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2EP.17



黒子さんの発言が正解となる。

それが例え真実でなくとも、少なくともこの教室において起きた事件の正解は決まる。

裁定者の登場はすなわち終息地点が用意されてしまったに等しい。なあなあでの解決は許されない。明確な悪者が定義される。

たかが文化祭の催し物を壊した者と侮ることなかれ。

学校は閉鎖社会。三年間という確立した時間定義のある社会。芸能人や政治家が悪いことをしても、時間と共に人々の記憶から薄れ、許されてしまうのとはわけが違う。

些細な罪は些細にとどまらず、いつも背中にひっついて離れない。例えば、この社会では、先生に指名されて返事をする時に声が裏返ってしまった、なんて小さな事でも、卒業まで自分の恥を晒す材料となり得てしまう。在学は言わずもがな。そのコミュニティで集まれば集まる度に、それは優秀な話のネタとして誰かに利用される。

コミュニティを重視するのが女子社会?

私はそうは思わない。他人を貶すことで自らの存在を定義しなければ生きていけない社会。それが女子社会だ。

だから私は、女がか弱い生き物だと言われても不思議だとは思っていないし、抗議もしない。

だって私たちは常時その武器を世間に振りかざしているのだから。女を理由に楽をし、嫌な状況をかい潜ってきた。

私はそんな不条理が嫌いだった。

存在に存在を守られているという、ふわふわとした気味の悪い感覚。それを迎合して、むやみやたらと考えもなく力を振るう知性の見られない同性。

だから、どうしようもなく嫌になる。

自分の中に流し込まれたそれは、もう私を私と呼べなくしてしまった。


***


私は一度だけ兄に恋をしていなかった時期があった。男女という垣根の外。あずさ川保育園に預けられていた頃、私には気になる男の子がいた。

名前は肩鳥くん。

今では下の名前すら思い出せない彼を、あの頃の私は頑なに見つめていた記憶がある。

ぬぼっとしていて髪もボサボサ。いつも寝癖があったのは本人が水を嫌がっていたからで、プールの時間になると逃げ出す肩鳥くんを先生がいつも取り押さえ、半ば強引に水に入れていた。

鼻水が良く出る体質だったせいか、砂遊びをすると鼻穴から唇にかけて砂の道が出来る。それは当時でも女の子たちから不潔がられていたけれど、本人は特に気にしていない様子だった。

今思えばそこに惹かれていたのかもしれない。

おませに拍車がかかる年齢であり、バレンタインデーには躊躇いなくお気に入りの男の子にチョコレートを渡していた周りの女の子たちを差し置いて、私は肩鳥くんに何かをあげるようなことはしなかった。

バレンタインデーの前日。私のクラスは若い女性の先生二人が担当していた。曇りなき眼はその二人を優しい憧れの先生としか把握できていなかったけれど、記憶を漁ってみると違う側面も見えてくる。

いつぞやの午前のお散歩。私は母がくれたハンカチを教室に忘れたことを思い出して、教室に戻った。お散歩となると子供への安全面を考えて複数の先生が付いてくる。あの時は確か、園長先生が先に皆を外に連れて行ってたんだっけ。

担任である二人もその準備をしていたんだと思う。私が扉を開けると二人は顔を合わせるでもなく、私に気付かず黙々と外行きの準備をしていた。

戦慄したことを覚えている。

子供の前では笑顔を振りまき、二人の会話の中にも笑顔があったのに、建前がなくなった途端に本性は姿を現わす。


「熊本先生、春に故郷に戻って結婚するらしいわよ」


熊本先生は隣のクラスの担任。ジャニーズ事務所顔で、児童、先生、保護者の全方位から人気があった先生だ。


「なんですか急に。そんなこと私も知ってます」

「いや、佐々木さんの仕事が疎かになるんじゃないかって心配に思ったの」

「……」

「遠距離の鬱憤を晴らすための慰みなんてよくあることよ」


佐々木先生がリュックを思い切り床に叩きつけて立ち上がる。

静寂の空間には、荒だった衝突音がよく響いた。


「喧嘩売ってるんですか?」

「心配してるだけでしょ?ていうか、それ。気を遣ってあげた先輩に対して言うこと?失礼じゃない?」


初めて南先生の目が佐々木先生を捉える。

握られたハーネスは強く歪んでいた。

鋭い眼光に佐々木先生は怯えるどころか、にやりと口を曲げて言う。


「私、知ってますから。先輩が彼に関係を迫ったこと。彼、心底迷惑そうにしてましたよ」

「……っ!」


今度立ち上がったのは南先生の方だった。

一触即発の空気というのは、この時のことを言うのだと今でも思える。

ただ、彼女たちが触れ合わなかったのは、佐々木先生が私の存在に気がついたからだ。

あの顔は恐ろしかった。

見開かれた目は動揺と焦燥を映しながら、ぎこちなく取り繕われ、こちらの体温を奪う。開いた口は徐々に白い歯を見せ、均整が崩れたまま止まる。

二人の笑顔から逃げたくて、私は掛けられる声を無視して急いでハンカチを持って教室を出た。

その後から、二人の私に対する接し方はどこか遠慮が見られたと思う。

長い前振りになってしまったけれど、今思えばバレンタインデーの前日に前もってチョコを配っていた佐々木先生の行動は、南先生を意識したマウント合戦の一つだったのかもしれない。

男女問わず配られるチョコレート。綺麗にラッピングされたそれを、肩鳥くんは先生に執拗にねだり、一人だけ二つ貰っていた。

ずるい。合唱のように言われても、肩鳥くんは佐々木先生の後ろに隠れて、耳を塞いだ。

だから私は彼に何もあげなかった。

彼があの時、佐々木先生のチョコレートをねだることなく、ねだったとしても先生の後ろに隠れていなければ、私はチョコレートをあげていただろう。

その気持ちは結局、定義することも、定義させようという気持ちも起きぬまま時間は過ぎていき、両親を失った後、私の気持ちは兄の元へと向かっていった。肩鳥くんという存在すら私の中から消えていった。

はずだった。

つい先日のことだ。LINEに見慣れない名前からメッセージが来ていた。

ディスプレイに映っていた名前はローマ字で『KATADORI』と書かれ、赤丸の中にある白い数字は2を示していた。


『久しぶり、突然のラインでごめん』

『保育園のグループが出来たので招待するために連絡しました』


思い出すのに3分かかったのと、スパムを疑ったことは言うまでもない。


「あー、あの子か」


私は既読を付けてから、スマホをベッドに投げて兄の部屋に向かった。

フローリングは思いのほか冷えていて、指先からつうっと寒気が伝わってくる。ルームソックスを履く季節はとうに過ぎたと思っていたけれど、最近は季節感なんてのも当てにならないと思ったのを覚えている。

兄は自分の部屋で案の定、ゲームをしていた。どこから引っ張り出したのか、埃が拭いきれていないプレイステーション1はディスク音をぎしぎしと上げている。お年玉で買ったらしい小さなテレビに映った映像はポリゴンがまだ抜けておらず、BGMもレトロチック。ただ、プレイしているゲームはレーシングゲームなので、ギアやらなんやらは今とそんなに変わってない気がした。多分。免許持ってないからわかんなかったけど。

兄はドアをノックしてから開けないと怒る。

それなのに私がノックをせずにドアを開けたのは、兄が驚く様子を見たかったからだ。兄が怒るというのはあくまで建前で、言ってしまえばこれは私たち兄妹のひとつのくだり。

そーっと開けたおかげで兄は全然気が付かない。扉と対になるようにテレビが置かれているので、仕方ないと言えば仕方ないけど、それでも危機管理がなっていないと思う。

寝首をかかれるために生きてるような人だ。

そろりそろりと近づいて、胡座あぐらをかく兄の首元に息を吹きかけ……。


「だからノックしろって」


急に話しかけられたものだから、私の方が驚いて尻もちをついてしまった。

画面から目を離さない兄。

その態度と自分の悪巧みが見透かされていたことが悔しくて、つい語気が鋭くなってしまう。悪さをしようとしてたのは私の方なのに。


「気づいてるなら気づいてるって言ってよ。急に話しかけられたらびっくりするじゃん」

「いや、ほら、うちってニュータイプの家系じゃん?」

「また変なこと言ってるし」


__宇宙世紀はまだ来てないよ。

私の返事が嬉しかったのか、兄はようやくこちらを見てくれた。嬉しい。


「匂いだよ。匂い」

「え、私、臭い?」


慌てて身体を嗅ぐけど無臭だった。

兄は私の様子を見て、楽しそうに言う。


「違う違う。良い匂いだよ。女の子はハッピーフローラルで出来てるから、近づくと良い匂いがするんだ」

「それ、クラスの女子とかに絶対言わない方がいいよ」

「なんで?」

「普段から匂い嗅ぎまわってるみたいでキモいから」

「大丈夫。女子と話す機会ないから」


キモいと言いつつも、私の本心はキモい半分嬉しい半分だった。

クラスメートに同じことを言われたら、あまりの気持ち悪さに絶句している。相手が好きな人だから会話が続いているのだ。

兄の表情に陰が差してしまったので、とりあえず急いでフォローを入れる。


「モテ期は人生に三回来るんだよお兄ちゃん。まだ諦めないで」

「御歳七十でモテモテになっても意味ねえんだよなあ。つーか、近くね」

「いいじゃん妹なんだから」


画面に視線が戻った兄のすぐ左に腰を下ろす。肩と肩が触れ合う近さだ。


「今日は機嫌がよろしいようで」


独り言のように呟いて、それ以上追求してこない兄に体重を預ける。

触れ合う場所がじんわりと暖かくなり熱を帯び始める。その熱は次第に体を巡り、私の冷え切っていた場所まで到達する。

溶けたアイスのようにもたれ掛かる私のことを、兄は何も言わないまま、しっかりと支えてくれていた。柔らかくも態勢が崩れないよう芯を持って。

他愛ない言葉ではなく、愛のある行動で示してくれる。自分が大切にされていると感じられてすごく嬉しかった。


「お兄ちゃんの初恋っていつ?」

「ゾンビだった時」

「ふざけないで」


脇を指で突くと、肩が微かに揺れた。


「覚えてない」

「えー」


一見すると普通の回答だけれど、考えてみると抽象的な言い回しだ。


「覚えてないってどういうこと? 初恋があったのは覚えてるけど、誰に恋をしていたかは覚えないってこと?」

「初恋だったのかも覚えてない……というか、よくわかんないんだ。その時の気持ちが」


本人でも話が見えていないのだから、聞き手である私はもっと見えてこない。

顔をしかめる私を見て、兄は画面にポーズの文字を出す。


「好きな人は確かにいた気がする。だけど、誰だったか、いつだったかを思い出そうとすると頭の中に靄が掛かるんだよ」


アニメの見過ぎでそういう設定を体がトレースしたんじゃないの。

そう言おうとして私は言葉を飲み込んだ。

用意された代わりは、少し勇気が要るもので。


「黒子さんじゃないの?」


隣に住む幼馴染の美人さん。

付き合っているようで、付き合っていないと思われる二人の関係を迫った。

身構えていた私とは対照的に、兄は淡々と答えた。


「わからん。否定も出来ないし、断定も出来ない。第一、初恋をしてたのかすらわからないって言ってるだろ。まあ、ただ、俺がいつでも妹LOVEなことだけは変わらないけどな」

「なんか誤魔化されただけな気がするんですけど」

「いいんだよ。全国のお兄ちゃんは妹が大好きなの。それだけわかってればいいの」

「このシスコン」


頭を撫でられてしまえば、私はそれ以上何も言えなくなる。

本当に好きだというなら抱きしめるくらいして欲しいものだけど。

再びゲームを始めた兄の肩から離れる。名残惜しい体温に後ろ髪を引かれながらも、私は部屋を出た。

体は暖まった。

これならあの冷たいスマホに触れても、心がひりつくことはない。

これはまだ、私が兄に告白する前の話だ。




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