓が霞んでよく見えなかった。
「……木下氏は死ぬ前に直接貴方に謝りたかったと言っていました。警察が殺人犯と被害者の息子を会わせるのはよろしく無いと頑なに会わせなかった為、叶わぬ内に彼はこの世から去ってしまいました。願わくば、その望みを叶えてあげたかったですね」
それだけ告げると、紳士探偵はテーブルに一万円札を残し、去っていった。
だが、僕は立てなかった。
重くのしかかった現実という名の二文字が、受け止めきれなかった。
そんな僕の前に、一杯のコーヒーが置かれた。
「……頼んでいませんよ?」
そう訊くと、マスターは慈母のような表情を見せ、告げた。
「額は充分にいただきましたからね。このくらいはさせてください」
それだけ告げるとマスターはカウンターの方へと戻っていった。
そして、コーヒーの方へと視線を戻す。
「この香り……ブルーマウンテンか」
思えば、この店で最初に頼んだのもブルーマウンテンだった。
懐かしい香り、この香りを嗅ぐと、瞼に焼き付いたあの情景が思い浮かぶ。
食事の後に出されるあの人のコーヒーは、いつも苦くて、そして、温かかった。
「苦いなぁ……苦すぎて、涙が出てきた……」
溢れ出る涙を拭い、僕はその一杯のコーヒーを飲み続けた。
あの二度と来ない情景を思い起こしながら。
《了》
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
やっぱり落選は悔しいですね。
振り返れば、もう少しこうできたかもなとか、こうしたらもっと良かったかもなとか、そう思うこともありましたが、今更言ったところで時既に遅しというもの。
今年の文学賞は今回の反省を活かし、最優秀賞を取るという気概を持って挑もうと思います。