19.致命的なひび割れ
月さえ雲に隠れた夜、ひとりの男が人通りのない道を早足で歩いていた。
フードをかぶった大柄な男は、一軒の家をノックすると、家主の返答を待たずに音を立てて扉を開けた。
「───もう少し、静かに入りなさい。誰かに見られでもしたらどうするというの」
顔を隠していたフードを外し、コートを脱いだ男───ダスティンは声が聞こえた部屋に足を踏み入れた。
寝室らしき部屋のベッドの上に、彼女は腰掛けていた。
綺麗に切りそろえられた純白の髪は飾り紐でひとつに纏められ、切れ長の赤い瞳はどんな宝石よりも美しい。ワンピースタイプの部屋着の胸元は赤いリボンでとめられていて、鼓動が速くなる。
見とれるダスティンを女性───元巫であるエリスは手招きし、隣に座らせると、
「…例の件は?」
「───残念ですが、彼女は毒を口にしませんでした。ヴァンスは飲みましたが、行方は分かっていません」
「……そう。失敗、したのね」
「ですが、次は必ずや」
エリスはダスティンの決意には何も反応を見せず、己の髪をくるくると指で弄んでいる。ただそれだけの動作なのに、艶めいたものを感じさせた。
夢を見ているかのような感覚。全身を幸福感が満たし、彼女しか見えなくなる。今、この瞬間は世界に彼女と自分しかいないと錯覚してしまうくらいに。
右手がひとりでに動き、飾り紐をほどいた。ばさりと白髪が広がる。エリスをそっと引き倒し、胸元のリボンに手をかけようとしたダスティンを、エリスが指の僅かな動きで制した。
「まだ、ダメよ。成功したら…だもの」
声をかけられただけなのに、体が動かない。
四つん這いという情けない格好で固まったダスティンの腕からするりと抜け出し、エリスは立ち上がって髪を整えた。
「……失敗したなら、気付かれたはず。何か別の手段を講じましょう」
ダスティンには目もくれず、エリスは思索に沈む。
エリスは一度失敗した相手に任せるほど馬鹿ではない。役に立たないのならば躊躇いなく切り捨てる、そういう冷たい面を持っている。
ステラを巫にするわけにはいけない。
だって、認めたら。《穢れた者》を巫だと認めてしまったら。
崩れる。全てが、崩れ去ってしまう。
これまでの日々が、やってきたことが。
───自分の人生が。
崩れて、粉々になって破片も残さないくらいに燃え尽きて、もう元には戻せなくなる。
壊したくなかった。なくしたくなかった。
───たとえ、それが崩壊する寸前で、形を保っているのが奇跡のような状態だとしても。
そのためには。
「ステラを、殺害しなければ……!」
「───それが、あんたの動機か」
聞き覚えのない声がして、エリスは扉を見やった。
ダスティンが入ってきて開けたままにしていた寝室のドアから、見知らぬ男が入ってくる。
ランプの光を反射して、ひときわ明るく輝く金髪。それなりに整った顔かたちに翠の双眸。
───ダスティンから聞いた特徴と一致する。
「ヴァンス・シュテルン……」
「自己紹介の必要は無いな。───確かに、俺はヴァンスだよ」
「毒を…飲んだと……」
「ああ、ラアル草の毒にはお世話になったよ。…正直、勘弁してほしいな、あれは」
ヴァンスが生きていて、現れたことに対しては驚きがある。だが、まだ毒を口にしてから一週間くらいしかたっていないだろう。体調は万全ではないはずだ。
「ダスティン」
名を呼ぶとダスティンの硬直がとけ、彼は腰にさしていた短剣を構えて、エリスを守るように立った。
「ここにやってくるとは思わなかった。だが、そんな状態で私に勝てるのか?」
「どうだか。でもな、ひとつ勘違いしてるよ、騎士団長どの。───入ってきてくれ」
ヴァンスの後ろから入ってきたのは、エリスも覚えのある黒髪の騎士と、殺そうとしていた少女、ステラ。
そして───
「全員、最初から聞いて知ってるよ。…あんたが毒を盛ったこともな」
騎士団の半数以上の人員が、三人を囲むようにして立っていた。
───この瞬間、エリスは積み重ねてきたものが致命的にひび割れるのを感じた。