38.決意と目的
エドガー視点です。
少し時をさかのぼります。
───振動に頭を揺らされ、暗闇の中を漂っていたエドガーの意識は現実へと回帰した。
覚醒すると同時に、全身の奇妙な重さと頭痛が一気に押し寄せてきて、エドガーは呻き声が洩れそうになるのを懸命に堪える。
明らかに通常とは違う目覚め───エドガーは恐る恐る瞼を開けると、見知らぬ天井が視界に入った。
薄暗くてよく分からないが、木の床の上に転がされているらしい。
絶えずがたがたという音が聞こえ、不規則な振動が伝わってくるところを見ると、馬車の中にいるのかもしれない。
そこでようやく、エドガーは手足の自由を奪われていることに気付いた。
───ここはどこで、どういう事態で、この鈍器で殴られ続けているかのような頭痛は何なのだ。
エドガーはバレンティアとともに、祭りに来ていたはずで───、
「……あ」
───そうだ。思い出した。
突然、後頭部に激しい衝撃を感じたのだ。手にしていたたこ焼きの容器を取り落としたところまで覚えている。
おそらく、エドガーはそのまま気を失い───馬車に乗せられたのだろう。誘拐されたと、そう言い換えてもいいかもしれない。
正直、襲われた瞬間のことはあまり覚えていないが、意識を失う寸前にバレンティアの悲鳴が聞こえたはずだ。
「───」
慌てて顔を動かすと、エドガーのすぐ隣にバレンティアは寝かされていた。同じように手足を縛られているが、目立った怪我は見当たらず、エドガーは息をついた。
何故攫われたのかも分からない状況で、良かったと言うのはおかしいかもしれないが、エドガーの内心を占めていた感情は不安ではなく安堵だった。
───バレンティアが無事で、彼女と引き離されなくて本当に良かった。
揺れる馬車の荷台からは外は見えず、どれぐらい気絶していたのか、どこに向かっているのかは分からない。それどころか、荷台にはエドガーとバレンティアしかいなかった。
「……ん」
不意に微かな声が鼓膜を揺らし、エドガーはバレンティアに視線を向ける。バレンティアは瞼をぴくりと震わせ、ゆっくりと目を開けた。
「ティア」
「───エディ?」
バレンティアはエドガーの姿を視界に捉えると、ほっとした顔をした。
状況を理解するのは彼女のほうが早く、バレンティアはちらりとエドガーの頭に目をやってから言った。
「エディ、大丈夫……?」
「僕は大丈夫。ティアは?」
「わたしも」
───彼女の話によれば、黒いフードを被った人物がエドガーを後ろから殴ったのを見て、バレンティアは悲鳴を上げようとしたのだそうだ。だが、声を上げる前に鼻と口を布で塞がれ、薬品の匂いを最後に気を失ったのだと言う。
できれば自分も殴られるのではなく、薬品が良かったと考えてから、バレンティアが殴られなかったのだからいいかと思い直した。…いや、どちらでも良くはないのだが。
「……ごめんね、エディ」
バレンティアの謝罪の意味が分からず、エドガーは首をかしげた。バレンティアは目を伏せて、続ける。
「さらわれたのは、きっとわたしのせいだから……」
それを聞いて、エドガーは納得した。
バレンティアは、誘拐犯たちの狙いは自分だと思っているのだろう。そばにいたエドガーは巻き添えを食ったと。
確かに、薬品で眠らされたバレンティアと、後頭部を強打されて気絶したエドガーという扱いの違いを見れば、彼女の想像はあっているのかもしれない。
でも───、
「僕は、巻き込まれたなんて全然思ってないよ。僕のほうが、ティアに関わっていったんだから」
「……後悔、してない?」
「後悔はしてるよ。───殴られるくらい近付かれてるのに気付かなくて、ティアをこんな目に合わせてしまったこと、後悔してる」
「───っ」
バレンティアは薄闇の中でも分かるくらいに頬を染めて、無言で顔を背けた。
暫しの沈黙の後、吐息とともに囁き声が零された。
「…ヴァンスさん達は、気付いてくれたのかな……わたしたちが、さらわれたこと」
「───あの人達なら、気付いてくれる。気付いて助けに来てくれるって、僕は信じてるんだ」
どことなく不安げなバレンティアを安心させるように、エドガーは断言してみせた。
バレンティアは目を丸くしてから、ふわりと微笑んだ。つい見とれてしまってから、エドガーは頬の熱を誤魔化すように視線を逸らした。
「わたしも、信じる」
祈るように目を閉じたバレンティアの横顔を見つめながら、エドガーは思った。
ヴァンス達はきっと助けに来てくれるだろう。しかし、来るまでには相当時間がかかるはずだ。
だから、それまでは───エドガーがバレンティアを守らねばならない。
『───一緒に、頑張ろう。足りない俺とお前とで、大切な人を守れるように』
こんな自分に、声をかけてくれた人がいたから。
彼の言葉に、これ以上ないほどに救われたから。
───そのときに味わった感情を、心が覚えているから。
この決意だけは何があっても手放さないと、エドガーは動きを封じられたままの手に力を込めた。
***
長いこと走り続けた馬車が止まり、エドガーとバレンティアは全身を強張らせた。
荷台の外で複数の話し声がしたが、開けられないまま静かになった。
やけに喉が渇き、脇腹の痛みが空腹を訴えてくる。締め切られた荷台の中は空気の出入りも少なく、息苦しかった。硬い床に寝転がってずっと同じ体勢でいるのはかなりキツく、二人はときどき体の位置を変えていた。
───喋る気力すらもない中、どれぐらい経ったのだろうか。
音を立てて荷台の扉が開き、流れ込んできた冷たい空気にエドガーは体を震わせた。
土足で荷台に踏み込んできた黒フードの人物は、強引にエドガー達の体を起こすと二人いっぺんに外へと引きずり出した。頭が揺れ、今度こそ堪えきれずにエドガーは呻いた。
黒フードが無言で手を離し、地面に座りこんだエドガー達のまわりを数人の男達が取り囲んだ。拘束が解かれ、数時間ぶりに手足が自由になる。
取りあえず荒い呼吸を落ち着かせようと思い、新鮮な空気を鼻から吸い込んだ途端、エドガーは咳き込んでいた。
───異臭だ。これまで嗅いだことのない嫌な匂いが、周囲に立ち込めている。
言葉として表すならば───何かが腐ったような匂い。
「ついてこい」
咳き込み、涙目のエドガー達の腕を掴んで、黒フードは歩いて行く。先ほどよりは、乱暴ではなかったように思えた。
進むにつれ、異臭は強くなっていく。
───まるで、匂いの原因がそこにあるかのように。
半ば引きずられるようにして、ついていった先には───、
「……っ」
広場。広場の、はずだ。
エドガー達の街にもあったような、何の変哲もない広場。
否。
これさえなければ、至って普通の広場なのだ。
───至るところに並べられた、大小さまざまな死体がなければ。
遺体には申し訳程度に布がかけられているだけで、それすらも風に飛ばされているものもあった。
男女の区別もつかないほど腐敗した死体───異臭の原因はこれだったのだ。
寄り添って立つバレンティアが、凄惨な光景に片手で口元を覆った。エドガーも、腹の底から震えが込み上げてくるのを抑えられない。
黒フードの人物が振り返り、顔を青ざめさせたバレンティアを見───言った。
「お前の力で、全員を生き返らせろ。───大事な奴が傷つけられるのを、見たくなければな」