第二章 壱
黒い夜に、ぽっかりと開いた穴のように月が座していた。
男は、明かりから逃れるように、月に背を向け、闇の奥に瞳を漂わせていた。
深夜の裏通り。古い住居の屋根に胡坐をかいて、じっと待っている。
(……来るだろう)
そう、睨んでいる。
今回の任務は、おかしなことばかりだが、それでも仕事には変わりない。
男は言われたことをやり遂げなければならなかった。
春なのに、凍えるような風が吹いて、男の黒装束を揺らす。
風がやんだ頃、男は月光に導かれるように振り向いた。
(いる)
逆光の中に佇む影は、小さい。
きらきら光る琥珀色の瞳は、未だ穢れを知らない純粋な色をしていた。
「お前は何者だ?」
低く声を落として問う姿勢を評価して、男は嘲笑をやめた。
「俺は元魄という。素性はお前も知っているだろう?」
「……昼間、お前を足止めした男はどうなった?」
「さあな。しかし、戦闘は俺の本意じゃない。すぐに撤退してやったさ」
「じゃあ、生きているんだな」
「そんなこと、知るか」
「では、何故あんなことをした?」
小娘は語気を強めて、間合いを詰める。
(馬鹿なヤツだ)
せっかく深夜に呼び寄せたのに、その大声のせいで、確実に誰かが目を覚ますだろう。
元魄は、再び下卑た微笑を仮面のように装着した。
「あんなこととは、何だ。俺は命を狙ったわけじゃない。俺が本気を出したら、葉明など死んでいる。分かっただろう? お前を呼び寄せるためだよ。だから、お前は掟に則ってここに来たんじゃないか」
暗殺者が同じ任務を授けられた者と、会う手段がある。
そういう時は相手に分かるように、自分の得物を落としていく。
面会を望む場所に落としていけば、相手はそれを拾い、届けるような形で人気のない深夜に落ち合うことが出来るのだ。
あくまでも、原則的には禁止で、今回、命を狙っている葉明を、威嚇したことは、異例中の異例だが、今までそういうことがなかったわけではないらしい。
しかし、小娘は屈辱とでもいえるように、小刻みに震えていた。
「アイツは私の獲物だ。今は油断を誘うために、一緒に行動しているが、必ず仕留める! 横取りするな!」
「ほう。息巻く割には仲良さそうだったじゃないか? 暗殺者のくせに、あんなに標的と楽しくやっている人間を、俺は初めて見たぞ」
ぐっと小娘が息を呑むのが分かって、元魄は気分を良くした。
「まあ、いいさ。俺は今回殺しで派遣されたわけじゃない。一部始終を報告するように伝えられているだけだ」
「では、お前が私の見届け人ということなんだな?」
「まあな。あまりにもお前が自分の立場を分かっていないので、少しばかり手を出したくなかっただけだ」
「余計なお世話だ」
「精々頑張って、偽の皇子を殺すことだな」
皮肉たっぷりで言い捨てたつもりだったのに、小娘は元魄の言葉に違う引っ掛かりを覚えているようだった。
「お前も、葉明を偽者と思っているのか?」
「思っている……とかそういうもんじゃない。真相だ。小娘は知らないことが一杯のようだな。大方初めての仕事で、動揺しているんだろう」
「嫌味はもういい。話せ」
その偉そうな態度に、一瞬、元魄は眉を顰めたが、依頼主からは、小娘に柔軟な態度で接するようにと仰せつかっているので、とりあえず気を取り直した。
「芳 葉明なんて男は、ただの魚売りの倅さ。叡台の息子だっていう証拠なんて何もない。叡台が葉明の母に贈ったっていう指輪があるらしいが、それも偽物だっていう話さ。これだけ騒がれちまって、真実よりも噂が先行しているけどな。いずれ、偽物だって尻尾をつかまれるだろうよ」
「……だったら」
小娘は月光の中、目を丸くして呟いた。
「葉明を暗殺する必要なんて、何処にもないじゃないか?」
何故、小娘がそこに驚くのか、あえて理由を探りたくない元魄は、さっさと質問に答えてやった。
「……紫天領が近頃台頭してきている。国王はそれを不快に思っている。それを挫くための突破口だろう」
「台頭だって? それと葉明がどう結びつくんだ?」
「馬鹿な小娘だな。気になるんだったら、自分で調べてみろ」
察しの悪い小娘の相手をするのには少々疲れる。
長居は出来ない。元魄は忙しいのだ。
「所詮、先代の国王の息子だなんて、お飾りなんだ。紫天の名を全国に轟かせるための、芝居のようなものだ。すべての黒幕は紫天領主、悠威だろう」
「……そんな」
素直に混乱している小娘を残して、元魄は颯爽と身を翻した。
言うべきことは伝えたのだ。
夜の街に飛んでいく。
鍛え上げた脚力を使っているので、常人ならば死ぬほど高い場所から落ちても、まったく平気でいられた。
一瞬だけ、小娘は元魄を追う素振りを見せたが、結局月を背に立ち尽くしたままだった。
(面白いな……)
元魄にとって、予想外の出来事など、滅多に起こった試しはない。
しかし、今回は、得体は知れないものの、いろんな人間の思惑が絡みあっていて、事態を一層混迷させているようなのだ。
それが、良い。
殺伐とした世界に生きてきた元魄は、久方ぶりの高揚感に胸を躍らせていた。