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運命共同(死)体 (中篇)

作者: 合雲チカラ

夕方になって、珍しく招集がかかった。

「森下先輩、何かあったんですかね?」

「さあ、分からないわ。とにかく直ぐにナースステーションに集まるらしいわよ」

理由は分からないまま、亜美と森下はナースステーションに急いだ。部屋に入ると、殆んどの看護婦が既に集まっていた。皆、どうして召集されたのか分からずにあれやこれやと互いに話し合っていると、院長の伊藤がナースステーションに入って来た。皆、一瞬にして静まった。

「皆も、もう知っているかと思いますが、アメリカ医師団の来院が今週末になりました」

伊藤は、いつものように穏かな口調で説明を始めた。相変わらず、癖の、鼻を触っていた。『なんだ。そんな事か』亜美にしてみれば、どうでもいい話だった。周りの看護婦たちも、亜美と同じ事を思ったのか、不満を漏らす言葉を囁いていた。そんな言葉を耳にすると当然だと思えた。『皆、忙しいのに、こんな話の為に呼ばれて!』亜美もムッとした。それにも増して、土田の件で、亜美は伊藤を許せない気持ちになっていた。『俄か紳士の化けの皮を剥いでやる!』亜美は遠くから、伊藤を睨んでいた。

「先輩。院長の、あの鼻を触る癖、何とかならないですかねえ。どうも気になるんですよ」

亜美は隣の森下に囁いた。

「しょうがないわよ。だって、癖だから。それに無くて七癖。あなただって一つぐらいはある筈よ。人の事を言うのは良くないわよ」

逆に、森下に注意された。亜美が、森下に敢えて、こう言ったのは、森下の伊藤に対する気持ちを知りたかったからだ。『今の言い方だと、先輩は、特に院長に対し、悪い印象を持ってないみたいね』  亜美は伊藤という人物を考えてみた。『ホントは、悪い人なのに、それに気付かないなんて。でも、裏を返せば、それだけ、人を上手く利用しているんだ。悪い人ほど、外面が良いと言うのは本当ね』亜美は尚更、野放しには出来ないと思った。

色々考えているうちに、いつの間にか伊藤の話は終わっていた。代わりに、今度は今矢が何かを看護婦一人一人に渡し始めた。『何かしら、あれ?』暫く、今矢の手元を見ていると、それが何か分かった。ネームプレートだった。『この間、白石さんが言ってた物ね』益々、どうでもいい事だった。今矢は配りながら、ドンドン近付いて来た。正直、亜美は、今矢と口を利きたくなかった。

「森下さんのは、これ。今井さんのは……あれ?無いわね。直ぐに作らせるわ。ちょっと、待っててね」

「あ……わ、分かりました」

今矢は笑顔で話し掛けて来た。亜美にしてみれば、嫌味の一つも言われるのだと覚悟していただけに、意外に思えた。『どうして笑顔なのかしら?まあ、この人のおかげでクビにならずに済んだのは助かったけど……』亜美は去って行く今矢の背中を振り返り不思議そうに見詰めていた。亜美以外の看護婦にネームプレートを渡し終わると今矢はサッサと部屋を出て行った。と同時に、皆解散した。

「先輩。休憩行きましょうか?」

亜美がそう言うと、森下は思い出したように、

「あ、そうだったわね。私たち、休憩時間よね。でも、一〇分も損したじゃない」

森下は、時計を見ると、プリプリ怒っていた。二人が、ナースステーションを出ると、内科医の藤田が森下を呼んだ。

「もう、ついてないなあ。折角の休憩時間なのに」

森下は、またムッとした。

「今井さん。先に行ってて。直ぐ行くわ」

そう言うと、森下は藤田の元に走って行った。藤田も、また、何だかムッとした表情で森下に話をしていた。

「どうしたのかしら?まあ、いいか。先に行こう」

亜美は、先に休憩室に入った。一人になって、今までの事をもう一度落ち着いて考えてみた。

「死んだ三人。午前一時を指す時計。どう、関係があるのかしら?つながりなんて、あるのかしら?」

亜美は手帳を取り出し、分かった事を書いてみた。

  谷口 早苗

  山田 真由美

  林 真美

  午前一時

穴が開くほど見詰めたが、やはり、関連性は思い浮かばなかった。頭を抱えた。すると、急に扉が開き、森下が入って来た。亜美は急いで手帳を隠した。

「あ、先輩。どうでした?何かあったんですか?藤田先生、何だかムッとしていましたけど」

亜美が声を掛けると、森下もムッとした顔で椅子にドカッと腰を掛けた。

「どうもこうも無いわよ!どうして、私が怒られなきゃいけないのよ!」

森下は、かなり怒っているようだった。

「え?どうしたんですか?」

「沢田さんの事よ!」

沢田は亜美の一年先輩にあたる看護婦だった。

「沢田先輩が……何か?」

「レントゲンの裏表を間違えてるのよ」

一瞬意味が判らず、亜美が首を傾げると、

「外来患者の胸のレントゲンを撮ったらしいのよ。そうしたら、裏と表を間違えて、患者の名前書いてるのよ。どう思う?」

森下は亜美に必死に訴え掛けた。『先輩らしい間違いだわ』亜美は思わず笑いそうになったのを堪えた。

森下は、尚も不満を話し続けた。

「幾ら肺がほぼ左右対称に見えるって言っても、心臓の位置、肺の形をよく見れば分かりそうじゃない。看護婦なのに!それに、どうして、私が藤田先生に、教育が行き届いてないと怒られなきゃいけないの」

亜美は森下の不満を聞きながら、『確かに自分でも間違える可能性はあるわね。人事じゃないわね。肺はほぼ左右対称に見えるし、パッと見ただけでは……』フンフン頷いている時、急に何かが頭の中を横切った。『えっ?肺は左右対称……?』妙に、その事が気になり、考え込み始めた。

「それでね、ちょっと、今井さん、聞いてる?それで、沢田さんを怒ってやったのよ」

森下の不満は続いていたが、亜美の耳には入らなかった。『あっ!そうか!もしかして……』亜美は急に何かに気付くと、ガバッと立ち上がった。

「先輩!すみません!ちょっと、トイレに!」

亜美は手帳を握り締めると、急いで休憩室を飛び出した。

「あ、今井さん、まだ、続きが……」

そんな森下の言葉を振り切り、亜美は廊下を駆け抜けトイレの個室に飛び込むと、急いで手帳を開けた。

 谷口 早苗

 山田 真由美

 林 真美

 午前一時

「やっぱりだ!この三人の名前は縦書きにすると左右対称の漢字で出来てる!と、すると、午前一時という意味は……」

亜美は必死に考えた。そして、おもむろに自分の腕時計を見た。時刻は五時半を指していた。

「これも、もしかすると……」

亜美は、いつも持っている化粧用のコンパクトをポケットから取り出して、腕時計を映してみた。

「もし、この腕時計に文字盤が無ければ……六時半に見える!そうだったんだ!鏡には、何もかもが反対に映るのよ!」

亜美は満足したように、何度も頷いた。

「あの時計は十一時を指していたのよ!でも、反対に映った為、私たちには一時に見えたんだ。そして、実際の午前一時に三人は殺された……」

亜美は身を震わせた。

「鏡は時間を認識している。いや、もしかすると、鏡ではなく、鏡の中に誰かがいて……それを見ている……」

亜美は直ぐに土田の事を考えた。

「間違いないわ。これで、三人の死と午前一時の謎が繋がった」

着実に真相に迫っている気がした。

「真美、待ってて。もう直ぐよ、もう直ぐ、全てが分かるわ!」

亜美は自信を持った。そして、この事を一刻も早く島田に伝えたいと思った。しかし、島田の言った、院内では会わないように、という言葉が思い出されて、歯痒かった。ラインでも電話でもなく言葉で顔を見て伝えたかった。島田の驚く顔が見たかった。

「早く、明日にならないかなあ」

亜美は、スッキリとしない、ウズウズした気持ちで、トイレを出た。



夜の巡回を終えて、ナースステーションに戻ろうとしていると、階段をバタバタと慌ただしく上ってくる足音が聞こえた。

「誰かしら?こんな深夜に……」

不審に思い、階段の所まで行くと、下から必死の形相で警備員が駆け上がって来た。その警備員は、亜美の横を素通りし、更に上へと駆け上がって行った。

「四階?どうして、こんな深夜に院長室へ行くのかしら?何か、あったの?」

亜美が暫く、上を見て考えていると、今度は、廊下をバタバタ走って来る靴の音がした。何事か、と振り向くと、今矢が慌てた様子で走って来た。

「……婦長……」

今矢は亜美に気付くと、

「今井さん!一緒に来て!」

止まる事無く、物凄い勢いで四階に駆け上がって行った。一瞬、何が起きたのか分からなかったが、さっきの警備員、そして、今矢の慌て振り。どう考えても、何かがあった事に間違いはない。

「あ、はい!」

亜美はとにかく、今矢の後を追って階段を駆け上がった。

四階に上がると、警備員が三人と息を切らせた今矢が、院長室の前で何かを話し合っていた。さっき見た警備員もいた。亜美は、その警備員にソッと尋ねた。

「あのう……何か、あったんですか?」

「ええ!侵入者ですよ!」

 警備員は緊張した様子で、肩で息をしながら答えた。

 「えっ?侵入者」

 『だから、皆、慌ててたんだ』亜美は頷くと、警備員が三人もいる理由が分かった。

亜美が見たのは、南階段を上る警備員。おそらく、一人は、エレベーターから、もう一人は北階段から上って来たに違いなかった。つまり、侵入者を逃がさないよう、出口を塞ぎながら警備員が上がって来たのだ。

 「中の様子は、どう?」

 今矢の問い掛けに、警備員は無線機を取り出した。亜美は、その無線内容に耳を傾けた。

 「警備室!中の様子はどうだ?」

 『侵入者はまだ、中にいる模様です』

 「何人いる?」

 『一人だと思われます!ただ、男か女かは、このカメラでは認識出来ません』

 無線機特有の、ひび割れたような声が廊下に広がった。

 「カメラ?」

 亜美は、島田が話してくれた、ここの警備システムを思い出した。『そうか。院長不在時は警備室で監視しているんだ』

 「了解!」

 警備員は扉に耳を当てた。

 「音は……何もしませんね」

 ソッと囁くように今矢に告げると、別の警備員が、

 「今矢さん。警察に連絡しましょう」

 そう言うと、今矢は少し考え込んだ。

 「……警察は待ってちょうだい」

 「えっ?だって、今、中にいるんですよ」

 「いいから待って!」

 今矢は、ポケットから鍵を取り出した。

 「今矢さん、何をするつもりですか。まさか、中へ入るつもりじゃ……」

 警備員は慌てて、今矢の手を押えた。

 「中には今も侵入者がいるんですよ!襲われたら、どうするんですか」

 「大丈夫よ。それより、ちゃんと、モニターで見ててちょうだい」

 亜美は驚き、且つ、不思議だった。『どうして女性の今矢婦長が大丈夫と言い切れるんだろう?格闘して勝てる自信でもあるのかしら?確かに体格はいいけど……』 亜美は、息を呑んで今矢の動向を見詰めていた。

警備員は、止めても無駄だと判断したのか、

 「警備室。今から、突入する。警察への連絡は保留!よく、モニターで見ててくれ!」

 半ば、怒鳴るように無線機に話した。

『えっ?突入?警察は?は、はい。了解!』

 三人の警備員は一斉に身構えた。今矢は鍵を差し込みゆっくりと回した。『カチャ』鍵の開く音に、全員、緊張が走った。五人も人がいるのに、物音一つしなかった。それぞれの心臓の動悸が聞こえるようだった。 亜美も手に汗を握った。そして、今矢が扉を開けようとした時、突然、

 『消えた!侵入者がモニターから消えた!逃走した!』

 怒鳴るように、けたたましく警備員の無線が鳴った。

 「えっ、逃走?ここは四階だぞ」

 警備員、誰もが顔を見合わせ、呟き合った。今までの静けさから一転してザワツキ始めた。

 「オイ、警備室!本当に逃走したのか!何処からだ!」

 『分かりません!突然、モニターから消えました!院長室に反応はありません!』

 その無線を聞いた今矢は、

 「あなたたちは、ここで待ってて。私が一人で入ります。誰も入らないで下さい」

 そう言い残すと院長室へ入って行き、直ぐに中から扉を閉めた。警備員たちは、不安そうに互いの顔を見合わせていた。亜美も心配になって扉の前に行くと、

 「婦長!今矢婦長、大丈夫ですか!」

 扉をドンドン叩いた。中は静まり返っていた。亜美は、心配になり、入るなと言われていたが、思い切って扉を開けた。

 「今矢婦長!」

 明るくなった院長室で、今矢が何やら、ゴソゴソと床を這いまわっている姿があった。

 「無事だったんですね」

 亜美は、まずはホッとした。そして、院長室を見回してみた。亜美の後ろから、警備員も雪崩込んで来た。

 「特に荒らされた形跡は無いな。窓はどうなっている?」

 「全て、閉まってますね。鍵が掛かってます」

 「そんなバカな!じゃあ、何処から逃げたんだ?」

 警備員たちは訳が分からなくなっていた。そんな警備員たちの会話を聞いて、亜美はふと、今矢の行動が変に思えて来た。『普通、机の上とか、金庫とかを気にする筈なのに、今矢婦長はどうして床ばかり這いまわっているのかしら?』今矢は依然、床を這い回って、まるで、何かを捜しているようだった。

 「婦長、今矢婦長。どうしたんですか?何か捜しているんですか?」

 亜美の声にも反応しなかった。その時、亜美は、這い回っている今矢の足元に、何か白い小さな紙が落ちている事に気付いた。

 「何かしら、これ?」

 その白い紙を拾い上げようと手を伸ばした時、サッと今矢の手が、先に、その白い紙を押えた。そして、顔を上げると、急に、

 「誰も入らないでって、言ったでしょ!」

 いきなり怒り出した。皆、ビックリした。

 「早く、出て行って!それに、今井さん!あなたも早く現場に戻りなさい!」

 怒りの矛先は亜美に向かった。皆、渋々部屋を出た。誰もが、今矢の言葉に納得出来なかったが、特に、亜美は納得出来なかった。

 「何よ!心配して入ったのに!心配して損した!それに、元々、一緒に来いって言ったのは婦長じゃない!どうして私が怒鳴られなきゃいけないの。もう、知らない!」

 ブツブツ言いながら、亜美は一人、階段を下りて行った。

直ぐに、上から複数の足音が聞こえて来た。警備員たちだった。亜美は一応、事情を聞いてみようと思った。

 「あのう、侵入者って何だったんですか?カメラの誤作動か何かだったんでは?」

 「いや、誤作動じゃないですね。確かに、変な物が映って、それで警報が鳴ったんです。私も見てましたから」

 警備員は自信有り気に答えた。

 「変な物?」

 「ええ。何か、白いモヤのような物がエレベーター前に現れたんですよ。それが、院長室へスッと入って行ったら、警報が鳴ったんです」

 「白い、モヤのような……物?」

 亜美は、妙に気になった。

 「すみません!それって、今、見れますか?」

 「え、ええ。警備室で録画されてますから。一応、90日間はデータを保存する事になってますから」

 「見せて下さい!」

 亜美は、そう頼み込むと警備員と一緒に警備室に向かった。警備室は、白いモヤの話で盛り上がっていた。

 「オイ、さっきの映像、この看護婦さんが見たいらしいぞ」

 「え?見ます?結構、気持ち悪いですよ」

 「構いません。見せて下さい」

 亜美がそう言い切ると、警備員は、渋々映像をサーチし始めた。その間に、亜美は四階で気になった事を聞いてみようと思った。

 「どうして、院長室の異常を看護婦である、今矢婦長に教えるんですか?」

 「いや、それは、マニュアルにそうなっているんです。緊急の連絡は今矢さんに、と。だから、今矢さんに連絡したんです。院長と今矢さんしか、あそこの鍵を持っていないんで」

 「えっ?そうなんですか?あなたたちは、院長室の鍵を持ってないんですか?」

 「ええ。だから、中へ入る為には院長か、今矢さんに来て貰わなければならないんです」

 どう考えても不思議だった。何故、今矢が院長室の鍵を持っているのか、何故、緊急連絡先が今矢なのか、亜美には理解出来なかった。『やはり、ゴールドメスという物を授与された人だから、かしら?病院に対する貢献度が高いって事は、院長の信頼度も高いって事かしら?』亜美は漠然とそう考えるしかなかった。

 「ここからです。始めますよ」

 警備員の声にハッとした。

 「あ、お願いします」

 亜美が時間カウンターを見ると午前〇時五〇分を表示していた。『やっぱりだ!』

 「このエレベーターの前に、ほら!これです!これ……あれ?」

 急に、警備員が不思議そうに画面を見詰め出した。

 「どうしたんですか?」

 「い、いや、さっき、見た時はボヤッとしたモヤみたいだったんですが、今は、はっきりと輪郭が分かるんです。オイ、皆、見ろよ!人型だぞ!変じゃないか、このビデオ」

 皆、画像を見ると、一斉にどよめいた。確かに、エレベーターの前には、女性と分かる白い人型が映っていた。

 「何か、ワンピースのような物を着ているような気がするな。あ、頭の上の帽子!これって」

 警備員は亜美を振り返ると、

 「この看護婦さんの、この帽子に似てないか?」

 周りの警備員に、亜美の頭の帽子を指差して見せた。

亜美は確信した。『間違いないわ。あれは白い看護服姿の幽霊よ』しかし、同時に疑問も湧き上がった。『でも、どうして、何年も姿を見せなかったのに、突然現れたのかしら?』疑問は残った。

 「どうします?まだ、見ますか?」

 警備員は、明らかに嫌がっていたが、亜美は続きが見たかった。

 「お願いします」

 警備員は渋々頷くとモニターに向き直り説明を続けた。

 「そして、この白い物が、ほら!スッと院長室に入ったでしょう。ここで警報が鳴ったんですよ」

 そう言うと、警備員は画面を切り替え、院長室内の画像を見せた。

 「この白い人影が延々動き回って何かを捜してるんですよ」

 警備員の言うように、それは院長室内を歩き回り、時折立ち止まってキョロキョロしているようにも見えた。やがて、白い人影が消え、そして扉が開き、部屋が明るくなって、今矢が飛び込んで来た映像になった。  

亜美は、まだ注意深く映像を見ていた。今矢の一番の行動が気になっていたからだ。今矢は後ろ手で扉を閉めると、ポケットに手を入れたまま、いきなり、しゃがみ込んだ。『やっぱり変だ!どうして、いきなり床に眼をやったんだろう?まるで、盗られた物など無い事を知っていたかのようだわ』尚も映像は続いた。しかし、あとは何も変わらないまま、亜美が飛び込んで来る映像になった。『この後、私が白い紙を見つけた時、今矢婦長は凄い形相で私を見たんだ……あの紙に何か……』亜美は、その時に見た白い紙を必死に思い出そうとしていた。『そう言えば、あの大きさの紙をどこかで見たような気が……えっ?も、もしかして……』亜美はハッと顔を上げた。

 「そうだ!間違いない!」

 突然、大声を出すと、周りの警備員たちは一斉にビクッとして亜美に注目した。

 「ご、ごめんなさい。もう、いいです。どうもありがとうございました」

 亜美は軽く礼を言って警備室を飛び出ると、走り出した。確かめたい場所があった。『あれは土田さんの霊よ!長い間封印されていた土田さんが出て来たという事は!そして、四階のエレベーターの前に現れたって事は!』亜美は、一階のエレベーターに走った。エレベーターを呼び出し、乗り込むと地下のボタンを押した。

地下に着き、扉が開くと、亜美は、先に一階のボタンを押して、そして、扉の『開』ボタンを押したまま、クビだけエレベーターから出して上を見上げた。もし、何かが襲って来ても、ボタンを離せば扉が閉まり、一階に上がってくれる。亜美は、万が一に備えて対策をとっていた。それほど亜美には恐怖があった。しかし、それでも、確かめたかった。

 「思った通りだ。あの御札、前に見た時より少し場所がズレている。貼り直したあとがある。やっぱり、今矢婦長が隠した、あの紙は、ここの御札だったんだ!」

 亜美は天井を見上げながら、色々推測を始めた。誰かが、ここの御札を剥がす事で、ここに封印されていた土田の霊が、何故、院長室に現れたかは分からないが、とにかく彷徨い出た。そして、また、誰かが、ここに御札を貼り、もう一度封印した。勿論、誰か、とは今矢だ!こう考えた時、亜美は大きな壁に当たった。『何の為に、そんな事をするのか?』さすがに、この疑問に対する答えは推測出来なかった。ただ、亜美は重要なヒントを掴んだ。『今矢婦長は間違いなく何かを知っている!しかも、それは土田さんに関する事だ!もしかすると、今矢婦長も院長と共謀して土田さんを……』考えただけで背筋が冷たくなった。

 「まずは島田先生にも、私の意見を聞いて貰って、それから、もっと良く考えなくっちゃ」

 亜美はボタンを離した。静かに扉が閉まった。

 「今日は、何も起こらなかったわね。何か理由があるのかな?」

 ホッとしたものの、やはり、理由は分からない。釈然としないながらも、

 「とにかく、ナースステーションに戻ろう」

 そう思い、何気なく時計を見ると、午前二時を回っていた。

 「うそ!あれから三〇分も経ってる!どうしよう」

 一気に気が重くなった。怒られるのも嫌だったが、それ以上に、土田の件に関与しているだろう今矢と顔を合わせるのも口を利くのも嫌だったからだ。

 「でも、しょうがないわね。だって、同じ職場で、尚且つ、上司だから。今は素知らぬ振りをするしかないか」

 亜美は、覚悟を決め、三階のボタンを新たに押した。

 「あ、もしかして!」

 ふと、頭に思い付いた事があった。

 「今日、何も起こらなかったのは、二時だったから?十一時に名前を書き、殺される時間が一時!ビデオでも一時前だった!もしかして、この二時間しか……」

 新たに謎が解けた気がして嬉しくなった。それでも、ナースステーションの前に立つと、嫌な気になった。

亜美は、扉の前で小さく深呼吸をすると、意を決したように扉を思い切って開けた。すると眼の前に今矢がいた。

 「あ、あ、あの……」

 思わず言葉が詰まった。

 「今井さん。そろそろ巡回でしょ」

 いたって普段通りの態度でそう言うと静かに亜美から離れて行った。亜美は拍子抜けした。院長室の件と、この遅れ。どう考えても、印象が良い訳がない。本来なら、怒鳴られて当然なのに、全く、そんな素振りも見せない。『この人の考えている事が、私には全く分からない』亜美の疑念は募るばかりだった。

亜美は、離れて行く今矢の背中をじっと見詰めていた。



 勤務が明け、着替えようと休憩室に向かっていると、前から事務の白石が走って来た。

 「ごめんなさい、亜美さん。忘れていた亜美さんの分、さっき届いたのよ」

 白石の言う意味がサッパリ分からなかった。

 「え?何の事です?」

 いぶかしげに亜美が尋ねると、

 「ネームプレートよ。亜美さんの分だけ無かったでしょ?急がせて作らせたのよ」

 白石は、何だか得意気に話した。『ああ。あの、漢字とローマ字を併記した名札か』どうでも良いと思ったが、そんな顔をする訳にもいかず、

 「あ、あれね!どうもありがとうございます」

 わざと嬉しそうな顔をした。

 「大変だったのよ、今矢さんにも何度も急かされるし。じゃあ、これ渡しとくから!ちゃんと着けてね。もう、皆、着けてるから。じゃあ、お疲れさま」

 白石は亜美に手渡すと、サッサと戻って行った。亜美は、渡された名札をチラッと見ただけで直ぐにポケットに入れた。そんな事より、亜美は、早く島田に会いたかった。会って、自分が気付いた事を報告したかった。

 着替えを済ませ、休憩室から出ると、不意に後ろから、

 「今井さん」

 呼び止められた。ドキッとした。直ぐに今矢の声だと分かったからだ。

 「あ……はい。何で……しょうか?」

 ビクビクしながらゆっくりと振り向くと、今矢は申し訳なさそうに、

 「今井さんは今日、非番でしょ?悪いんだけど、晩からでもいいから出勤してくれないかしら?」

 「えっ、出勤……ですか?」

 「ええ。アメリカから来る先生方の事で準備大変なのよ。私も出るし、珍しく、院長も今日は徹夜するらしいから」

 亜美は返事に困った。非番が潰れるのも嫌だったが、それ以上に、院長や今矢と顔を合わせる事の方が遥かに嫌だった。

 「ダメかしら?今日だけでいいのよ。もう言わないから」

 今矢は、いつもの上司としての命令調ではなく珍しく頼み込んで来た。今までに、こんな事は一度も無かった。冷静に考えれば、賃金をいただいている以上、職務を優先すべきで、私情を挟む訳にはいかない。

 「わ、分かりました」

 亜美は社会人としての判断を選択した。

 「良かったあ。じゃあ、島田先生にも伝えておいて」

 「えっ?」

 「院長が、島田先生にも出勤して欲しい、と言ってたって」

 今矢はそう告げると、そそくさと廊下を戻って行った。『どうして島田先生に私から告げないといけないのかしら?直接、院長から言ったらいいのに。もしかして、院長も今矢婦長も、私と島田先生が、まだ、行動を共にしている事を知っているのでは』自分たちの行動を気付かれている気がして不気味に感じた。『今度バレたら終わりね。まあ、それもいいか。でも、その前に何としても真相だけは突き止めなくっちゃ!』決意を胸に病院を出た。

 亜美は、駅で島田を待ち伏せしようと考え、駅に向かって足早に歩いた。暫く、改札の所で待っていると、前方から島田の歩く姿が確認出来た。亜美は嬉しくなり、島田の元へ駆け寄った。

 「島田先生!」

 「え、あ、ああ。今井君」

 「先生、分かったんですよ!午前一時と、死んだ三人の関連が!」

 亜美は、はしゃぐように島田に話し掛けたが、島田の反応は鈍かった。亜美とは対照的に島田の表情は沈んでいるようだった。

 「ど、どうしたんですか?何か、あったんですか?」

 亜美は心配して、島田の顔を覗き込んだ。

 「え、ああ。実は、この前、院長室に呼ばれた日、僕のポケベルが鳴っただろ?あの時、急患が運ばれて来たんだよ」

 島田は元気が無く、声そのものが聴き取り難かった。

 「心肺停止状態だったから緊急のオペをしたんだ。オペは成功。患者は見事蘇生した。僕は家族に安心です、と告げたんだ」

 そう言うと突然、島田は小さく溜息をついた。

 「ところが、深夜になって、急に容態が悪くなったんだ。必死になってやったが、結局、苦しんだうえ、今朝早くに亡くなった……」

 「そう……だったんですか」

「ああ。でも、もし苦しんで……だとしたら。実はいつも秘かに持っている薬があって、僕が医者になった時に先輩からもらった薬なんだが」

そう言うとポケットから小さな緑色したカプセルを亜美に見せた。

「それ……は?」

亜美は島田とカプセルを交互に見ていた。

「どうしても患者が苦しんでいるようならこれを使うように言われた。これを使うと驚くほどすぐに静かに楽に亡くなる、ってね。ただ、これは医者としてやってはいけない行為だ。でも、患者と、そして特に自分を楽にしてくれる薬なんだ、と」

「自分を、とはどういう事なんですか?」

「医学的には患者が苦しんでいたとしてもおそらく本人の意識が無いと言われている……が実際には誰にも分からない。だとすれば、それを見ている僕たちには分からず、やはり心が苦しくなってくる。その苦しみから解放されるという事なんだ」

島田は頭を垂れ何度も左右に振っていた。

「でも、でも、やはり、僕にはこのカプセルは使えない……自分の心だけ楽になるなんて……しかも患者も救えないなんて……」

 島田は自分を責めていた。伊藤と共に、神の手を持つとまで言われた島田の姿は、そこには無かった。亜美は、そんな島田の姿を見たくはなかった。もっと、自信を持って欲しかった。

 「先生は、全力でやったんじゃないですか!患者さんもきっと苦しんではいなかった筈です!どうして自分を責めるんですか!どうして自分も苦しむんですか?」

 亜美は駅前にも拘らず、思わず大きな声を出してしまった。

 「僕は、本当に最善を尽くしたのか?実は、もっとやるべき事があったんじゃ……もしかしたら、あのカプセルを……そんな気がしてならないんだよ。そうすれば、もしかして、あの患者は」

 尚、後悔ばかり口にする島田に、亜美は我慢出来なくなった。

 「先生は間違ってる!だってそうでしょ?来た患者全てを救えると思ってる!もし、本当にそう思っているなら、それは先生の【驕り】です!」

 亜美は思いのままを島田にぶつけた。

 「……驕り……?」

 「そうです!それを驕りと言わずに何と言うんですか!生き物には寿命、運命という物があるんですよ!全ての人を治すなんて不可能じゃないですか!先生は神様じゃない!でも、先生は自分を責めてる!苦しめてる!」

 島田は返す言葉が無かった。

 「私たちにとって大切な事は、どれだけ、思いやりを持って患者と接するか、という事じゃないですか?確かに残念ではあったけど、結果だけが全てじゃない筈ですよ」

 亜美の言葉は島田の胸に深く突き刺さった。と同時に、目から鱗が剥がれ落ちた気がした。

 「確かに、今井君の言う通りかもしれないな。周りから名医だと言われ、知らず知らずに自分でも、そう思っていたのかもしれない。僕に救えない患者などいない、と思い上がっていたのかもしれないな……」

 島田は少し微笑んだ。亜美は、その顔を見て安心した。

 「そうですよ。先生はやれるだけの事はやった筈です。だから、後悔なんて無い筈ですよ」

 島田は力強く頷いた。亜美に言われ、何だか力が湧いてくる気がした。考えてみれば、ここ数年、名医と評判の島田に、面と向かって意見する者など誰もいなかった。島田も、いつの間にか、チヤホヤされ過ぎて、それが当り前になっていたのかも知れない。それを亜美が諌めてくれた。もう少しで医者を、人間を失格するところだったのだ。島田は、人間として本当の意味で救われたのだと感じた。

 「ありがとう、今井君」

 心から、そう言うと同時に『こんな女性が、常に僕の傍にいてくれれば……』今までとは違った感情が島田の中に生まれ始めた。

 「ところで、今井君。何か分かったって言ってたよね」

 島田は自分の中で心の整理がついたのか、徐々に、ではあるが、以前の元気な島田に戻って来た。

 「あ、そうです!実は午前一時の謎と死んだ三人の関係が分かったんです!」

 「えっ、本当?」

 島田は驚くと、周りを気にしだした。

 「ちょっと待って。場所を変えようか」

 島田はそう言うと、亜美と共に駅を通り抜け、裏側に出た。

 「あそこに喫茶店があるな。あそこに行こう。ここは駅の反対側だから、病院関係者はあまり来ないだろう」

 島田が敢えて場所を変えたのは、以前の時と同じように亜美といるところを見られたくないからではなかった。今の島田にとって、亜美と二人でいる事は、むしろ自慢だった。ただ、内容を病院関係者に聞かれたくないだけだった。店に入り、席に着くと、注文もそっちのけで早速、島田は続きを聞いて来た。

 「それは、どういう事?」

 亜美は、午後十一時を指した時計を鏡に映すと午前一時に見える事や死んだ三人の名前が、全て左右対称の漢字で構成されていた事を説明した。島田は唸った。

 「確かに、谷口早苗、山田真由美、林真美。いずれも、縦に書き、中央に線を引けば左右対称だと分かるな」

 「だから、噂は縦に書く事になってたんですよ。そして、私の名前は『今井亜美』惜しいですが『今』の字だけ左右対称じゃないんです」

 島田は納得したように頷くと、持って来たばかりの紅茶に口をつけた。

 「成田さんも木下さんも、そして、鈴木さんも左右対称の文字じゃない。だから、助かったんですよ。あの鏡は、いや、土田さんは文字を認識してるんですよ」

 「名前の下にバツを書く事は?確かにバツも左右対称だけど」

 「それは良く分かりませんが、特に意味は無いんじゃないかと思います」

 「そうか。という事は、十一時が重要な時間だな」

 「え、でも、人が死ぬのは一時ですよ」

 「いや、それは僕たちの世界での事だ。実際に一時に見えたという事は、やはり十一時を現している」

 亜美は頭で考えると唸るように頷いた。

 「……そうですよね。やっぱり、十一時……ですよね」

 「鏡の世界では何もかもが逆に見えるんだから、やっぱり、十一時に何かがあった事を意味しているんだよ」

 亜美は島田の説明に納得した。

 「そういう事ですか。じゃあ、土田さんの幽霊が十一時から一時までの間、行動するのも何となく分かるような気がします」

 亜美もオレンジジュースに口をつけ、一呼吸すると、最も重要な情報を島田に話し掛けた。

 「それと、先生。あの地下の天井に貼ってあった、あの御札。あれを貼ったのは今矢婦長ですよ」

 亜美の言葉を聞き、島田の動きが止まった。

 「深夜に、院長室で警報が鳴ったのを知ってます?」

 「い、いや。何だか騒いでいたのは知ってたけど……それが、今矢婦長と、どう関係が?」

 島田には、警報と御札が、どう繋がるのか、分からなかった。

 「院長室に土田さんの幽霊が現れたんです。私、警備室で録画した映像を見せて貰いました。間違いなく、あれは土田さんの幽霊です!」

 亜美は島田に顔を近付け、頷いた。

 「何故?あの霊は地下から出られない筈じゃあ……その為に、御札が……」

 「そう思って、私、地下に行ってみたんです。思った通り、エレベーターの所の御札は貼り直したあとがありました。少しズレていたんです」

 「……つまり」

 「つまり、剥がす事によって、土田さんは地下を出る事が出来、そして、院長室へ入った。でも、一時までしか動けない。その後に、もう一度、御札を貼って、再び封印した」

 島田は理解に苦しんだ。

 「どうして、それだけで、今矢婦長が御札を貼った人物だと」

 「ビデオを見てれば分かりますが、今矢婦長は院長室に入ると、一番に床を捜し始めたんです。そして、そこには御札が落ちていたんです。私がそれを見付けると、物凄い眼で私を睨んだんです」

 亜美の眼は確信の眼だった。島田は、敢えて反論はしなかった。ただ、腑に落ちない点はあった。

 「確かに、今矢婦長は、御札について何かを知っているのは間違いないな。でも、一つ、疑問が残る」

 「え、疑問……とは?」

 「誰が、その御札を剥がしたか、という事だ。今井君が言う通り、貼ったのは今矢婦長だろう。でも、剥がした人物だっている筈だよ」

 亜美は、剥がした人物まで考えていなかった。島田に、そう言われれば、確かに不思議な事だった。

 「もしかして、伊藤院長が」

 「いや、それは無いな。院長が御札を剥がす動機が無い」

 島田はキッパリと否定した。

 「じゃ、じゃあ、土田さんが自ら剥がしたとか……」

 島田は吹き出した。

 「それは益々考えられない。もし、それが出来るぐらいなら、とっくに剥がしてるし、それに、昔のように、もっと頻繁に目撃されてるよ」

 亜美の意見は悉く否定された。

 「じゃあ、誰だと思っているんですか!」

 亜美は少し、ムッとした。

 「今の段階では、分からないよ。或いは、僕たちの知らない誰かがいるのかもしれないな」

 亜美は考えてみたが、思い付く人物は一人も浮ばなかった。

 「しかし、土田の霊は、どうして院長室に入り込んだんだろう?今井君は、その土田の霊が映ったビデオを見たんだよな」

 「ええ」

 「どんな様子だった?」

 「何かを探している様子でしたね」

 「探す?」

 島田は眼を閉じ、考えていると、ふと頭に浮かんだ物があった。パッと眼を開け、亜美を見詰めた。

 「もしかして、それは、ゴールドメスか手帳じゃないか!あ、いや、ゴールドメスじゃないかも知れない。ゴールドメスだと院長との関係を立証するのに弱いな。無くしたと言われれば終わりだ」

 「じゃあ、やっぱり、あの赤い小さな手帳ですか」

 島田は、ひとり、自信有り気に何度も頷いていた。

 「そうだとすると、あの異常な警備も納得出来る。もし、あれが、誰かに見付かると、当然、院長が土田失踪の重要な人物と特定されるからな」

 亜美は、一見、理に適っているように思えたが、よくよく考えると、島田の説明には無理があると思えた。

 「でも、先生。もし、見付かって困る物なら、あんな所に隠して置くでしょうか?どちらかと言えば、燃やすか捨てるか、するんじゃありませんか?」

 亜美の冷静な指摘に、島田はハッとすると、直ぐに肩を落とした。

 「そ、そうだな。確かに、今井君の言う通り、そうするよな……じゃあ、何を探してたんだ?」

 島田は頭を抱え込んだ。残った紅茶を一気に飲み干した。

 「ダメだ!分からない!今日は非番だから家に帰って、もう一度整理してみるよ」

 島田の、その言葉に亜美は思い出した。

 「そうだ!先生。今日、晩からでもいいから出勤して欲しいと、今矢婦長から伝えるよう言われました」

 「えっ?出勤?今矢婦長から?」

 島田は首を傾げた。

 「ハイ。何でも、院長が今矢婦長に言って、そして、私が今矢婦長から伝えて欲しいと頼まれたんです」

 島田は益々不思議だった。『どうして、そんな事を、今矢婦長や今井君を通して自分に伝えて来るのだろう?』サッパリ分からなかった。『それに、僕と今井君が連絡を取り合う事は、今矢婦長にとっても嫌な事の筈なのに』それを、敢えて、亜美に託した今矢の気持ちが理解出来なかった。

 「私も今日、晩から出勤するんです」

 「えっ、今井君も?」

 「ええ。何でも、院長も今日は徹夜するらしいですよ」

 亜美はそう言うと、ストローでオレンジジュースを掻き回した。

 「えっ、あの院長が徹夜?どうして、それを今井君が知ってるの?」

 「今矢婦長が、そう言ってましたよ」

 「今矢婦長が?」

 島田は顔を顰めて、空になったカップを見詰めた。『また、今矢婦長か。しかし、何故、今矢婦長は院長のスケジュールまで教えたんだろう?』ずっと考え込んでいた。

 「先生?どうしたんですか?」

 島田は、亜美の問い掛けにも答えなかった。『僕たちは、ずっと、院長が重要人物だと考えていたが、本当の重要人物は、今矢婦長じゃないのか?』そう思っていると、島田の頭に、ある案が浮かんだ。

 「なあ、今井君。今以上の手掛かりが、これから先、出て来ると思う?」

 島田は相変わらず、カップを見詰めたまま、唐突に亜美に話し掛けた。

 「さ、さあ。正直言うと、もう、出尽くした気もしますけどね。時間も経ってるし。でも、それが何か?」

 亜美も、島田が真剣に見詰めるカップが気になって中を覗いてみた。『髪の毛でも入っているのかしら?』中に何が入っているのか、確かめたくなった。

 「もしかすると……これはチャンスかもしれないな……」

 「え、どういう事ですか?」

 亜美が顔を上げると、いつの間にか島田は亜美を見詰めていた。

 「僕も、これ以上の手掛かりが出て来る気がしないんだ。それに、院長が徹夜なんて何年に一度の事だ」

 真剣に話し始めた島田の顔を、亜美は意味も分からないまま見ていた。

 「手掛かりが出ないなら、出るようにするんだよ!」

 「ど、どうやって……ですか?」

 「その前に、今井君!覚悟は出来ているか?」

 「覚悟?」

 亜美には、益々、島田が何を考えているのか分からなくなった。

 「ああ。伊藤病院を辞める覚悟だよ!」

 亜美は、突然の辞職話に戸惑ったが、今は、島田を信じるしかない。きっと島田には考えがあっての事に違いない。そう思うと、戸惑いは消えた。

 「勿論、覚悟はあります!」

 亜美はキッパリと言い切った。島田は安心したように頷いた。

 「先生、何をしようと、考えているんですか?」

 「例の噂を使うんだよ!」

 「噂を?ま、まさか!」

 亜美に、島田の考えている事が見えて来た。

 「そう!あの鏡に院長と今矢婦長の名前を書く!そして、それを口実に、あの二人を地下に呼び出すんだ!例の時間にな!」

 亜美は全てを理解し、何度も頷いた。

 「伊藤院長も今矢婦長も左右対称文字じゃない。だから、殺される恐れはない、という事ですね」

 「そうだ。そして、僕たちが、この前、体験した、あの恐怖を味わって貰う。その時、きっと、何かを口走る筈だ!そこを攻撃するんだ!」

 島田は、自分の作戦に酔いしれたのか、満足そうに、時折、微笑んでいた。

 「でも、もし、何も起きなかったら……」

 亜美が不安そうに言うと、島田は自信有り気に首を振った。

 「必ず起きるよ。だって、何の関係も無い僕たちですら、あの恐怖に襲われたんだから。ましてや、土田は、あの二人を恨んでいるに違いないよ」

 島田の理論はもっともだった。

 「じゃあ、私たちも、また……あの恐怖に襲われますね……」

 亜美は恐ろしかったが、真相を掴む為には止むを得ないと覚悟を決めた。

 「そうだな。まあ、肉を切らせて骨を断つ、という奴だな」

 島田は、平静を装って、そう言ったものの、本当は自分が一番怖かった。出来れば、あの恐怖は二度と体験したくはなかった。しかし、二度と犠牲者を出したくないという思いが、島田に勇気を与えてくれていた。

 「もし、それでも、あの二人が何も言わなかったら、その時、僕たちは終わりだ。即、クビになる」

 島田は淡々と話した。亜美は、島田のあまりにもアッサリとした話し方が気になった。

 「先生は、それで、構わないのですか?」

 「ああ。今更、伊藤病院に未練はないよ。この病院のやり方は、僕には合わないよ」

 島田は、覚悟を決めるというよりも、はなから辞める意思があるように、亜美には思えた。何だか寂しい気がした。

 「次は、決まってるんですか?もしかして、院長の言ってた、中田医院とか……」

 島田は急に笑い出した。

 「まさか!まだ、決めてないけど、間違っても、中田医院には行かないよ」

 亜美は、その言葉を聞いて、少しは安心した。だが、複雑な気持ちに変わりはなかった。

 「そんな事より、今は、真相を究明する方に集中しよう」

 「そ、そうですね。じゃあ、具体的にどうします?」

 「まず、名前を書く時間だが、さすがに十一時ちょうどに名前を書くのは抵抗があるな。まあ、夕方にでも書こう。どうせ脅しだし、それに、あの場所には誰も近付かないから、バレないよ」

 「分かりました。じゃあ、私が夕方、出勤した時に書いておきます」

 アッサリと言う亜美に驚いた。

 「えっ!今井君、大丈夫?」

 「ええ、だって、土田さんが行動を始めるのは十一時から一時までの間ですから。大丈夫ですよ」

 島田は感心した。自分なら、幾ら大丈夫と言われても、一人では行きたくなかったからだ。『やっぱり、精神的には女性の方が強いのかなあ?』島田は、読み始めたばかりの女性心理学の本に、精神論が書かれている事を期待した。

 「その後、どうしましょう?」

 「あ、そ、そうだな。じゃあ、今井君は十一時を過ぎたら、今矢婦長に、鏡に名前が書いてあると伝えてくれ」

 「えっ!今矢婦長に……ですか?何故、そんな所に行った!って、怒鳴られそうです……ね」

 「大丈夫だよ。君の精神力なら」

 「え、なんですか、それ?」

 「あ、いや、こ、こっちの話だよ」

 島田は笑って誤魔化し、続きを話した。

 「そして、僕たちは地下の階段の所で、十一時半に待ち合わせよう!院長や今矢婦長はきっとエレベーターを使う筈だから」

 言い終わると、微笑みながら、島田は空になったカップに口をつけた。直ぐに顔付きが変わった。亜美は、クスッと笑った。

 店を出ると、さっきまで晴れていた空がどんよりと曇って、いつの間にか小雨が降っていた。亜美はすかさず、バックから折り畳みの傘を取り出し、広げた。島田は、その傘を受取ると、眼の前に見える駅まで、亜美が雨に濡れないように体をくっ付けて、出来るだけゆっくりと歩いた。亜美は、素知らぬフリで頭をソッと島田の肩につけた。



 夕方になって雨は止んだ。亜美は、まだ濡れているアスファルトの上を歩きながら、裏口から病院内に入った。警備室の前を通り、エレベーターに向かうと思わせて、サッと階段を下りた。地下に着くと、何とも言えぬ独特の雰囲気を感じた。

 「あんな事言わずに、島田先生に付いて来てもらえば良かったなあ」

 廊下を見ると、思わず足がすくんだ。さすがに、一人で鏡の所まで行くには、かなりの抵抗があった。幾ら、この時間は大丈夫だと言い切っても、やはり、怖かった。しかし、鏡に名前を書かなければ、この作戦は成功しない。『真美!何かあったら、助けてね!』心の中で呟くと、意を決して足を前に踏み出した。歩くヒールの音が妙に反響した。暗い廊下の中、鏡の前に立つと、思わず唾を飲み込んだ。

 「さ、さあ、書くわよ!」

 気合を入れるように呟くと、指で書き始めた。しかし、指で書いた文字は見えなかった。

 「あ、そうか!この前、綺麗に拭き取ったんだ。もう、余計な事して!でも、どうしよう?書く物を持ってないわ」

 亜美は鏡の前で悩んだ。気持ち的には、早く、この場から立ち去りたかった。

 「あ、そうだ!もう、これで書こう!」

 亜美はバックから口紅を取り出すと、それで伊藤と今矢のフルネームを縦に書き始めた。

 「これで良いわよね!一応意味は無いだろうけど噂通りバツも書いたし。案外、口紅の方が心理的効果があるかもしれないわね」

 亜美は満足すると、その場から逃げるように走り出した。冷たい鏡には、赤い口紅で、はっきり『伊藤基夫』、『今矢彩美』の名前とそれぞれの名前の下に✕が記されていた。



 ナースステーションで、亜美は壁の時計を見ては、ソワソワと落ち着かなかった。時計は十一時十分を指していた。

 「そろそろ、言わなきゃね。でも、今矢婦長、どこ行ったんだろ?あー、嫌だなあ。鏡の事、言うと絶対怒り出すわ。でも、言わなきゃいけないし」

 一人で、ブツブツ言いながら、今矢が戻って来るのを待っていた。すると、今矢がちょうど戻って来た。今矢を見ながら伝えるタイミングと、鏡の所に行った理由を、まだ考えていた。亜美は今矢から眼を離さなかった。ようやく、今矢が自分の席に着いた。『今しかない!』そう判断すると、亜美は覚悟を決め立ち上がり今矢に恐る恐る近付いた。

 「あ、あのう、今矢婦長」

 「何ですか?今井さん」

 「あ、あの、ちょっと、いいですか?」

 亜美はソッと今矢の耳元に近付いた。そして、鏡に名前が書いてある事を告げた。

 「何ですって」

 そう言うと、きつい顔で亜美を振り向いた。思わず、亜美は首を引っ込めた。『き、きた!そ、そうだ!理由だ、理由!』分かっていたとはいえ、今矢の迫力に負けそうになった。

 「い、いや、じ、実はですね、その、真美の事が……」

 シドロモドロになりながらも、耳元で話し掛けると、急に、今矢は立ち上がり、周りを見回した。そして、口元に指を当て、

 「それを見たのは、今井さんだけ?」

 今度は、今矢が亜美の耳元に口を寄せ、囁いた。

 亜美は無言で頷いた。

 「これは絶対、誰にも内緒よ!」

 そう、きつく口止めをして立ち上がると、急に思い出したように、

 「あ、それと今井さん。新しい名札、もう来てるでしょ?早く付替えなさい」

一言言い、今矢はサッサとナースステーションを出て行った。亜美は全身の力が急に抜けた。

 「良かったあ。怒られなくて。理由なんて関係なかったじゃない」

 亜美は、まずはホッとした。しかし、冷静になって考えると、直ぐに変な気がした。『でも、どうして怒らなかったのかなあ?あれほど行くな、と言われた所に行ったのに』

不思議に思えて仕方なかった。考えてみれば、ここ数日の、亜美に対する今矢の態度は全て不可解な気がした。『まあ、いいか。これで、何とかなるんだから。それに、もう直ぐすれば、全てが明らかになるんだから』亜美は、今すぐに答えを求めない事にした。『さあ、行こう。島田先生が待ってる』亜美もナースステーションを出ると、階段へ走った。

 足音を立てずにソッと階段を下りて行くと、身を潜め、廊下を覗き見る島田の背中が見えた。

 「どうですか、先生?」

 亜美は声を顰め、不意に話し掛けた。島田の体がビクッとして、急にこちらを振り向いた。そして、亜美を確認すると、

 「今井君かあ、脅かさないでくれよ」

 小さく溜息をつくとホッとした顔をした。

 「いつ来たんですか?」

 「五分ほど前だよ。さっき、今矢婦長が下りて来たよ」

 「伊藤院長は?」

 「まだだな。あ、それと、昼間言ってたビデオの件なんだけど」

 「見に行きました?どうでした?やっぱり、あの白い人影は土田さんだと思いません?」

 島田は廊下をチラチラと気にしながら、亜美に首を振った。

 「僕も見せて貰おうと警備室に行ったが、もうデータは無かったよ」

 「え、でも、90日間は保存するって言ってましたよ」

 「そうじゃないんだ。今矢婦長がデータを消したそうだ」

 「えっ、今矢婦長が!」

 亜美は驚いて、思わず声が大きくなりそうなのを、どうにか押えた。

 「じゃあ、もしかして、私が、あの映像を見た事も、今矢婦長は……」

 島田は意味有り気に頷いた。

 「ああ。勿論、知っている」

 「でも、そんな事……一言も触れなかった……」

 亜美は、言葉を無くし、階段を見詰めると、ただ、黙っていた。

 「これで分かっただろ。キーマンになるのは院長じゃなかったんだよ。今矢婦長の方だったんだよ。ここ最近のあの人の言動は理解に苦し……あっ!」

 島田は、更に階段の影に身を隠した。エレベーターから白衣を着た男が出て来た。

 「来た!院長だ!」

 島田はさっきよりも声を顰めた。伊藤は霊安室の所を右に曲がった。島田と亜美は、気付かれないよう足音を消し、ソッと伊藤の後を追った。伊藤が更に突き当たりを右に曲がると、さっきと同じ様に後をつけ、壁の曲がり角に身を潜め様子を伺う事にした。直ぐに、伊藤の不機嫌な声が聞こえて来た。島田と亜美は、その内容に耳を傾けた。

 「オイ!今矢君!どういう事だ!ここには誰も近づけるなと言ってあるだろう!」

 今矢はそれに答える様子が無かった。

 「しかも、この名前は!誰の悪戯だ!見つけ出してクビにしてやる!オイ、突っ立ってないで消すのを手伝え!」

 普段の穏かで紳士的な伊藤の言葉とは思えない程焦っている様子が感じられた。『どうして、そんなに焦っているのかしら?』亜美には、その慌て振りが理解出来なかった。伊藤は尚も怒鳴った。

 「しかも、俺の名前だけマジックで書きやがって!」

 この言葉を聞き、島田は亜美を振り返った。亜美は慌てて首を振った。

 「私、マジックなんて使ってません!書く物が無かったんで口紅を使ったんです!」

 思わず声を上げてしまった。亜美は『しまった!』と口を押えたが手遅れだった。

 「誰だ!誰かそこにいるな!出て来い!」

 伊藤の怒鳴り声に、亜美は諦めて、壁の角から姿を出した。続いて島田も姿を見せた。

 「お前は今井!それに島田!」

 伊藤は驚いた。しかし、今矢は眉一つ動かさなかった。

 「島田!お前、ここで何してる!今日は非番の筈だろ!私に断わりも無く出勤しやがって!」

 伊藤の話し方は、まるで別人のようだった。

 「何を言うんですか、院長!あなたが僕に出勤を命じたんじゃないですか!」

 伊藤の感情的な話し方に、島田も、つい感情的に答えてしまった。

 「俺は、そんな事命じた憶えはない!」

 キッパリと言い切った。

 「そんな事はありません!今矢婦長から……えっ!」

 島田は今矢を見詰めた。薄暗い廊下で、僅かに今矢の顔が笑ったように見えた。

 「そうです。院長。私が島田先生と今井さんを出勤させたんです」

 今矢は伊藤に平然と言った。

 「どういう事だ、今矢!まあ、いい!そんな話は後だ!」

 伊藤は、鏡に書かれた自分の名前を服の袖で必死に拭いていた。しかし、油性マジックで書かれた文字は、なかなか消えなかった。消えない事にイラついた伊藤は、

 「お前たちが書いたんだな!だったら、お前たちが消せ!今すぐだ!俺を殺す気か!」

 亜美と島田を震える指で指差した。『やっぱりだ!院長は、あの噂話が事実だと気付いていたんだ!』島田は反撃に出る事にした。

 「何を焦っているんですか。幽霊なんていない筈じゃないですか?噂話なんて信じていない筈じゃ?」

 島田は、わざとゆっくりめに話した。冷静に話す方が効果的だと考えていた。

 「そ、それは……」

 案の定、伊藤の言葉が詰まった。島田は、チャンスとばかりに更に追い討ちを掛けた。

 「今、俺を殺す気か、と言いましたよね。何故、殺されると思うんですか?院長、あなた、知ってたんじゃないですか?最初から、この事を」

 今矢は何も言わず、ただ、伊藤を見ていた。伊藤は島田を睨み付けると、無言のまま、自分で再び鏡を拭き出した。

 「院長。たとえ、名前を書かれても、十一時ちょうどでなきゃ、大丈夫なんです。それに左右対称の漢字でないと殺される事はありません」

 必死に鏡を拭く伊藤に、亜美は静かに告げた。すると、伊藤は益々険しい顔になり、今度は亜美を睨んだ。

 「そこまで知っているなら、どうして、旧姓で書くんだ!」

 「えっ、旧姓?」

 島田は気付いた。『そうか!院長の旧姓は井山!井山基夫!これも左右対称の漢字で構成されている!』咄嗟に、マズイ!と感じた島田は、亜美を振り向いた。

 「どうして旧姓で書いたの?」

 「島田先生!だから、私じゃありませんって!私はちゃんと『伊藤基夫』って赤い口紅で……」

 亜美はそう言うと、自分の眼で確認する為、鏡の前に走った。

 「う、うそ……どうして?誰が?……」

 鏡には、赤い口紅で今矢の名前だけがあり、その横には赤い油性マジックで伊藤の旧姓『井山基夫』とはっきりと書かれていた。亜美には、訳が分からなくなった。

 「私が書き直したのよ。十一時ちょうどにね!」

 沈黙を続けていた今矢が、突然、口を開いて床に赤いマジックを放り投げた。

 「えっ!ど、どうして、今矢婦長が……」

 亜美は驚いた。しかし、もっと、驚いていたのが伊藤だった。

 「今矢……お前……一体どういうつもりだ!」

 伊藤は拳を握り締めた。その全身は怒りで震えていた。

 「院長。もう、終わりなんです。この二人は気付き始めてますよ」

 今矢は静かに言うと亜美を見て微笑んだ。この緊迫した会話の中で、微笑んだ今矢は、不気味な存在というしかなかった。

 「お前、俺を裏切るのか!あれほど待遇を良くしてやってるのに、何が不満なんだ!」

 伊藤は急に今矢に飛び付くと、その首を絞め始めた。島田は慌てて、二人の間に割って入り、伊藤を突き離した。伊藤はヨロヨロと後ろに歩き、尻餅をついた。今矢は呼吸を荒くし、首を擦って、

 「あなたは一度たりとも土田さんを思い出そうとしなかった。むしろ、その存在すら消そうとしてた!私はそれが許せなかった!」

 突然感情を剥き出しにした。

 「じゃあ、やはり、土田さんと院長は……」

 亜美が今矢に確認すると、今矢はソッと頷き、ポケットに手を入れた。

 「これに、院長との関係が書かれてあるわ。あなたたち、これが見たかったんじゃないの?」

 そう言って、赤い小さな手帳を亜美に手渡した。

 「あっ、これって、もしかして……」

 亜美が眼を丸くして、島田を見ると、

 「土田の日記帳だ!間違いない!」

 島田は力強く頷いた。その手帳を眼にすると伊藤は突然、立ち上がり、

 「今矢!お前、あの時、処分したんじゃなかったのか!何処に隠し持ってたんだ?」

 目を吊り上がらせていた。

 「院長室よ。私が、ソッと院長室に隠して置いたのよ。少しでも土田さんが、あなたと一緒にいられるようにね!」

 今矢は少しニヤッとすると伊藤を指差した。伊藤の頬がヒクヒクと痙攣したように動いていた。

 「院長室……って事は、もしや!」

 亜美は直ぐにビデオの事を思い出した。

 「そう。今井さんも見たでしょ?土田さんが何かを探しているのを。あれは、この手帳を探していたのよ」

 今矢は、亜美には優しく話し掛けた。

 「もしかして、御札を剥がしたのも」

 島田は、御札を剥がした人物を特定したかった。思った通り、今矢は頷いた。

 「でも、どうしてそんな事を」

 亜美の疑問は島田にも分かった。

 「あなたたちに気付いて貰う為よ。御札を剥がせば土田さんがここを出て院長室に行く事は分かってた。そうする事で院長と土田さんの関係を示唆できる、そして、私との関連もね」

 事実上、自白しているのだと、島田は思った。亜美はもう一度、ビデオの映像を思い出していた。『そう言えば、確か、今矢婦長は院長室に入った時、既にポケットに手を……』

 「じゃあ、あの御札は、わざと私に見せる為、持っていた物!」

 亜美が確認すると、今矢は伊藤を見詰めたまま頷いた。

 「今矢婦長。あなた、もしかして、今井君に全てを……」

 島田は、今矢の不可解な言動の謎が解けた気がした。

 「そう!私は今井さんにヒントを与え続けたわ。そして、あなたたちは、見事、期待通り、私たちを追い詰めた」

 伊藤を見る、今矢の眼は憎しみに満ち溢れていた。

 「今井君を敢えてクビにしなかったのも、今日の院長の予定を教えたのも……」

 「その通りよ。あなたたちが土田さんの事に辿り着いたからよ。私は期待したわ。あなたたちなら、きっと真相に気付いてくれるって。そして、最大のチャンスを与えたの」

 今矢は淡々と答えた。

 「最大のチャンス?」

 島田はその言葉の意味を考えた。そして、ハッとした。『そうか!今矢婦長は最初から、僕たちの今日の行動を読んでたんだ!』床に転がったマジックを見ながら、全てが今矢の計算の上に成り立っていた事に驚きを隠せなかった。

亜美は、島田とは違う、言葉の意味を考えていた。『期待』とはどういう意味なのか?何故、こんなまわりくどい事をするのか?今の亜美には分からなかった。今矢は尚も話を続けた。

 「私に出せるヒントはもう無かったわ。当然、あれだけでは不十分な事も分かってた。だから教えたのよ。そうすれば、きっと、何らかの行動を取るんじゃないかって。思った通りだったわ」

 今矢はチラッと鏡を見た。

 「という事は、やはり、あなたたち二人が土田さんを殺したんですね」

 島田が念を押すと、今矢は、急に島田を振り返り、

 「違う!違うわ!私は土田さんを殺してなんかいない!私に土田さんを殺せる訳はない!殺したのは、あの男よ!」

 身を震わせ、もう一度、伊藤を指差した。

伊藤は明らかに動揺している様子だった。

 「な、何をバカな事を!オイ、島田、今矢は気が触れた!直ぐに入院させろ!私は忙しいんだ!こんな戯言に付き合ってられない!」

 伊藤が、その場から逃げるように足早に立ち去ろうとしたのを、亜美は両手を広げて遮った。

 「何処に行くんですか、院長!今矢婦長は自白したんですよ!それに、この手帳もある!もう、何処にも逃げられませんよ!」

 亜美は毅然とした態度で言い切った。伊藤は亜美を睨んだまま、歯ぎしりをした。

 「じゃあ、今矢婦長、あなたは一体何をしたんですか?」

 島田は真相が知りたかった。一瞬、今矢は眼を伏せた。

 「私は……私は、土田さんの死体を……埋めるのを手伝ったんです」

 力無く呟いた今矢の声は、震えていた。

 「ど、何処に!何処に埋めたんですか!」

 死体を発見すれば、事件として立件出来る!真実に辿り着く!亜美は意気込んだ。今矢は何も言わず、ただ、ソッと鏡を見詰めた。その視線の先に、島田も亜美も息を飲んだ。

 「もしかして……鏡の裏……」

 亜美が確認するとソッと頷いた。

 「今矢!お前、自分が何をやってるのか分かっているのか!ええ!お前……」

 伊藤は、そう怒声を上げると、急に力尽きたように背中を壁に押し着け、そのまま滑りながら座り込んだ。

 「バカヤロウ……もう、終わりだ……」

 伊藤は頭を抱え、呟いていた。伊藤の呟きは、事実上、自白と同じだと島田は思った。ただ、動機がはっきりとしなかった。島田は、その事を今矢に聞いた。今矢はゆっくりと語り始めた。

 「その日記を読めば分かる事だけど、井山と土田さんは付き合っていたの。その仲を取り持ったのが私よ」

 「ええ?今矢婦長が!」

 亜美は驚くと、持っている土田の日記帳を開き、読み始めた。確かに、今矢の名前が日記帳に頻繁に書かれていた。

 「二人はお似合いのカップルだと思ったわ。土田さんは素直で美人だし、井山は、当時、既に大学病院で一、二を争う程の外科医だったわ。私も陰ながら応援していたのよ」

 今矢は、当時の二人の様子を思い出したのか、フッと微笑んだ。

 「じゃあ、何故、院長は土田さんを?」

 島田が尋ねると、今矢の顔から笑顔が消えた。

 「伊藤先生の娘の冬子さんと結婚するのに、土田さんが邪魔になったのよ!金に眼が眩んだのよ!よくある事よ!」

 「えっ?結婚?金?」

 島田と亜美は、すぐに伊藤を振り向いた。諦めた伊藤はタバコを一本取り出すと、おもむろに火を点けた。そして、ゆっくりと立ち上がると嘲笑するような眼で今矢を見た。

 「お前だって知ってたくせに、今更、善人面するな」

 伊藤は吐き捨てるように言った。

 「ち、違うわ!私は知ってた訳じゃない!私だって……私だって悩んだのよ!」

 島田と亜美には話が見えてこなかった。

 「どういう事ですか?」

 島田は今矢に説明を求めた。

 「突然、伊藤先生に呼ばれて、冬子さんと井山先生を結婚させると言われたのよ。伊藤病院開院を決めた直後だったわ」

 今矢の眼は落ち着きなく、左右に動いていた。亜美は、当時の今矢の困惑ぶりが分かる気がした。

 「土田さんと井山は上手くいってた。私が仲を取り持ったにも拘らず、今度は私が、その仲を壊さなければならなかった」

 今矢は悔しそうに壁を一回叩いた。

 「土田さんは幸せそうだった。それを見ると心が痛んだわ。でも、どうにかしなければと思ったの。幸い、土田さんと井山の事を知っているのは私だけだった」

 伊藤は煙草をふかしながら、時折、鼻を触って、ニヤニヤしていた。

 「何とか密かに事を進めたかった。でも、問題があったのよ。その日記よ」

 今矢は亜美が持っている手帳を指差した。

 「土田さんは日記を書く癖があったの。それとなく、院内で書くのは止めるように言ったけど、でも、ダメだった。もし、誰かに覗き見られたら、井山との事が明らかになる」

 今矢は手帳を悲しそうに見詰めながら話を続けた。

 「だから、院内で見られても、直ぐに内容が分からないよう、ローマ字で書く事を勧めたのよ」

 『そうだったんだ!今矢婦長がローマ字で書かせたんだ!』亜美は謎が解けると、一枚一枚ページをめくって見た。日記の途中からローマ字で書かれた内容は、確かに読み難くて一見したところでは何が書いてあるのか分からなかった。

 「結局、土田さんは院長と別れる事を決意したんですか?」

 島田の質問を耳で聞きながら、亜美は読み難い日記を一ページずつ丁寧に読み続けていた。

 「いえ。私は土田さんに、井山と別れるように言えなかった。だって、幸せそうな顔をしていたんですもの。だから、今度は、この男に話したのよ」

 今矢は険しい表情で伊藤を指差した。しかし、伊藤は、もはや一向に動じる様子も無く、ふてくされたように煙草をふかしていた。

 「で、院長は、どう?」

 島田は、この冷酷な伊藤が、当時、どう反応したのか気になった。

 「この男はアッサリと承諾したわ!正直、何と冷たい男だと思ったわ!」

 亜美は、日記から眼を放すと、伊藤を見詰めた。

 「何故ですか?院長は土田さんを愛していなかったんですか?」

 女性の亜美には、男性の伊藤の考えが分からなかった。すると、今矢は、更に語気を荒げて、

 「この男は、土田さんよりも金と名誉を選んだのよ!この男は鬼よ!」

 将に飛び掛らん勢いで叫んだ。伊藤は壁に凭れたまま笑い出した。煙草を床に落すと足で踏み消し、また、鼻を触った。

 「人を鬼呼ばわりしたが、今矢、お前はどうなんだよ。お前だって、由美を埋めるのを手伝ったじゃないか!綺麗事を言っても、お前も俺と同じなんだよ!」

 伊藤が、ふてぶてしく言うと、今矢は反論せず、ただ、唇を噛んだ。

 「幸せそうな由美に言えなかっただと!ふざけるな!お前は単に、伊藤部長の言いなりになってただけじゃないか!」

 「言いなり?」

 『そうだ!何故、今矢婦長は、こうも前院長の意見を聞くのか?理不尽と知りながら、どうして、それに従おうとしたのか?』亜美が不思議に考えていると、伊藤が、その答えを出した。

 「何と言っても、お前は伊藤部長の愛人だったからな!俺と由美の愛より、お前は伊藤との愛を選んだに過ぎないんだよ!伊藤に嫌われないよう、自分の為に行動していたんだよ!」

 伊藤の言葉に今矢は思わず泣き伏した。

 「お前に何が分かってたんだ!俺の気持ちも知らずに好き勝手言いやがって!」

 伊藤は激しく歯ぎしりをした。全身が微かに震えていた。

 「俺は誰より由美を愛していたんだよ!」

 島田にとって意外な言葉だった。今矢の言う通り、伊藤と言う男は金と名誉の為なら、どんな事でもする男だと思っていたからだ。当然、亜美も唖然としていた。

 「じゃ、じゃあ、何故、土田さんを……」

 亜美には、伊藤という男が分からなくなって来た。

 「今矢、今から面白い話を聞かせてやろう!お前たちも良く聞いて置け!」

 伊藤はそう前置きをすると、鼻を触った。

 「俺は、あの男に復讐を考えていたんだよ!ずっとな!」

 「復讐?何故、あなたが前院長に復讐を?」

 島田の問い掛けに、伊藤は無気味に笑った。今矢は眼を真っ赤にしたまま伊藤を見詰めていた。

 「奴は俺の母親を見殺しにしたからさ!」

 アッサリと言い切った。

 「そ、そんな事無い!伊藤先生はあなたのお母さんの治療をし、入院費を出し、そして、あなたの学費も負担してたじゃない!」

 伊藤は呆れた顔をした。

 「お前、愛人のくせに、奴の素顔を知らなかったのか?奴こそ、金と名誉の為なら何でもする男だ!確かに、お前の言う通り、俺も長い間奴を命の恩人だと思っていたよ」

 伊藤は妙に落ち着いていた。それが、亜美には一層不気味に感じられた。

 「だが、俺は見てしまったんだよ」

 「な、何を……見たんですか?」

 亜美は伊藤の言葉に言い知れぬ恐怖を感じた。

 「母親のカルテだよ。あれを見た時から、俺は奴を許せなくなった!」

 「な、何を言うの!私だってカルテを見たわ!あの内容だと、伊藤先生の取った事は」

 「違う!」

 伊藤は突然大声を上げた。島田も亜美もその声の大きさに一瞬、ビクッとした。

 「お前が見たカルテはオリジナルじゃない!改ざんされた物だ!オリジナルは部長室の引出しの下に隠してあったんだ!」

 「う、うそ……そ、それは、どういう……」

 今矢は呆然とした。信じていた物が土台から崩れ始めて行くようだった。

 「……改ざん……って、事は、院長のお母さんは……」

 島田には信じられなかった。医師としてあってならない事。もし、それが本当であるとするなら。島田は頭を振った。

 「そうだ。奴に殺されたんだよ。偽のカルテには色々治療した事になっているが、本当は何もしていなかった。いわば、ほったらかしにされたんだ!見殺しだ!」

 伊藤は肩で息をしていた。

 「ど、どうして、院長のお母さんを」

 亜美も、島田同様、信じられなかった。医者ともあろう者が人を殺さなければならなかった理由が分からなかった。

 「単純な事だ。治療費がかかるからさ。奴にとって金を払う事は死にも匹敵する事だったんだ。ただ、それだけの事さ」

 伊藤は、無理矢理、自分を落ち着かせようとしているのか、また、タバコを一本取出した。しかし、手が震えて、上手く火を点けられないでいた。

 「も、もし、それが本当だとしたら、気の毒には思いますが、だからって、関係の無い土田さんを殺す理由には、ならないじゃないですか」

 亜美は、同情する面はあるが、それと、土田殺害とは関係の無いものだと考えざるを得なかった。むしろ、繋がる理由が理解出来なかった。

 「さっきも言っただろ。私はずっとチャンスを狙っていたんだ。そんな時、今矢が冬子との縁談を持ち掛けて来た。これぞ、千載一遇のチャンスだと思った」

 伊藤は、ようやく火の点いた煙草を震える手で持ちながら、あたかも、平静を装うようにふかしていた。

 「奴が死ぬほど嫌がる事、つまり財産を俺が奪い取ろうと考えたんだ。だから、俺は奴の娘の冬子と結婚した」

 「だから、土田さんを捨てたんですね。だから、邪魔になって殺したんですね!」

 亜美が詰寄ると、

 「違う!俺は由美を捨ててなんかいない!俺は……俺は、誰よりも由美を大切に思っていたんだ!」

 伊藤は髪を振り乱し、壁に額をつけると、何度も叩いた。今までに見た事もない、伊藤の感情の乱れに、島田は更に奥深い何かを感じた。

 「初めから殺す気なんてなかった。ただ、由美を遠ざけたかっただけなんだ。個人的な私怨に巻き込みたくなかった。でも、分かっては貰えなかった」

 振り向いた伊藤の眼は真っ赤になっていた。島田も亜美も、そして、今矢までもが、その眼を見て何も言えなくなっていた。伊藤はまるで、訴え掛けるように話を続けた。

 「由美は、もし結婚出来ないなら、俺との関係を伊藤にばらすと言って来た。そうなると、俺はチャンスを失ってしまう。自分でも良く分からないが、気が付くと、いつしか、この手で由美の首を……」

 煙草を手からポロッと落すと、両手を見詰めて震えていた。暫く、亜美たちには聞こえないほどの小さな声で独り言を言い続けていた。

 「その直後に私が呼ばれたの」

 今矢がおもむろに立ち上がって口を開いた。島田と亜美は、今矢の言葉に耳を傾けた。

 「夜遅く、この地下に来たの。当時、ここは改装中で、あちこちに工事の跡が残ってたわ。しかも、ここは地下。上より壁が厚い構造になってたの」

 「だから、壁に埋めたんですか」

 島田はソッと尋ねた。今矢は力無く頷いた。

 「そう。私たちは壁に穴を掘り、死体を入れセメントを塗ったわ。ただ、幾ら工事中でも、ここだけセメントが塗ってあればおかしいからと井山は別の部屋に取り付けるつもりの、この大きな鏡を取り付けたの。隠す為に」

今矢はゆっくりと鏡に近付いた。

「そして、埋め終わった時刻は、午後十一時。噂で伝えられてる時間よ」

 島田は亜美を見ると頷いた。亜美は、ハッとして急いで日記をめくってみた。『やっぱりだ!』

 「今矢婦長。この噂を最初に作ったのは今矢婦長だったんですね」

 亜美の言葉に島田は驚いた。亜美は、島田にページを開けたままソッと日記を見せた。

そこには、ローマ字で縦に、

   MOU AIHA IYA!

 と、書かれていた。

 「『もう愛は嫌!』これは……しかも、これも左右対称の文字で出来てる!」

 島田の日記を持つ手が震えた。

 「ほら!島田先生。大学病院で立花さんが言ってた、土田さんが呟いたという言葉ですよ。日記に書いていたんですよ!今矢婦長は、それを知ってて鏡に書いたんですよ」

 「今井さんの言う通りよ。そして、その日記には『自分の名前も井山の名前も左右対称の文字で出来ている、これは偶然ではない。この文字のように、折り重なっても永遠に二人でいたい』そう書いてあるわ」

 今矢はそう言うと、ソッと鏡を撫でた。

 「私は謎をかけたのよ。噂を通して。井山に土田さんの事を、自分がした事を忘れないで欲しいって。でも、この男は土田さんの事を忘れようとした!その日記を私に処分しろと言った時、それがハッキリしたわ!」

 今矢は鏡に反射した伊藤の顔を睨んだ。

 「なるほど、お前が最初に噂を流したのか!くだらない事をしたな!」

 伊藤はいつの間にか立ち直っていた。また、ふてぶてしい口調になっていた。

 「くだらないって、どういう事!」

 今矢は、伊藤の言葉に激昂した。今矢は鏡から眼を離し、直接、伊藤を睨んだ。伊藤は逆に笑い出した。

 「だって、そうだろ!お前の作ったくだらない噂のせいで、関係の無い人間が三人も死んだんだぜ!それは、どう考えるんだよ!」

 「そ、それは……ま、まさか、本当に死ぬなんて……」

 今矢は言葉を詰まらせると、思わず泣き出した。噂話を作った事を後悔しているようだった。亜美は、ずっと感じていた疑問があった。

 「今矢婦長。そんなに院長が憎いなら、どうして警察に行かなかったんですか?自分も逮捕されるのが怖かったんですか?」

 島田も同感だった。何故、今矢はそこまで、遠まわしに悟らせようとしたのか?島田にも分からなかった。しかし、その答えは伊藤が知っていた。

 「そんな事できる訳無いよな。だって、この伊藤病院は、お前の愛した、伊藤部長が建てた病院だからな。もし、俺が逮捕なんてなると、この病院は終わりだからな!」

 伊藤は笑い続けた。

 「だから、お前は俺に協力したんだ!この病院を守る為に。愚かな事だ。俺もお前も、奴に利用されていただけなのに!それに気付かないとはな」

 「そんな事無い!私は、私は利用なんて……私は、心から……」

 今矢は泣きながら否定した。

 「俺の言う事を信じる、信じないは、おまえの自由だ。だが、奴は悪い人間だったんだ。これは事実だ!奴は死んで当然の人間だったんだよ!」

 伊藤は突然、笑う事を止めると、忽ち、目を剥いて険しい顔した。今矢は、伊藤の表情の変化を見て、ふと、ある事が頭を過ぎった。

 「死んで当然……も、もしかして、あなた!」

 何を考えたか、今矢は急に伊藤に飛び掛った。急いで、島田は今矢を押えた。

 「今矢婦長!どうしたんですか!」

 「この男!この男、伊藤先生を殺した!」

 島田の腕の中で、まだ暴れていた。

 「ええ!ま、まさか、前院長まで、その手に……」

 亜美は信じられなかった。一人殺害するだけでも恐ろしい事なのに、更に、もう一人殺害するなんて考えられない事だった。しかし、伊藤は何の反論もしなかった。むしろ、今矢の態度を見てニヤニヤしていた。

 「ようやく分かったか。俺は待ち切れなかった。そんな時、奴の癌が分かった。大した事は無かったが、敢えて、末期だと告げた。偽のレントゲンを見せて信用させて、な!」

 伊藤は狭い廊下をワザとゆっくりと行ったり来たりし始めた。

 「勿論、殺す事に躊躇いはあった。だが、事もあろうに、あいつは俺に、金は幾ら掛かっても良いから最善の治療をしてくれと頼んできやがった!」

 ピタリと止まると、それぞれの顔を見詰めて言った。

 「どう思う?俺の母親の時は金が勿体無いからと見殺したくせに、自分の時には最善の医療だと!ふざけるな!その日の内に抗癌剤だと偽って筋弛緩剤を投入してやったよ!」

 伊藤は楽しそうに笑った。その態度に後悔など微塵も感じなかった。

 「この人殺し!」

 今矢は叫ぶと、再び、暴れようとした。

 「何とでも言え!お前のせいで三人もの人間が死んでいる事も忘れるな!」

 伊藤は不気味な笑みを浮かべた。

 「じゃあ、あの保管してあるカルテは!」

 今矢は悔しそうに叫んだ。

 「そう!あれは改ざんされた物だ!奴と同じ事をしたのさ!だが、俺は奴のようにヘマはしない!オリジナルはとっくに処分済みだ!つまり何の証拠も残っていない!」

 今矢は力が抜けたように膝を着けた。

 「あなたは気付いていないんですか?復讐を終えたあなたも、前院長のように金に執着しているんですよ!あなた自身が、悪い奴と言った人間と同じ事をしているんですよ!」

 島田が伊藤を責めると、伊藤の表情がサッと変わった。

 「だから、何だ!俺は由美を失ってから心に穴が開いていたんだ!その穴を埋める物が金だった。俺は金儲けに走る事で心の穴を埋めていたんだよ」

 「あなたは間違っている!あなたは経営者である前に医者なんだ!第一に考えるのは利益ではなく、命の筈だ!」

 島田の言葉を、伊藤は一笑にふした。

 「甘い事を言うな、島田。おまえは医者が万能だと考えているのか。おまえを見てると、昔の俺を見ているようで恥ずかしくなるよ。もっと現実を知れ」

 島田は、あまりの価値観の違いに我慢が出来なくなって声を荒げた。珍しく感情を露わにした。

 「命は金なんかで買えないんだ!あなたはそんな事も分からなくなったのか!あなたの、その優れた技術は金儲けの道具なのか!」

 島田は全身をブルブルと震わせていた。そんな島田を見て、亜美は心配になり、落ち着いて貰う為、ソッと島田の腕を掴んだ。

島田は感情的になった自分に気付き大きく深呼吸を一度すると、亜美に頷いて見せた。

 「確かにお前の言う通り、命は金では買えない。しかし、寿命は金で買えるんだよ。金さえあれば、最高の医療が受けられる。世の中、金なんだよ!生きるも死ぬも金次第なんだよ!」

 言い切った伊藤に、島田は、もう話す気も無くなった。島田は、ただ、ひたすら、違うと首を振っていた。

 「あなたは人間じゃない!金の亡者よ!あなたなんかに協力した私がバカだった!あなたこそ、そのまま地獄へ落ちればいいのよ!」

 今矢が罵声を浴びせても、伊藤は一向に気にしなかった。

 「金の亡者か。今の俺には最高の褒め言葉だな。だが、おまえたちは本当の、金の亡者の事を忘れているな。その亡者を見せてやろう」

 伊藤はそう言うと、嬉しそうに鏡の前に立った。皆、一体何をするのかと、伊藤を見詰めた。

 「オイ、出て来い!姿を現せてみろ!お前の今矢もここにいるぞ!どうした!」

 伊藤は急に、鏡に話し掛け始めた。

 「な、何をしてるんですか?」

 亜美は、伊藤の行為が分からず、てっきり精神に異常をきたしたと思い込んだ。

伊藤は尚も鏡に話し続けていた。すると、島田が突然、鏡を指差し、声を上げた。

 「う、うわっ!な、何か、映って来た!」

 その声に、亜美も今矢もビクッとして鏡を見詰めた。鏡には白い影のような物が、段々と浮き上がってきていた。

 「な、何?何が映るの?」

 亜美はうろたえた。『ま、まさか、土田さんの幽霊?』亜美は思わず、島田の腕にしがみ付いた。

 「今矢!もっと、こっちに来て見ろ!」

 伊藤は、呆然としている今矢の腕を強引に引っ張って、鏡の前に立たせた。次の瞬間、今矢は声を失い、涙を流した。亜美にも、島田にも今矢が何故泣くのか、分からなかった。

 「ま、まさか……先生……伊藤先生!」

 今矢が目を丸くして叫んだ途端、島田と亜美は自分達の眼を疑った。確かに、その鏡には、ここにいる四人の誰でもない無表情の人物が映っていた。今矢は、愛しさのあまり鏡を丁寧に何度も撫でていた。

 「そ、そんな、バカな!前院長は殺された筈じゃあ……」

 島田は、信じられないというように何度も首を振った。伊藤は満足そうに島田を見ていた。

 「どうだ、島田。医学の世界では無いとされた魂を見た感想は!金の事も含め、お前は現実を知らな過ぎるんだ!」

 島田は、まだ鏡を見詰めていた。島田自身、確かに、土田の幽霊を見た気がしたが、それは、単なる人型の白いモヤに過ぎなかった。 しかし、今、この眼で見ている物は、明らかに人その物の形をしている。顔の表情すら読み取れる。『これが魂……これが、霊の姿という物なのか……』島田の中に、驚きと恐怖が混在していた。そんな島田に、伊藤は更に話し掛けた。

 「確かに、俺も、最初見た時は怖くて仕方がなかった。こいつは俺を呪い殺そうとしていると思った。正直、自分の罪の意識に苛まれた事もあったよ」

 亜美は、伊藤の言葉に納得すると同時に疑問を持った。伊藤の言う通り、こんな物が現れたら怖くて仕方がないのは当然だ。しかし、今の伊藤の様子はどう見ても恐れているようには見えない。それどころか、逆に上手く共存しているようにすら見えた。『何故、前院長は伊藤院長を恨まないのかしら?』亜美には、それが不思議でならなかった。

 「だが、不思議とこいつは俺を恨まなかった。その内、俺も慣れて来たんだ。たまに、鏡にボーっと姿を現すだけで、何もしなかった」

 淡々と話す伊藤を亜美はジッと見ていた。

 「こいつを殺して院長に就任したものの、俺には病院経営がよく分からなかった。俺も医療しか知らなかったからな。そんな時、頭の中に聞き覚えのある声が響いた。こいつの声だった」

 「伊藤先生の……声?」

 今矢は、サッと伊藤を振り返った。

 「そうだ。驚く事に、こいつは死んでも、まだ経営に携わろうとしていたんだ。まだ、金儲けを企んでやがったんだ。俺の身体を使ってな!大した奴だよ!」

 伊藤は嬉しそうに、鏡の人物に言った。鏡の中の、伊藤の表情は、何を言われても変わらなかった。依然、無表情だった。

 「も、もしかして、前院長が、経営指示を……」

 亜美は、そんな事があり得るのかと驚くばかりだった。伊藤は亜美に頷いた。

 「その通りだ!何も知らなかった俺は、奴の指示に従ってみた。すると、どうだ!奴には先が読めるんだ。経営は順調に行き、俺の周りに金が集まりだした。俺は金の魅力に取り付かれた!」

 島田は伊藤を理解しようと考えなかった。『金こそ全て』そんな考え方は許せなかった。

 「院長!あなたはやはり間違っている!あなたがすべき事は金儲けではなく、人として罪を償う事だ!」

 「まだ分からんのか、島田!今のお前は、昔の俺とそっくりだ。だからこそ言うんだ。時間が確実にお前を変えてくれる!いや!俺が直ぐにでも、お前を変えてやるよ!」

 伊藤は、そう言うと笑い始めた。

 「僕は絶対、お前のようにはならない!」

 島田は呟くと唇を強く噛み締めた。

 「『憎まれっ子、世に憚る』と言うだろう?本当の事だ。こいつの場合、死して尚も生き続けようとしている。こう考えると、悪い奴の魂ほど消滅しない物だな!」

 伊藤の悪びれた態度に、島田は我慢の限界を感じた。

 「おまえという奴は!」

 島田は、突然そう叫ぶと伊藤に飛び掛かり、胸座を掴んだ。

 「な、何をする!し、島田!お、俺を殺す気か!」

 亜美が必死に島田を押えようとした。

 「し、島田先生!そんな事したら、先生も院長と同じじゃないですか!」

 「違う!僕は……僕はこいつを許せない!だから、警察に突き出すんだ!証拠は全て揃っている!」

 そう言いながらも、島田は力を緩めなかった。

 「く、苦しい……は、離せ……」

 伊藤は島田の手を振り解こうと必死だった。

 「島田先生、やめて。手を放してあげて!」

 今矢も制止した。仕方なく、島田は伊藤を突き放した。

 「院長を、いや、井山を警察なんかに渡さないわ」

 今矢の発言に、島田も亜美も眼を丸くした。伊藤はゼイゼイ言いながら、服装を直していた。

 「な、何を言うんですか、今矢婦長!これは、あなたが望んだ事じゃありませんか」

 島田には、今矢の真意が分からなかった。

 「私が望んだのは、こんな形じゃありません。私が望んだのは……」

 今矢は、ソッと鏡の正面に立った。亜美も、つられて鏡を見てみた。

 「あっ!先生!島田先生!あれ!」

 亜美は驚いて鏡を指差した。

 「あっ!あれは、この間見た時計じゃないか!」

 鏡に映った時計は十一時を差していた。『という事は……本当の時刻は……』

 「一時だ!」

 島田が叫ぶと同時に、エレベーターの方から『バーン』という激しい音がした。島田も亜美も、その音にビクッとした。

 「な、何?い、今の音?」

 亜美は島田にしがみ付いた。

 「と、扉の開いた音……みたいだな……」

 島田の体の震えが亜美にも伝わった。

『ペタッ、ペタッ』まるで素足で床を歩くような嫌な音も聞こえて来た。その足音は、間違いなく、こちらに向かっていた。亜美は息を飲んだ。そんな時、『亜美!早く逃げて!』頭の中に声がした。その声にハッとした。

 「ま、真美……真美なの!」

 亜美は周りを見回した。

 「ど、どうしたんだ、今井君。林君がどうした?」

 「今、真美の声が……」

 「えっ?林君の声?そ、それで、林君は何と言った?」

 「早く逃げろって言いました!」

 島田は少し考えると、直ぐに、

 「皆逃げろ!ここから出るんだ!」

 そう言うと、亜美の手を引き、走り出した。島田にしてみれば、今矢も伊藤も白状した今、無理に、恐怖を体験する必要もないと考えた。伊藤も、一緒になって後ろから走って来た。

 「院長!あなたは逃げられないわ!」

 今矢の声が後ろから響いた。今矢は鏡の所でジッと立って、こちらを見ていた。その声に、一瞬、三人は足を止めた。ふと気が付くと、さっきの嫌な足音が、すぐ傍まで迫って来ていた。

 「せ、先生……」

 行く手を遮られたような気がして亜美の手に力が入った。じわりと汗が染み出した。やがて、白い壁に微かに黒い影が映った。明らかに人の形をした影だった。

 「だ、誰だ!」

 伊藤が尋ねても返事はなく、ただ、足音だけが、さっきより大きくなって来た。三人は後退りを始めた。島田と亜美の呼吸が荒くなって来た。すると、曲がり角から、突然、足音の主がヌッと姿を現した。それを見た途端、島田の顔色が変わり、

 「た、高、高橋……さん……」

 声を震わせて呟くと、続いて全身をガタガタ震わせ始めた。

 「し、島田!誰だ!こいつは?」

 伊藤にしてみれば、単なる患者にしか見えていなかった。

 「だ、誰、誰なんですか?この人?」

 しかし、亜美には、島田の様子から、普通の患者とは違う事が直ぐに分かり、声を震わせて尋ねた。

 「今朝、君に話した人だ……」

 「け、今朝って、私……」

 その男は、無表情のまま、フラフラと二人に近付いて来た。まるで、夢遊病患者のようだった。

島田と亜美は、間合いを取りながら、後ろへとさがった。

 「何の話をしているんだ、おまえたちは?」

 伊藤の問い掛けも、今の島田には届かなかった。

 「は、話したじゃないか!今朝方、死亡した患者の事を!あ、あの人だよ!」

 「ええ!ま、まさか、その人が!」

 亜美は、前からゆっくりと来る男と島田の顔を交互に見て、足がもつれそうになりながらも、尚、後ろへとさがった。伊藤は意味も分からないまま、同じように後ろにさがっていた。

 「じゃ、じゃあ、この人、霊安室から……さ、さっきの扉の音は……霊安室の扉が開く音?」

 亜美の顔が蒼白になった。

 「な、何!死体だと!」

 それを聞くと、伊藤は自分の意思で後ろへさがった。結局、三人は、鏡の所まで押し戻された形になった。

 「院長!あなたは絶対、逃がさないわよ!」

 今矢は気味の悪い笑みを浮かべて伊藤を見詰めた。伊藤は、悔しそうに歯ぎしりをしていた。

男は、まるで、全員を逃がさないよう、狭い廊下の真ん中に立ち塞がるようにして止まった。

 「し、島田先生……私たち、どうなるんでしょう?」

 亜美は震える足で、不安を漏らした。

 「わ、分からない……で、でも、高橋さんは、僕を恨んでいる……苦しんでいたから……だ、だから……」

 島田は、そう答えると、突然、

 「分かってくれ!ぼ、僕は精一杯やったんだ!で、でも、あなたを救えなかった……楽にすることが出来なかった……許してくれ!」

 必死で、男に訴え掛けた。しかし、男の表情は全く変わらなかった。ただ、ジッと立ち止まっているだけだった。

 「うわーっ!」

 今度は、後ろから伊藤の叫び声がした。ビックリして亜美が振り返ると、伊藤が怯えたように鏡を指差していた。島田と亜美はゆっくりと恐る恐る顔を鏡に向けた。

 「う、うわ!で、出て来てる!」

 鏡から、腕が二本突き出ていた。前院長の伊藤の腕だった。さすがに、今矢も何も言えず、ただ、呆然と、眼を丸くしながら見ているだけだった。

 「お、お前……出て来れるのか……」

 伊藤の顔が恐怖で歪んだ。前院長である伊藤の体が、徐々に鏡から抜け出て来た。その顔には表情があった。眼は憎しみに満ちていた。そして、その眼が伊藤を捕らえると、両手を伸ばしたまま、ゆっくりと伊藤に向かって近付いた。

 「く、来るな!来るな!」

 伊藤は手を振り回し、必死に抵抗を始めた。尚も伊藤の霊が近付くと、伊藤は奥に走ろうと背中を向けた。その瞬間、伊藤の霊が素早く、伊藤を後ろから羽交い絞めにした。その動きの速さに、島田も亜美も、

 「ひっ!」

 声とも悲鳴ともつかない声を上げてしまった。

 「や、やめろ!やめてくれ!お、俺が悪かった!」

 伊藤は何とか逃れようと暴れていた。

 「フッ、フフフ!」

 突然、低い笑い声が聞こえて来た。今矢の声だった。

 「そうよ!伊藤先生!その男に復讐をして下さい!その男は、あなたの大切な病院をダメにする人間です!あなたを殺した人間です!」

 半狂乱のようになって、笑いながら叫んだ。明らかに精神に異常をきたしていた。島田も亜美も、その光景を見ても、どうする事も出来なくなっていた。あまりの恐怖で自分たち自身の体が硬直し、動かなくなっていたのだ。

 「井山先生。やっと、来て下さったんですね。ずっと、待ってたんですよ。ずっと、ね!この冷たい場所で」

 何処からともなく、聞き覚えのない、か細い女性の声が聞こえた。島田と亜美は、その声の主を探した。二人には分からない声の主も、伊藤と今矢には直ぐに分かったようにビクッとしていた。その声を聞くと、今矢は、嬉しそうに鏡の前に立った。

 「そうよ!あなたの井山先生よ!やっと、来て下さったのよ!」

 今矢が優しく語りかけると、やがて、鏡にボーっと白い影が浮き出て来た。そして、直ぐに、その白い影が一人の女性の姿に変わった。その女性は白い看護服を着ていた。

 「も、もしかして、この人が、土田……由美……さん?」

 亜美が、鏡を見詰めたまま、島田に尋ねると、

 「た、たぶん」

 島田はたった一言、答えただけだった。

 「……由美……。ゆ、許してくれ!お、俺は、お前を殺す気なんてなかったんだ!」

 伊藤は、伊藤の霊に羽交い絞めにされながら必死に許しを乞うた。

 「さあ、出て来て抱き締めて貰いなさい!冷えた身体を温めて貰いなさい!」

 今矢は、再び、鏡に語りかけた。土田の眼が一瞬、今矢を捕らえた。すると、突然、鏡から二本の腕がニュッと伸びて、今矢の首を掴んだ。

 「ひっ!く、苦し……い……」

 今矢が、その手を振り解こうと暫くは必死で抵抗していたが、無駄だと分かると、諦めたように、急に顔を真っ赤にしたまま笑みを浮かべた。

 「ダ、ダメよ!土田さん!もう、人を殺すなんて!」

 亜美が声を掛けると、今度は、土田の霊がじろっと亜美を睨んだ。思わず、言葉が詰まった。まるで、全身に電気が走ったようにビクッとなった。

やがて、今矢が床にバタッと倒れ伏した。絶命していた。しかし、その顔は、真美の時と違い、満足したように微笑んでいるかのようにも見えた。ただ、不思議なのは、首を絞められて死んだにも拘らず、今矢の首には絞められた痕も残っていない事だった。

土田の霊は、今矢を殺すと、何事もなかったかのように、鏡からスッと出て来た。そして、嬉しそうな笑顔を浮かべながら、

 「さあ、こっちに来て私を抱き締めて。お願い。寒いの」

 口も動かさずに、そう言った。その言葉を受けて、伊藤の霊が、伊藤を羽交い絞めにしたまま、無理矢理に伊藤の身体を鏡の前に連れて行こうとした。

 「ま、待て!待ってくれ!俺は、俺はまだ死にたくない!」

 伊藤は抵抗したが無駄だった。伊藤の身体は土田の前に連れて来られた。

 「さあ、抱いて。もう先生を離さない」

 その時、急に、パタパタと走り出す激しい足音が聞こえた。島田と亜美は、足音のする方を振り返り、同時に叫んだ。

 「キャーッ!」

 「う、うわーっ!た、高橋さん!」

 高橋の死体が、島田と亜美を目がけて走って来ていた。島田と亜美は、あまりの突然の出来事に動けないまま腰を抜かし、その場に座り込んでしまった。そして、二人に覆い被さるように襲い掛かろうとした。亜美は両手で顔を覆った。と、同時に、『パリーン』とガラスの割れる激しい音がした。あの鏡が割れる音だった。割れた鏡の破片が四方八方に飛び散っていた。島田は、自分の顔の直ぐ前にある高橋の死体の眼を、口を開けたまま震えて見ていた。殆んど、放心状態になっていた。高橋の死体は、覆い被さったまま、動かなかった。

亜美は、ハッと気付くと、放心状態の島田の腕を引っ張って、高橋の死体から、這うようにして離れた。その時、ポロポロと壁の崩れる音がして、亜美は、鏡があった壁に眼をやった。『こ、今度は、な、何が、お、起こるの……』亜美は座り込んだまま、その様子を見ていた。眼を反らす事が出来なかった。やがて、一気に壁が、大きな音と共に崩れ落ちた。亜美は、再び、悲鳴を上げた。その声に、島田はハッとして周りを見回した。

 「ど、どうしたんだ!い、今井君!何があったんだ?」

 「あ、あれ!あれを!」

 亜美は顔を背けて、崩れた壁を指差した。

 「い、いつの間に、壁が……」

 何故、壁が崩壊しているのか理解は出来なかったが、とにかく、言われるまま見てみた。

 「う!あ、あれは!」

 島田と亜美が見た物、それは、壁の中から姿を現したミイラ化した土田の死体だった。年月が経過したおかげで、着衣の色も茶色一色となり、この薄暗い廊下では本当の色さえ分からない程になっていた。

しかし、そのミイラの右手に持っている物だけは、薄暗いにも拘らず、妙にキラキラとしている事が分かった。『何だろう?あの光っている物は?』遠目から見ている島田には、それが何か判断出来なかった。そのミイラが、不意に、前に立っている伊藤に向かって倒れ掛けた。伊藤は、死を覚悟していたのか、特に抗う事無く、虚ろな眼で突っ立っていた。

 「うわっ!」

 島田が声を上げると、そのミイラは右手を大きく振りかぶった。次の瞬間、ミイラは、まるで伊藤に抱きつくように倒れ込んだ。そして、上げた右手を伊藤の首元に振り下ろした。

 「ギャーッ!」

 伊藤が断末魔の叫び声を上げると、後ろの壁が一瞬にして真っ赤に染まった。ミイラと共に倒れてピクピクしていた伊藤の身体は、すぐに動かなくなった。島田も亜美も言葉は出なかった。ただ、ワナワナと震えジッと見ているだけだった。

 「やっと、一つに重なりましたね、井山先生」

 土田の霊は満足そうに見下ろしていた。伊藤の霊も笑みを浮かべて見ていた。『ここは危険だ!このままいたら、僕たちまで』そう判断した島田は、何とか、震える足を立たせ、亜美の腕を引っ張り上げた。

 「い、今井君!逃げよう!」

 亜美は、震えているのか、頷いたのか分からない程、ガクガクしていた。将に、走り出そうとした、その時、鏡の横にあった扉が『バーン』と激しい音をたて勢いよく開いた。二人は、あまりの驚きで反対側の壁に張り付いた。

その二人の前に、今度は三つの白いモヤのような物が、まるで、廊下を塞ぐようにボーっと現れた。

 「何なんだよ!これは!」

 島田は泣きそうな声を出した。再び、行くてを遮られた。白いモヤは見る見るうちに人の形へと変わっていった。

 「……ま、真美?真美なの!」

 「そ、そんな……や、山田君なのか?すると、もう一人は……谷口……さん?」

 島田は、我が眼を疑った。いずれも、土田の霊によって殺された看護婦たちだった。『亜美……お願い。助けて。もう……もう、帰れない……帰れない……』微かに真美の声が、亜美の頭の中に響いた。

 「……帰れない?帰れないって、どういう事!教えて、真美!」

 亜美は必死に尋ねたが、真美は、ただ、虚ろな眼をしたまま、『帰れない』を繰り返すだけだった。『帰れない……とは、どういう意味?そ、そう言えば、この三人に殺意は感じられない。じゃあ、土田さんの霊は?』亜美は後ろを振り向いてみた。やはり、土田の霊も伊藤の霊も亜美たちを襲う気配がなかった。『わ、私たちを殺す気はない……みたいね』そう思うと少しは落ち着けた。体の震えが少しは止まった。徐々に冷静さを取り戻した亜美は、じっくり考えてみた。『どう考えても、これらの霊の中心的役割を果しているのは土田さんの霊だ!』亜美は土田の霊をしばらく見詰めた。不意に、土田の霊が、床を悲しそうな眼で見詰め始めた。『何を見てるのかしら?あんな悲しい眼つきで。あの目線の先にある物は……鏡の割れた破片?』亜美も床に散らばった鏡の破片に眼をやった。そして、ハッとした。『そうか!そうなんだ!帰れないって言うのは、そういう事だったんだ!』亜美は、謎が解けると、直ぐに真美を振り返り『今、帰してあげるからね』相変わらず虚ろな眼の真美に微笑んで見せた。

 「な、何やってるんだよ、今井君!い、今のうちに逃げよう!さあ、早く!」

 亜美と違い、島田には恐怖があった。今現実に今矢と伊藤を殺した土田たちの霊に身の危険を感じていた。

 「待って、先生!今、ここから逃げても問題は解決しない!この人たちは、ここを彷徨うだけだわ!」

 「じゃ、じゃあ、ど、どうするんだよ!」

 「この人たちを帰すんです!」

 「帰す?何処へ?どうやって?」

 島田は地団駄を踏んでいた。いつ、この五人の霊が自分たちを襲ってくるのか、と気が気でなかった。

 「ここにいる霊たちは、皆、土田さんの霊に扇動されているだけなんです!だから、その土田さんを帰してやれば、皆も帰れるんですよ!」

 亜美は余裕の表情をしていた。自分の考えに自信があった。意味は分からなかったが、島田は亜美の自信を信じるしかなかった。

 「わ、分かったよ。で、どうするんだ」

 「先生にお願いがあるんです」

 「お、お願い?」

 「ええ。あの行き止まりの扉の所まで行って欲しいんです」

 「えっ?だ、だって、あの扉は針金を巻きつけてあって、開かないんだろ?あそこからは出られないぞ!そ、それに……」

 島田はチラッと、土田と伊藤の霊を見た。この二人の霊の横を通り抜けないと、突き当りの扉の所まで行けなかった。亜美は、直ぐに島田が何を言いたいのか分かった。

 「先生。大丈夫ですよ。きっと、土田さんは襲って来ませんよ」

 島田は、亜美に心の中を読まれたようで、男として恥ずかしかった。

 「そ、そんなんじゃないよ!ただ……その……ガラスの破片とかあって、通るのに危ないかな……と思っただけだよ」

 「じゃあ、お願いします。先生」

 亜美はそう言うとニコッと微笑んだ。島田は、この状況下にも拘らず、余裕の笑みを見せた亜美に驚いていた。

 「えっ、あ、ああ!」

 島田は虚勢を張った手前、引き下がれなくなった。仕方がないと諦めると、一度、大きく深呼吸をした。島田は覚悟を決めて慎重に歩き始めた。歩く度、ジャリ、ジャリとガラスの破片を踏む嫌な音がした。

島田は、床の破片には眼もくれず、ただ、土田の霊だけを見たまま、前に進んだ。さすがに、土田の直ぐ傍を通るのは怖かった。極力離れる為、壁に背中を押し着け、相変わらず、土田の動向を確認しつつ通った。土田の横を過ぎると、島田は勢い良く走り出し、扉の所に向かった。

 「これでいいのか!」

 「先生!横にある案内板を叩いて下さい!」

 島田は言われた通り、案内板を一度、叩いた。すると、消えていた案内板が点いた。薄暗い廊下に明るい緑色の光が広がった。

亜美は、それを確認すると、急いで、ポケットから、いつも持ち歩いている化粧用のコンパクトを取り出して開け、鏡の部分を土田に向けた。

 「土田さん!良く見て!見えるでしょ!あなたは、もう、復讐を終えたのよ!皆も一緒に帰してあげて!」

 亜美は土田の霊に語り掛けた。土田はゆっくりと亜美に顔を向けた。

 「ほ、ほら!見えるでしょ!この鏡の中に映る『非常口』の文字が!この文字も左右対称の文字よ!だから、認識出来るでしょ?ここが出口よ!」

 亜美は、更に、良く見えるよう、土田の霊にコンパクトをグッと突き出した。土田の霊はゆっくりと亜美に向かって歩き始めた。

 「に、逃げろ!逃げるんだ、今井君!」

 島田には、土田の霊が亜美を襲い始めたようにしか見えなかった。その時、島田は恐ろしい事に気付いた。『もし、土田が今井君を襲ったら、次は僕だ!じゃ、じゃあ、ぼ、僕は何処に逃げればいいんだ?』袋小路となった場所で、島田の心臓が急に高鳴った。一筋の汗が背中を伝った。島田は急いで針金を外そうと躍起になった。

土田の霊が徐々に亜美に近付いて来た。大丈夫だと言い切ったものの、やはり、近付く土田の霊は怖かった。思わず、亜美は顔を背けた。土田の霊は、まるで、コンパクトを掴むように右手を伸ばした。

 「ひっ!」

 亜美は身をすくめた。しかし、怖いながらも、ソッと片目を開けてみた。見ると、土田の霊が、吸い込まれるように亜美の持つコンパクトの鏡の中に入って来ていた。

その時、亜美の持つコンパクトから、扉が開くような音が聞こえた。亜美には見えないが、何故だか、コンパクトに映る非常口の扉が開く音のように思えた。『も、もしかして、成功?』尚も、見ていると、あっという間に土田の霊がコンパクトの中に消えて行った。周りの霊たちも、次々に亜美の持つコンパクトに集まり、そして、全員、吸い込まれると『バタン』と扉の閉まる音が聞こえた。

その中には、勿論、真美の姿もあった。『これで、やっと成仏できるね、真美』そっと心の中で呟いた。もつれる足で、島田が駆け寄って来た。

 「い、今井君……どうなってるんだ?皆、そのコンパクトの中に吸い込まれて行ったぞ」

 「皆……もう、皆、帰って行きましたよ。終わったんですよ」

 ホッとして、亜美はゆっくりと周りを見回した。そして、高橋の死体に眼が止まった。

 「先生……ほら。見て下さいよ。高橋さんの死体を」

 島田は、高橋と聞いてビクッとした。

 「そうだ……高橋さんか……高橋さんは、僕を恨んでいるんだろうな……」

 島田が寂しそうに呟いた。

 「そうじゃないみたいですよ。とにかく、高橋さんの背中を見て下さい」

 「え、背中?」

 見ると、前屈みになって動かなくなった高橋の死体の背中に大きな鏡の破片が一つ突き刺さっていた。

 「こ、これは」

 島田が驚いて、亜美を見ると、亜美は微笑んで、静かに頷いた。

 「そうですよ。もし、あの時、高橋さんが私たちに覆い被さらなければ、この大きな破片が私たちに突き刺さっていたかもしれませんね」

 「じゃあ、高橋さんが僕たちを……守ってくれた……」

 「私は、そう思います。高橋さんは苦しむ事も無く、先生も恨んでなかったんです。いや、むしろ感謝していたんじゃありませんか」

 島田は目頭が熱くなった。

 「……あ、ありがとう……」

 島田は、たった一言、高橋の死体に呟いた。その言葉には島田の精一杯の気持ちが含まれていた。

やっと、島田にも笑顔が戻った。もう恐怖は何処にも無かった。島田も冷静になって、周りの状況を見始めると、ふと、気になっていた事を思い出した。島田は、伊藤の死体に抱きついている土田のミイラの右手を覗き込んだ。伊藤の首に突き刺さった金色に光る物を、ミイラは握り締めていた。島田は勇気を出して、握り締めている右手を除けてみた。皮膚が土のように、ポロポロと床に落ちた。

 「こ、これはメス?……ゴールドメスか!」

 薄暗い廊下で、メスの柄に眼を凝らして確かめた。

 「間違いない!これはゴールドメスだ!井山基夫の刻印も、かろうじて読めるよ!」

 「そうですか……皮肉なものですね……愛を伝えた物で自らの命を絶たれるなんて……」

 亜美がしみじみと言うと、

 「……仕方が無いさ……」

 島田はボソッと答えて、立ち上がった。

 「これで、全て終わったな」

 島田はすっきりとした顔をしていた。しかし、亜美の顔は、島田とは違い、まだ、浮かない顔をしたままだった。島田は、それが気になった。

 「どうした、今井君?これで全て分かったじゃないか。僕たちは、真相を究明したんだよ!」

 「一つだけ……一つだけ、分からないんです……」

 亜美は、今矢の死体を見詰めた。

 「何故、今矢婦長は殺されたんでしょうか?」

 「そ、それは、院長同様、自分を埋めるのを手伝った憎しみからじゃないか?」

 「それは変だと思います。だって、もしそうなら、この間、院長室に現れた時、何故、今矢婦長を殺さなかったんですか?直ぐ傍にいたのに」

 「そ、それは……」

 島田は、困ってしまった。島田自身、今矢の死の理由を深く考えていなかったからだ。

 「今矢婦長が作ったとはいえ、やはり、基本的には、あの噂通りに人が死ぬんだと思うんです。ただ、噂とは、何かが違う所があるのかも……」

 亜美は考え込んでいた。島田も、亜美に言われ、段々とそんな気がして来た。

 「そうだな。院長の名前は、今矢婦長によって、十一時ちょうどに『井山基夫』と書きかえられた。これは左右対処文字になっている。だから、院長は土田に見付かった……」

 「そうです。でも、今矢婦長の名前は私が、十一時より前に書いていたんです。しかも、今矢婦長の名前は『今矢彩美』これは左右対称の文字じゃありません」

 亜美は、この謎を何としても解きたかった。そう思って、何かヒントはないかと、もう一度、今矢の死体を観察してみた。すると、今矢の死体の直ぐ脇に、四角い、白いプレートが落ちている事に気付いた。亜美は拾い上げてみた。今矢のネームプレートだった。おそらく、土田の霊に首を絞められ、もがいている内に胸から取れた物だろうと推測した。

 「単なる名札じゃないか。僕にも、今井君にも……あれ?今井君のは、前のタイプだな。早く、ローマ字の併記された物に変えないと事務がうるさいよ。とは言っても院長が死んで今更意味ないだろうけど……な」

 「……そうですね。私も、貰ったんですけど、まだ……え?」

 島田の言葉が妙に気になって、その今矢のネームプレートを穴が開くほど見詰めた。そして、ある事に気が付いた。

 「これだ!これですよ、島田先生!」

 亜美の声が弾んだ。

 「え?な、何が?」

 「このプレートですよ!ほら、名前をよく見て下さい!」

 「名前?普通に、横書きで『今矢彩美』と書いてあるだけだ、けど……」

 「違いますよ、その下に書かれているローマ字の部分ですよ!」

 「ローマ字の部分?」

 島田は、ネームプレートをジッと見詰めているうちに、亜美の言った事がようやく理解出来た。思わず、膝を叩いた。

 「なるほど!そういう事か!」

 今矢のネームプレートには、一段目に横書きで、

   今矢 彩美

 そして、二段目にはローマ字で、

   AYAMI IMAYA

と書かれていた。

 「これも、真ん中で折り曲げると重なる!一種の、左右対称の名前と言えるな!」

 島田は驚嘆した。

 「そうなんです!左から読んでも右から読んでも、ローマ字なら認識出来たんですよ!ただ、鏡には書いてないのに、何故……今矢婦長は……」

 完全には解明出来ていなかった。それが亜美には歯痒かった。

 「もしかして、時間じゃないかな」

 島田は、今一歩、自信が無く、ぼつりと呟いた。

 「え、どういう事ですか?」

 「い、いや、はっきり言えないが、十一時というのは今矢婦長が院長に土田の事を印象付ける為に設定した時間だろ?」

 島田は、島田なりの理論を、弱々しい口調で、とりあえず亜美に説明した。亜美も食い入るように聞いていた。

 「確かに十一時という時間は、土田を埋め終わった時間だから間違いじゃないが、鏡の中で十一時を差すのは、実際の僕たちの時間で言えば一時になる。鏡の中では、何もかもが逆に映るからな」

 亜美は、段々と島田が言わんとする事が分かって来て、その説明に何度も頷き始めた。島田は、亜美の様子を見て、自分の理論に自信を持ち始めた。

 「噂では十一時ちょうどに名前を書く事になっていたが、実際には、土田が認識する時間には行動時間と同じく、幅があったんじゃないか?きっと、十一時から一時の間なら、いつでも認識出来たんだよ!一時は、そのリミットに過ぎないんだよ!」

 いつしか、島田の声は大きくなっていた。

 「そう言えば、確か、一時になった時、今矢婦長は、鏡の前に立って、土田さんに語り掛けてた。ギリギリ間に合ったという事ですね……」

 「それだっ!」

 島田は、さっきよりも大きな声で叫んだ。亜美は、急に大きな声を出され、ビクッとした。

 「それだよ、今井君!鏡に直接書かなくても、見て分かる左右対称の、何らかの名前を持った人間なら、その二時間の間に、鏡の前に立つだけでもよかったんだよ!それだけで十分、土田には認識出来たんだよ!」

 島田は嬉しさのあまり、亜美の両肩を掴んで笑顔で話した。

 「じゃあ、真美は……」

 「ああ。たぶん、林君も山田君も十一時から一時の間に何らかの力で、ここに連れて来られたんだよ。そして、リミットの一時に、僕たちが見たように、今矢婦長と同じ殺され方をしたんだよ」

 「何らかの力?」

 「そうだよ。土田自身は封印されている為、ここからは出られない。でも、高橋さんの場合を考えれば、土田には霊体を動かす力があった事になるな」

 島田は、益々頭が冴えて来た。自分でも、良く分からないが、次から次へと言葉が口をついて出た。

 「ここは病院だ。霊体は幾らでもいる。それらを使い、鏡に書かれた名前を認識した人を、この地下に誘き出したんだと思う。院長に自分の存在を知らしめる為の見せしめとして、な!」

 島田は、一気に話した。

 「なるほど……。何となく分かる気がします!さすがは島田先生!凄いですね!」

 亜美は島田の推察力に驚いた。

 「い、いやあ。それほどでも」

 島田は照れて頭をかいた。しかし、照れては見たものの『どうして僕は、こんなにスラスラ言えたんだろう?こんな事、深くも考えていなかったのに……』自分自身が一番不思議に感じていた。

 「先生、これからどうします?」

 「そうだなあ。まずは、警察に連絡を取った方が良いだろうなあ」

 島田がそう呟いた、その時、廊下をコツコツと歩く靴音がした。一瞬にして、島田と亜美に緊張が走った。

 「せ、先生……誰か……来る……」

 亜美の顔が怯えた。島田も同じ事を考えた。『もしや、まだ、何かが……』二人とも、靴音のする方を、息を呑んで見詰めた。一瞬にして声が出なくなった。やがて、靴音がドンドンと近付いて来て、足音の主が廊下の角からヌッと姿を現した。

 「うわーっ!」

 島田と亜美は、たまりかねて同時に叫んだ。

 「う、うわーっ!だ、誰だ!お前たちは!」

 相手の声は島田たち以上に怯えていた。急に、眩しい懐中電灯の明かりで島田と亜美は照らされた。思わず、腕で、眼を覆った。

 「え?せ、先生、人、人ですよ!」

 亜美は、そっと、腕をずらせて覗き見ると、嬉しそうに島田の肩を何度も叩いた。

 「も、もしかして、島田……先生……ですか?」

 そう話し掛けられ、島田も眼を細めたまま、相手を確認した。

 「あ!け、警備員さん!」

 嬉しさのあまり、大声で叫んでしまった。

 「脅かさないで下さいよ!大体、こんな夜中に、こんな所で……」

 懐中電灯で辺りを照らした警備員は、そこまで言うと言葉を失った。懐中電灯の丸い光が、小刻みに左右に振れていた。次の瞬間、警備員は懐中電灯を落とすと、悲鳴を上げて走って行った。

 「あっ、オ、オイ!警察を……」

 島田は声を掛けたが、間に合わなかった。島田は周りの状況を改めて見てみた。今矢と伊藤の死体、霊安室から出て来た死体。そして、朽ち果てたミイラ。どれをとっても、始めて見る人間に意味が分かる筈も無かった。

 「この状況だからな。逃げたくなるのも分かるよな」

 島田が呟くと、亜美はクスッと笑った。警備員が落とした懐中電灯が意味も無く壁を照らしていた。

 「まあ、この状況を見れば警察には連絡してくれるだろう!とにかく、ここを出よう!」

 島田は、そう言うと、そっと亜美の肩を抱きゆっくりと歩き出した。二人が角を曲がって去って行くと、光っていた非常口の案内板が、まるで役目を終えたようにスッと静かに消えた。



 朝から空は晴れ渡っていて立眩みを覚えるほどの暑さだった。亜美は疲れたように警察署を出ると、いつになく蝉の鳴く声がうるさく感じられた。まるで取り調べをした警察官の声のように感じられて思わず、溜息が漏れた。

 「今井君!」

 突然、呼び止められ前方の木蔭を見ると、島田が立っていた。亜美に笑顔が戻った。

 「あ、先生!もう、終わってたんですか?」

 「ああ。僕もさっき、釈放になったところだよ」

 島田は笑って返した。

 「どうだった、取調べは?僕の方は嘘を吐くな!とか、散々言われたけど、最後には、あの刑事さん、頭抱えてたよ」

楽しそうに、亜美に話した。

「まあ、この事件は警察では理解出来ないよ。どうしても理解したいなら、参考人に霊媒師でも連れて来ないとな!」

亜美も笑いながら、ウンウンと頷いた。

「私も、ですよ。幽霊が人を殺すか!とか言われましたけど、あの土田さんのミイラの事を言うと困ってましたよ」

「僕たち以外、誰も説明なんて出来ないさ」

「そうですね。でも、せめて、着替える時間ぐらい……欲しかったですねえ」

亜美は自分の看護服をチラッと見てから次に島田の服装を上から下まで、マジマジと見た。島田もそう言われ、自分の白衣を見てみた。

「確かに、な!あの後、直ぐにパトカーに乗せられたからな。これじゃ、まるで、医者と看護婦のコスプレカップルだよ!」

島田の言葉に亜美も思わず吹き出してしまった。

「タクシーでも拾いましょうか」

亜美がそう言って道をキョロキョロすると、島田は意外にも、

「いや。歩いて病院まで帰ろう」

そう言って、炎天下の道路をサッサと歩き出した。

「え、で、でも、病院までは、ここから三十分以上掛かりますよ」

亜美が叫ぶと、島田は歩きながら、振り向きもせず、

「亜美と一緒に歩きたいんだ。時間をかけて、なっ!」

照れくさそうに言うと、ひたすら、前に歩いて行った。

「えっ?今……私の事を、亜美って……呼んだ……」

初めて、島田は亜美の事を名字ではなく名前で呼んだ。一瞬、呆然としていたが、急に嬉しさが込み上げて来た。そして、あたかも、それが今までの、ごく自然の呼び方であったかのように、全く普通に、

「ハイッ!私も歩きます!健康の為に!」

何も気付かない振りをして、島田に駆け寄った。擦れ違う人が二人を見てクスクスと笑ったが、今の二人には全く気にならなかった。

「そ、それにしても、良く気付いたよな。あの時、非常口の文字をコンパクトに映すなんて。亜美は凄いよ」

島田は、照れ隠しの為に話題を変えたのだと、亜美は気付いた。亜美は普段通りに振舞った。

「いえ。あの鏡が出入口になっている事を真美が教えてくれたんです。その時、咄嗟に思い付いたんです。『非常口』の文字も左右対称の漢字だ、と」

亜美は真美の事を思い出した。そして、『ごめんね、真美。結果的に私だけ幸せになったみたいで。何だか、真美の幸せを取ったみたいで』そっと心で詫びた。

「でも、あの案内板のおかげで助かったな」

「そうですね。私、今になって思うんですけど、あの案内板を作ったのは今矢婦長じゃないかって気がするんです」

「今矢婦長が?」

「はい。今矢婦長は日記から、土田さんが左右対称の文字を好んでいた事を知ってた。だから、それを見越して、あの案内板をあそこに付けていたような気がするんです」

島田は、言われてみれば、そんな気もしたが、今までは全く考えてもいなかった事だった。今度は、島田が亜美の洞察力に驚いた。

「つ、つまり、今矢婦長は、最後に非常口の文字を鏡に映せば、土田の霊が消えると気付いていた、という事?」

島田が聞くと、亜美は、俯きながら、道路を何となく見詰めて続きを話した。

「何処まで気付いていたかは分かりません。ただ、そう考えるのが良いような気がするんです。だって、開かない扉に非常口の表示はいらない筈ですから」

島田は黙って頷いた。

「最初は、今矢婦長も自ら作った噂で単に自らの命を落としたんだと思いました。でも、あの時、今矢婦長が言った『私が望んだ事』というのは、そういう単純な事じゃなかったんですよ」

亜美は残念そうに首を軽く振った。

「今矢婦長が本当に望んだ事……それは、院長を土田さんに殺させ、そして、自らも土田さんに殺される事だった……そんな気が……するんです」

亜美は話し終わると、歩みを止めた。

「……なるほど……今矢婦長は自ら犯した罪を自らで清算した、という事か……この十年、罪の意識に苛まれていたんだろうなあ」

島田にも、今矢の気持ちが何となく分かる気がした。

「そういえば、刑事さんに聞かれたんだが、あの土田の日記の最後のページに大きくバツが書かれていたそうなんだが、亜美は気が付いた?」

「え?大きなバツ?それは気が付きませんでしたけど」

 亜美は必死で思い出そうとしたがまるで思い出す事が出来なかった。

「そうか。どうもその字体が土田の物ではないらしいんだよ。だからと言ってどうって事は無いんだけど、もしかしたら今矢婦長の字じゃないかって思ったから」

 亜美はそう言われて、考え込んだ。

「確かに噂では名前を書いた下にバツを書いていましたよね。それと何か関係があるのかな」

 島田も一緒に考えてはみたが、今となっては解る術は無かった。特に大きな意味は持たないか、とあっさりと諦めた。島田はそれよりももっと知りたい事があった。

「そんな事よりも実はもっと理解出来ない事があるんだよ」

島田は、まだ考え込んでいる亜美に尋ねた。亜美は不意に尋ねられ、目を丸くしたまま島田を見た。頭の中は、大きなバツの件でいっぱいになっていたからだ。

「何故、前院長は、直ぐに院長を殺さなかったのか、という点なんだよ。前院長も恨んでいた事に違いは無かったんだから、何時でも殺せたんじゃないかって思うんだ」

亜美はまだ少し引っかかっていたが、島田同様深く考えないようにした。そして、島田の質問をもう一度頭の中で反復し少し時間をおいて、サッと顔を上げた。

「私、本で読んだ事があるんです。同じ霊でも、肉体が残っている方が、恨みが強いって。つまり、土田さんの肉体が、この世に残っていた分、霊力が強かったんだと思います」

「つまり……前院長よりも土田の霊力の方が強かった。だから、土田に従っていた、という訳か……」

島田は、理解できたように何度も頷いた。

「だと思います。思い出して下さい。院長が殺される時、前院長が土田さんの前に連れて行って、最終的に土田さんが殺したじゃありませんか」

この時、亜美は肝心な事を思い出した。

「ほら!院長が、前院長は『先が読める』って言ったじゃありませんか!そうなんですよ!前院長は、その日が来る事を知ってたんです!焦る必要が無かったんですよ。だから、その日まで、自分の欲求を満たしていたんですよ!」

島田の表情はスッキリとした、晴々とした顔になっていた。

「これで分かったよ。僕の中で、この件は全て片付いたよ。これで土田も前院長も、そして、今矢婦長も満足したんじゃないか。今は、そう考えようよ」

島田の言葉に、亜美はそっと頷いた。

「特に、今矢婦長、林君。結果的には、この二人のおかげで解明出来たんだからな。感謝しなきゃ。そして、残った僕たちは、この人たちの分も幸せにならなきゃな」

島田は、亜美を見詰めて微笑むとソッと肩に手を回わそうとした。と、急に、島田は激しい眩暈を覚えた。思わず体がよろけて亜美の肩にしがみ付いた。

「せ、先生、どうしたんですか?」

「い、いや、眩暈がして。それに、妙に頭が痛くなって……」

島田の手は、そう言うや否や亜美の肩から離れた。そして、ガクッと膝を地面に着けると、そのまま意識を無くしたようにバタッと倒れ伏した。

「えっ?せ、先生?島田先生!どうしたんですか!」

亜美は、あまりの突然の事で驚いてしまった。直ぐに必死で島田を揺さ振った。

「先生!島田先生!」

亜美は何度も島田の名前を呼んだ。暫くは何の反応もなかったが、急に、意識を取り戻したかのように、ガバッと起き上がった。

「良かったあ。ど、どうしたんですか?お体の調子が良くないんじゃ……」

亜美が心配して声を掛けると、まるで、何事も無かったように、

「いや、大丈夫だ。ちょっと、立眩みがしただけだよ」

素っ気なく言うと、また、歩き出した。

考えてみれば、真美が死んで以来、まともに休んでいなかった。非番には、噂の真相を究明すべく、それに時間を費やしていた。今日は、今日で、深夜から、ずっと一睡もせずに警察で取調べを受けていた。『きっと、疲れが出たんだ』亜美は、そう思った。

亜美も島田を追いかけ、一緒に歩き始めた。

「そうだ、亜美。あの土田の手帳はどうなった?」

急に、立ち止まり、振り向くと、唐突に尋ねて来た。何だか、さっきまでと違い、話し方が命令口調に感じられた。『疲れているんだ。だから……』亜美は、その変化をあまり気にしない事にした。

「あ、あれは、証拠品になるからと警察に押収されました」

「そうか、押収されたのか」

島田は、何だか悔しそうに小さく舌打ちをした。

「あの手帳が、どうかしましたか?最後のページのバツの事ですか?今となってはもう、私たちには関係が無いと思いますが……」

島田の態度に違和感を覚えた亜美は、島田の顔を覗き込むように見た。それに気付いた島田は、直ぐに顔を反らした。

「いや、なんでもない」

ぶっきらぼうに答えると、亜美に背を向け、また、歩き出した。亜美は首を傾げた。しかし、ここに立ち止まっている訳にもいかず、島田の後を、変に思いながらも追った。『まあ、大丈夫よね。ゆっくり休めば、また、元の先生に戻るわ』亜美は、そう自分を納得させる事にした。

「先生……病院は、どうなさるんですか?前に、伊藤病院を辞めるような事を言ってましたけど……」

亜美は気になっていた。もし、島田が伊藤病院を辞めるのなら、自分も辞めようと考えていたからだ。

「僕は辞めない!勿論、亜美も残ってくれるだろ?二人で頑張ろう。伊藤病院の為に」

「ハイ!私も残ります!」

亜美は、島田の言葉を聞いてホッとした。これでまた、島田と毎日、顔を合わせられる。そう思うだけで嬉しくなった。亜美は、勢いに任せて最も気になっていた事を聞こうと思った。

「じゃあ……中田院長の娘さんとの事は……どうするんですか?」

亜美は、島田の言葉に全神経を耳に集中させた。

「ああ。あの件は保留だ。伊藤院長が、あんな事になって、直ぐに、というのはマズイだろ」

「保留……ですか……た、確かに、そうですね……」

亜美は作り笑いをした。内心ショックだった。島田なら、きっぱりと断わると思っていたし、それを期待していたからだった。『そ、そうよね。幾らなんでも、院長が死んで、直ぐ、という訳にはいかないわよ……ね』そう思ってはみたが、やはり、予想外の答えに落ち込み、さっきまでの元気が出なかった。

「ところで、あのコンパクトはどうなった?」

島田は、そんな亜美の様子を、一向に気にしていないようだった。

「えっ、あ、ああ、はい。あのコンパクトは事件に関係ないだろうって、返してくれました」

「じゃあ、亜美が持っているの?見せてくれる」

島田は妙に嬉しそうだった。

「あ、はい」

亜美が取り出そうとポケットに手を入れた時、不意に、『亜美!気を付けて!』真美の声が聞こえた気がした。

「えっ?」

亜美は驚いて、急に周りを見回した。『い、今、真美の声がしたような……でも、そんな筈ないわよね!だって、もう終わったんだから』亜美は自分の空耳だと思う事にした。

「どうした、亜美?何か、あったか?」

島田は不思議そうに、キョロキョロする亜美に尋ねた。

「あ、いえ、何でもありません」

亜美は敢えて、島田には言わない事にした。不安を与えたくなかった。亜美は、何も無かったかのように、ポケットからビニール袋を取り出した。そのビニール袋の中には、コンパクトの他に、亜美のネームプレートも入っていた。

「この名札は?」

「あ、それ、たぶん、あの時、コンパクトを急いでポケットから出した時に、一緒に落ちたんだと思います」

「あ、そう」

島田は短く答えると、亜美の手から奪うようにビニール袋を取り上げた。そして、嬉しそうに中に手を入れコンパクトを取り出した。

「せ、先生……それを、どうするんですか?」

「えっ、ああ。この中には土田の霊とかが入っているだろ?君が持っていると危ないかもしれないから、僕が、知り合いの霊媒師にでも渡して供養して貰おうと思って」

島田は、そう言うと自分のポケットに亜美のコンパクトを入れた。

「あ、そ、そうですか……でも、そのネームプレートは返して下さいね。それ、間違っているから、事務の白石さんに返そうと思ってますので」

「え、間違ってる?」

「はい。だから、早く返さないと、アメリカの医師団が来るまでに間に合わないんで……でも絶対……中止だと思うけど……」

島田は、亜美にそう言われ、立ち止まると、亜美のネームプレートをじっくり見始めた。そして、急に、不気味な笑みを浮かべた。

「なるほどな。じゃあ」

島田は短く、そう答え終えると、亜美のネームプレートもサッとポケットにしまい込んだ。

「あ、先生、それ!」

「大丈夫!僕が白石さんに渡しとくから。その時、僕から早く新しいのを作るよう急かせておくよ。新人看護婦の君から言うより、医師の僕から言った方が効果的だろ」

「ま、まあ……そうです……けど」

島田は、有無を言わせなかった。半ば、強引に取り上げられたような気がした。『亜美、気を付けて!その人に気を付けて!』再び、真美の声が聞こえた。

「えっ?」

亜美は、咄嗟に島田の顔を見た。島田は空になったビニール袋だけを亜美に差し出すと、

「とにかく、これで全部終わったな。ただ、噂は消えないだろう。こんな事実があったんだから。むしろ、新しい噂が広がるかもしれないな。これからが大切だよ」

亜美を見詰め、事の重要性を認識させようとしているような気がした。

「……新しい噂?……大切?」

亜美は、真美の忠告とも取れる声を聞いてから、急に、島田の言動に、不信感を抱き始めた。何だか島田の言葉をまともに聞けなくなって来た。

「ああ、そうさ!あんな幽霊話で、患者数は激減するだろう。そうなれば病院の存亡に関わる。こっちも患者を選ばないと利益が出ない事になるよ」

亜美の全身が震えた。『違う!疲れなんかじゃない!島田先生なら、こんな事は言わない!じゃ……じゃあ、この人は誰……なの?』亜美は言葉を失った。

尚も呆然と島田を見詰めていると、ふと、普段の島田には見た事もない仕草をしたのが眼についた。再び、全身の血液が逆流するような衝撃に襲われた。

「せ、先生……風邪でも……ひかれたんです……か?」

「え?どうして?風邪なんかひいてないよ」

「だ、だって……さっきから、何度も鼻を触って……いるから……」

震える亜美の声を聞いて島田の表情が一瞬固まった。島田は、何も言わず、暫く亜美の顔を見ていたが、急に思い出したように笑みを浮かべ、

「あ、ああ、もしかすると、そうかも知れないな。まだ頭が痛いんだ。それとも、この暑さのせいかな」

そう言うと、亜美から眼を反らし、まるで、逃げるように歩き出した。『……やっぱり……島田先生の中には……あの人が……』亜美は、離れていく島田の背中を見詰めていた。急に、伊藤が言った『悪い奴の魂ほど消滅しない』という言葉が頭の中に何度も何度も思い出されて来た。『亜美、早く逃げて!早く!』切迫する真美の声が、再び、亜美の頭の中に響いた。

「……終わって……ないんだ……あの人は……まだ……」

ポツリと呟くと、体が恐怖で動かなくなった。真夏にも拘らず、震えが止まらなくなった。亜美が付いて来ない事を不審に思った島田は、ゆっくりと亜美の元に戻って来た。そして、亜美の耳元に顔を近付けると、

「さあ、亜美。いつまでも一緒に行こう」

低い声で囁くと、意味有り気な笑みを浮かべた。『早く、早く逃げて!近付いちゃダメ!』真美の声が一層強く響いた。亜美は強迫観念に襲われた。『この人と一緒にいると危険だ!この人は島田先生じゃない!伊藤院長よ!』そう確信すると、自然に体が、島田から一歩離れた。その時、ふと、頭に浮かんだ事があった。

「す、すみません、せ、先生。わ、私、大事な用事を思い出したんで、さ、先に帰らせて貰います」

怯えている事を気付かれないよう、極力、平静を装ってはみたがどうしても声が震えた。

「大事な……用事?」

島田が聞き返したにも拘らず、亜美は答える事無く、サッと島田に背を向け、走り出そうとした。その時、島田の右手が亜美の手首を強く掴んだ。亜美は、まるで電気が走ったようにビクッとなった。

「は、離して貰えませんか」

亜美は島田の手を振り解こうとした。

「どうした、亜美?一緒に頑張ろうと言ったばかりじゃないか」

島田は亜美の手を掴んだまま不敵な笑みを浮かべていた。

「離して!あなたは島田先生じゃない!」

亜美は涙を浮かべ、思わずそう叫ぶと島田の手を振り解いた。島田は人の行き来する道路にも拘らず、急に大きな声で笑い始めた。道行く人たちが不審な眼で島田と亜美を見ていた。だが、島田は一向に気にしなかった。

「だとしたらどうする?私が島田ではないと、どう証明する?誰も信じないぞ。幾ら、林君の声が聞こえても他の人間には聞こえないぞ」

亜美は島田の言葉を聞くと目を丸くした。真美の声は自分にだけしか聞こえていないと思っていたからだ。島田はニヤニヤした顔で亜美を見詰め、これ見よがしに鼻を一度触った。

「さしずめ、大事な用事とは島田のゴールドメスでも取りに行こうと考えていたんだろ」

亜美は再びドキッとした。将にその通りだった。島田のゴールドメスを持っていれば、或いは魔除けぐらいには、なるかも!亜美は、漠然とそう考えていたからだった。

亜美は言葉が出なかった。

「君の推察どおり、私は島田ではない。私は、この島田の体で復活したんだよ。再び欲望を求めて、なっ!」

島田はそう言うと自分の身体をマジマジと見始めた。そして、満足そうに一度頷いた。      

「君は私がゴールドメスで刺され死んだから、再び、それを恐れる、とでも思っているのか」

島田は、怯えるような亜美の表情を楽しむように覗き込んだ。亜美は、弱みを見せまいと、逆に気丈に振舞おうと覚悟を決めた。

「先生は!島田先生はどうしたのよ!」

「ああ、島田か。奴の魂は別の所で眠っているよ。勿論、私がこの身体にいる限り、奴の魂は戻って来れないさ」

島田は他人事のように言い放った。亜美は一瞬ホッとした。『先生は死んでいない!まだ助かる可能性がある!』一縷の望みが残った。しかし、島田はそれすら打ち壊した。

「無理だ!その可能性はない!」

島田は断言した。今の島田の言葉は、亜美を二重に驚かせた。一つは、島田が戻る事はないと言い切られた事と、もう一つは、心で呟いた事に答えられた事だった。亜美は不思議に思った。

「あなた……もしかして、私の考えている事が……」

島田は愉快そうに笑った。

「そうだ!いや、君だけじゃない!どんな奴の心の中も読み取れるんだよ!前院長の伊藤が未来を読んでいたのは、こういう事だったんだよ!」

亜美は愕然とした。『この男は、真美の声を聞くだけじゃなく、私の心の中にまで入り込んでいる!もはや、隠し事は通用しない!』亜美は頭の中を出来るだけ真っ白にしようと努力した。  

島田は、今の亜美の、心の呟きに答えるかのように薄ら笑いを浮かべた。     

「どうして島田先生に乗り移るのよ!」

島田との、これからの楽しい日々を考えると、亜美はたまらないほど悔しかった。思わず、拳を握り締めた。

「こいつは昔の私と同じだからだよ。弱点は容易に分かる。あの時、私が島田を直ぐにでも変えて見せると言ったのは、将にこういう事だったんだよ」

「そ、それで、今から島田先生の身体を使ってどうするつもりなのよ!」

亜美は腹立たしさをぶつけた。島田は大きく頷いた。

「伊藤病院は私亡き後、妻の冬子が引き継ぐだろう。そうなれば、私自身、金儲けが出来ない。となれば、次は、中田医院だ。保留と言った意味が分かったかな?」

一人、ニヤつくと、ポケットから亜美のコンパクトを取り出し、話を続けた。

「しかし、それには問題がある。これだ!この中には、まだ由美がいる。中田医院に養子に行けば、島田幸一から中田幸一になる。この名前だと再び由美に見付かるからな」

「えっ?由美さんが?まだ、その中に」

この時、亜美はようやく気付いた。『さっきの真美の声は、あのコンパクトの中から聞こえたんだ!すると全員、あの中に』再び、亜美の心の声に答えるように島田は頷いた。

「ああ、そうだ。そして、もっと恐ろしいのが病院の鏡が割れた事で時間の制約がなくなった事だ。だが、私の勝ちだな。このコンパクトは私の手の中にある。由美をコントロールできる。もう、私に怖い物は何も無いんだよ」

そう言うと突然、島田の眼が亜美をキッと睨んだ。

「そ、そんな……。あのコンパクトが」

亜美は言い知れぬ恐怖を感じた。由美を封じ込んだコンパクトが逆に時間の制約を無くす事で最強の道具になってしまっていた。

「そう!今井君、君の負けだ。君は、大事な事に気付いていない!それは、今矢の本心だよ!」

「今矢婦長の……本心?」

亜美には島田が何を言おうとしているのかサッパリ分からなかった。

「そう!今矢の本心は、あの噂の真相を知る者、全員の死を望んでいたんだよ!今の私には、それが分かるんだよ!」

「ま、まさか……いい加減な事言わないでよ!今矢婦長はあなたを由美さんに殺させる事を望んでいたのよ!」

「フッ、まだ気が付かないようだな!まあ、その方が君にとっては幸せかもな」

島田は、如何にも意味有り気な眼で亜美をジッと見詰めた。亜美は段々と島田の、いや、伊藤の態度に憤りを覚え始めた。大切な島田の身体を乗っ取り、あくまで自分の欲望だけを考える伊藤をこの世から抹殺したいと真剣に願った。

亜美も負けじと島田をキッと睨み返した。

「なるほど、それほど私が憎いか?まあ、無理もない。君の大事な男を私が奪ったようなものだからな。島田は事実上、死んだ、も同然だからな」

亜美の拳に、より一層力が入った。全身がブルブルと震え始めた。それはもはや、恐怖ではなく憤りのせいだった。

「君は島田の事ばかり気にしているようだが、自分自身の事も考えた方がいいんじゃないか」

島田の冷静な口調に、妙な謎を掛けられた気がした。

「ど、どういう事よ!」

「私は君の生死をも握っているって事だよ」

「えっ?」

亜美は言葉に詰まった。確かに、島田の事に神経が集中し過ぎて自分の事にまでは考えが回らなかった。それは、すぐさま、自分にまでは被害が及ばないという前提があったからだ。しかし、今の言葉は、裏を返せば何時でも自分に被害を及ぼす事が出来るという伊藤の自信の表れだと感じた。思わず、唾を飲み込んだ。

島田は亜美の表情を見ると嬉しそうに頷き、追い討ちをかけるように話を続けた。

「君が生き残る方法は、たった一つ!私と組む事だ!さもなければ、君は死ぬ事になる!どちらかを選びたまえ。選択権は君にあげよう」

島田の態度には余裕があった。その余裕が、亜美には恐ろしかった。『何故、私を殺す事が出来るの?島田先生のように、私の身体を乗っ取るという事なの?』亜美は心の中で呟いてしまった。案の定、島田は、亜美の心の呟きに答えるように首を横に振った。

「今から、面白い話をしてやろう」

島田は、そう前置きをすると、徐にポケットの中から、亜美から取り上げたネームプレートを取り出した。

「最初、プレートが皆に配られた時、君の分だけは無かった。これは、後で、間違った形で貰った物だよな」

島田の口元に白い歯が覗いた。亜美は震えるように無言のまま一度頷いた。

「どうして皆に配られた時、自分の分だけが無かったのか、不思議に思わないか?」

革めて言われると、確かに不思議ではあった。しかし、今となっては考えても分からないというのが結論だった。亜美は黙るしかなかった。

「ワザと……だよ」

「えっ、ワザと……ってどういう事」

「今矢はワザと君のネームプレートを間違って作るようにしたのさ」

亜美は信じられなかった。何度も頭を大きく振って見せた。そんな態度の亜美を見ると、益々可笑しそうに話を続けた。

「まず、名簿チェックの段階で今矢は敢えて君の名前にチェックしなかった。これでは当然、ネームプレートは出来上がってこない」

まだ、信じられないというように頭を振っている亜美の反応を楽しむかのように島田は横目でチラッと亜美を見た。

「そして、日にちが経って、ワザと間違った形で事務に提出する。何故だか分かるか?」

島田を見詰めながら、亜美は素直に首を振ってしまった。

「発注する事務の人間に間違いを気付かせない為さ。今矢は事務の人間を急かせていたんだよ。時間が無いから、とな!」

「……今矢婦長……」

力無く、思わず呟いた。信じていた人間から、再び裏切られた気がした。島田は、亜美を畳み込むかのように言葉を続けた。

「今矢の本心は、あの噂に関わる、全ての人間をこの世から消す事にあったんだよ。そして、噂そのものを消滅させる事だったんだよ。これが、その証拠さ!」

島田は手にしたネームプレートを亜美に見せた。そのネームプレートには、一段目に、

  今井 亜美

と、漢字で横書きに書かれていたが、問題は、二段目のローマ字の部分だった。そこには、本来、

  AMI IMAI

と、書かれるべきところを、

  IMAI AMI

と、ファーストネームとファミリーネームを逆にして書いてあった。

「そ、そんな……」

亜美は愕然となった。蝉の五月蝿さも、道路を走る車の音も、何もかもが聞こえなかった。まるで、静寂の世界に、たった一人取り残されたような錯覚に陥っていた。

「ようやく気付いたか。私は不思議だったよ。どうして今矢の名前の謎が解けたのに、自分の事が分からなかったのか、と。まあ、意外と自分の事には気が付かない物だがな。灯台下暗し、とはこの事だな」

亜美は、ここに至って、ようやく島田の、いや、伊藤の言う事が何を意味するのかが分かって来た。

「そう、今矢同様、右からでも左からでも読める、この名前だと由美には認識出来る!ただ、今矢の誤算は、あの時、君がネームプレートを胸に着けていなかった事だよ」

島田の口元が緩み、再び、白い歯が覗いた。

「そのネームプレートは私の手の中にある。私が、君の生死を握っているという意味が分かったかな?」

島田は、突然、高笑いを始めた。通り掛かりの人も、道路の真ん中で、医者の格好をして笑う島田を見て、引き返して行くようになった。島田は、そんな事を全く気にしていなかった。亜美はようやく全てを理解した。

「もう一度だけ聞こう。私と一緒に来るか、否か、だ!頭の良い君の事だ。良く考えて、どちらか選びたまえ」

島田は笑みを浮かべながら、亜美にソッと右手を差し出した。『許さない!絶対、あなたは許さない!』亜美は心を読まれる事を承知で頭の中で力の限り叫んだ。島田を、いや、その中にいる伊藤をこの上ない形相で睨み付けた。

「フッ、確かに返事は聞かせて貰ったよ。予想を裏切る答えを待っていたんだが、な。予想通りだったな。残念だよ」

島田は、そう言うとソッと手を引っ込め、亜美に背を向けると、ゆっくり歩き始めた。

「私どうしたらいいの?」

亜美は、許せなかった。愛する島田を奪い、自分の命さえ奪う、あの伊藤をこのまま生かしておく事がたまらないほど許せなかった。

「あのコンパクトさえあれば……」

陽炎揺らめく中、段々と小さくなって行く島田の背中を悔しそうに見ていた。

「やっぱり逃げててもダメだ。よし!こうなったら、一か八かだ。先生、力を貸して下さい!」

 亜美は一人呟くと意を決したように小さく拳を握り締めた。そして、島田に向かって全力で走り始めた。

「誰か、誰か、その男を捕まえて下さい!泥棒です!引ったくりなんです!」

 力の限り叫んだ。道行く人たちも、ゆったりと歩く島田を指差しながら勢い良く走って来る亜美の声を聞き、足を止め始めた。

「何!どういう事だ?」

 島田は驚いて後ろを振り返った。すると、一人の男性が不意に島田の右腕を強い力で掴んだ。

「な、何をする!は、離せ!」

 島田は、男性の手を振り解こうと必死になっていた。その様子が周りの人たちから見れば逃げようとしているようで、かえって怪しく思えた。一般的に世間では、どちらかと言うと男性よりも弱い女性の言う事を信じる傾向にある。傍観していた人たちも男性に加勢して島田を押え始めた。そこへ息を切らせて亜美が走って来た。

「看護婦さん!この男が引ったくりか?」

 別の男性が島田の首根っこを押さえつけながら、肩で息をする亜美に尋ねた。

「そ、そうなんです!この男です!」

 亜美は怨みを込めて数人の男に押え付けられている島田を指差して叫んだ。

「この男も医者の格好をしているが、どういう事?知り合い?」

 亜美はワザと目を丸くして驚いたように首を大きく横へ振ると、

「全然知りません!ただ、いきなり、こんな格好で病院へ来て、私が大事にしている高価なコンパクトを盗んで行ったんです!」

周りにいる人全員に聞こえるように声を荒げて言った。亜美の声に周りがざわめき出した。

「今井!貴様!」

 島田は、押え付けられているのと腹立たしさで、もうこれ以上声が出なかった。ただ、ひたすら目を血走らせて亜美を睨み、歯軋りを激しくしていた。

「コンパクト?」

 島田を押え付けている男性が不思議そうに首をひねりながら、島田の上着のポケットに手を入れた。

「あっ!これか!」

 男性がポケットからコンパクトを取り出し、亜美に見せると、

「それです!私の大事なコンパクト!」

 亜美は叫ぶと、すぐさまコンパクトをひったくるように取り返した。もはや、亜美の言う事を疑う者は無かった。周りからは、

「こいつ変質者か、それともストーカーだな!警察へ突き出せ!」

 段々と声が大きくなって来て、亜美の周りは黒だかりの山になっていた。島田はもはや抵抗しなかった。いや、抵抗できる状態ではなかった。ただ、なすがまま、になっていた。『先生、ごめんなさい!先生なら分かってくれますよ……ね』亜美は少し悲しくもなっていた。なぜなら、島田の中にいる伊藤は許せないが、今、周りの人に現実に取り押さえられているのは島田の体その物だからだ。亜美は申し訳ない気持ちを抱きながらもコンパクトをポケットに入れると一気に走り出した。

「あっ、看護婦さん!もう直ぐ警察が……」

 亜美はとにかくその場から逃げるように走った。微かにパトカーのサイレンの音が聞こえて来たが気にすることなく走った。そして、車道に飛び出ると一台の車に向かってサッと手をあげた。タクシーは亜美の前を数メートル通り過ぎ、音をたてて止まった。

「大至急、伊藤病院まで!」

「えっ、看護婦さんですよ……ね。急患か、事故か、何かですか?なんだか後ろの歩道に人だかりが見えましたが。だったらタクシーよりは」

運転手は(いぶか)しげに亜美をジロジロと見ていた。

「とにかく急いでいるんです!お願いします!」

亜美は怒鳴るように言った。

「わ、分かりました」

車は急いで走り出した。

タクシーに乗り後ろを振り返ると、ちょうどパトカーが到着し、島田が警察官二人に両脇を抱えられたところだった。島田は亜美が乗り込んだタクシーを遠くから睨み付けながら、

「くそっ、あの小娘め!何を考えている!」

舌打ちと共にうめくように呟いた。

「これで少しは時間を稼げる。でも、これからどうやって……」

 亜美はホッと小さく溜息をついたものの不安に襲われていた。ただ、病院へ向かうタクシーの中で前をボーっと見詰めるしかなかった。その時、不意に小さな声が聞こえた気がした。

「えっ?あのう、運転手さん、何か言いました?」

「いえ、私は何も……」

運転手は不思議そうにルームミラーに映る亜美の顔をチラッと見ては何事も無かったように前を向いた。亜美はもう尋ねる事はしなかった。『じゃあ、今の声は……。単なる空耳?』一気に色んな事が起こり過ぎて疲れているんだ、と自分に言い聞かせていた。『亜美!亜美、良く聞いて!』今度ははっきりと聞こえた。同時に誰の声かも分かった。思わず涙が滲んで来た。

「真美!真美なの!」

思わず嬉しくなって叫んでしまった。

「えっ?あ、あのう、お客さん……」

運転手はあまりの大声に驚いて、思わずブレーキを踏んでしまった。タクシーは一気に減速した。亜美の体が前へと傾いた。

「あっ!危ない!気を付けて下さい!」

亜美は少しムッとした口調になった。

「え、あ、ああ。すいません……」

運転手は少し腑に落ちないと思いながらもそう答えるしかなかった。そんな運転手の事など気にする余裕もなく、亜美は真美の声の出どころを探してキョロキョロした。『そうだ!コンパクトだ!』亜美は気付くと急いでポケットからコンパクトを取り出して開いて見た。確かに、そこには亜美の顔にダブるように微かにではあるが真美の顔があった。

「真美……、真美……」

 思わず懐かしくなって呟くと笑顔になれた。運転手はそんな亜美を再びルームミラーで見ては眉間に皺を寄せた。

『亜美、良く聞いて。今が最大のチャンスよ』

 微かに聞こえる真美の声に全神経を集中させた。相変わらず鏡の中の真美は無表情のままだった。いわば声だけが、まるでラジオでも聞いているかのように聞こえた。

「えっ、どういう事?何がチャンスなの?お願い、真美、助けて!このままじゃ、私……」

 亜美にはもう真美の言葉しか頼る物が無かった。親友の言葉。それは将に、今の亜美には天の言葉に等しかった。

『今こそ、あの男を消滅させる時よ!安心して。亜美も助かるよ』

 真美のやさしい言葉に、亜美は安心したように小さく笑顔を見せると大きく頷いた。

「どうすればいいの?島田先生はどうなるの?あの男は人の心が読めるのよ」

『怖がる事は無いわ。島田先生も大丈夫よ。あの男が心を読めるのは直ぐ眼の前にいる人だけよ。その証拠に亜美がコンパクトを奪う事には無防備だったでしょ』

 確かに真美の言う通りだと思った。もし、先の事が全て分かるのなら、大事なコンパクトを奪われる訳はない。

『伊藤院長は、霊体になってまだ間が無いわ。つまりそれは霊力が弱いという事になるの』

 何となく亜美には納得できる気がした。

「分かった。だから、今のうちに、って事よね!」

 コンパクトを見詰めて独り言を言う亜美を運転手はたまらなく恐ろしくなって来た。願わくば、この辺りで降りてくれれば、などと考えてはみたものの、やはり何も言えなかった。

「じゃあ、どうすればいい?」

『噂を思い出して。もう一度、それをするのよ』

「噂?噂って…あっ、そうか!名前を書けばいいのよね!このコンパクトに!」

 亜美の表情が一気に笑顔に変わった。眼から鱗が落ちたようだった。

「これに、井山基夫、って書けばいいんだ」

 亜美はしっかりとコンパクトを握り締め、まるで無表情の真美に最大の笑みを見せた。

しかし、帰って来た真美の声は少しトーンが違っていた。

『井山の名前じゃダメよ』

「えっ、どうして?だって、井山基夫じゃないと左右対称の漢字にならないじゃない」

 真美の声に亜美は急に不安になった。これだっ,という物があっさりと否定されたからだ

亜美には井山以外の言葉が何も思いつかなかったからだ。亜美は力無く俯いてしまった。

『一度使った名前はダメなの。なぜなら、一度使った名前の人物は死んでいるはずだから。その名前には土田さんは反応しないのよ』

 再び聞こえた真美の声に愕然とした。

「じゃあ…どうするの…」

 呟くように声を漏らすとしっかりとした言葉を返して来た。

『だから良く思い出して。亜美になら分かるはずよ!私がそれを言うと土田さんが反応してしまうのよ。だから、私には言えないのよ!』

 真美の言葉で、初めて土田も真美の傍にいる事が分かった。『真美も危険を冒して私を助けようとしているんだ』と理解すると有難い気持ちでいっぱいになった。真美の気持ちに答えるべく亜美は必死になって考えた。昨日の事をもう一度何度も何度も思い出して考えた。そして、

「そうだ!そうなのよね!わかったわ、真美!」

突然大声で叫んだ。運転手は再びブレーキを強く踏んだ。

「うわっ!な、何かあったんですか?」

 運転手は振り返る事無くミラー越しに恐る恐る亜美に問い掛けた。もはや、運転手には振り返る勇気は無かった。一人でコンパクトに向かって喜怒哀楽の表情を見せる亜美は、運転手の目には強盗以上の物に映っていた。精神の限界に近付いていた。自分こそ病院へ行きたい気持ちになっていた。

「あ、なんでもないです。そのまま病院へお願いします」

「ああ、そうですか…わ、分かりました…」

 そう力無く答えると小さな溜息を漏らしながらも車を走らせた。微かにハンドルを持つ運転手の手が震えている事も今の亜美には全く気付く事はなかった。

「でも、島田先生の場合はどうなるの?」

『大丈夫よ、亜美。島田先生も同じように書けばいいのよ。消滅するのは伊藤院長だけだから』

 亜美は、そうは言われてもやはり不安だった。昨夜、土田に殺されていく今矢や伊藤院長の事を考えると、どうしても不安が拭い去れないでいた。真美も霊体になった以上、亜美の心が読めた。すぐさま、真美は説明を始めた。

『そもそも人は魂と肉体が一致しているわ。だから魂を消滅される事が肉体の死に繋がるのよ。でも、今の島田先生は違うわ。肉体こそ島田先生でも中身が違うわ。だから安心して』

「分かった。真美を信じるわ」

 亜美はそう答えると自分自身にも納得させるように小さく拳を握って頷き、意を決したように直ぐにコンパクトに名前を書き始めた。

「でも、真美。これをどうやって伊藤院長に…」

 準備は出来たものの、このコンパクトに書いた物を伊藤にどうやって見せるのかが亜美には最大の問題だった。しかし、その問題も真美があっさりと解決してくれた。

『簡単よ。伊藤院長は今、近くの交番で尋問されている筈よ。上手く警察官を利用するのよ。警察官に頼んで院長に確認してもらうのよ』

「なるほどね!さすが真美!頭いいっ!」

 亜美は力が湧いて来た。伊藤を消滅させ、島田を取り返せる!そう思うと自然に力がみなぎって来た。一気に顔が綻んで来た。

「そうと決まると…」

 亜美はルームミラーに眼をやった。不意に運転手と眼があった。運転手は思わず唾を飲み込んだ。

「止まってください」

 亜美がそう言うと、運転手は何も言わず車を止め、急いで後ろを振り返り、

「料金は…え~っと…」

満面の笑みでそう言い始めた。

「まだですよ。行き先変更です」

「えっ?まだ…ですか…」

運転手の眼は大きく開いていた。声がドンドン小さくなって行った。

「この近くに交番があると思うんですが、そこへお願いします。大至急です!」

「えっ、今度は交番…ですか?」

「お願いします!命が掛かっているんです!」

「わ、分かりました」

 もはや、運転手には考える余地が無かった。自分こそ命が掛かっている気がしてならなかったからだ。車は対向車が来ているにも拘らず、Uターンをした。対向車がクラクションを激しく鳴らしたが運転手は気にもせず猛スピードで交番を目指して走った。まるで、運転手自身が警察に助けを求めているようだった。

 5分も走ると、直ぐに交番が見えた。そこにはパトカーも一台止まっていた。『あれだ!間違いない!最後の勝負よ』亜美の手に汗が滲んだ。タクシーは交番の前に来るとけたたましい音を立てて急停止した。

「お客さん、着きました!」

 運転手は叫ぶようにそう言うと扉を開けた。亜美は急いでタクシーから下りると、

「少し待っててもらえますか?直ぐに戻りますから」

そう運転手に告げた。再び運転手の顔色が変わった。

「もう、許して下さい!」

逆に運転手が詫びるようにそう言うと、まだ扉も締め切っていないうちに走り始めた。

「えっ?あ、まだお金を払って…あ、ちょっと」

 タクシーは見る見る小さくなって行った。あっという間に走り去ってしまった。

「これじゃあ、私が無賃乗車になってしまうじゃないの。まるで、警察に出頭しているみたいじゃない!」

 亜美はムッとはしたものの、今はそんな事を気にしている場合ではなかった。直ぐに気持ちを切り替えた。

 交番の中にいた警察官もタクシーから飛び降りて来た看護婦の格好をした亜美を見逃さなかった。直ぐに交番から一人の警察官が飛び出て来ると、

「何か、ありましたか?」

訝しげに亜美を見ながら訪ねてきた。

「ハイ。あの中にいる男の事で」

 亜美がそう答えると、警察官も納得するように何度も小さく頷いた。

「あなたですね。あの男にコンパクトを引っ手繰られたという女性は」

「ええ。そうです」

 亜美は交番の外から伊藤が乗り移っている島田を睨むように見詰めながら短く答えた。勿論、伊藤にも亜美が見えていた。いや、見ているというよりも伊藤も亜美を交番の中から睨み付けていた。

亜美は交番の中には入らないつもりでいた。むしろ交番から少しづつ離れた。真美の言葉を思い出していた。近付けば心を読まれる。そうなれば全てが水の泡に終わる。チャンスは一度きりだと覚悟をしていた。

「あの男は何者なんですか?さっきから尋ねているけど何も答えないんですよ。ただ、盗んでない!というだけで。困ってたところなんですよ」

 警察もホトホト手をやいていた事が今の言葉で容易に分かった。

 ならば、と一気に亜美は畳み掛ける事にした。

「このコンパクトを盗ろうとしたんです、あの男は。もし、盗んでないと言うなら、このコンパクトはあの男の物という事になりますよ。ならば確認して貰えばいいじゃ無いですか」

 亜美は意味有り気な眼で、島田には絶対見えないようにその警察官にコンパクトをソッと渡した。そして、

「中に名前も二つ書いてあります。それをあの男に見てもらえれば全てが分かりますよ。そう、全てが!必ず確認して貰って下さい」

 念を押すように亜美が言うと、

「えっ?それはどういう事?名前が二つとは?」

直ぐに変な眼で警察官は亜美を見た。そんな事で一体何が分かるのか?当然のごとく疑問に感じていた。再び、亜美を見ると、自信有り気に亜美は一度だけ大きく頷いた。警察官も、どうせこのままでいても埒があかないと思い、確認だけでもしてみようと思った。

「分かったよ。じゃあ、君も中に入ってくれるかな。確認したい事もあるし」

 そう言って警察官が亜美の肩に手を回すと、

「それは嫌です!あんな男を見るのも嫌です!だから、ここで見ています!私は伊藤病院で看護婦をしている今井といいます」

自分の素性を明らかにし、激しく中に入る事を拒んだ。逃げたりしない事を告げた。警察官も、もうそれ以上は何も言わなかった。

「じゃあ、少し待ってて」

 亜美はひたすら伊藤を睨み付けていた。

「もう直ぐ全てが終わる。真美、もう直ぐ終わるのよね」

 警察官が交番の中に入って行くのを見て、ソッと呟いた。亜美は祈るように手を合わせた。

「あなたは、このコンパクトを盗ったんだよね。今、外にいる看護婦さんが教えてくれたよ」

 徐に警察官が伊藤の前にコンパクトを差し出した。『あの小娘め!一体、何を考えてここに来たんだ!』伊藤は必死になって亜美の心を読もうとしたが、距離が遠くて心が読めなかった。では、と、今度は警察官の心を読んでみたが、ただコンパクトを差し出すだけの事しか分からなかった。詳細は一切分からなかった。伊藤は不安を覚えながらもコンパクトを手にした。

「別に盗った訳じゃない。ただ、借りただけだ!」

 ぶっきらぼうに答えた。

「あの、今井という看護婦さんは盗られたと言ってるぞ。それと、中を開ければ分かるとも言ってたな」

「中を開けると分かる?」

 伊藤はコンパクトを握り締めながら考えた。『どういう事だ?俺の名前はもう使えない筈だ!だとすれば…一体何が?』伊藤が乗り移っている島田の手が少し震えた。コンパクトを開ける気がしなかった。その様子に周りにいた警察官は直ぐに何かを感じた。いつまでもコンパクトを開けない伊藤に疑念を抱き、

「どうした?何故開けて見ないんだ?何かマズイ事でもあるのか?」

急に迫って顔を寄せて来た。

「い、いや、別に、そういう訳じゃ…」

口ごもると、再び警察官がコンパクトを取り上げ、蓋を開けて伊藤に見えるように目の前に差し出した。その瞬間、伊藤の顔付きが激しく変わった。

「こ、これはっ!今井!お前!お前…」

突然立ち上がると、外にいる亜美を睨みつけて叫ぶように大声を上げた。その声に、周りの警察官が反応した。

「静かにしろ!何を慌てている!落ち着け!」

 二人の警察官が両脇を抱えるように押えようとしたが、非常に強い力でそれを振り払おうとしていた。ひたすら暴れた。

「今井!貴様!今井」

 もうそれ以外の言葉は伊藤の口からは出なかった。眼を真っ赤にして歯軋りを繰り返した。やがて、完全に警察官に押え込まれた伊藤の姿を確認すると、亜美はゆっくりと無言のまま交番に入って来た。亜美の表情は穏かだった。『さあ、どうぞ、私の心を存分に読んで下さい。院長、あなたの負けです!』亜美は微かな笑みを浮かべた。

「クソッ!貴様!こんな真似をしやがって!」

 伊藤は押えられながらも、亜美を睨みつけ激しくののしった。周りにいた警察官は何故こんなに慌てふためくのか分からず、何がそのコンパクトに書かれているのか気になった。直ぐに、一人の警察官が伊藤の握っているコンパクトを取り上げ覗いて見た。

「何だ、これは?単にローマ字で名前が書いてあるだけじゃないか」

 そう言って暴れる伊藤を不思議そうに見た。

「この男は一体何を怒っているんだ?」

 警察官の問いに亜美はまるで何も知らないように、

「さあ?」

軽く首を傾げて見せた。その態度に伊藤は更に激昂した。

「今井!お前、やりやがったな!」

 そのコンパクトにはローマ字で、

   MOTOO ITO

   KOICHI SHIMADA

 と、縦に二人の名前とその下にバツが書かれていた。

 亜美は全く動じなかった。むしろ勝ち誇ったように心の中で、『どうですか、伊藤院長。井山の漢字の名前は使えなくてもあなたにはもう一つ名前があったんですよ。しかもそれはローマ字で横ではなく縦に書くと左右対称の文字になるんですよ!』精一杯叫ぶように心の中で言った。亜美の心の声を聞くと急に伊藤は力無くその場に崩れ落ちた。

「さすがだな、今井。俺の負けだ…だがな、お前が勝った訳じゃないぞ。これで全てが終わったなんて思うなよ。お前では終わらせられない。お前では……」

 伊藤は何か意味有り気に不敵な笑みを浮かべポツリと呟いた。しかし、亜美は気にもせず尚も心の中で続けた。『私では?フッ、強がりは止めて下さい!元々あなたはこういう運命にあったんです。さあ、きっと土田さんもあなたを見つけたことでしょう。もう終わりです。今度は逃げられませんよ。あなたの負けなんですよ。さあ、島田先生を返してもらいます』伊藤は、もう何のリアクションも無かった。まるで、その時を待っているかのように亜美には思えた。直ぐに伊藤の顔付きが変わった。眼を剥き、その剥いた眼が、ただ一点、コンパクトを見詰めていた。やがて、コンパクトから一本の白い腕が急に伸びて来たかと思うと、伊藤が乗り移った島田の首を掴んだ。伊藤は苦しそうな表情をしながらも敢えて抵抗する素振りは見せなかった。

『先生、やっと一緒になれますね。探しましたよ。もう逃がしませんよ』

 亜美の耳には、コンパクトの中から優しい、それでいて悲しい声が聞こえた。直ぐに土田の声だと分かった。

「由美…すまなかった…」

 ただ呟くように、そう言うと伊藤は仰向けに倒れ動かなくなった。

「オイ!オイ、どうした!何があった?」

 周りにいた警察官が慌てふためき出した。勿論、コンパクトから伸びた腕も、声も聞こえていない者には、まるで意味が分からなかった。亜美は仰向けになった島田を暫く心配そうに見守っていた。一抹の不安があったからだ。本当にこれで島田が帰って来るのか、自信が無かったからだ。しかし、これで良かったんだと無理矢理思う事にした。真美の言った事を信じる事にした。

「救急車だ!早くしろ!」

 揺さ振っても、声を掛けても全く動かなくなった島田を見て一人の警察官が叫んだ。

「待って下さい!もう少しだけ待って下さい!」

 慌てふためく警察官を制止するように亜美が叫んだ。

「そう言えば君は看護婦だよね。この男はどうなったんだ?一人で叫んだり暴れたりで、我々には意味が分からんよ」

「大丈夫…だと…思います」

 亜美は固唾を飲んでひたすら島田を見詰めていた。やがて島田が微かに動き始めた。亜美は眼を細めて、ただ見詰めていた。

「こ、ここは何処だ?」

 目覚めた島田が眼をパチクリさせながら周りをキョロキョロと見回すと数人の警察官が視界に入って来た。

「警察?えっ、どうして僕が…また…警察署に?」

 島田は周りを取り囲む警察官を見て慌て始めた。

「君はふざけているのか!ここは交番だ!」

 まるで茶番劇でも演じているように思えた警察官は思わず声を荒げた。意味も分からず怒鳴られた島田は咄嗟に首をすくめた。そんな時、亜美の顔が見えた。

「あ、亜美!どうなっているんだ?どうして僕はここに?どうして僕は怒鳴られるんだ?」

 周りの警察官の顔色を窺いながらも、まるで亜美に助けを求めるように呟いた。亜美は島田の眼をジッと見詰めながら段々と歩み寄って行き顔を近づけた。

「本当に島田先生ですか?鼻はもう気になりませんか?」

「何を言うんだよ、亜美まで。それに鼻って何の事だよ?」

 亜美の顔に笑顔が戻った。思わず涙が溢れそうになった。

「良かった!本当に良かった!帰って来たんだ!」

 そう叫ぶと亜美は島田に抱き付いた。

「オ、オイ、亜美、ちっとも良くないよ。それに帰って来たって、どういう事?確かに、ここ数時間の記憶は無いけど…まるで意味が分からないよ」

「良いんです、そんな事!もう完全に終わった事だから」

 手で涙を拭いながら精一杯の笑顔で答えた。やっぱり意味が分からない島田も、亜美の涙を見ると納得するしかないと思った。

 しかし、もっとも納得出来ないのは警察官達だった。

「何も終わってないぞ!そもそも、君がこの男にコンパクトを盗られたって言って来たんだろ?」

「あっ、あれは、そのう…ちょっと、この人と喧嘩して…ごめんなさい!本当にごめんなさい!こんな事になるなんて思わなくて。すみませんでした!」

 亜美は何度も警察官に頭を下げると、まるで逃げるように島田の手を取り、交番から飛び出した。

「あっ、オイ!ちょっと、君たち!」

 亜美は走りながらも後ろをチラッと振り返った。警察官が追って来ない事を確認すると、島田と二人、立ち止まり呼吸を整えた。

「なあ、亜美。コンパクトとか喧嘩とか、僕にはまるで分からない事だらけなんだけど…」

 額に汗を滲ませる島田の顔は、不安そのものだった。亜美はニッコリ微笑むと、ゆっくり首を横に振った。

「もう何も聞かないで下さい。それより、先生が戻って来てくれて、私…私、本当に嬉しくて…もしかして本当に死ぬんじゃないかと思って……私、先生の事が死ぬほど好きだったから……」

 そこまで言うと亜美は言葉を詰まらせた。島田も、分かったという様に、

「ありがとう。あ、でも死んじゃあダメだよ、ね!」

 一度大きく頷くと、亜美に笑顔を見せた。今の島田には、失った時間の真相を知るよりも、亜美に辛い思いをさせたくない、という思いの方が遥かに強かった。もう何も聞く必要が無くなった。

「もう、こんな時間か。なんか色々あって忙しい日だったな」

 島田は腕時計に眼をやり呟くと、ソッと亜美の肩を抱いた。

夕方だというのに太陽はまだ高い所から二人を照らしつけていた。やがて、二つの影が一瞬、一つに重なった僅かな時間が流れた後、

「さ、さあ、病院へ戻ろう」

 照れくさそうに島田が言うと、少し、顔を赤らめた亜美は無言で頷いた。

「みんな、僕たちを待ってるよ。たぶん、説明しても誰も理解してくれないだろうけどな」

「そうですね。でも、良いんです。先生と私は本当の事を知っているんですから。それだけで十分です」

 そう言うと、まだ眩しい太陽を見上げ、眼を細めた。もう一人、大事な人が亜美にはいた。それは真美だった。『ありがとう、真美。また、助けてもらったね。本当にありがとう。真美のおかげで上手く行ったよ。真美の事、絶対忘れないよ』まるで太陽の眩しさを避けるように手で眼を覆い、ソッと溢れそうになった涙を拭った。

「この時間だから、今度はタクシーで戻るとするか」

 島田はそう言うと亜美の肩を抱いている手とは逆の手をサッと挙げた。直ぐにタクシーが二人の前に止まった。

街の道路は、そろそろ夕方のラッシュが始まろうとしていた。島田も亜美も一分でも遅く病院に着く事を内心喜んでいた。信号の待ち時間も、前に並んでいるたくさんの車も、イライラする運転手とは逆に、今の二人には愉快に思えた。

タクシーは、まるで赤いテールランプという光で繋がれた列車のように、ゆっくり病院へと向かっていた。


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