10.哀歌 ~最終楽章~
───残すは、初代巫ひとりだけ。
そう考えることで、ステラは衝撃と激痛の名残を飲み込もうとしていた。
レイラの───二代目の巫の最期を味わった直後に、ステラとしての意識に戻されたのは違和感しかなかった。死を迎えたはずの肉体に血が通い、息をし、意識があるということが途方もない混乱をもたらしたのだ。
──私は、ステラ。
レイラという名ではない。私は今も、生きている。
胸に手を当て、自身の『生』を実感しながら、ステラは最後の記憶に挑むべく、目を閉じた。
***
───私は、誰もに愛されるべき人だ。
絹のような純白の髪に、磨きぬかれた紅玉の瞳。
肌は色素が薄く紙のように白いが、少しばかり鋭い目つきのおかげで儚い印象はない、完璧な容姿。
皆私の美しさに息をのむ。そのことが、自尊心を育てていった。
───誰も私に敵わない。だから敬い、慕って当然。
友人や恋人などと呼べる者はいなかったけれど、別に欲しくはなかった。むしろいらない。
他人に振り回されるなど以ての外だ。私は、私だけのものであり、誰かに運命を左右されるなんてありえない。───逆は当然のことだけれど。
高圧的な態度でも、私から人が離れていかないのには理由があった。
───私の言葉どおりの行動をすれば、その者にとって良い結果が舞い込むという噂。
嘘でも何でもない。私の言葉を受けた者達はあらゆる場所で、事柄で成功したのだ。
───これこそ、世界すらも私の手の内にあることの証明。特別である証。
ひっきりなしにに私のもとへ人が訪れ、ぺこぺこと頭を下げて帰っていく。
馬鹿だ。どうしようもない馬鹿共だ。
───それにくらべ、その馬鹿に知恵を授けてやっている私の、何と慈悲深いことか。
馬鹿な奴等は盲目的に私に従っていればいい。
平伏し、媚びを売れば慈悲くらいくれてやろう。
私は他の人々とは違うのだから。
愛されるべきで、慕われるべきで、誰も手の届かない───そんな『特別』なのだから。
何もかも満たされた状態のまま、日々は過ぎて。
───その少女に初めて会ったのは、夕暮れ時だった。
背中に長い銀髪を流し、青い瞳に夕焼け色の空を映して佇む少女は───空恐ろしいほどに美しかった。
彼女は私に気が付くと何度か瞬きして、ふわりと微笑んだ。
「初めまして。…あなたは?」
「───ッ」
微笑み、手を差し出してくる少女。
訳の分からない感情が全身を突き抜けて、私は彼女の手を乱暴に払いのけていた。
「……ぁ」
少女は瞠目し、叩かれた手を見つめ───寂しげに、一歩下がった。
彼女の表情が気に入らなくて、私は背を向け、無言のまま立ち去る。
背中越しに、少女のまわりに人々が集まっているのを感じながら。
この日を境に、私のもとを訪れる人は減った。
私に会いに来ないかわりに、少女と関わっているらしいのだ。
右手の人差し指で、椅子の肘掛けを繰り返し叩く。徐々に間隔を狭めたそれは、ひときわ強い音を最後に止まった。
気に入らない。ああ、あの少女が気に入らない。
───だから、消そう。消してしまおう。
私は脳をフル回転させて、ひとつの案を練り上げた。
迷いはなかった。これから『神の使い』という立場になるのだから、私の言葉は神の言葉と同義。迷う必要などどこにもない。
もともと、私についての噂を信じていた人々だ。
計画は上手く進み───彼女を亡き者にする儀式のときがやってきた。
「───」
最後まで、少女は儚げでどこか悲しげな微笑を浮かべたままだった。
恨み言を言うでもなく、無言でただ、じっと私を見ていた。
おもりをつけられるときも、騎士が後ろにたったときも───落ちていくときも。
そんな彼女の姿ですら、私の心に僅かばかりの呵責ももたらすことはなかった。
───人でなしと、私をそう罵るか?
罵りたければ勝手に罵ればいい。
立っている場所が、違うのだ。
見据えてる場所が、違うのだ。
───存在自体が、違うのだ。
立つ場所が、見ているものが、存在そのものが違う相手に言われた言葉で心を揺らす必要がどこにある?
信用性を増すために、いろいろな儀式を作って。
満たされた私───だが、老いには逆らえない。
醜い自分?───ありえない。私は、美しい。美しくあるはずなのだ。
老衰や病による死?───ふざけるな。老化や病気などというものが私の人生を左右するな。
死が、避けられないというのなら。
───美しい今のままで、自らの意思で命を絶とう。
私の、すべてを書き記した書物を残して。
日が沈む頃に、窓辺に立って夕日を見つめた。
赤。私の瞳の色と同じ、赤。
自分の色に染まった世界を見渡して───私は躊躇せず、ひと息に己の胸に刃を突き刺した。
目の前の飛沫も、鮮やかな赤で。
倒れ込んだ床も、赤い水溜まりで。
私は笑った。鮮血で唇を彩って、笑った。
笑って笑って、そして───。
私───初代巫であるイシスは、赤い世界で、赤い水溜まりの中で、満たされた気分で命を落とした。
───皮肉にも、美しいままであることを望んだ彼女が死の間際に浮かべた血染めの笑みは、美しいとは言えず、ただただ見る者の怖気を掻き立てた。
***
意識が戻った直後、ステラは思わず自身の胸に傷がないことを確認してしまった。確認して、安堵する。
死の追体験は恐ろしい。震え、言うことを聞かない足に鞭打って、ステラは自分を囲む巫達に向きなおった。
黙って、ステラの言葉を待つ巫達。
ステラは、彼女らの地獄を味わってきた身として、口を開いた。
「…あなたたちの人生は、辛かった。苦しくて、おかしくなりそうだった」
『───』
「ひとりっきりで、何度も折れてしまいそうになって。どうしてこんな目にあうのって、思った」
『───』
巫達は、じっと声に耳を傾けてくれている。
だから、ステラは思ったことを、感じたことを───伝えたいことを、口にした。
「辛くて苦しい中で───よく頑張ったね」
『───っ』
ステラだから言える、ステラにしか言えない言葉。
───同じことを味わったステラだけがしてあげられる、ねぎらい。
大変だったね、と言おうとは思わなかった。───彼女達の苦悩を、そんな簡単な言葉で片付けてしまいたくなかった。
過去を追体験という形で視てきたステラには、巫達の辛苦が痛いほど理解できて。
親から引き離され、自分の価値を見出せないまま、期待に押しつぶされそうになる記憶を視た。
持って生まれた力の存在によって思い上がり、自身のやっていることは素晴らしいと、自分で自分の力に囚われてしまった記憶を視た。
『死』の責に追い詰められ、背負ったもののあまりの重さについに立ち上がれぬまま命を落とした記憶を視た。
大切な人を亡くして、その哀しみに囚われたまま、それでも地獄から抜け出せない灰色の記憶を視た。
ひとりぼっちで、身の丈にあわない罪を背負わされて、どうすることもできぬまま、狂気に囚われて死に向かった記憶を視た。
───嫉妬で多くの人々を不幸に陥れた、巫達を捕らえて離さない『呪い』の始まりとなる記憶を視た。
───できることなら、そうなる前に助けてあげたかったけれど。
死者は、戻らない。孤独と絶望の中、消えていった者達は戻らない。
だけれど───ステラは巫達の過去に、思いに触れる機会を得た。
ならば。
せめて、思いくらいは救ってあげたい。解き放ってあげたかった。
「私が、変えるから。あなたたちの思いを引き継いで、変えていってみせるから。───もう、あなたたちのような思いは誰にもさせないから」
彼女達の苦しい日々をねぎらい、変えていくと希望を与えて。
───それが、それだけが彼女達の救いになると信じて。
ステラの言葉を受けた初代を除く巫たちは、瞳から一滴の雫を零し、一言だけ囁いた。
『───ありがとう』
───巫達の姿が、ほどけていく。
微笑みを最後に全身が光の粒子となり、上昇していくのを見つめながら、ステラは震える唇を開いた。
「───」
言葉ではない。だからといって吐息でもない。
空気を、鼓膜を震わせるそれは───歌。
巫達の哀しみに満ちた声が哀歌なら、これは───彼女達の思いを見送り、安らかに眠ることを願う、鎮魂歌。
───光が完全に消えてなお、ステラの鎮魂歌は続いていた。
闇が払われた空間にはステラ以外残っておらず、死してなお石に残り続けた巫達の思いは解放されたのだと察せられた。
声が途切れ、ステラは吐息した。
涙がこぼれ落ちるのに任せ、聞く者のいない空間で呟く。
「───お疲れ様」
余計なことを、言う必要はないと思う。
でも、ようやく自由になれた彼女達にどうしても言ってあげたかった。
たったひとり、上を見上げて。
───長いこと、ステラは巫達に思いを馳せていた。