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戦場のワルツ  作者: 暁天花
Ep.Ⅰ
32/54

    揺らぐ視線と過去 4/5

 師団長室を退室して、エレナは沈鬱な気持ちで階段を下る。脳裏に蘇るのは、豪雨の中で鮮血に塗れたシャノンの傷跡だ。右腕は完全に斬り飛ばされて、腹部にも大きな裂創を負った、小さく幼い身体の。


 私が取り乱さなければ、シャノンがあんな大怪我を負うことはなかった。だから、この始末は私がつけなければならないのだ。

 落ち込んでいる暇はないのだと、エレナは自分に言い聞かせる。一刻も早く医者を見つけないと。でないと、本当に手遅れになってしまう。救えた命が、救えなくなってしまう。


 こんな時、ロエナ兄さんならどうしたんだろうか。そんなことがふと、脳裏によぎった、その時だった。


「久しぶりだね、レイエンダ少佐」


 嘲るような言葉が飛んできて、エレナは自然と声のした方へと目線を向ける。居たのは、大佐の徽章を付けた青年だった。エレナよりも一、二歳ほど歳上の、数ヶ月前にエレナを襲った、上級大将の息子の。 


「……なんですか?」


 自分でも驚く程に低い声が出た。無意識に、海色の双眸が細められる。 


「そう睨むなよ。折角、君に助け舟を出してやろうってのに」

「え?」


 呆気にエレナは目を見開く。それを見て青年将校はへらへら笑いながら、どこか嘲るような口調で続けた。


「いい反応をしてくれるじゃないか。ほんと、君は普通にしてればただの可愛らしいお嬢さんなのに」

「……はやく本題に入ってください」

「まぁまぁ、そう焦るなって。……聞いたよ? レイエンダ少佐、君、今医者を探してるんだってね?」

「……そうですが、それがなんなんです?」


 少し驚きつつも、エレナは硬い表情を崩さない。

 彼はしたり顔で話を続けた。


「たまたま五四戦区内に友人がいてね。昨日、聞いたんだよ。君が異人種(ディファリア)を治してくれる医者を探し回ってるって話を、ね」

「……!?」


 エレナの瞳が刹那僅かに見開かれる。

 何故、南部戦線勤務の彼が、西部戦線のたかが一戦区の話を知っていたのかが疑問だったが。そういうことか。


 軍制式の通信機は、電波妨害(ジャミング)が無くて尚且つ魔力のある場所であれば基本的にどことでも通信できる。そして、魔力は深海の底から宇宙に近い成層圏に至るまで、あらゆる場所に存在している。


 つまり、防衛線内であれば、部隊の登録さえしていればいつでも、どことでも通話が可能なのだ。

 軍規では、自分の直属と隷下部隊以外との通信は禁止されているはずなのだが……。彼の父は、南方軍集団司令官の上級大将だ。揉み消すことなど容易なことだろう。


 いったい、帝国軍はどれ程腐敗しているんだろうか? 彼に対する嫌悪感に、エレナはつい目を眇めた。


「…………対価は、何を?」 

「んー、そうだねぇ……?」


 彼は特に気にする様子もなく、顎に手を当てて、エレナの肢体を舐め回すように見回してくる。当惑して首を傾げていると、彼は不意に薄気味悪い笑顔を浮かべて言い放った。


「じゃあ、()()はどうかな?」

「…………え?」


 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。今夜? いったい何を?

 しかし、いくらエレナが男女の関係に疎いとはいえ、流石にそれぐらいの知識はある。思考が回転するにつれて、彼の言葉の意図が脳裏に浮かび上がってきた。


 ……()()というのはつまり、エレナの身体を彼へと委ねろ、ということだろう。

 その証拠に、目の前の青年将校は青色の目に期待の色を湛えて、口元を薄気味悪い笑みに歪めている。


 ぞくりと、悪寒がした。

 私は、この身体を、初めてをこの男に捧げるのか? 醜悪で、それでいて私を嗤い、嘲り、あまつさえ襲おうとしてきたこの男へと。

 ぎり、と何かに耐えるように奥歯を噛み締める。


 けれど。現状、エレナにはシャノンに医者を宛がえるような能力(ちから)がないのだ。そして、放置していればシャノンはまず助からない。

 でも、彼の権力(ちから)があればシャノンを助けられる。一夜彼に身を委ねるだけで、幼い無垢の命を助けることができるのだ。


 ぐ、と両拳を握り締める。右手を胸に押し当てて、震える身体と己の心を叱咤する。たかが一夜だ、どうってことはない。今、この間にもシャノンは苦しんでいるのだ、私が頑張らないでどうする。


 青年将校の青色の瞳を、エレナはキッと見据える。決然とした心意気で、彼に告げた。


「……わ、かり……ました…………」


 決意とは裏腹に、エレナの声はとても小さくて細かった。


「ん? なんだって? 聞こえないなぁ」


 心底愉しそうな顔で、あからさまに勝ち誇った表情で彼は言い募る。

 息が詰まる感覚がして苦しい。視界が微かにぼやけていくのを感じて、一度きつく目を瞑った。

 小さく深呼吸をして、再び決意を自分の中で確かめる。再度、了承の言葉を伝えようとした──その時だった。


「エレナ、あんた何してんの?」


 そんな言葉と共に、横から突然腕を掴まれた。

 はっとして目を向けると、そこには蒼玉(サファイア)の双眸に怒りの炎を灯らせたイヴの姿があった。見たこともない、凍えるような冷徹の瞳に、エレナは言葉を失う。

 その瞳のまま、イヴは青年将校へと視線を向ける。


「悪いけど。エレナはあんたなんかに渡さないから」

「……なに、君? これは僕とレイエンダ嬢との取引なんだよ。邪魔しないで貰いたいな」


 露骨に不機嫌になる青年将校を、イヴは笑い飛ばす。


「はぁ? 知らないわよそんなもん。強姦しようとしたクソ野郎の分際で、私の家族に触らないでくれる?」


 一方的に言い捨てた言葉が、静寂に包まれた正面玄関に響き渡る。余りの暴言に、流石の大佐も言葉を失っているようだった。


「エレナ、帰るわよ」

「あ、え?」


 突然のことに理解が追いつかないエレナの手を引いて、二人はそのまま陸軍本部を後にした。




 陸軍本部横の公園へと連れ出されて、エレナはようやく事態を把握する。咄嗟に、引かれていた腕を引っ込めた。


「何するのよ!」


 さっと距離をとると、エレナはイヴの瞳をキッと睨みつけた。溢れ出る激情のままに、エレナは叫ぶ。 


「せっかく医者を呼べるところだったのに! なんで邪魔したの!?」


 シャノンを助けることのできる絶好の機会だったのに。医者を呼びつけることのできる、またとない機会だったのに。なのに、なんで。

 激情に燃えるエレナとは対照的に、イヴはどこまでも冷めた調子だ。 


「……エレナ、それ本気で言ってるわけ?」

「なっ……! これが冗談に見えるの!?」


 喚くエレナに、イヴははぁと大きなため息をつく。 


「あのね、相手はあれよ? あんたを犯そうとして、失敗したら親にチクって貶めようとした奴なのよ?」

「だ、だったら何よ!? 私の身体一つで一人の命が救えたのに……、なのにっ……!」

「冗談言わないでよ」


 心底可笑しいというように、イヴは嗤った。笑う、ではなく、嗤う、だ。

 親友の初めての顔に、エレナは狼狽える。


「知り合いの医師を駐屯基地に派遣する? あんたの身体一つで一つの命を助けられる? 馬鹿言わないで。そんなこと、できる訳ないでしょ」


 冷めて冷徹な瞳が、エレナの海色の双眸を刺すように見つめる。


「そんな約束、あいつが守るわけないでしょ。あんたの身体を散々食い尽くして、弄んで、最後は変な噂広められて終わりよ。……それに」


 ぐ、とイヴの双眸が細められる。


「あんなに震えて、泣きそうになってるやつが自分の身体なんか売れないでしょ」 

「で、でも! そうするしか助けられないのよ!」


 エレナの悲痛な叫びが、公園の中に木霊する。


「私のせいであんな大怪我を負って、だけど、私のちからじゃ応急処置をするのが精一杯で! 軍医や医者を呼ぼうにも、私の権力(ちから)じゃ誰も動かせなくて! だから……!」

「だから自分を売ろうとしたってわけ?」


 エレナは無言の肯定を返す。するとイヴは、先程までとは打って変わった激情を爆発させた。


「ふざけないでよ! あんたは私の親友で、家族なの! もっと自分を大事にしてよ!」

「い、イヴ…………?」

「エレナはエレナなの。兄や両親のようになる必要も、身体を売ってまで異人種(ディファリア)に尽くす必要もないの! お願いだから自分のことを大切にしてよ!」


 言い切って、二人の間には重い静寂の時間が訪れる。いつしかイヴの激情の炎は消えていて。代わりに、懇願のような色が見えた。愁眉を寄せて、イヴは無理に笑う。


「ねぇ、もういいでしょ? 義勇戦隊の司令官なんかやめて、戦区司令官に戻って来なよ。それでいいじゃない」


 微かに心がちくりと痛むのを感じながら、けれどもエレナは首を横に振った。


「辞めないわ。……絶対に」


 イヴの蒼玉(サファイア)の瞳は、伏せられてよく見えなかった。

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