15.記憶の齟齬
───風切り音すらも置き去りにして振るわれた剣。一拍遅れて巻き起こる風の中心にいたのは、犬型の魔獣だ。
魔獣の体が真っ二つに裂け、鮮血をまき散らしながら横倒しになる。
「───はぁ」
一撃で以て魔獣を仕留めたヴァンスは、手にした剣を軽く振って血を落とし、ナイフに持ち替えた。手際よくナイフで魔獣の死骸を切り裂いて、魔石を取り出すとヴァンスはそそくさとその場を離れる。
長くとどまっていれば、血の匂いに他の魔獣たちが集まってくることは必須。かつてのヴァンスなら願ったり叶ったりだと集まってきた魔獣を屠っていただろうが、無理のない範囲で戦うとステラ達に約束してきたのだ。約束は違えられない。
思った以上の疲労感があって、ヴァンスは苦笑した。───日々の鍛練は欠かさず行っているし、たまにアルバートとも模擬戦をしているが、やはり訓練と実戦には埋められない差がある。
「…ちょっと休むか」
焦っても良いことはないと判断し、一度結界の外に出たヴァンスは近くの木の根元に腰を下ろすと、幹に背を預けた。
目を凝らせば、魔獣の群生地と人の生存圏を分ける青みがかった膜のような結界がうっすらと見える。
ふと、疑問が頭を掠めた。
結界はもともとあるもの、という認識だが、自然にできたわけではあるまい。魔獣から人を守る結界は、人為的なものであるはずだ。
「せっかくここにいるんだし、竜に聞きに行ってみるか……」
ヴァンスは嘆息すると、重い腰をゆっくりと上げた。
***
『結界について我に聞きたいと。───まさか、知らぬのか?』
開口一番驚かれてしまったが、知らないものは知らない。返事をしなくとも、表情で伝わったのだろう。
黙り込んでしまった竜を見るに、本来知っているべきことだったらしい。
ヴァンスが無知なのか───伝えられてこなかったか。
『…少しばかり、時間が欲しい。我にとっても昔のこと故、鮮明に思い出すには時が必要だ』
「昔のことって……そ、そのころから生きてるのか……⁉」
一体この竜は何歳なのだろう。
そんなことを考えるヴァンスの耳に、意味深な竜の声が届いた。
『───朧気な当時の記憶の中に、貴殿の姿があった……かもしれぬな』
何を馬鹿なことをと、笑い飛ばそうとしたそのときだった。
───ヴァンスの脳裏に、ひとつの光景が弾けた。
木々の生い茂る森。上空で羽ばたく、竜達の姿───。
「な…んだ、今の……」
こめかみのあたりを押さえ、ヴァンスは荒い呼吸を繰り返す。
あんな光景、知らない。───知らないのに、知っている。
自分が自分でなくなるような希薄感が首をもたげるのを、ヴァンスは必死に押さえつけた。
『───やはり、そうであったか』
───竜のそのひと言は、知らない記憶に呑まれぬよう必死に抗うヴァンスには届かなかった。
***
───どこを、どう通って帰ってきたのか記憶がない。
気がついたら施設の玄関前に立っていた。
「……ヴァンス、大丈夫?何かあったの?」
夕食の時、明らかに様子のおかしいヴァンスに気付いてステラが声をかけてくる。
「───。大丈夫だよ。………悪い、部屋に行ってる」
ステラの心配はもっともだし、打ち明けてしまいたい気持ちもあったが───この感覚を言葉にしてしまったら戻ってこれなくなると、そう思った。
故に、ヴァンスは部屋に戻る選択をした。
───さっきから延々と、耳鳴りのように声が聞こえ続けている。時々見知らぬ人物の姿がちらつき、情報量の多さに視界が白熱した。
ステラでもジュリアでも、アルバートでもない声と、記憶の齟齬に翻弄され、自室に体を滑り込ませたヴァンスは床に膝をついて───、
俺は。
俺は───。
***
急いで夕飯を食べ終えたステラは、流しに食器を放り込むやいなや、ヴァンスの部屋に向かった。
食堂を出る前にちらりとヴァンスの席に目を向けると、殆ど料理に手が付けられていなかった。
不調を案じ、ステラは部屋の扉をノックして───返事を待たずにドアノブを捻る。
部屋には灯りがついておらず、ステラは床に蹲る人影にすぐには気が付かなかった。
「───ヴァンス?」
声を発すると、膝をついていた『ヴァンス』がゆらり、と立ち上がった。ステラは彼の瞳を直視し、息をのむ。
昏い。昏い瞳。
どんなときも輝いていた翠の双眸には、ひとかけらの光すら見つけられなくて。
「ヴァンス、どうしたの……?」
一歩、踏み出す。もう一歩。確実に、『ヴァンス』に近付いていく。
彼は、歩み寄るステラを感情の窺えない目で見つめ、
「───」
つう、と光るものが頬を伝うのが見えた。
『ヴァンス』は、虚ろな右目から一筋の涙を零しながら、ステラを───目の前の彼女の名を呼んだ。
「───エストレイア」
ステラを見て、ステラの姿に涙して、彼は知らない女性の名前を呼んだ───。