正当化ゲームとエッセイ
エッセイという言葉は「試み」を意味していて、そのかぎりで論拠や論証からはいくぶん距離をとっているけれど、だからといってどんな正当化からも無縁なわけではおそらくない。エッセイの中身を試論ではなく随筆ととっても、このことは本質的には変わらないのだと思う。
さて、ふつう主張というのはなんらかの水準で一般化可能だとみなされていて、その一般化がどの程度可能か、本当に可能かということに応じて格付けされたり検証されたりする。正当化をめざすゲームを始めているといってもいい。そのゲームは「主張には論拠が必要だ」という簡単かつ厳格なルールで動いていて、批判に耐えれば正当化されているとみなされる。
そしてエッセイはこのゲームから半分降りている(あるいは半分だけ乗っている)。「試みに書かれたもの」としてのエッセイを名乗ると、重箱の隅をつつくような批判を退けることができる、といってもいい。試論は「自分の主張が完全に正当化されている」とは言わない。随筆はだいたい正当化に眼目をおかずに主張を行うか、主張自体を行っていないので正当化をしていないと自称する。いずれにせよエッセイは「十分な正当化を行う」という立場に立たず、論証を行う義務から逃れる。
けれど、ふつうの意味とは違う正当化のゲームもある。「論拠がない主張は意味がない」という否定的なゲームではなくて、「意味のある主張のはずだから論証されるはずだ」という肯定的なゲームのことだ。
「私にとってはね」という留保がつく主張でも、「私」と同じような状況や感性を伴う人物にとっては意味があることはありうる。そして、意味があるのだから論証されうると考えることが出来る。
こういう肯定的な正当化のゲームの観点で捉えると、だいたいのエッセイで書かれていることは「論証を通じた正当化とは関係ない」というよりも、「十分な論証がされていないだけで、論証によって正当化されうる」という風に見ることができる。《黒鉛筆をみたら女子高生を思い出す》という突飛な記述でさえ、それがきちんと意味のある主張ならば、なんらかの仕方で論証されうるということになる。
エッセイの(ある程度勝手な)区分
・随筆(論証度合いがそこまででもない)
・試論(論証度合いが高い)
正当化ゲームの(ある程度勝手な)区分
・否定的ルール(論証できないと意味ない)
・肯定的ルール(意味あるなら論証できるはず)
正当化をめざすゲームは、学術はもとよりいろんなところでよく行われている気がします。
次回は「小説家になろう」でエッセイを書くことについての予定。