2EP.18
オーソドックスとオートバックスの字面が似ていると、母がぼやいたことがある。それは唐突なボケというわけでもなく、単純に、信号を二つ越えたところにあるオートバックスが運転席から見えたからだろう。
「レッドソックス」
それは助手席に座る兄の声。
「ジョン・バッカス」
「トンソックス」
「アウストラロピテクス」
「オーストラリアサンソックス」
「なんで靴下縛り⁉︎」
母と兄の無意味なやり取りについ、ツッコミを入れてしまった自分が恥ずかしかった。
なんて。
そんな他愛もない日常をこれ見よがしに思い出してしまうのは何故なのだろう。私はただ、オーソドックスという言葉を使いたかっただけなのに。
保育園の同窓会、その会場はオーソドックスとはとても呼べないカラオケだった。普段利用する個室よりも一回り大きな部屋。照明が多く、カラオケは薄暗い場所という私の固定概念が、簡単に覆された。
おかげで人の顔がよく見える。
見えたくないものまで照らしてしまう照明。ついさっき降り始めた雨が、雷雲を呼んでくれることを願うばかりだ。
「なんでカラオケ?サイゼで良いじゃん。サイゼで」
「出た、守銭奴」
「出たとか言わないでよー」
財布の中身と睨めっこする杏。
節約家である杏にとって、ただの保育園の同窓会程度で多くの出費が出るのは、容認できることではないようで。
「絶対これ最後割り勘になるやつじゃん。嫌だなあ、お腹に見合わない金額のお金払うの」
「カラオケだし、そんなガツガツ食べる人はいないんじゃない?」
「うーん」
杏の表情が晴れないのも無理はない。
さっきから、ちらほらと視界に入る元同級生たちの態度は、どこか浮かれていて落ち着きがない。
そこには明らかな不慣れがあった。
一歩、自分が大人の階段を上がったことに高揚している。それは既に先を進んでいる者からすれば大したことには見えない。感動を共有できるほど懇意ではないのも相まって、同年齢なのに差を感じてしまう。
その差はこちらの優越感を煽るものではない。むしろ、危機感を感じさせる。
ハメを外し過ぎなければいいけれど。
私と杏を除いた十数人の中で、同じ考えの子は一人だけらしい。その子は明らかに表情が周囲と違った。
同感。私も来たことを後悔してる。
「ねえ、折を見て抜け出さない?」
各々がドリンクバーを注文したところで、私は杏に耳打ちした。
「飲み物取りに行くフリしてこっそり抜け出す、か……。良いね」
「ドリンクバー代だけ受付で先払いさせて貰えばいいし」
「それまでの我慢ってことで」
先行きが明るくなると人というのは明るくなってしまうもので、話すつもりはなかった、顔と名前が一致しない同級生たちとも私は会話をした。
歌は歌いたい人に歌わせる。幸いなことに、少し褒めれば男子たちは調子付いてくれたので、回ってくるマイクを私は上手く流すことができた。
「あ、この歌」
あまり楽曲に精通していない私でも、その曲あまりにも有名で、イントロの段階で何の歌かあたりがついた。
グループアイドルのラブソングをここで歌うって凄い度胸。よっぽど自分の歌唱力に自信があるのだろうか。
誰が歌うんだろう。マイクを持つ人間を探し、目に止まる。
あいつだった。
「似合わな」
杏の小声が私の鼻を鳴らす。
飲み物を先に飲んでおいて良かった。口に含んでいたら、これに収まっていた自信がない。
グラスを置き直してからまた顔を上げる。心臓が凍り付いたかと思った。
あいつは私のことを見ていた。針の穴に糸を通すような食い入る目で。全く視線を動かさずただひたすらこちらを見ている姿は、本当に不気味で「ひっ」と小さく唸ってしまう。
「どうしたの?大丈夫?」
「あいつが私のこと__」
杏に訊かれ、答えようとしたときには歌が始まってしまっていて、
「あいつ?」
私の指先を見た杏の目には、ディスプレイを見るあいつの横顔しか映らない。
誰か、今の光景、見た人……。
藁にもすがる思いで周囲を見回しても、私に視線を向ける子はいない。
顔と名前が一致しない隣人も見てはいなかった。
早くなる呼吸。喉が渇いているせいで空気が通る度に不快感が襲う。
__危ないかもしれない。
杏の言葉が脳裏をよぎる。
「ちょっと、飲み物、取ってくる」
「あ、じゃあついでに」
「私のも」
「ごめん、私もお願いしていいかな?」
四つのグラス、三つのオーダーを受けて私は部屋を出た。
このまま逃げてしまおうかとも思ったが、杏を裏切ることは出来ないし、第一荷物を置きっぱなしのまま来てしまった。
冷静な私ならグラスと一緒に荷物をこっそり持って、外から杏に連絡を入れることくらいはやってのけていたはず。
自分の余裕の無さに驚いた。
私に与えられた選択肢はなく、四つのグラスを手に廊下を歩く。すれ違う個室。扉の窓から盗み見れるのは様々な人間模様。
一人、ハンカチを目に当てて歌う女性。肩を組んで声を張り上げる男子高校生。お姉ちゃんと一緒に歌う小さな男の子。
それが気休めになったとは言えない。しかし、他人に想いを馳せることが可能になる程度には、私は回復できた。
密室で想いを歌える場だからこそ、生まれる瞬間がある。カラオケ嫌いの兄を引っ張るのに丁度良い決まり文句が出来た。
店に備え付けられたドリンクバーに着く。
一杯目と同じオレンジジュース。杏はアップルジュースで、他の二人はメロンソーダだったっけ。
四人分のグラスは、私の思った以上に厄介な代物になった。
空のグラスに液体が入ったことで、行きと帰りではその苦労にかなりの差がつく。ぷるぷると震える両手でなんとか四つのグラスを支え、部屋に戻る。行きと違って他の個室を眺める余裕なんてない。
廊下を右に曲がって、もう一度曲がった先に部屋がある。まだ最初の曲がるポイント。先は長いと溜め息を吐く。
その気の緩みが、命取りだった。
突然発せられた女性の甲高い声に驚いて、私はグラスを落としてしまった。
「最悪」
運良く靴は濡れなかったけれど、床はカラフルな水たまり状態。
悲鳴……、にも似た声はその一度きりで、それ以降続いて聞こえることはなく。声の大きさと、やけにはっきりとしていたことを考えると、どうやら突き当たりのトイレから発されたもののようだ。
発声練習なら部屋でやって欲しい。
顔を見てやろうとしばらくその場に立ち尽くしてみたけれど、いつまで経っても声の主はトイレから出てこない。
「もしかして……産気づいた妊婦さん…?いや、妊婦はカラオケに来ないか」
急病のような危機的状況も思い浮かんだけれど、そもそも急病になりそうな人はカラオケになんて来ないわけで。
このまま水たまりを作ったままでは、他のお客さんに迷惑が及ぶ。
結局、犯人の顔を見ることを諦めた私は、受付まで戻りグラスを落としたことを店員さんに告げた。
後始末はやってくれるとのこと。
何か小言を言われるかと身構えたが、何も言われず、むしろ怪我はなかったかと心配までしてもらった。金髪の男の人なのに、態度は紳士的だった。人は見かけによらない。
グラスを一度に四つ持っていくのは無理がある。もう一度、同じ二の舞になるのを避けるため、手間ではあるが二つずつ持っていくことにする。
「このドジっ娘。可愛いなあ全く」
部屋に戻った私は、杏にいじられ、元同級生にも笑われ。とりあえず散々な結果だった。
逃げることに合わせて、ついでに犯人を見ようとその後すぐ女子トイレに入ってみたけれど、そこには既に誰もおらずもぬけの殻で、誠に遺憾ではあったが、事件は迷宮入りという運びになってしまった。




