16.嘆き
挿絵があります。
『ヴァンス』に知らない女性の名前で呼ばれたステラは、鋭い錐で突かれたかのような胸の痛みを感じた。
呆然と、彼を見つめることしかできないステラ。永遠に続くかと思われた沈黙は、部屋の扉をノックされたことで途絶えた。
ステラが勢いよく扉を開けると、立っていたのはジュリアとアルバートだった。
二人は部屋の暗さと、ステラの強張った表情に目を見開いたが、すぐに『ヴァンス』に気付いた。
「お兄ちゃん……?」
掠れた声で、ジュリアが囁いた。だが、『ヴァンス』は無反応のまま、じっと床を見つめている。
「ヴァンス…」
ステラの呼びかけに、彼はゆるゆると顔を上げた。
頬に一筋の涙を伝わらせた彼の姿は、表情がないにも関わらず───ひどく哀しげなものに見えた。
「エストレイア」
───また、あの名を呼ぶ。
三人が見守る中、『ヴァンス』は右目から溢れる涙を拭おうともせずに、一歩前に踏み出した。
「───会いたかった」
確かに彼の瞳にはステラが映っているのに、『ヴァンス』が見ているのは別の女性だった。
緩慢な動きで近付いてくる彼が求めているのは、ステラではないのだ。
なのに。
拒めない。───どうしても、拒めなかった。
こんなにも辛そうな彼を、哀しみに満ちた彼を、見たことがなかったから。
「もう一度、会いたかったんだ……」
至近距離にある『ヴァンス』の瞳が、揺らいだ。
揺らぎは幾つもの雫に変わり、絨毯に小さな染みを作る。
───次の瞬間、ステラは『ヴァンス』に抱き締められていた。
「エストレイア……レイア、どうして………」
抱き締めたまま、彼はその場に膝をつく。引っ張られ、ステラもぺたりと床に座った。
『ヴァンス』は少しだけ体を離すと、濡れた声で続けた。
「───どうして、俺を………俺をおいて逝ったんだよ……」
「───」
触れている、彼の体が震えた。
何も言えないステラに、『ヴァンス』は涙とともにどうしようもない嘆きを、行き場のない哀しみを、零し続ける。
「俺が、約束を破ったから……だから、なのか……?」
背後でジュリアとアルバートが見守っているのを感じながら、ステラは手を持ち上げ、可能な限り優しく『ヴァンス』の背を撫でた。───彼の心を苛む何かが、少しでも和らぐように。
「レイアには、生きていてほしかった……っ」
握りしめられた拳から、血が滴る。
それを見たステラは『ヴァンス』に───否、いつの間にか彼の後ろに立っていたアルバートに声をかけた。
「───」
アルバートは無言で『ヴァンス』の後頭部に手刀を振り下ろした。鈍い音と共に前のめりになった彼を抱きとめると、『ヴァンス』は気を失っていた。
「…ありがとう、アルバート」
「礼は必要ない。……正直、見ていられなかった」
憂慮の混じる返答に頷き、ステラはアルバートの手を借りてヴァンスをベッドに寝かせた。その間にジュリアが灯りをつけ、三人は置かれている椅子に腰掛けた。
ジュリア達がやってくるまでのことを手短に説明すると、二人は難しい顔で黙り込んだ。
ヴァンスは何も言っていなかったから、何がどうなっているのかさっぱり分からない。
「まさか、呪いとかじゃないよね……」
「───呪いはかかってないし、そもそもヴァンスは他者の力による干渉を受けないから、その心配はないけど……」
言いながら、ステラはベッドに視線を向けた。
脱力して眠るヴァンスの頬には、乾ききらぬ涙の跡が残っている。
そっと手を伸ばして涙を拭ってやってから、ステラは沈鬱な面持ちで吐息した。
───何も分からないまま、夜はゆっくりと更けていった。