Life Goes On 3
二人が営倉入りを命じられてから数日たった頃、昼食の代わりに、彼は来た。
「出ろ」
「え?」
エレナが呆然としているのには気にも留めずに、憲兵隊の隊長は牢の鍵を解く。かち、かち、と、二つの金属音が静寂の中に鳴り響いた。
あまりに唐突すぎる事態に、エレナは戸惑う。いったい、何故。
開いた扉を見つめて呆然としていると、憲兵隊の隊長は少し優しげな表情を浮かべてエレナ達へと告げる。
「二人とも、釈放だ」
牢を出たところで、彼は再び感情の読めない瞳で二人を見下ろしていた。
「これは…………?」
イヴが恐る恐る上目遣いで訊ねてみると、彼は努めて事務的な声でその意図を伝えてくれる。
「先程も伝えた通り、貴官らは本日付で釈放となった。エレナ・レイエンダ少佐及びイヴ・シンフォード中佐は、この後は直ちに西方方面軍第三軍司令官、アイルヴァード・アークニール中将の下へと出頭せよ、との命令が出ている」
そう言って、彼は手に持っていた鞄から二枚の書類を取りだして、エレナ達へと手渡した。
その書類を見て、エレナは咄嗟に確信する。
――これは、ヴァード小父さまがやってくれたのだ。
あんなに汚職を嫌い、誠実に職務を果たしてきた小父さまが、私達のために。
心が暖かくなるのを感じていたエレナの傍らで、イヴは遠慮がちに彼へと訊ねる。
「では、その前に一つ、要望があるのですが。宜しいでしょうか?」
「なんだ、言ってみろ」
彼の視線が隣へと向く。イヴは少しの逡巡ののち、小さな声で口を開いた。
「…………お風呂、入らせて貰えませんか?」
もういつぶりかも分からないシャワーを浴びて、エレナとイヴは気持ちも新たに支給された軍服を着る。久しぶりに着た新品の軍服は、やはり少し硬くてどこか落ち着かなかった。
憲兵達の同行の下、二人は拘置所を出る。視線を上へと向けると、そこには冴え渡るような蒼穹が広がっていた。高空に佇む白雲と吹き付ける冷たい風が、今はもう冬だということを改めて実感させてくれる。
あと、もう一ヶ月もしないうちに聖誕祭か。
「乗れ」
言われて、エレナの意識は眼前へと引き戻される。視線を下へと戻すと、そこには用意されていたらしい黒色の車が停車していた。恐らく、空港行きのものだろう。ここから帝都ロンディアルトまでは、車で行くには遠いから。
イヴと一緒に後部座席に座り、前部に憲兵の二人が座ってから、車は動き出す。窓外に見える冬景色をぼんやりと眺めながら、エレナは空港までの道のりを過ごすのだった。
†
アークニールとの面談が終わり、晴れて自由となったエレナは、イヴと共に陸軍本部を出る。
……とはいえ、二人とも一階級降格に加えて、エレナは四ヶ月の自宅謹慎に、イヴは戦区司令官の解任だ。流石に全くの無罪、という訳ではなかったが。
それでも、本来の銃殺刑よりかは何十倍も軽い罰則なのだ。ヴァード小父さまには感謝してもしきれない。
周囲の将校達から向けられる嘲弄と蔑みの視線は全て無視して、二人は手を繋いで歩いていく。
本部から少し離れた公園まで一緒に歩いて、そこでようやく繋いでいた手を離した。数歩駆けた先、イヴは不意にくるりと振り返ってきて微笑する。空色の髪が、冷たい風にふわりと揺れていた。
「私はこれから研究棟に行くけど……。エレナはどうするの?」
「うーん、そうねぇ…………」
訊かれて、エレナはその場で立ち止まって暫し思案する。
正直、一番やりたいのは部隊の指揮だ。今、この瞬間にでもレイト達は生身で〈ディヴァース〉の軍勢と対峙し、命の危険に晒されているのかもしれない。そう思うだけで、身体が疼く。今すぐにでも彼らの為に動きたいという気持ちに駆られる。
……けれど。今の私には、それはできないから。
もう、これ以上エレナは命令違反を犯せない。やってしまうと、今度こそ本当に銃殺刑だ。周りにも更なる迷惑をかけることにもなってしまう。
最悪の場合、レイト達にまで被害が及ぶ。それだけは、絶対に避けなければいけない事態なのだ。敵ではなく、味方によって命が喪われるなど。
となると、やることは自然と一つに絞られてくる。
「折角だし、軍立図書館で幾つか本を借りて勉強でもしようかな?」
エレナの言葉に、イヴは苦笑したように笑う。
「相変わらずねぇ……。なに、今度は何の勉強するつもりなの?」
「戦術と戦略を更に深く。もっと有効な指揮を執れるようになって、対抗法が確立できれば、彼らの戦死率はもっと減らせるでしょう?」
口元に笑みを浮かべながら、けれども真剣な海色の瞳を見つめて、イヴは肩を竦めて苦笑する。ほんとに、この子は。
「じゃあ、私とはここで一旦お別れね。あ、今日の夕食は多分いらないと思うから、一人でよろしく」
「ええ。分かりました」
にこりと微笑んで、イヴは手を振る。
「…………じゃあ、またあとで」
「ええ、また」
こくりと頷くと。イヴはくるりと振り返って、空港行きのバス停へと歩いていく。その背中を、エレナは見えなくなるまでずっと見つめていた。また、会えることに安堵しながら。
イヴの背中が見えなくなったところで、エレナはくるりと振り返る。公園に背を向け、来た道を戻ろうとして――先日の憲兵隊の隊長と目が合った。
「え?」
思わぬ再開に、エレナは目をまばたかせる。どうして、彼がここに?
そんな心情を察したのか、彼は安心させるように目を細めて優しく言葉を紡ぐ。
「仕事とは別件だ。身構える必要はないよ」
「え、あ、はい…………?」
事態の読み込めないエレナに、彼は苦笑しつつ言葉を返す。
「少し時間を頂きたいのだが。今、大丈夫かな? レイエンダ大尉」
「だ、大丈夫ではありますけど……」
困惑しつつ、エレナは上目遣いで彼の瞳を見つめる。……害意はない、のだろうが。
その前に。彼には聞いておかなければならないことがある。視線を彼へと上げたまま、エレナは遠慮がちに言葉を紡ぐ。
「貴方のお名前を、まだ伺っていないのですが」
「…………あ、」
瞬間、二人の間には妙な沈黙の時間が訪れる。彼の反応からするに、素で忘れていたらしい。いかにも軍人らしい屈強な体躯からは想像だにしない事態に、エレナは思わず笑みを漏らす。
彼もつられて口の端を吊り上げながら、言葉を継ぐ。
「……では、改めて。私はグリマルディ地区所属、第八国家憲兵隊大佐のアンドリュー・バートレットだ。先日は世話になったな」
……世話になったのはこちらの方だが。
そう言いたいのを押し殺して、エレナは当初の質問へと戻る。
「……では、バートレット大佐。今回は、私に何の用事があってこちらへ?」
周囲を見渡して。誰も居ないのを確認すると、バートレットは腰を屈めてエレナの耳元で囁いた。
「……義勇戦隊のことで、少し話が」
「……!?」
エレナははっとして目を見開く。驚愕のままにバートレットへと視線を向けると、彼は真剣な眼差しでエレナを見つめていた。拘置所で見た、あの冷たい瞳。
「君にとっても有益な話にはなると思うが……、どうする?」
「勿論――、」
即座に言いかけて。彼の冷たい双眸を見て、言葉が止まった。
――これを聞けば、もう、後戻りはできないぞ。
そう、彼の瞳は言外に物語っていた。深い海の底の、更に底。殆ど黒色の、冷たい蒼の瞳。エレナ達を嘲り、蔑む将校達とは違う、実際の戦場を見たことのある者の、冷徹な眸。
ごくりと、緊張で出てきた唾を呑み込む。これを聞いてしまえば、もう二度と昔のような生活はできないのだろうなという、不思議な確信があった。
……けれど。義勇戦隊のことならば、エレナは受け入れなければならない。一人の軍人として。一人の国民として。
怖気付く己の心を叱咤して、エレナはゆっくりと口を開く。
「……是非、聞かせてください。その話を」
その話が帝友会との、果ては己の人生の転機になることを、当時のエレナは知る由もなかった。




