29.思いもよらぬ頼み事
アルバート視点。
───施設にいる皆に片っ端から聞いてみたが、心当たりのある者はいなかった。
最も長くジュリアといたであろうレティシアは肝心な時に買い物に出かけていて、アルバートは焦る心を必死に落ち着かせる。
焦ってもいいことはない。頭ではそう分かっているのに、震えが止まらない。
唇を噛みしめるアルバートの脳裏に、カレンの最期の表情が浮かぶ。
───カレンのように、助けられなかったら。
弱々しい考えが頭をもたげ、それを振り払えない。
今はなによりステラを、そしてジュリアの生きる力を信じるべきだと分かっているのに。
昼下がりの廊下は太陽の光に照らされていて暖かいはずなのに、アルバートの手は冷たい。不安に駆られる今は、普段と何ら変わらない、包み込むような光が眩しすぎる。
───瞼を閉じても遮れない金色の光は、否応なしにアルバートの大切な女性を思い起こさせ、不安や焦りといった負の感情をかきたてる。
首を振り、歩き出したアルバートは、階段の途中に人影を見つけた。説明するまでもなくヴァンスであり、アルバートは何も言わずに通り過ぎようとした。が、直前にヴァンスのほうもこちらに気付き、呼び止めてくる。
「アルバート、そっちは?」
質問の意味を察し、アルバートは無言でかぶりを振る。ヴァンスは「そうか…」という短い言葉を吐息とともに吐き出した。吐息に落胆の響きがあるのは、ヴァンスもまた心労を隠しきれていないのだ。
その様子をみれば、わざわざ聞かなくとも手がかりを得られなかったことは明白だった。
それでも、表向きは平常を取り繕えているだけ良い方だ。『良い』の定義にもよるが。
「……あんまり、思い詰めるなよ」
歩み寄り、じっと見つめてくるヴァンスに自分の心の中が見透かされているようで、アルバートは居心地が悪い。───事実、見透かされているのだろう。
ヴァンスは鈍感なように見えて、意外と相手の様子を見ている。必要があれば声もかけるし、気遣いもする。───そう、必要があれば。
つまり、アルバートは傍目にも冷静さを欠いていて、声をかける必要がある、と判断されたということだ。
思ったことが表情に出てしまったのか、ヴァンスがずい、と顔を近付けた。
「───嫌な笑い方だな」
ヴァンスの言葉の意味が理解できない。嫌な笑い方とは。笑って、いたのだろうか。それすらも分からない。
至近距離の緑色の目を覗き込んで、アルバートは彼の瞳に映った自分に気が付いた。
───自嘲的な笑みを浮かべた黒髪の青年が見つめ返してくる。
右手を持ち上げ、頬に触れる。無意識だったが、口角が上がっていた。
ヴァンスはため息をつくと、口を開いた。
「気持ちは分かるけどな、お前が焦ってると気付けることにも気付けなく……」
「───────だ」
「……。…何て言った?」
空気に溶けて消えてしまうかと思われた呟きの言葉尻を、すんでのところでヴァンスがとらえた。
「気付いて、いたんだ。───ジュリアの様子が普段と違うことに」
「───」
思えば、最近やけに眠そうな素振りを見せていた。疲れているのだろうと、大して気にもとめていなかった報いがこれだ。
一番の後悔は、昨夜部屋を出る前の何かを言いたそうな彼女の姿。
何故、あそこでもっとちゃんと話を聞いてやらなかった。本人が良いと言うならと、聞かないことを選択した自分を殴りたい。でも、それは許されない。これ以上、心配をかけるわけには───
「頼みがある。アルバート、俺を」
「───」
何を頼まれるのだろうと、自然と頬を硬くしたアルバートに、ヴァンスは思ってもみないことを言った。
「───俺を、殴ってくれよ」