43.少女の感謝
特に何事もなく一日が過ぎ、夜──夕飯もあらかた食べ終えたころ、バレンティアが席を立った。調理場へと入っていった少女は、すぐに大皿を手にして戻ってくる。
大皿には美味しそうなクッキーが並べられており、焼きたての良い香りが漂ってきて、食後にもかかわらずヴァンスはごくりと唾を飲み込んだ。
「あの……これ、ジュリアさん達に教えてもらいながら作ったんです。お礼にと、思って……」
「ティアが作ったのか?」
「──正確には、私はレシピを教えただけだよ。混ぜるのから焼くのまで、全部ティアがやったの」
ジュリアの訂正を受けて、ヴァンスは少なからず驚いた。
ジュリアやレティシアの手伝いで調理場にいる姿を見かけることはあっても、こうしてひとりで何かを作る──それも自発的に、というのは初めてのことだったのだ。
──どうやら、変化があったのは距離だけではないようだった。
早速食べてみると思いのほか口当たりが柔らかく、口内で溶けるような感覚を味わった。甘さ控えめで、そこまで甘いものが好きというわけではないヴァンスでも美味しく食べられる。
「──美味いな」
素直に感想を口にすると、少女ははにかみながら微笑んだ。
それから、バレンティアは二枚の小皿にクッキーを取り分けると──勿論皆が食べる分は残してある──ノアとモフリアの前にそれぞれ置いた。
「ノアちゃんとモフちゃんがいなかったら、わたしとエディの居場所が分からなかったって聞いたの。──ありがとう、ふたりとも」
礼を言われたノアは目を丸くし、バレンティアの顔を見ていたが、やがて誤魔化すようにぷいと顔を背けて言った。
「あ、あたしはヴァンスに言われたからしただけなんだから、別に感謝されることはしてないし!」
口ではそう言っているものの、バレンティアの感謝にまんざらでもない様子だ。クッキーに興味をそそられるのか、耳がぴくぴくと動いている。──内心、嬉しくてしょうがないのだ。
全く、素直じゃないところがノアらしい。
そんなノアとは対照的に、いっそ感心したくなるほど素直なやつがいた。
「ふぁぁ!くれるの⁉」
目をキラキラと輝かせてそう言ったのは、ご存じ、超絶マイペースなネコミミ付き毛玉ことモフリアである。
モフリアはヴァンスに投げられたのと、レティシアとシエルに思う存分モフられたせいで萎れていたのだが、今のバレンティアの発言ですっかり元気を取り戻したようだった。平和な奴め。
自分は寝てただけのくせに、とツッコもうとしたが、さすがに可哀想なのでやめておいた。バレンティアの言ったとおり、ノアだけでは居場所を特定することはできなかったのだ。…できればもう少し役に立ってほしかったが、過ぎたことである。
ともあれ、モフリアの喜びようはだいたい想像がつくだろう。
そして、はしゃぎようの想像がつけば、結末もある程度予測できる。
果たして──モフリアは喜びのあまりテーブルの上で飛び跳ね、着地に失敗して近くにおいてあったコップを巻き込んで見事にひっくり返った。
コップは倒れただけで割れなかったが、中身は全てぶちまけられ、倒した原因であるモフリアは頭から麦茶をかぶってしまい、濡れ鼠ならぬ濡れ猫となった。
ぴちゃぴちゃと毛先から水が滴る音が響く中、ヴァンス達はしばし沈黙し──ほぼ同時に吹き出した。
「ぷっ…あははっ、も、モフリアお前、何やってんだよ……!」
こんなに笑ったのはいつぶりか。──濡れてびしょびしょになったモフリアは二回り以上も小さくなり、しかもしょんぼりしているため哀愁漂う雰囲気となっている。その姿が何とも言えなくて、ヴァンス達は爆笑した。
さんざん笑ってから、ようやくヴァンスは濡れたモフリアとテーブルを拭いてやった。
拭いたところですぐに毛が乾くわけもなく、ぺったりと体に張り付いた様子に再び笑いの衝動が込み上げてくるのをヴァンスは懸命に堪える。
「ほら、はしゃぐばっかりじゃなくて食べてみろよ。美味いぞ」
クッキーを一枚つまんで口もとに近付けてやると、モフリアは一口囓り──その美味しさに目を見開いた。
「ふぁっ!」
ほうっておくと今度は皿をひっくり返しそうだったので、ヴァンスはモフリアをつまみ上げた。
短い手でクッキーを掴み、さくさくと音を立てて食べる姿は完全に小動物で(事実手のひらに乗る大きさなのだが)、ヴァンス達はまた笑った。
──かなり騒がしい夕食時となったが、喜んでもらえたバレンティアが嬉しそうだったので良しとしよう。
それに──ヴァンス自身、楽しかったのだから。
──ああ、最後にひとつだけ。
テンションの上がったモフリアが小皿に頭から突っ込んで、濡れた毛にクッキーのかけらが大量にくっ付いてしまい、取るのに苦労したのは余談である。