36.辿り着いた街
───客車の座席の上で、ステラは穏やかな寝息をたてていた。
温かな優しさと怜悧さに満ちた空色の瞳は伏せられ、馬車の窓から射し込む月の光が銀髪を煌めかせている。座席に華奢な身体を預け、横向きで眠る彼女の姿は、はっとするほど美しかった。
ヴァンスはステラを起こしてしまわぬよう気を付けながら、座席の下に置かれていたブランケットを広げ、彼女の身体にふわりとかけた。ヴァンスが知らぬ間に、アルバートは携帯食料やブランケットを積んでいたのだ。もしかしたら、出発する時点で野営するつもりだったのかもしれない。
そんなことを考えながら、ヴァンスは数枚のブランケットを手にして外に出た。
夏場とはいえ、だいぶ北のほうにやってきたので夜は結構冷える。馬車の中にいるステラは多少マシだろうが───、
「……ヴァンスか」
「こんな何もない草原のど真ん中で、俺じゃなかったらそれはそれで問題だろ。……ほら、これ。冷えて風邪ひきましたなんて、洒落になんないぞ」
そう言って、ヴァンスはブランケットをアルバートに手渡し───否、押し付けた。
───何もない草原だとはいえ、狙われる危険性はゼロではない。だから、交代で見張ることになったのだ。
本来ならば、外ではなく馬車の中にいるべきなのだろうが……簡単に言えばヴァンスの心臓がもたなかったため、こうして寒さに耐えながら見張りをしているというわけだ。
ヴァンスは無言のまま、アルバートの隣───草むらに腰を下ろした。馬車の車輪に背を預けて、ブランケットに包まる。
最初はアルバートが見張り、その間ヴァンスは休むことになっていたのだが、目が冴えて眠れなかった。
「…アルバート、お前先に休めよ。俺が起きてるからさ」
反論してくるかとも思ったのだが、意外にもアルバートは素直に頷いた。すぐに静かな寝息が聞こえてきて、疲れていたのだろうなと思う。
ブランケットの外に出てしまっている彼の手に触れると思いのほか冷たくて、ヴァンスは身を竦めた。
暫し逡巡した末、アルバートのほうに体をずらし始めたヴァンスは、互いの肩が触れ合うところで動きを止め、ちらりと彼の顔を覗き込む。
起きた様子は全くない彼に、ヴァンスは嘆息し、ぼやいた。
「……男同士で体寄せて寝るとか、どんな絵面だよ……」
ヴァンスは微かに熱を帯びた頬を掻き、アルバートの寝顔から顔を背けたが、先ほどよりも暖かいのは事実なのであった。
***
翌日早朝───まだ薄暗いころから、ヴァンス達は動き出した。
「夜の間、リア達に動きはなかったみたいね」
───とは、ヴァンスのポケットの中で一晩を過ごしたノアの台詞である。
ヴァンス達は順調に進んでいき、一時間ほど経つとようやく街のようなものが見えてきた。
「あれが、ボヌール……」
窓から外を覗いたステラがぽつりと呟き、ヴァンスは目を細める。
街に近付くにつれ、ヴァンス達は違和感を覚えるようになった。
「人が見当たらないな」
朝早いというのはあるが、誰も出歩いていないというのはあまりにも不自然だ。
それだけではない、街の看板は風雨に晒されて黒っぽく変色し、ボヌールと書いてあったのだろうそれは役目を放棄している。花たちは雑草に覆い隠され、手入れされなくなって久しいことを証明していた。
その、廃墟と言うべき街の様子に、ヴァンス達は二の句を継げない。
「ほんとに、ここにエドガーたちがいるの……?」
ステラの言葉に思わずアルバートと顔を見合わせてしまい、ヴァンスは吐息を零した。
「ノア、どうなんだ」
「───ここで間違いないわ。さっきより明瞭にリアの位置を感じるの。多分、起きたのね」
「今さら⁉」
肝心なときに寝ていて、着いた途端に起きるとはなんてタイミングの悪い。ステラやアルバートもヴァンスと同じ表情をしている。
とりあえず、モフリアのタイミングの悪さへの怒りは置いておいて、気になったことを聞いてみることにした。
「繋がりが明瞭になったって……モフリア達の今の様子が分かったりしないのか?」
「今、念話を試してる」
「なるほど、ネンワね………はぁ⁉」
さらりと聞き流してしまいそうになってから、ヴァンスは素っ頓狂な声を上げた。
念話───声に出さなくとも、他人の心に意思を直接伝えられるというあれか。
「お前…念話なんてできたのか……?」
「お互いに意識が覚醒していないと成功しないの。……あ、繋がった」
モフリアに文句をつけたい気持ちを抑えて様子を見守っていると、だんだんとノアの纏う雰囲気が不穏なものになっていく。
「……二人は無事かって聞いたら」
「───」
ノアは苛立ちを隠さずにヴァンス達を見て、続けた。
「『お腹すいたにゃー』だって」
「何やってんだあいつは───‼」
───今度こそ、手加減なしの本気の怒声が馬車内に響き渡ったのだった。
***
…モフリアは寝ぼけていた上に、ずっと鞄の中にいたため、全く状況を理解していなかった。
バレンティアも、誘拐犯の真ん前でモフリアを出そうとはしないはずなので、しょうがないと言えばしょうがないのだが。
細かく話すと長くなるので割愛するが、モフリアへのヴァンスの怒りはそれはそれは凄まじかったとだけ伝えておこう。
もふもふ毛玉のことはいいとして───ついに、ヴァンス達はボヌールに足を踏み入れていた。
「しかし…本当に誰もいないな……」
三人は縦一列になって歩みを進める。ステラが真ん中で、アルバートが一番前。ヴァンスは殿を務めていた。
今だけはノアはアルバートの肩の上に移動しており、モフリア達の居場所へと案内している。
不意に───ヴァンスは全身がぞわりと総毛立つのを感じた。
前を歩くアルバートが振り返るのと、後方からナイフが空を切って飛んできたのはほぼ同時だ。
ヴァンスは咄嗟に右手を掲げ、ナイフを掴み止める。
───前ではなく、後ろから。ヴァンス達が通ってきたときには、気配はなかったはずなのに。
何故、という思考が、次の行動に移るまでに僅かなタイムラグをもたらした。
───そして、そのタイムラグは戦いの場において致命的だ。
間を開けずに二本目のナイフが飛んできて、ヴァンスは奥歯を噛んだ。掴み取るのは間に合わない。ギリギリ躱すことは可能だが、避ければ後ろの二人に当たる───。
判断に費やした時間はコンマ一秒にも満たない。ヴァンスはナイフの軌道に左腕を割り込ませ───、
「ぐ……っ」
「ヴァンス‼」
苦鳴を噛み殺したヴァンスの左腕には、ナイフが深々と突き刺さっていた。
悲鳴のようなステラの声───ヴァンスは傷を一瞥しただけで、右手で腰の剣を抜く。
───と同時に、視界の端で銀閃が走った。
左腕をだらりと下げ、右手だけで斬擊を受け止めながら、ヴァンスは驚きを隠せない。気配はひとつだけなのに、今の斬擊はナイフが飛んできた方向とは別の方向からだった。まさか、この数秒にも満たない時間でそこまで移動したというのか。
ナイフや剣の扱いに、身のこなし。間違いなく、攻撃を仕掛けてきた人物は『力』を持っている。
───それも、ステラやバレンティアのように力を譲渡するといった、他人に干渉するタイプの力ではなく、ひたすら自身の肉体を強化する、ヴァンスと同じタイプの能力持ち。
黒いフードを目深に被った誘拐犯らしき人物は、ヴァンスの驚きを余所に渾身の力でこちらの剣を押し返した。
力の均衡が崩れ、二人の間に距離が開く。
今度はこちらから仕掛けようと、ヴァンスは足を踏み出して───、
「……っ⁉」
「───ヴァンスっ‼」
踏み出した足に力が入らず、がくんと体が傾く。為す術もなく地面に倒れ込んだが、土の感触を感じない。───感覚が、ない。
どうにか左腕を見ると、刺さったままのナイフの表面が緑色に濡れていることに気付いた。
「また、毒かよ……」
全身が痺れ、指先さえも動かせないが、囁き声程度ならばなんとか出せる。
どうやら、騎士団でのとき使われたラアル草の毒ではないらしい。痺れ具合からして、麻痺毒だろうか。
ヴァンスに近付こうとする誘拐犯をアルバートが牽制し、黒フードは足を止めた。
「銀髪に青い目……」
黒フードの人物は何やら呟くと、何故か剣を引いた。アルバートは斬りかかるかどうか迷ったようだが、ヴァンスとステラの存在を思い出したのだろう、今行動を起こすのは悪手だと踏みとどまったようだった。
そんなこちらの迷いを知ってか知らずか、黒フードは服の裾を翻し、まるで溶けてしまったかのように忽然と姿を消した。隠れたわけではないのは、消えた気配からも明らかだった。
黒フードの人物が消えると、ヴァンスは駆け寄ってきたステラ達に抱き起こされた。
アルバートはまず、刺さったまま放置していたナイフを抜いた。感覚がなく、痛みを感じなかったのは幸いかもしれない。
次いで、ポーチから小瓶を取り出すと強引にヴァンスの口内にそれを流し込んだ。
無理矢理飲まされた液体は、おそらく解毒剤だろう。即効であることを祈るしかない。
「アル、バート……ステラと、先に行ってくれ」
「……何を」
「俺は大丈夫だ。すぐ、追いかける……」
「ヴァンスを置いてなんて……!」
二人の気持ちも分かるが、動けないヴァンスはただの重荷でしかない。
ヴァンス達がここにきたことは誘拐犯たちにバレてしまっているし、おかしな消え方をした黒フードの人物のことも気がかりである。
───ヴァンスのために、時間を費やしている暇などないのだ。
頑として首を縦に振ろうとしないアルバートとステラに、ヴァンスは言った。
「エドガー達を信じたなら…俺のことも、信じてくれ……」
「───っ」
昨日の会話を引き合いに出すヴァンスに、アルバートが息をつめた。
───ヴァンスだって、本音はステラの傍を離れたくはない。けれど、ここへきた目的はエドガーとバレンティアを助けることだ。
そして───アルバートになら、ステラを任せられる。
吐息とともに瞼が閉じられ、再び開いたときには、紫水晶の瞳に迷いは残っていなかった。
「───分かった。無理はするな」
「……ありがとう」
短く感謝を告げ、ヴァンスはステラを見た。ステラは唇を噛み締めていたが、やがてこくりと頷いた。
「ノア、お前もステラ達と……」
「───あたしはここに残るわ」
予想外の言葉にヴァンスが思わず目を瞠ると、ノアはアルバートにモフリア達の居場所を伝えた。
「そこの通りを右に折れて、ひたすらまっすぐいけばたどり着くはずよ」
「了解した。……ヴァンスを任せる」
支えていたヴァンスの上体を地面に下ろすやいなや、アルバートはステラを横抱きにして、ノアに指示されたほうに走り出した。
どちらも振り返ろうとしないのは、隙を作らないようにするためもあるが、一番はヴァンスを信じてくれているからだ。───ヴァンスなら、大丈夫だと。
だから、ヴァンスも二人を信じる。
ステラがアルバートに抱えられたのを目にして、何も思わなかったと言えば嘘になるけれども。
解毒を待つヴァンスと、手のひらサイズのもふもふにゃんこという、大丈夫かと言いたくなるような組み合わせだが、きっと襲われることはないはずだ。
黒フードの人物がヴァンスを殺そうと思っていたならば、剣を引く必要はなかった。いくらアルバートだと言っても、同時に二人を守りながら戦うのは至難の技だ。ヴァンスは黒フードに斬り殺されていたことだろう。
───そうなっていないということは、少なくとも向こうに殺す気はないのだ。だからといって警戒を怠る気にはならないが。
───ヴァンスは両目を瞑り、解毒剤が効いて動けるようになるのをひたすら待った。