第二章 西部戦線異状なし 1/5
『第五四戦区!! 勇敢なるグリマルディ戦隊に栄光あれ!!』
年季の入った兵舎の壁面に、誰がいつ書いたのかも分からない落書き。それは、色褪せた赤のチョークででかでかと描かれていた。
午後の陽光に照らされた壁面の文字を、レイトは暗い面持ちで見上げる。最初の文字だけが、鮮やかな赤で書き直されていた。ウォーレンが、それを面白がって新たに上から書き直したものだ。
そのウォーレンは、昨日死んだ。
新たにここへと着任した、その日の黄昏時の出撃で。
敵の砲撃の直撃で、死体は残らなかった。
落書きから目を離し、西の地平線へと視線を向ける。どこまでも続く新緑の草原と、突き抜けるような青い空。
この先に人類は存在しない。いるのは、ウォーレンを、同胞を、──妹を。レイトから大切なものを全て奪った、〈ディヴァース〉の純白に煌めく大軍だけだ。生身の人間が相手するには、余りにも強固で、強大な敵。
少年の双眸が、不意にキッと細められる。全てを焼き尽くさんとばかりに憤怒と憎悪を灯らせた、真紅の双眸。紅玉にも似たその瞳と漆黒の髪は、彼が紅黒種で、異人種の一人だということを決定づける特徴だ。
緩く開けた野戦服の首元からは、何かを首に提げているのが確認できる。軍規違反も甚だしいが、義勇戦隊にはそれを叱る上官も居ないのだ。居もしないやつの言う事など、誰も守らない。
「そう気張るなって。昨日のあれは、お前のせいじゃないんだから」
隣に居たセイが、レイトの肩に手を置いて小さく声をかける。金色の短髪と、今は陰を落としている黄玉の双眸。レイトより少し背丈の高い、金光種の青年だ。
「分かってる。分かってるさ! けど…………!」
レイトの紅い瞳に、後悔と自責の炎が燃え上がる。少女のような色白の顔が、くしゃりと歪められた。
分かってはいる。頭では理解しているのだ。あれは仕方なかったと。誰も悪くない。ただ、ウォーレンが不運な男なだけだったと。
けれど。
「おれが隊長だったのに。なのに……!」
初日から戦死者を出してしまった。その事実が、何よりも辛かった。今度こそ、もう誰も死なせない、失わせないと誓ったのに。
「だからだ、レイト。お前がそんな調子でどうするんだ? お前が冷静でいなきゃ、まともな指揮もできないだろ?」
宥めるように、セイは優しい声音で言葉を投げる。
「…………くそっ!」
悪態をついて、レイトはやり切れない思いを拳と共に壁へと叩きつけた。未だ治まらぬ自責と後悔の混ざりあった怒りが、レイトの中でめらめらと燃え上がっては心を焼いていく。
いくら身を焦がして嘆いても、死人は戻りはしない。過去は変わらないのだ。どう足掻こうとも、決して。
「…………悪かった。色々と」
何とか心の整理がついたところで、レイトはずっと近くにいたセイに小さく声をかけた。隊長の自分がこれでは、他の戦隊員達の不安を煽るだけだ。いつまでも引き摺っている訳にはいかない。
「どういたしまして……と言えばいいのかな?」
肩を竦めておどけたように笑うセイにつられて、レイトも笑みを零す。三年前に初めて会った頃から変わらない、周りを和ませる、飄々とした雰囲気。
「そういや、この戦隊の司令官、今日こっちに来るらしいぜ?」
「……は? 司令官が?」
思いもよらぬ言葉に、レイトは面食らう。ハッと顔を上げると、そこには興味半分、嫌悪半分の微妙な笑顔で佇むセイがいた。
「なんでも、俺らと同じ十六のお嬢ちゃんだそうだ。いったい、何しにこんなとこに来るんだかねぇ……」
「知らないし興味もないね。あんな、クソみたいな奴らなんか。どうせ、動物園か何かだとでも思ってんでしょ」
憎悪の灯る真紅の双眸を細めて、レイトは投げやりに言い捨てる。知らず、言葉の端々からは、堪えきれない嫌厭の感情が滲み出ていた。
義勇戦隊の司令官は、部隊の新設に伴い、毎回派遣されてくる帝国陸軍──つまり、正規軍の将校達だ。彼らは義勇戦隊とは違い、士官学校を出ているために、より専門的で効率的な作戦立案や戦闘指揮が実行できる。……あくまで、建前上は。
実際には、彼らは何もしていないのだ。部隊の新設から壊滅まで、殆どの司令官は一度も任地に訪れないままに終わる。
もちろん、戦闘指揮もしなければ、最低限の事務仕事である補給の手配すらも行わない。補給に関しては、どの戦隊も戦隊長と輸送機の搭乗員が、直接やり取りを交わして何とかなっている状態だ。
それ故に、大抵の異人種達は、もはや司令官の存在を認識していない。そしてそれは、この第一〇一帝国義勇戦隊の戦隊員達も例外ではなかった。ただ、唯一、レイトだけは。その存在を忘れることができなかったが。
「異人種動物園ってことか? ……いいな、それ。来た時に言ってやるか、『異人種動物園へようこそ!』ってな」
大仰に両手を振るセイを見て、レイトは苦笑する。
「だいぶ趣味悪いよ、それ。絶対やめといた方がいいって」
「え? そう?」
「少なくとも、おれはやったらドン引きするよ」
「うーん、結構いい線いってると思ったんだけどなぁ……?」
どうやら、笑いのセンスのなさも昔と変わらないらしい。乾いた笑いが、レイトの喉から漏れ出た。
「……まぁでも。やること全部放棄して、知らず聞かずってしてる奴らよりかは、まだマシなんじゃあないの?」
セイの言葉の中に、いつもにはない真剣さを感じ取って、レイトは視線を空へと逃がす。
前の部隊の指揮官だった、低い男の声が甦る。補給の手配も、戦闘の指揮も全て戦隊長に丸投げしてるような、いつもの奴らと全く変わらない司令官だった。ただ、毎回律儀に意味のない敵接近の報せを送って来たのだけは覚えている。
今改めて考えてみると、彼はそれでもまだマシな方ではあったのだ。義勇戦隊の司令官としては。
あえて嘘を言って戦隊を混乱させたり、わざわざ来ては悪虐の限りを尽くすような人ではなかったのだから。
「そう……なのかな」
同い年の少女が悪虐非道を行うとは流石に思えないが。それでも、レイトにとって司令官が来ることは、嫌な記憶が思い出されるばかりで。複雑な気分で、春の青空を見上げるのだった。