緋色と海色 2/5
時計の針が深夜の一時を回ったころ。エレナは、一人外のベンチに腰掛けていた。
コート越しにも、冷たい夜風が身体に伝わってくる。だが、そんな寒さを差し引いても義勇戦隊の星空は絶景だ。
真っ暗な世界に煌めく、大小様々な無数の星辰。地平線の近くに横たわる長大な天の川。そして、夜闇を優しく照らし出す、満月の輝き。
こればかりは、どれだけ時間が経とうとも慣れる気配がない。いつ、何回観ても、その絶景には圧倒される。
──おれ達のことを知ろうともしない。
──そもそも、知る気がないんだ。
スカーレットが放った言葉が、またもエレナの脳裏を駆け巡る。
私は、彼らのことを知ろうとしていないと彼は言った。そもそも、知る気すらもないのだと。
それこそ、いつもより何倍も激しい憤怒と嫌悪を込めて。少女のような色白の顔を、ぐしゃりと歪めて。真紅の双眸をキッと細めて。
いつもは、そこで彼の瞳を見るのをやめていた。……怖かったから。彼の激情が──いや、義勇戦隊という、帝国の行う悪魔の所業から目を逸らしたかったから。
それなのに、私は頑張っているんだと。彼らの方が歩み寄ってくれていないだけなのだと。そう、どこか無意識のうちに自分は思い込もうとしていた。
けれど。違った。
私が、彼らと対等に向き合うことを避けていただけだったのだ。最初に会ったあの日から、気付ける余地はあった。何度でも、彼らと向き合う時間はあった。
それを、私は何度も無駄にしてきたのだ。一度でも彼らの──スカーレットの目を見て受け止めれば、分かった感情だった。
──失意。
それが、スカーレットの瞳に宿っていたもう一つの炎。
だけど。エレナにはそれが分からない。失望でも、絶望でもない。失意である理由が。
「なにしてるんですか?」
不意に声をかけられて、エレナの思考は現実へと引き戻される。目線を前へと向けると、そこに居たのはホーネットだった。
上着の類は着ていない。ということは、何かの拍子で目が覚めたのだろうか。
隣、座りますねと一言断って、ホーネットはエレナの横へと座ってくる。流石に風邪を引きそうだったので、とりあえず自分のコートを脱いでホーネットへとかけた。
「流石に寒いでしょう」
「えへへ。ありがとうごさいます」
にへらと笑う彼女の顔を見て、エレナの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
「こんな時間に、いったいどうしたんですか?」
「目が覚めてしまったので、食堂へと飲み物を取りに行ってたんです。そしたら、少佐が外に居るのが目に入って、つい」
「つい、って……。せめて、来るなら上着ぐらいは着てください。風邪を引いてしまいますから」
「あはは。ごめんなさい」
笑顔で言葉を返すホーネットに、エレナは少し苦笑する。彼ら義勇戦隊は、簡易な応急処置程度しか医療を受けられない。些細な病気ですらも、彼らにとっては致命的なことに繋がりかねないのだ。
「少佐こそ、こんな時間にこんなところでなにをしてたんですか?」
「え?」
純粋無垢な真紅の瞳を向けられて、エレナの心はどきりと脈を打つ。逃げるようにして、視線を空へと投げた。
ぽそりと、消え入りそうな声でエレナは答える。
「……考えごとを」
「考えごと?」
「はい。スカーレットが言っていたでしょう? 私はあなた達のことを知ろうともしていないって」
つい数時間前の光景が脳裏に甦る。激しい憤怒と微かな失意を湛えた、スカーレットの真紅の瞳が。
「そ、それは……!」
弁明でもしようとしているのか、ホーネットは焦った様子で言葉を紡ごうとしてくる。そんな彼女を見て、エレナは苦笑する。
「いいんですよ、事実なので。この数週間の間、私はあなた達に向き合ったつもりになっていました。……けれど、それはただの思い込みだった」
思えば、スカーレットの言葉からはいつも逃げているばかりだった。その言葉の真意も、内に含まれていた失意も。何もかも。全てから目を背けて、知ろうとすることを放棄して。なのに、知ったつもりになって。
「……私は、いったいどうすれば良いのでしょうね」
無意識に言葉が漏れ出ていた。
ふと、隣を見やると、そこにはいつになく複雑な表情で佇むホーネットが居て。刹那、自分の漏らした言葉に、エレナはハッとする。
「……と、こんな話はあなたにするものじゃありませんでしたね。ごめんなさい。忘れて──」
「シャノン・リース」
「え?」
突然の言葉に呆気に取られていると、ホーネットは真剣な眼差しでこちらに向き直ってきて、言った。
「わたしの、本当の名前です。歳は十四で、紅黒種と天青種の混血。出身はアルクヨーク。前の所属部隊はスカーレットと同じ、第六三戦隊」
「な……にを…………?」
唐突に開示された情報に、エレナは硬直したまま目を瞬かせる。すると、ホーネット──もとい、シャノンは、ふっと目を細めた。優しくて、けれど、歳不相応に大人びた、冷たいあかいろの瞳。
「わたしからのヒントはこれまでです。ほんとは何も言うなって言われてたんですけれど、あなたには頑張ってほしいから」
「そ、それは……?」
どういう意味なのか、エレナはなおも理解が追いつかない。言葉に詰まらせていると、不意にシャノンが席を立った。エレナの前面に立って、背中を向ける。
「スカーレットも、ああ見えてとても優しい人なんですよ」
「……そう、なのでしょうね」
エレナは静かに頷く。今はもう殆どが消えているが、以前のシャノンの身体には、至る所に痣や傷ができていた。どれも、戦闘ではつきようよない、痛ましい内出血の痕が。
恐らく、前の部隊では同じ義勇戦隊の隊員達からも暴行を受けていたのだろう。彼女は、彼らを現状に追いやった天青種の血を持っていてる数少ない存在だから。
普段の言動とシャノンのなつきようからも、スカーレットがそれらから彼女を守っていたのは明白だ。そして、彼が優しい人なのだということも。
「だから、」
くるりと、シャノンが振り返る。真紅の双眸が、真摯にエレナの深い海色の双眸を映し出す。その瞳は、どこか懇願しているかのような色をしていた。
「これ以上、あの人を失望させてやらないでください」
「え」
無意識に手を伸ばす。待って、と声に出す前に、シャノンは「おやすみなさい」と言って兵舎へと帰って行ってしまった。
再び、その場には静寂と冷たい夜風が吹き抜ける。
隣の空席で、エレナのコートが風に吹かれてばさばさと音を立てていた。
兵舎の屋上。目が覚めたレイトは一人、星を眺めながら物思いに耽っていた。
扉が開く音がして、そちらの方に目へと目を向ける。来ていたの金髪金瞳の青年──セイだ。
「やっぱりここにいたか」
「……ごめん。起こしちゃったかな?」
セイは苦笑する。
「そういう訳ではねぇよ。ただ、お前の部屋の扉が空きっぱだったからな」
「ああ……」
そういや、自分で部屋の扉を閉めた記憶がない。口元に笑みを浮かべつつ、レイトは再び視線を空へと戻した。白く輝く満月が、超然と夜闇を照らし出す。
「また、あの夢か」
真剣な声音で、セイは隣に来ながら言う。
「…………うん」
再び脳裏に焼きついた記憶が蘇ってきて、レイトは苦痛に顔をぐしゃりと歪める。無意識に、首に提げていた懐中時計を握り締めた。
三年前の吹雪の吹き荒れる冬の日、妹のユーナは死んだ。指揮していた司令官を守ろうとして、レイトの目の前で体を真っ二つに斬り裂かれて。
純白の世界にあかい鮮血を塗らして、けれど即死ではなかったから、凄まじい苦痛の中で妹は死んだ。
まだ、九歳だった。終えるにしては、余りにも短すぎる人生だった。
「あれからもう三年か。早いな」
ぽつりとセイが言ったきり、二人の間には重い静寂の時間が訪れる。いくらかたった頃、不意にレイトが呟いた。
「おれは、あいつらと一緒のことをしてたのかな」
「……どうしたんだ? 急に」
苦笑を浮かべるセイに、レイトはぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「シャノンに言われたんだ。今のおれは、あいつらと同じだ! ……って」
──天青種だからってみんな嫌って、差別して!
──それじゃあ、同じじゃない!
シャノンに言われた言葉が、やけに脳裏に響く。いつの日か、妹にも言われた言葉だった。
重苦しい沈黙の中、セイがゆっくりと口を開く。
「…………まぁ、あんまり良い行動じゃあないのは確かだろうな」
「そっか……」
レイトは俯く。すると、司令官舎の前でなにやら司令官の少女とシャノンが会話しているのが目に入った。
いったい今度は何を話しているのだろう。ぼんやりとそれを眺めていると、不意にシャノンが立ち上がった。
「……!」
彼女と目が合ったような気がして、レイトは息を呑む。だが、それは気のせいだったらしい。特にレイト達を気にする様子もなく、兵舎の方へと帰って来た。
「……そろそろ俺も帰るかな」
言われて、レイトはセイの方へと視線を戻す。目が合った途端、彼は金色の瞳を優しく細めて笑った。
「お前も早く寝ろよ? 明日も朝は早いんだから」
「分かってるよ。……おやすみ、セイ」
おどけたように笑うセイを見て、レイトも少し心が安らぐ。自室へと戻っていく彼の背中を見届けて、レイトは再び視線を眼下の少女へと戻した。
月白の長髪に、深い海色の双眸。帝国軍人のくせにやけに生真面目で、正義感が強くて。なのに、義勇戦隊に対しては臆病で。
彼女の容姿も言動も、何もかも。全てが、三年前の司令官と重なって見える。
「レイエンダ……か」
ぽつりと、レイトの口からその名が漏れ出た。
あの時の司令官も、彼女と同じ姓名で蒼月種だった。深い海色の双眸に、月白の銀髪で。
レイトは、彼女の全てが気に入らない。瞳の色も、髪の色も、善良そうなところも、全てが。……けれど。この気持ちはいったい、何なのだろう──?




