また、ゆめで愛ましょう
「先輩、前世って信じますか」
放課後の図書館。橙色よりも紅に近い夕陽が窓から漏れ、本を照らした。
後ろで黙々と作業をしていたはずの少年から唐突に意味の分からない質問をされて私は戸惑う。
「突然だね」
口から出たのは彼の質問に答えるものではない。
彼は暫く黙ってなにも言わなかった。無視しやがって、と内心毒づく。手元にあった本を一冊棚に戻すとまた声をかけられた。
「先輩は前世を信じますか」
彼は懲りずに聞いてくる。こんなに饒舌なタイプの人間ではなかったはずなのに。
もしかしたらオカルトにでも目覚めたのかもしれない、と的外れな考えが頭を過った。
もう一冊本を棚に戻して口を開く。
「信じるよ」
思ったことを言っただけで、普通に答えたはずなのに、後ろからバサバサと本の落ちる音が聞こえる。
呆れて振り替えると、見るからに動揺した後輩くんがこちらを凝視していた。怖い。
「信じてくれるんですか?」
「はあ?」
確認するようにもう一度問う彼に、くどいと吐き捨てそうになる。ただでさえ時間が押してるんだ。今日は早く帰る予定だから、急いで終わらせようと事前に知らせたはずなんだけど。
イライラするのを悟られないように作業を再開する。無駄口を叩くのは終わりだと言わんばかりの態度なのに彼は諦めない。
「俺、夢を見たんです」
私は何も答えなかった。独白のような話がさして大きくない図書館に響く。
ゆめ、その言葉に反射的に肩が揺れたが彼は気づかなかった。落とした本を拾っているらしい。
「遠い、昔の夢です」
懐かしいんです、と彼は続けた。そう、と返事をしてあげようかと思ったけど彼は返事をする時間を与えないように喋る。
「多分、前世の記憶だと思います。なんというか、それ以外に説明のしようがありません。昔の自分と思えばしっくりくるんです」
適当に流そうかと口を開いたが止めた。やけに彼の声が真剣だったから。
優秀な彼は喋りながらも作業は止めない。なら、いいかと放置した。
「先輩、俺、前世の記憶があります。信じますか?」
不意に向けられた疑問。
そんなもん知るか。無視をしてこのまま帰ってしまおうかと考えるが、ここまで饒舌で、真剣に話す彼を見たことがない。
邪険にするのは躊躇われた。
その日はただ曖昧に分からない、と適当に返事をした。彼の悲しそうな瞳は見なかったことにした。
▽
「春の夕日って綺麗ですよね」
縁側に座っていた彼が、突然夕日を眺めながらそう言った。
私は裁縫をしている手を止めて、ゆっくり返事をする。
「えぇ。春の夕日は綺麗ですよ」
彼がこちらを向いた気がするけれど、夕日の逆光で表情はよく分からない。
思わず目を細めて顔をしかめるとクスクスとからかうような声がした。もちろん彼の笑い声である。
「もう、笑わないで下さい」
「ふふ、すみません。でも随分可愛い顔をしていましたよ」
「そういうのをからかうって言うんです」
むうっと頬を膨らませてみても、彼はまたクスクス笑う。眩しくて睨み付けることも出来ない。
不意に強い風が吹いて庭にある花が散った。
小さな花弁が手元に一枚舞い降りる。
「見てください。ほら、とても綺麗な桜です」
花弁を手のひらに乗せると、また風に乗ってふわふわ飛んでいった。
「ここの桜、こんなに綺麗だったのですね。
__様、来年はお花見をしましょう」
「花見ですか。いいですね。しましょう」
彼は長い髪を揺らして頷いた。私も思わず笑顔になる。
また、来年も、ここで。
△
「先輩、俺、また夢を見たんです」
「また?」
カウンターに肘を突きながらにっこりと笑う彼をゆっくり見る。
4月に図書委員になって、後輩の彼とペアになって作業することが多かった。適当な先生のことだからくじかなんかで決めたんだろう。
何ヵ月か経っても彼は相変わらず作業初日の話を持ち出す。前世がどうとか、前世の記憶があるとか。
今流行りとラノベ的なあれかとも思ったがどうやら違うらしい。
「最近は頻繁に見るのね」
元々本が好きで図書委員になった私にとって、彼の話は魅力的だった。嘘なら嘘でもいいけど、もし嘘なら彼は将来小説家になったほうがいい。その発想力は磨けば光る。
最近よく前世の夢を見るという彼に目を向けると、妖しく微笑まれた。男子高校生とは思えないほど儚い美少年は本当、図書館でなにをしているんだろうと思ってしまう。
青春をしろ、少年。
「ほら、もうすぐ夏ですから」
「夏に何かあるの?」
夏と言われて外を見るが、外は雨でじめじめしている。もうすぐ梅雨明けだとか言うけれど一向に明ける気配はない。
図書館も少し蒸し暑くなってきてるし、勘弁してほしい。家に帰るのが億劫になるじゃないか。
「夏は、彼女の誕生日なんです」
外の大雨も気にせず彼は多分、と言って懐かしそうに微笑んだ。
彼女とは美少年である彼の今付き合っている相手を指しているわけではない。前世のお嫁さんのことである。
それはそれは相思相愛で、聞いてるこっちが恥ずかしくなるほど彼は溺愛していた。長い艶やかな黒髪が美しいとか、桜色に色付く頬が愛しいとか。
詩人のように言葉を紡ぐ彼は前世と少し同調しているようだった。
「誕生日かぁ。君のことだから前世では大層祝ってたんじゃない?」
「それはもう。楽しい記憶です」
心底嬉しそうに微笑む彼にそっか、と微笑み返す。辛い記憶も多かったと彼から聞いた。
彼曰く、彼の前世は平安時代に生きる上流貴族だったらしい。なんか本当に前世っぽい。
彼の記憶は最初からあるわけではない。今のところだけど。
奥さんと出逢ってから、結婚して穏やかな日々を過ごすまで。奥さんは彼よりも高い地位のお姫様だったらしく、結局駆け落ちの末に結ばれたのだとか。
彼も突然夢で見るようになって驚いたらしい。夢を見始めたのは中学生の頃で、本当にたまに見る程度だったが、最近よく見るようになったと彼は言っている。
理由はよく分からないが、楽しい記憶だったと知ってほっとした。どうせなら幸せだった日々を思い出したいじゃないか。
「夏……か。もう夏になるんだねえ」
「どうしたんですか。嫌そうな顔して」
「夏は、苦手なんだ」
日誌を付けるために握っていたシャーペンをくるくると回した。彼は不思議そうに首を傾げる。
「どうしてですか?」
言うか、言うまいか迷って、また二回ほどシャーペンを回す。日誌の続きを書こうと思って芯を紙に押し付けたらボキッと折れた。
ため息を1つ吐いて、彼を見る。
彼も私をじっと見ていて、早く話せと催促した。
「………水泳があるから」
「水泳?」
鸚鵡返しに彼が問い直すけど、私は二度も言うつもりはない。私が黙り込んでいるのを見て、驚きに目を見開いた。
「まさか、泳げないんですか?」
有り得ない、というような彼の口振りに腹が立つ。
むすっと不機嫌そうに頬を膨らます私を見て、彼は笑った。
「なんか、意外ですね」
「よく言われる」
中学時代に陸上をしていたからなのか、よく運動神経いいと思われる。実際そうでもない。
いい例が、水泳だ。幼い頃からどうやっても上手くならない。25メートルすら泳げない。測定が本当に嫌いだった。
「別に泳げないわけじゃないし。水が嫌いなだけだし」
言い訳をする子供のように唇を尖らせて目を泳がせる。水が嫌いだと告げたら彼は驚いたようだった。
「水が嫌いなんですか」
「そうだよ。だから泳ぎたくないの」
泳げない、ではなく泳ぎたくない。ただ、それだけだ。
折れたシャー芯をカチカチと出して、新しい芯が顔を出す。再び日誌に視線を落とすと、前から笑い声が聞こえた。
私は彼を見上げて睨み付ける。
「……なに」
「いや、俺と一緒だな、と思って」
彼の言葉に今度はこっちが驚いた。
「君も水が嫌いなの?」
「はい、俺もあまり得意ではありません」
一緒ですね、と嬉しそうに笑った彼の笑顔は眩しすぎて、一瞬見惚れてしまった。
▽
太陽を反射した水面に自分の顔が浮かぶ。流れの早い澄んだ川じっと覗いているとキラリと底が光った。
「わっ」
驚いて身を引くと、魚がひらりと下流に泳いでいく。
一瞬煌めいたのは魚の鱗だった。
「__様、あまり私から離れないで下さい」
遅れてやってきたのは涼しげな着物を着た彼。しゃがんで川を覗いていた私の手を引っ張る。
「本当は家に居なければならないのを、貴女の誕生日ということで許可しているんです」
彼は珍しく怒ったように私を見た。我が儘をきいてもらっていることは自覚しているので素直に謝る。
「……ごめんなさい」
しょんぼりと肩を落として項垂れると彼は一つため息をついた。
「ほら、私から離れてはいけません」
すっと出された彼の手に自分の手を合わせる。温かい体温に思わず笑顔を溢すと、彼も笑った。
「__様、少し目を瞑って下さい」
影になった場所で立ち止まった彼が言う。素直に目を閉じてしばらくするといいですよ、と彼の声が降ってきた。
「え?」
何をしたかったのか分からずに首をかしげる。彼は笑って後ろに流れる川を指差した。
私は小走りで川辺に行き、そっと覗き込む。水面に映ったのは美しい髪挿しを髪に付けた女が一人。
「これは……髪挿しですか?」
「そうです。とっても似合ってますよ」
振り向くと、嬉しそうに微笑んだ彼がこちらを見ていた。
「ありがとうございます。とても綺麗で使うのが勿体ないくらいです」
「そんな。使わなきゃ意味ないですよ」
顔を見合わせてクスクス笑った。
人生で一番楽しい誕生日だった。
△
ゴトンッと目の前に置かれた麦茶に顔をしかめる。
「なんでお茶なの……」
「パシったくせに文句言わないで下さいよ」
うっすら汗をかいた彼は図書館のカウンターでみっともなく伸びている私を不服そうに見下ろした。
彼が襟元を前後させて暑さを逃がす。制服が動くたびにズボンに入れず着崩したシャツから腹筋がチラリと見える。
顔を起こすのを面倒くさくてボーッとその様子を見つめた。
「……なんですか……」
私の視線を感じたのか、彼は居心地が悪そうに眉を寄せる。
「いや……そんなパタパタしてるとお腹見えるよ」
制服のお腹辺りを指差して答える。彼はキョトンとした後、にやりと意地悪そうに笑った。
「なに見てるんですか。スケベ」
「はあ? 見たくて見たわけじゃありませーん」
プイッと顔を背けると後ろから渇いたような笑い声がした。
「ていうか、部活入ってるの? 腹筋凄くない?」
「めっちゃ見てるじゃないですか」
もう一度彼に視線を戻して問うと、彼は嬉しそうに笑う。
「なんでそんな嬉しそうなの……」
「腹筋すごいって結構嬉しいですよ。前世はあんまり筋肉質じゃなかったんで」
「ふぅーん」
やっぱり男子は筋肉とか気にするのか。
「部活はサッカー部です」
「うわぁ。イケメン部だ」
嫌そうに顔を歪めると、そんな事はないと彼が言う。
私のイメージではサッカー部ってメジャーだし、モテやすいものだって感じなんだけど。そう言えば、すっげぇモテるサッカー部員いたなぁ。あれは先輩だったっけ?
「部活行かなくていいの?」
「委員会が優先って言われてます」
「そっかあ」
誰もいない図書館でぐでーんと伸びをする。彼はじっと私を見た。
「なんか珍しいですね。先輩のオフって感じで」
「私だってだらだらしますー」
冷たい机に顔を引っ付けながら言うと、彼はまた私を見下ろす。
「大丈夫ですか? 熱中症とか?」
「大丈夫だって。夏はいつもこんな感じ」
大丈夫だとは言ったけど頭がすこしぼーっとする。ふわぁっと欠伸をすると眠気が襲ってきた。
「寝不足ですか?」
「うん。最近ちょっと夢見が悪くて」
ついぽろっと言ってしまって、しまったと思った。辛うじて表情は変えなかったものの、内心頭を抱える。
夢の話なんて彼にする気は毛頭無い。ちょっとした悪夢みたいなものだし。変に前世どうのこうの言われると困る。
ちらりと彼を盗み見ると、こちらをガン見していた。
「え、なに」
「夢って、どんな夢ですか」
ああ、やっぱり食い付いてきた。
げんなりした様子でむくりと頭を上げると、瞳をキラキラさせた彼と目が合った。
前にも一回彼に変な夢を見たと言ったことがある。そのときは本当に煩くて、よく覚えてないって言ったのに教室まで来られた。さすがに殺意がわいたな。だって、彼、目立つんだもん。せめて放課後に聞いて欲しかった。
だから彼に夢の話をするのは止めた。
なのに、失言したー……。
「先輩、夢ってどんな夢ですか?」
「そんな大した夢じゃないって……ホントに」
「なんでもいいんです。些細なことでも」
なんでこんなに食い付きがいいのかな?もしかして前世持ち仲間とか思われてる?言っとくけど私に電波趣味はない。
「よく覚えてないよ」
「何かありませんか? なんでもいいですから」
しつこい。何ヵ月ぶりかのしつこさだ。
顔をしかめてみても彼は勢いを止めない。ため息を一つついて、ぼんやり覚えていることを話した。
前見た時よりははっきりしてる。多少は朧気だけど。
「んー、なんかね、悲しい夢」
「え、悲しいんですか?」
「多分。起きたとき泣いてるからなんか悪い夢なんだと思う。夢で泣くってどんだけ怖いんだって話だよね」
大袈裟に身を震わせると、彼は不本意そうな顔をした。
君が話せって言ったんでしょ。
「君が話せって言ったんだよ」
「いや、すみません。他には無いですか?」
「ほか?」
うーん、と頭を捻ってみても思い付く節はない。なんだろう。何か大事なことを忘れている気がするんだけど。
しばらく考えてもなにも浮かばなかったので諦めた。忘れたということはそこまで大事なことじゃ無かったのだろう。
「ごめん。なにも思い付かないや」
「そうですか……」
彼は残念そうに肩を落としたあと、困ったようにへらりと微笑する。
そんな彼の笑顔が誰かに重なった気がして思わず目を擦った。
▽
もそもそと彼の布団に侵入すると、呆れたような濡れた瞳と目が合った。
ビックリして身を退く。
「__様……。夫婦と言えど、夜這いするのは間違っています」
「お、起きていたのですか……」
「ええ、冷気で目が覚めて」
暗がりの中でも剣呑な視線を感じて身を小さくした。すっかり夜も更けたし、寝ているかと思った。
「今日は契りの日ではないでしょう?」
「よ、夜這いではありません!」
盛大な勘違いをされていたようでかあっと顔が熱くなる。彼は私のことは見えないはずなのにクスクス笑った。
「顔、真っ赤ですよ」
「見えてないでしょう!」
「いいえ? 分かりますよ。貴女が考えていることは」
からかうようなその言い方にさらに顔に熱が集まった。もう知らない、と自分の寝床へ帰ろうと背を向けた時、白い手が伸びてきて私の腕を掴む。
彼の手だとわかってはいるんだけど、その様子が異常に不気味で逃げ腰になって後退りした。
「駄目です。逃げないで下さい」
「ひ、きゃあ!」
結局腕を引っ張られて彼の布団に引きずりこまれた。後ろから抱き込まれて耳元で彼が囁く。
「怖い夢を見たのでしょう?」
「えっ」
驚いて、体を捩ると彼の瞳が笑っていた。全てお見通しだったようだ。
「なんで分かるんですか」
「貴女のことならなんでも」
そう言ってまた抱き締めるから、すこし息がしずらい。
「……神通力ですか?」
「………」
腕の力が緩んだので、彼を見上げる。漆黒の瞳は私を見ておらず、寝床に差し込むうっすらとした月明かりを見ていた。
上流貴族である彼がこんなところにいる理由。私は重たい身分から解放されて、彼の妻になりたかったから一緒にいるけれど、きっと彼は彼から逃げるためにここにいる。
「私も貴女が好きでここにいます」
私の気持ちを汲み取ったのか、彼がそう告げた。
「私は一族の出来損ないです。夢でしか神通力が使えないなんて殺されても可笑しくない」
「そ、そんなことはないです! 私は知っています。__様は代々伝わる術なんて無くても人の心を理解できます」
私が真剣にそう言うと、彼は寂しそうに微笑んだ___気がした。暗くてよく分からない。
「ふふふ、でも夢で見るのもいいですね。今日は未来を見ましたよ」
「み、未来ですか!?」
彼の神通力は夢でしか使用できない代わりに沢山の術を使えるらしい。
「幸せな未来でしたか?」
「ええ。すごく」
一瞬、雲が晴れて、月明かりがこちらまで差し込んできた。月に照らされた彼は泣いていた。
「ええええ!? 大丈夫ですか! いい未来なんですよね?」
「うん。いい未来だよ。遠い、遠い素敵な未来」
そう言って、また私を抱き締めた。
私は彼を見上げたまま、じっと濡れた瞳を見る。月はもう隠れてしまって、彼を照らすものはない。
彼も私を見ていた。
「……永遠の契りを交わそうか」
彼の敬語が消えた。
この瞬間だけ、私は彼の妻になる。
永遠の契り。そんなもの、この世に存在するのだろうか。素敵な未来にも、私たちの契りは残っているのだろうか。
遠い未来を想いながら、私は彼と永遠の契りを籠めた。
△
「うわっ」
私は目の前に現れた男に顔をしかめる。
「うわって何ですか」
「一番会いたくない奴に会ったなって」
「それ、酷くないですか!? 先輩が委員会休むって先生に聞いたから駆け付けてきたんですよ!」
他学年の教室にわざわざ来ることの方がおかしい。放課後で、教室に誰もいないことが唯一の救いである。
「先輩……顔色悪くなってません?」
「だから今日は委員会は休むのよ……」
そう。私の寝不足はさらに酷くなった。顔色が悪いと言われるくらいには。
ホントに勘弁して欲しい。眠い上に欲求不満なんて笑えない。
「また夢ですか?」
「……別に」
「別にって顔じゃないです。俺が原因ですか? 俺の顔も見たくないって言ってたし」
「いや、君のせいじゃないし、そこまで言ってない」
全ては私の煩悩のせいだ。
夢にまで影響を与えるなんて。昨日飛び起きた回数は片手で数えきれないくらいだ。
起きたにもかかわらず夢の続きを見るし、いつもよりも無駄にはっきり記憶に残っているから尚更質が悪い。
「私も女なんだな……って」
ポツリと溢した私の言葉を彼は聞き逃さなかった。大きな瞳を見開いて、首を傾げたあと閃いたように意地悪く笑った。
この笑顔は悪いやつ。
嫌な予感がして目を反らすと、彼は美しい顔に濃艶な笑みを浮かべて私に近付いた。
「先輩、もしかしてやらしい夢でも見たんですか? 見たんですよね」
「なんで断定してるのよ……」
彼は笑みを深くしてまた一歩、私に近付いた。
「その夢に俺が出たんですか?」
「……あんた、殴られたいの?」
ふざけんな。お前じゃねーわ。
彼を力一杯睨み付けたら、彼は残念そうに私から離れていった。
「なーんだ。残念」
「何が残念よ。ふざけないで」
彼は肩を竦めて私を見た。その目は、さっきまでのからかうような目付きはしていない。
「ふざけてなんていませんよ。俺は先輩の夢、見ます」
「は……」
悪い冗談だ。
「じょ、冗談」
「嘘じゃないですよ」
真剣な表情のまま、彼は私にまた近付く。私は一歩退く。
そうしていると、おのずと私が壁に背中をつけることになる。なんか、やばい。色々、やばい。
「君は……」
「先輩はなんで俺の名前呼んでくれないんですか?」
知らない。君だって私の名前呼ばないじゃない。
「先輩、好きです」
はっと息を吸った直後、唇が重ねられた。私のファーストキス。始めての、キス。
何するの、ファーストキスなのよ。そう怒鳴ってやろうと思っていたのに、こんな懐かしい気持ちになるのはなぜだろう。
彼とキスしたのは始めてじゃない気がする。おかしい。おかしい。
戸惑う私を置いて、彼は私の耳元に唇を寄せた。
「永遠の契りを交わそうか。___呉羽」
貴方が私を呼び捨てするなんて珍しいですね。
私に囁いた彼は、私の後輩じゃ無かった。
私の中の何かが暴れる。貴方を待っていたと、ずっと愛していたと叫んでいる。
今世ってなに?前世ってなに?
忘れてる。私は大切な何かを忘れている。
思い出さなきゃ。私の大事な大事な記憶。
「思い出して。呉羽」
彼のたった一言で、ざあっと本のページを勢いよく捲るように記憶が甦る。今までのことが全部一つのパズルみたいに嵌まった。
「……雅様___」
私は、昔、呉羽として生きていた。呉羽と言う名を与えられ、彼と恋に落ちた。
そして今、二度目の人生を送っている。
幸せと、自由と貴方を求めて生きてきた。
目の前の元夫に目を向けると、彼は泣いていた。ゆっくりと、静かに涙を流していた。
彼は、こんな風に昔も泣いていた。自分の運命と能力を嘆いていた。
「まだ、泣くのですか。私達は、生まれ変わりましたよ」
「貴女は……強くなりましたね」
私は昔の口調で話しかける。彼もあの頃と同じように返答した。
彼はひたすら泣いていた。
そして、嬉しそうに笑った。
「また、一緒にいられる。ずっと、ずっと、二人で愛し合える。二人で身を投げたあの日から、貴女だけを想ってきました」
私を抱き締めて、肩口に顔を埋める。制服が涙で濡れるからちょっと止めて欲しい。
「貴方は弱くなりましたか?」
「貴女の前だから弱いのです」
甘い。甘いなあ。
貴方は昔から変わっていないよ。泣き虫で甘えん坊で、私がいないと何も出来ないじゃない。
「服は繕えますか?」
「いいえ」
「料理は上達しましたか?」
「いいえ」
「私がいなくても生きていけますか?」
「いいえ」
私は笑った。あまりにも変わってなくて。裁縫と料理くらいは克服していてほしかった。
今はもう、箱入り娘ではない。
お金の使い方も、友人との付き合いも社会での生き方も知っている。
世界の厳しさも、夢の儚さも。
あの永遠の契りが守られるなんて今では思わない。
「私が何も出来なくても、貴女はそばに居てくれるでしょう?」
幼い私は夢を見た。美しく、穢れなき未来を。
そんなもの、この世には存在しないことを彼にも分かってもらわなければならない。私を引っ張って堅苦しい身分から解き放してくれた貴方。なら今度は私が貴方を引っ張って見せましょう。
縋るように私を見つめる彼を優しく押し返した。彼は信じられないように目を見開く。
「なん……」
「呉羽は貴方を愛しています。でも……私は君を好きじゃない」
茫然自失の彼はひたすら私を見ていたが、ハッと我に返った。
「私を惚れさせてみなよ。雅弥くん」
彼の瞳がみるみる輝きを取り戻す。
分かりやすい……。
「先輩……俺の名前を」
「うーん。先輩は惜しいなあ」
私は大袈裟に手を顎に当てて首を傾げると彼は慌てたように言い直した。
「あ、えっと、紫呉先輩」
「今、名前忘れたでしょ」
「そんなことないです!」
彼の慌てた様子に思わず笑ってしまった。
永遠の契り、私は忘れないよ。
貴方と今世でも会えたことに感謝を。
きっと今世は、もっとずっと幸せな人生が待っている。