35.『信じよう』
施設を出てから、およそ六時間───その間、ひたすらモフリアとの繋がりを意識していたノアがぴくりと耳を動かした。
「───止まった」
「───っ!ほんとか⁉」
小さな呟きを捉え、ヴァンスは聞き返す。ノアは「ええ」と頷くと、声に僅かな疲労感を滲ませて言った。
「距離が縮まってる。───目的地についたみたいね。ちょうど、ボヌールのあたりで止まったし」
御者台で話を聞いていたアルバートがゆるやかに馬車を停車させ、客室の扉を開けて入ってきた。
連絡用の小窓があるとはいえ、やはり話すときは顔を見合わせて話したい。広い客車内は三人が入っても全く狭さを感じなかった。
彼の顔にも隠しきれぬ疲労が滲んでおり、ヴァンスは無言でアルバートに席を代わる。
エドガー達を誘拐した奴等が休憩のためにボヌールに立ち寄っただけとも言えなくもないが、十分経っても二十分経っても、ほとんど動きがないらしい。目的地がボヌールという予測は当たったようで、これならばクロード達との合流も難なく済みそうだ。
できることなら、誘拐犯らがボヌールに着く前に追いつきたかったものだが───言っても詮無いことだろう。エドガー達の安全を祈るばかりだ。
「とにかく、動きが止まったなら今のうちに……」
「ヴァンス」
先を急ごうとするヴァンス───だが、それを手で制したのはアルバートだった。アルバートは唇を引き結んだまま、今進むべきではないと首を横に振る。
「な、んで……止めるんだよ」
「現在時刻は午後八時だ。救出するにしても、相手がすでに拠点と思われる街に到着してしまっている上、何よりこう暗くては思うように動け……」
「───そんなこと、言われなくとも分かってる‼」
───アルバートの言葉を遮って、ヴァンスは叫んでいた。
八つ当たりだと、頭では理解している。普段のヴァンスなら、至極真っ当なアルバートの説得を受け入れていただろう。
しかし、このときのヴァンスの精神状態は平静とは言い難かった。
───冷静な判断ができないくらいには。
「…分かってる……分かってるさ。だけど…今この瞬間も、エドガーとティアは……‼」
自身の胸を押さえ、荒い呼吸を繰り返すヴァンスをアルバートはじっと見つめていた。彼の瞳に微かな痛みの色があるのは、今ヴァンスが味わっている激情に覚えがあるからだろう。
それも一瞬のことで、アルバートは痛痒を瞬きひとつで隠すと席から立ち上がった。
「ヴァンス。エドガーとバレンティアが心配なのは分かる。───だからこそ、尚更ここは明るくなってから行動すべきだ」
「けど……‼」
「焦る気持ちもよく分かる。だが……焦っていいことはないんだ」
───そういう、綺麗事が聞きたいのではない。
いくら耳心地の良い綺麗事を述べたところで、エドガー達の状況は変わらないのだから。
「明るくなってから……?焦ってもいいことはない……?」
「……ヴァンス」
「俺がこうしている間に、エドガー達が傷付いてるかと思うと…呑気に朝なんか待ってられないんだよ……ッ‼」
「───ヴァンス‼」
ここまで冷静さを保っていたアルバートのその声に、ヴァンスは思わず口を噤んだ。
怒っているわけではないが、強い意志を宿した紫の瞳に目を奪われてしまう。
アルバートはひとつ息を吸うと、
「…バレンティアには、エドガーがいる。そのエドガーにヴァンス、君は剣を教えたのだろう」
「───」
「君が剣を教えたエドガーを───二人を、信じよう」
あまりにもアルバートに似つかわしくない台詞に、ヴァンスは先刻の激情を忘れ、目を丸くした。
次いで、こみ上げてきたのは堪えがたい笑いの衝動だ。
突然笑い出したヴァンスに、アルバートとステラが目を白黒させる。その様子がまた可笑しくて、ヴァンスは声を上げて笑った。
可笑しい。ああ、可笑しい。───言われるまで気が付かなかった自分が、一番可笑しい。
ひとしきり笑った後、ヴァンスは目尻に浮かんだ涙を拭い、笑われて微妙に不満げなアルバートと目を合わせた。
ヴァンスはふっと笑みを消し、
「……エドガー達が心配なのは変わらないし、今すぐにでもかけつけてやりたい。けどさ」
「───」
「俺は、もっとエドガーのこと……二人のこと、信じて良かったんだな」
勝手に守らねばならない弱い存在だと決めつけて、自分の目の届かないところで傷付くのを恐れて。
───エドガーはエドガーなりに、強くなろうと必死で努力していたというのに。
「───。ああ」
アルバートが頷くのを見て、ヴァンスは心を決めた。
「今夜は、ここで野営しよう。───それで明日の早朝、助けにいこう」
地図を見る限り、この近辺に街はない。最寄りの街が目的地であるボヌールなのだから、野営するほかないだろう。
野営のために動き出した自分を、ステラとアルバートが見ていることにヴァンスは気付いていたが、あえて追及はしなかった。
感じる視線が、温かなものであることを知っていたから。
───激情に代わって胸に去来した感情を、二人に知られたくはなかったから。