26.お人好しな性格
朝食の後片付けを終えたステラとジュリアは、剣の稽古をしているであろうヴァンス達の様子を見に、玄関のほうにやってきていた。
剣を教える、と言っても具体的に何をするのか見当もつかない。まさか、いきなり一対一で戦わせるなどということはないと思うが。
とりあえず、外の様子を窺おうと玄関扉に手をかけたときだった。
「───」
ステラが扉を開ける前に、外側から勢いよく引き開けられた。つんのめり、あわてて壁に手をついたステラを避けて、人影は階段を駆け上がっていった。
「今の……」
間違いない。今走っていったのは、ヴァンス達と稽古をしているはずのエドガーだ。
俯いていたからよく分からなかったが───頬のあたりが赤くなっていたように見えた。
「……お兄ちゃんがやらかした気がする」
微妙な顔で零されたジュリアの呟きに、そんなことないと言いかけて、あるかもしれないと思い直した。
ステラはジュリアと顔を見合わせ、閉じたドアをほんの少しだけ開けて覗く。ヴァンスとアルバートは言葉を交わしているようだったが、声は聞き取れなかった。
けれど───心なしかヴァンスの立ち姿が、怒りとも哀しみともつかぬ感情を必死に堪えているように見えて。
「…これ、ヴァンスがやらかしたっていうより……」
「エドガー君のほうに、何かありそうだね」
ジュリアと同じ結論に至り、ステラはどうすべきか考えを巡らせる。
ちらりともう一度外を覗くと、アルバートがヴァンスの肩に手を乗せているのが分かった。───それで、迷いが消えた。
「───エドガー君を、追いかけよう。ヴァンスは多分……アルバートがいてくれれば大丈夫だから」
アルバートはその怜悧な容貌と冷静な物言いから初対面の人に誤解されがちだが、彼と関わったことのある者ならその印象が間違いであると分かるはずだ。
彼は、けっして冷淡な人間ではない。───それどころか、優しすぎるくらいであるのだと。
ステラは、アルバート本人から過去について話してもらったことはない。だが、ヴァンス達の会話と───これまで何度か触れたときに断片的に視てしまった光景から、おおよそのことは推測できる。
───自身も大変な思いをしてきて、辛さを知っているアルバートだからこそ、今のヴァンスを任せられるのだ。
「……うん。そうだね」
最後にヴァンスのほうに目を向けてから、ステラとジュリアはエドガーが去っていったほうへ歩き出した。
***
部屋にいるのかと思ったが、室内にエドガーの姿はなかった。
こういうとき、ステラだったらどこへ向かうだろうか。
人目が少なくて、誰にも邪魔されない───そんな場所。
「───屋上」
果たして───エドガーは屋上の手すりにもたれ、ぽつんと佇んでいた。
ステラは風で乱れる髪の毛をそっと押さえながら歩み寄り、声をかける。
「エドガー君」
声にエドガーはびくりと体を震わせ、おそるおそるといった様子で振り返った。
少年の頬は赤く腫れていて、何があったのかだいたい把握できる。
───とはいえ、詳細は本人達でなければ分からない。
「何が、あったの?───話を聞いただけで怒りはしないから、教えてほしいな」
なるべく優しく問いかけると、エドガーは訥々と語り始めた。
───話を聞くうちに、ステラとジュリアの二人はヴァンスが何故エドガーを叩いたのか、分かるような気がした。
ヴァンスは、許せなかったのだ。
大切な人がいるにも関わらず、何もないとそう言うエドガーが。
───大切な人を亡くした二人を、ヴァンスは知っていたから。
ここで、ステラが怒ることは容易い。
だけど、それでは───エドガーはヴァンスの言葉の意味を理解できないままだ。
ヴァンスはきっと、自分から意味を説明しようとはしないだろう。───そして、アルバートも。
これは、ステラ達にしかできない───ステラ達の役割だ。
「…確かに、ヴァンスはエドガー君よりも……多くの人よりも恵まれてると思う。いろいろ辛いこともあっただろうけど……ね」
家族がいて、仲間がいて───大切な人がいて。
支えてくれる人がいたからこその今なのだということは、他でもないヴァンス自身が分かっているだろう。
「『ヴァンス』はそうだった。…でもね……ヴァンスの前世である『ウォレス』は違うの」
「前、世………?」
ステラは、ヴァンスから聞いた話を大まかに伝えた。勝手に話されたことをヴァンスは嫌がるかもしれないが、エドガーには知ってほしかった。
話し終えても、エドガーは沈黙を貫いていた。
すると今度は、ジュリアが一歩前に出て口を開いた。
「───アルも…アルバートも、同じだよ。お兄ちゃんみたいに前世の記憶があるっていうわけじゃないけど……実の父親と、友人達が魔獣の毒で命を落とすところを、見てたって」
細部は違えど───残された者ということは、同じだ。…あまり好きな言い方ではないが。
ウォレスは、最愛の人と共に在れるというごく普通の幸せを、失った。
───他の何を失っても、守りたかったはずのものを失ったのだ。
その絶望が如何ほどのものなのか、ステラには分からない。想像することさえ躊躇われたが、恐らく───ステラが慰めたところで消えるような、生易しいものではないはずだ。
どうにか激情の第一波は防げたらしくヴァンスの様子に無理は見られないが、それでも無自覚の絶望がふとした瞬間の表情に影を落とす。
精神状態が不安定なのもあって、いつにも増して感情に歯止めが利かなくなっているのだろう。
そこへ来て───エドガーの言葉だ。
普段のヴァンスなら、こうまでならなかった。アルバートのことを思い、怒って声を荒げはしただろうが、手を上げるようなことは決してしなかったはずだ。
全部、一気にヴァンスにのし掛かってきて、彼を責め苛んでいる。
ヴァンス本人さえも気付かないほどに、絶望という名の植物は深く根を張り、負の感情を花として咲かせた。
本音はどうにかしてやりたいけれど、ステラにできることはない。こればかりは人の優しさに触れ、時間をかけてゆっくりと心の傷が癒えていくのを待つしかないのだ。
ふと───家に帰ってみるのもいいかもしれないなと、そう思った。
エドガーが片手を持ち上げるのが見え、ステラは意識を思考の海から引き戻した。
エドガーは痣になりかけている頬に触れた。痛んだのだろう、顔が強張り、微かな呻きが洩れた。
「僕は、ヴァンスさんに………ヴァンスさんだけじゃない、アルバートさんにもひどいこと…言ったんですね……」
顎のあたりの筋肉が盛り上がり、奥歯を強く噛みしめたのだと分かる。張られた頬が痛むはずだが、エドガーは些細なことのように歯を食いしばっていた。事実、彼にとっては些細なのかもしれない。───人を傷付けたという、自責による締め付けられるような胸の痛みに比べれば。
「エドガー君……」
「───教えて下さって、ありがとうございます。……ヴァンスさん達に、謝らないと」
どうやら、ステラ達の話はエドガーの心に響いてくれたらしい。
まだヴァンス達がその場にいるのを上から確認したエドガーが建物内に戻ろうとするのを呼び止め、ステラはあるものを差し出した。
───屋上に上がってくる前に、氷を布に包んでいたものだ。
だいぶ時間が経っていたが、まだ氷は溶けきっておらず、ちょうど良い冷たさとなっていた。
「冷やせば、少しは腫れも引くと思うから。もし痛かったら痛み止めの薬草もあるし、いつでも言ってね」
エドガーは氷嚢を受け取ると、唇を噛み締め、ステラ達にむけてぺこりと頭を下げた。
今度こそ、かけ足で階下へ降りていくエドガーを見送り、ステラとジュリアは笑みを交換した。
エドガーが謝れば、ヴァンスは許すだろう。ヴァンスはそういう人で、アルバートもそれを止めはしないはずだ。そこはステラ達が保証する。
───謝った後どうするかは、エドガー自身が決めればいい。
どんな選択をしようとも、エドガーの人生なのだから。
でも───関わった以上、幸せになってほしいと思ってしまうのは。
「お人好し、なのかもね……」
呟くと、それを聞きつけたジュリアが笑みを零した。
「お兄ちゃんに似たんじゃない?」
「私にとってそれは最上級の褒め言葉だよ」
あはは、とジュリアが楽しげに笑い、つられてステラも笑顔になった。
───ステラとジュリアは昼食の支度をしなければならない時間まで、二人だけの会話を楽しんだのだった。