50.約束
───時は、少し戻る。
大所帯でゆっくり移動したステラ達と違い、ヴァンスは馬で儀式が行われる場所まで駆け抜けた。
竜の力が覚醒した今は、左手も普通に動くようになったため、馬に乗れるのだ。
ともかく、一日まではかからずに崖についたヴァンスは、岩に隠れて様子をうかがっていた。ステラが重りをつけるために檻から出され、もっと近くへ行こうとしたとき。
ヴァンスは数人の騎士に見つかり、喉元に剣を突きつけられた。
剣を折ることも考えたが、騒ぎが大きくなってステラを助けられなくなっては本末転倒だ。幸い、騎士達は儀式の神聖な空気を壊すことを恐れたのか騒ぐようなことはせず、ヴァンスは必死に考えた。
祝詞が終わり、騎士がステラに近付くのを見て、迷いを切り捨てた。
覚悟を決める。否、覚悟など最初から決まっていた。
ヴァンスは喉元の剣をぐにゃりと変形させ、騎士達から距離をとった。自分の後ろが切り立った崖であることを確認し、動きについてこれない彼らに向けて、強く足を踏み出す。
何がおきているのか理解できずにいる騎士達、その前の地面に、亀裂が幾つも生じた。
一拍おいて、途轍もない轟音とともに、ヴァンスの立っている地面が崖からはがれ、落下していく。
騎士達が誰も崖下に落ちていないのを確認してから、ヴァンスは右足をたわめ、思い切り跳躍した。
落ちていくステラに手をのばし、なんとか腕をつかむと横抱きにして───
「ヴァン、ス……?」
「───ステラ」
万感の想いを込めて、彼女の名前を呼んだ。
ステラは涙目でヴァンスを見て、
「何で…ヴァンスまで、死んじゃうことないのに…」
そう判断するのは、少しばかり早い。
二人の体は未だ落下中であり、着水するまであと五秒もあるかどうかというところだが、その僅かな間に、ヴァンスは二つのことをやってのけた。
「言ったろ?───君を助けるって」
右手でステラの体を支え、左手で鎖ごと重りを引きちぎる。すぐさま重りを投げ捨てるが、もう遅い。派手な水しぶきを上げて沈んで───
「俺は、約束を守る男だ」
いかなかった。
「え……」
沈むどころか、二人は上昇していく。体は濡れてすらいない。
───着水と同時に、ヴァンスが水面を蹴ったのだ。
これは賭けだった。ヴァンス自身、出来るかどうか分からない状態で挑んだ賭け。
「ヴァンス、この光…」
不意に、ステラがヴァンスの胸のあたりを見て呟いた。つられて視線を下げるが、特に何もなってはいない。
ステラは細い指でそっと胸板に触れると、
「───竜の、力」
彼女の目はヴァンスに向けられているのに、どこか別のところを見つめているような違和感。
ステラの呟きを聞いたヴァンスは、あることを思い出した。
いつだったか、二人きりのときにアルバートが言っていたこと。
『彼女には、『資格』がある。聖なる立場に立つ、資格が』
「資格……そうか、そういうことか」
ヴァンスは納得し、片頬を歪めて笑う。
そして───
二人は崖の上に降り立った。
「な、ぁ……っ」
この場にいる全員が驚愕し、掠れた呟きを零す。
抱えていたステラを地面に下ろして、ヴァンスは一歩前に出た。
「…落ちたはず……いや、それ以前に、囚われているはずで…」
混乱の中にいる騎士達に、現実を突き付けてやる。
「計画内だったってことだよ。───つまりあんたら皆手のひらの上で踊らされていたってことだ」
ヴァンスの言葉に騎士達が一歩足を踏み出すが、軽く剣気をあててやると冷や汗を浮かべて下がった。
「こ、これは反逆だぞ!神の使いたる巫様への───」
「───神の、使いか。なら……」
ステラを抱き寄せ、ヴァンスは地面を蹴った。
どよめく騎士の一団を飛び越え、巫の前に着地する。
「あんたが神の使いなら、ここに何か見えるか?」
己の胸を指差して、ヴァンスは聞いた。隣でステラが何か言いたげな表情を浮かべるが、彼女は何も言わないことを選んだ。
見えていれば、この作戦は崩れる。
だが、もし───。
「…何も、見えませんが」
───賭けに、勝った。
思わず唇を緩める。ヴェールに隠され表情は見えないが、少女の瞳は無理解に揺れているだろう。
「ステラ、君には何が見える?」
「───温かい、光」
腕の中のステラの答えにヴァンスは頷くと、
「これは、竜の力だ。ドラゴン様から授かった、神聖な力。……どういうことか、分かるよな?」
騎士達の表情が、驚愕から理解に変わっていく。
神聖な力が、神の使いである巫に見えず、《穢れた者》のステラに見えた。
───これが示すことは、一つしかない。
「あんたらが崇めているその巫様に、力はないよ」
無言を貫く巫のそばに控えていた騎士が、ありえないものを見たように下がる。
沈黙が落ち、乾いた風が通り抜ける音と波が寄せる音だけがやけに大きく聞こえる。
やがて、細い声が流れた。
「…そなたの、言うとおり。私に力はありません」
縋るような目で巫を見つめていた騎士達に言葉が浸透し、激震が走った。
巫は岩から下りるとヴェールを外した。どこか感情の抜け落ちた赤い瞳で騎士達の顔をゆっくりと見回し、
「───五歳で聖堂に連れてこられて、何も分からずに言われるがまま力があると言って。己を偽って生きることが、苦痛でした」
「何度となく、言おうとしました。ですが、それでは……命を奪った者達に申し訳が立たない。ですから」
彼女は最後にヴァンスを見た。
「ですから───そなたの剣で、私の命を絶って下さい」
騎士達の誰も、動かない。そのことに憐れみの情を抱いてヴァンスは巫に近付き───
ぱちん、という音が響いた。
巫は頬を押さえ、唖然とヴァンスを見つめる。
───竜の力を一時的に解除し、思い切り頬を張ったヴァンスは、息を吸うと怒鳴りつけた。
「申し訳立たない?当たり前だ、死んだやつに弁明なんてできるわけないだろ!…仮に弁明できたところで、死んだら次なんてないんだよ‼」
「───」
「……あんたは、まだ生きてる。次がある。悪いことをしたと思ってるなら、生きて『これから』を変えていけよ」
呼吸を整えて、ヴァンスは続けた。
「───あんたには、手伝ってもらわないと困る」
「手伝う……?」
「これから俺は、見た目で差別されない国を作っていこうと思ってる。その、手伝いだ」
少女は何事か考えていたが、やがて頷くと、騎士達のほうに振り返った。
「皆。偽っていた私に───力のない私に言えることではありませんが……今後は、彼女に剣を捧げてください」
ステラを指して言った巫に、騎士達は迷いを見せたが、それも数秒のことだった。
儀礼用の鎧をがしゃりと鳴らして膝をつき、跪く。───巫にではなく、ステラに。
「あ……あの、私……」
「ごめん、ステラ。君の意見を聞いてなかった。───ステラは、どうしたい?」
今ならまだ、拒否することもできる。
しかし、ステラは毅然として言った。言い切った。
「巫に、なります。───理不尽に未来が奪われるなんてこと、二度とあってほしくないから」
「───巫として立つ君の隣に、俺もいるよ。そのことだけは、覚えておいてくれ」
「うん。……ありがとう、ヴァンス」
ステラが頷くのを見て、ヴァンスは巫───元になるか───に向き直った。
「あんたの名前は?」
「シエル、です。家名はありません」
「シエルか。……おい、アルバート!」
ヴァンスが大声で叫ぶと、騎士達に紛れていたアルバートが姿を見せる。
「悪いけど、馬車用意してくれるか?一つの馬に三人で乗るわけにいかないからさ」
「…全く。ああ、分かった。……それはそうと、君はどうやって上がったんだ?落ちたとしか思えなかったが」
「ん?水面蹴って跳んだ」
二人のやり取りを聞いていた騎士達が絶句した。驚きより畏怖のほうが強い表情をしたあと、アルバートは近くにいた御者と相談し始める。
ステラを助けたのだという感慨がこみ上げてきて、同時にどっと疲れを感じた。脱力し、座りこみそうになるヴァンスの肩をステラが支える。
「お疲れ様。……助けてくれて、ありがとう」
「君が、助かって良かった。───本当に、良かった…」
ステラの微笑が滲みかけ、ヴァンスは何度も目元を拭った。
───ようやく、会えた。八年ごしに。
「ステラ。……二十歳の誕生日、おめでとう」
彼女の青い瞳が輝きを増す。零れた涙は白いおとがいで雫になり、ヴァンスはそっと手をのばしてステラを引き寄せた。ステラは小さく声をあげたが、頬を染めただけで逆らおうとはしなかった。
「ヴァンス。これ、覚えてる?」
少し体を離し、ステラが胸元からペンダントを取り出した。
「───覚えてるよ。何で欲しかったのかって話してたよな」
金色の石が入ったペンダント、それを見せて、ステラがあれね、と恥ずかしげに呟いた。
「…ヴァンスの髪とおんなじ色だったから、なんだよ?」
ヴァンスは目を見開いた。
予想外。そう、予想外だった。
驚いて、凄く嬉しくて。
「実は、さ。───前に、同じやつ見つけて、俺も持ってるんだよ」
落とさないようポケットに入れていたペンダントを出し、ステラの顔の前にかざす。
「これがあれば、ステラとの記憶をいつでも思い出せるから」
顔を赤くしたステラ。自分と同じだけの驚きを、彼女も味わってくれただろうか。
二人を、朝日が照らす。
───まるで、再会を祝福してくれているかのように。
ヴァンスは顔を近付け、ステラの唇を奪った。
触れ合うだけの、口付け。
朝日の祝福を受け、宝物を握りしめて。
「ステラ」
「もう、二度と離さないから。───ずっと、一緒にいよう」
「───はい」
大粒の涙を零し、ステラは出会ってから一番良い顔で笑った。
『いつか、君を助けにくる!俺が───必ず!』
八年前に立てた、誓いを果たしたこの日。
ヴァンスとステラは、新たな誓いを───否。
───約束を、結んだ。