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2EP.20




急行電車から出てくる人の波を押し退けながら階段を降りる。空席が目立つ車両だったが大人しく座る気にはなれなかった。

車窓を覗くとその中にセピア色の景色がある。変哲のない一枚絵。馴染みあるはずの景色が、今は他人のように感じられる。

不意に景色から色が消える。陽の光が雲に遮られたのだ。光が失われたことで鮮明になる窓に映った自分の顔。

一重で、整えすぎた眉が不恰好で、外に流れる形をした顎のせいで輪郭が大きく見える。

人に愛される顔とは到底思えない。

窓の向こうに立つもう1人の自分がそっと目を閉じた。

授業中。珍しくポケットのスマホが揺れた。画面を見て驚く。仕事中であるはずの母からの電話だった。

母は俺の授業時間を把握していないほど子供の教育に疎くない。学校に携帯を持っていくことにすら渋い顔をする母が、それでも授業中に電話をかけてくるのだから、授業中に電話がかかってきたのはよっぽどのことだ。

嫌な予感がした。

教師に断りを入れず、教室を出た。


「秀」


耳に近づけた電話口。そこから聞こえてきた母の声に唖然とする。枯葉を擦るような生気のない声。母のこんな声を聞いたのは初めてだった。


「美晴が飛び降りたって」


その一瞬だけ、やかましいほどに聞こえていた蝉の声が途絶えた気がした。

喉の奥に冷たい風が吹き込む。

得体の知れない何かが足先から這ってくる感覚に襲われる。

母の言葉の意味が上手く飲み込めない。


「……は?」

「学校の屋上から、飛び降りたって」


繰り返された母の言葉に返事を失う。

訪れた沈黙の奥から母の啜り泣く声が聞こえ始めた時、立ち止まっていた時間が動いた。

美晴が飛び降りた?

なぜ?

どうして?

ぐるぐると渦を巻く思考は流れる先を見失い、ただ俺の頭をめぐる。

感情が追いついていない。

無事なのか。容態は。まさか死んでなんていないよな。

咄嗟に浮かんできた単語を無理に喉の奥に押し込む。口に出した瞬間、全てがその方向へと転がってしまう気がした。

俺を叱るために教室から出てきた教師と目が合う。その教師は俺の顔を見ると何かを察したようだった。垂れ下がる俺の手から携帯を取る。

何を話したのかは聞き取れなかった。

教師は通話を切り、胸ポケットからメモを取り出しペンを動かしたかと思うと、メモを俺に渡してきた。

書かれていたのは病院の名前と住所、そして最寄駅だった。


「どうしたの秀吉くん」


教室に戻ってくるなり帰り支度を始める俺を見て、クラスメートだけでなく黒子も不思議そうな顔をする。

妹が飛び降りた。

口にするのは憚られるその現実に、返事が見つからず、結局無視を選んでしまう。


「帰るみたいだけど……、手止まってるわよ?」


黒子に言われてはっとなった。

目を瞬かせると、かばんには弁当しか入っていない。筆箱も教科書も机の上にまだ散乱していて、手を動かしていたのは自分の思い込みの中だけだったことに気づく。


「手伝ってあげる」


ありがとう。

そんな簡単なことすら言えない俺のために手際よく荷物をまとめてくれた黒子。

準備が整ったバッグの持ち手を強引に掴ませる。


「いってらっしゃい。間に合うといいわね」




病院に着くとすでに母は到着していて、廊下の先にある部屋の前で立っていた。その部屋の中に美晴がいることがわかる。

ただ呆然と立ち尽くす母。その後ろ姿は、まるで母のいる場所だけ時間が止まっているようで、待ち受ける現実を拒絶する母の姿に涙が溢れそうになる。

駆け寄って声をかけようとすると一人の女性が俺を止めた。


「秀吉くんだよね?」


面識のない女性だった。

頷くと女性は安心したように目尻を下げる。


「今は一人にしてあげて。いくら話しかけても答えてくれないし、あの場所から動こうとしないの」

「でも……」

「美晴ちゃんが今どんな状況なのか、何があったのか。まずはそれを君も知らなきゃ」


__一条。

そう名乗った女性は母と同じ職場で働いているらしい。白い七分丈のパンツに黒のジャケット。肩口で揃えられた髪は染められていないが、年齢に合わないその嗜好が返って大人らしさと若々しさを同居させていた。

母は職場のことを喋らない人なので名前を知らないのも無理はない。聞けば、プライベートで食事をする仲だという。

美晴の飛び降り。母の友人。

家族でありながら俺は2人のことを全く知らないのだと知る。


「とりあえず、座って話そう」


病院に置かれた椅子は古いものなのか、クッション性がなく座り心地が悪い。

これまで多くの人が大切な人の安否を願い、この椅子に腰を下ろしていたかと思うと、居た堪れない気持ちになる。


「美晴ちゃんには担任の先生が同行してくれたの。今は席を外してもらってるけど」

「ありがとうございます」


受け取ったココアを首筋に当てる。

缶から伝わるじんわりとした熱が、首を中心にゆっくりと広がっていく。


「夢じゃ、ないんですよね」

「そうね。私も悪夢なら早く覚めて欲しい。秀吉くんは結構落ち着いてる、わけないわよね」


一条さんは栓を開けるのに手間取っていた俺の手元から缶を取ると、代わりに開けてくれた。


「すみません。震えが、止まらなくて」

「ゆっくり飲んで。焦る必要はないわ」


震える手を一条さんに支えられ、やっと一口目を飲むことが出来た。

液体が喉を通る感覚が心地良い。

二口、三口と続けて缶を口元に当てる。

落ち着きはまだ戻っていない。けれど、取り繕う努力は出来るようになった。


「妹の容態はどうなんですか」


一呼吸置いてから尋ねる。

一条さんも手に持っていたブラックコーヒーの缶を開けた。


「救急車が到着した時にはもう意識がない状態。頭部への損傷がかなり酷いらしくて、回復したとしても寝たきりになるかもしれないって」

「そう、ですか」


回復したとしても。

その言い回しは回復する可能性が低いと告げているようなものだった。

生きていてくれて良かった。それはあくまでも本人以外が抱く感情。運良く回復したとしてもベッドから出られない生活。そんな余生を本人は笑顔で過ごせるのだろうか。

病室の中が美晴の世界になる。

かごの中の鳥のような生活。

まだ10代の美晴にとってそれは、生きながら死んだようなものではないか。

ベッドの上で歳を重ねていく妹の姿を想像したら、今日初めて涙が出た。


「妹が飛び降りた理由はわかっているんですか」

「クラスで揉め事があったみたい」


驚きはなかった。

あの脆いクラスなら、美晴でなくともいずれ同じような犠牲者が出ていただろう。

冷静な自分が冷たい答えを出す。


「美晴ちゃんのクラスが文化祭で出す予定だった出店が今朝、壊されていたみたいなの。それで美晴ちゃんが、その……犯人だったみたい」

「美晴はそんなことしません」

「私も秀吉君と同じ意見。けれど、クラスメートたちは違う結論を出した。小野寺さんという生徒が泣きながら言ってたみたい」


__私が彼女を追い詰めてしまった。

__本当にごめんなさい。

小野寺 琴奈は、駆けつけた救急隊員に許しを請うようにそう泣き叫んだらしい。


「詳しい話は事が落ち着いてからじゃないとわかりそうもない。誰が悪くて誰が悪くないのか、みんな自分の保身で躍起になってるもの」


缶に注がれた一条さんの目は、静かな怒りを宿していた。美晴を心配する感情に横槍を入れてくるよこしまな感情。

苦しんでいるのは美晴だというのに。

追い込まれた時だからこそわかる。自分が可愛くて仕方ない人間たちの醜態が。


「美晴は継続的ないじめにあっていた、ということになるんでしょうか。夏休み中、文化祭の手伝いでクラスの様子を見ましたがそんな様子はありませんでした」

「表面化しない嫌がらせなんて良くあることでしょう。女の子なら尚更に」


美晴は小野寺と良好な関係を保っていた。

ただし、それはあくまで見せかけのもので、裏では確執が広がっていた。蓄積された鬱憤を晴らそうとした美晴は、小野寺が尽力していた文化祭の催し物を壊した。その行いが露呈し糾弾されたことを苦に屋上から飛び降りた。これが今回の事件について立てられた仮説だ。

あまりに整った筋書きに違和感を覚える。しかし、いくらここで異議を唱えなところで不毛でしかない。 探偵ごっこは美晴が助かった後で幾らでも出来る。

美晴の無事を祈ることが、今の俺に出来ることだ。


「大きくなったね、秀吉君」


声のほうを向くとすぐ近くに一条さんの顔があった。

大きな瞳が俺を覗き込む。

一条さんは俺の内にある過去を見ていた。


「亜希が秀吉君と手繋いで現れたのが懐かしい。あの時は凄く驚いたんだから」


美晴ちゃんとも、もっと別の形で会いたかった。

悲しみをかみ殺すような笑みに胸が詰まる。


「きっと大丈夫」


一条さんの手が俺の背に触れる。

触れた部分から伝わる熱が、ゆっくりと器に温度を与えていく。

身の内にある器から水が漏れ出した。


「……どうして、こんな」


俺は唸るように泣いた。一条さんはそんな俺に何も言わず、ただずっと隣にいてくれた。

人前でこんなにも泣いたのは、初めてだった。


***


「この度は」


黒に身を包んだ老齢の夫婦がこちらに対して軽く頭を下げた。

母が頭を下げたのをみて、ワンテンポ遅れて俺も動作を同じにする。

焼香のたゆたむ煙がゆっくりと照明に溶けていく。白と黒を基調とした会場にゆっくりと流れる悲しいメロディは、赤子に触れるような慎重な手つきで琴線を撫でる。

花で埋められたひな壇の最上で美晴は笑っている。

あの写真は1年前、3人で遊園地に行ったときに撮った写真だ。切り取られているが美晴の横には俺と母がいる。

写真嫌いな俺と母を美晴が強引に連れ出し撮った写真。3人で写っている写真は、富永家ではとても貴重なものだ。

葬儀の始まりから終わりまで、母は毅然としていた。骨を拾うその時まで涙を流すことはなかった。

遠い親戚は「娘の死を泣かないなんて愛のない母親」「家庭事情が自殺の原因」など下世話な噂話に興じていたけれど、どれも正鵠を射ていない。

母は涙を枯らしただけだ。

医者だけが治療室から出てきて首を横に振ってから葬儀が始まるまで、母はずっと泣いていた。

だから、俺も泣かなかった。男の意地とかそんなものでは決してない。俺が泣くことで、母の中にある一度壊れてしまったら戻らない細く脆い何かが、決定的に壊れてしまう気がしたからだ。

母は最後まで、美晴から目を離さなかった。

晩餐が終わり、御膳の片付けを手伝っていると背後に気配を感じた。


「秀、これからどうしよっか」


声は母だった。

親戚を見送り、中に戻ってきた母は俺の後ろに立ってる。

声は普段の、普通のトーンだった。そのはずなのに、母の言葉と気配に鳥肌が立つ。背筋からうなじにかけて。誰もいない部屋で背後に存在を感じ取ったような、不穏な鳥肌だ。


「どうするもなにもどうにも出来ないだろ。こればかりは。美晴の分まで俺と母さんは生きないと。いつまでも悲しんでたら美晴に笑われる」

「そうね。そうだよね」


俺は見ていた。

葬儀の間、一度だけ、ほんの一瞬だけ、涙を枯らしていた母の瞳に鈍い光が宿った瞬間を。

参列者が順に香を炊くとき。美晴の同級生が来たときだ。悲しい顔をしながらも、どこか浮ついた雰囲気を纏った中学生たち。制服姿でぞろぞろと、美晴に焼香をあげに来たその中には、小野寺琴奈もいた。

こんな時でもスカートを膝上までたくし上げる姿には、俺も思うところがあったけれど、母の目映った小野寺琴奈は、俺とは違ったように見えたはずだ。


「母さん、ちょっと葬儀屋さんとお話があるから。片付けが先に終わったら、ちょっと待ってて」

「わかった」


金縛りの溶けた手を動かしていると、耳元で囁く声があった。


「お疲れ様」

「なんでお前がここにいるんだ」


高校の制服ではなく喪服に身を包んだ黒子は、俺の横に腰を下ろすと片付けを手伝い始める。


「お店の人が言ってたわ。片付けを1人でやらせろと言って聞かない男の子がいるって」

「迷惑な客もいたもんだ。客に仕事奪われてたら店の立場もないだろうに」

「さらに困ってるのは、そのお客さんの手癖が悪くていつまでも片付かないことらしいわよ」


それは悪いことをした。

けれど、亀の全速力を兎が咎めるのは如何いかがなものだろうか。

家族を亡くした人間に、普通の人間と同じ時間の使い方を強要されても困る。


「私が貴方のセグウェイになってあげる」


なんだその冗談は。

新手の口説き文句か?

黒子の横顔があまりにも真顔で、そのギャップに笑ってしまう。

今だけツボの浅いお兄ちゃんを許してくれ、美晴。


「手伝うわ」

「そりゃどうも」


一滴も喉を通らなかったジュースと炭酸飲料の空ビン。集めた中で割られていない1膳の箸を申し訳程度に割いておく。

集めた食器は店の人が運びやすいようまとめて、通路脇に置いておいた。

乱れていた座布団を戻し、机を整える。


「なんで座布団まで片付けてしまうの。お母様を待つのでしょ」

「あー、悪い」


黒子は金色の糸で描かれた刺繍の入った座布団を2枚、部屋の中央に置く。


「なんで2枚。1枚でいいんだけど」

「あら。秀吉くんがいずれ触ることになるであろう私のお尻が四角くなってしまってもいいの?」

「じゃなくて。お前はもう帰っていいだろ。手伝ってくれてありがとさん。さようなら」


俺を無視して先に座布団に座る。

瞑目しながら正座する黒子は、地球を裏返してもそこから動かない気がした。


「用が済んだらお払い箱だなんて。秀吉くん、ちょっと見ない間に女の扱いが上手くなったじゃない」

「ちょっと見ない間って。ほんの数日だろうが」


美晴の葬儀が始まる前の数日、俺は学校を休んでいた。

表面化していなかった疲労がたたったのか、熱を出してしまったのだ。


「その数日が私にとっては何年にも感じられるの。一緒に過ごせる時間がどれだけ尊いものなのか、今の秀吉くんならわかるわよね?」


黒子の用意してくれた座布団に座る。

窓に小さな水滴が付いた。1つ、2つと増えていく粒はやがて飛沫に変わる。朝はあんなにも晴れていたのに、空は煙に閉じられたように薄暗い。


「雨の降る日は誰かが悲しんでる日らしいぞ」

「じゃあ、毎日が雨ね」


ゆっくりと流れる時間を、雨の音だけが継いでいく。

不意に手の上に感触が現れる。

俺は、独り言のように呟いた。


「俺、お前のこと好きだ」


何がそうさせたのかはわからない。

でもきっと、失ったものを別のもので埋めようとしてしまったのだと思う。

そのくらい、磨耗した俺の心に黒子の存在は優しすぎた。


「こんな時に告白だなんて不謹慎だとは思わないのかしら」


黒子の返事は予想以上に簡素だった。

俺の行動を冷ややかに笑ういつもの口調。


「たしかに。これは美晴に怒られても__」

「ねえ」


襟を引かれた俺は、黒子にぐいっと引き寄せられる。


「もう、私の前で、他の女の話をしないで」


唇が、塞がれた。

黒子の口づけによって。

光を織り込んだような艶やかな白髪。ビー玉のように色の溶け合った瞳が、静かに濡れている。雪化粧を纏った肌。頬と耳だけが、ほんのりと赤みを帯びている。

もう一度触れたら消えてしまいそうな唇が、微かに震えているのがわかった。


「なんで、泣くんだよ」

「わからない。とても嬉しいのに、胸が、すごく苦しいの」

「悪い。こんな時にする話じゃなかったよな」

「そんなことない!」


右の瞳から落ちた雫が黒子の頬に光の線を描く。


「私も秀吉くんのことが好き。とても、とても大好き。あなたとこのような関係になれたことを本当に嬉しく思ってる。でも、だからこそ、ちょっと、今だけは、気持ちの整理をさせて欲しいの」


啖呵を切ったように早口でまくし立てた黒子は、立ち上がると部屋を出て行ってしまう。

止める隙もないほど。逃げるように。

俺は追えなかった。

心臓を掴むように胸の前で手を握りしめていた黒子。いつも気丈だった彼女が、あんな姿を見せたことは、出会ってから1度だってなかった。

犬猿の仲だったとはいえ、美晴がいなくなったことは、黒子にも大きなショックを与えていたはずだ。そんな不安定な状態のときに、さらなる動揺を与えてしまったのだ。自分のことばかりで、黒子のことを考える余裕がなかった。

走って部屋を出て行こうとする黒子の、苦しそうに歪んだ顔が脳裏に焼き付いて離れない。

決定的な何かを、俺は間違えてしまったような気がする。

ふと見上げると、壁に掛けられていた時計が止まっていた。

もしかすると、歯車が狂ったのかもしれない。





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