第一章 伍
「ここまで来れば、刺客も追ってこないよね? 沙々、気配は消えた?」
「今のところは……」
街を出て走り続けると、道がなくなっていた。
行き止まりだと思って、沙々が下を向くと、そこは土手の上で、下には川が流れていた。
走ったままの姿勢で、土手の下に転がり落ちた葉明は、草叢の中でうつ伏せになっていた。
「ああ、疲れた。僕、運動って苦手なんだよなあ」
呼吸を整えつつ、愚痴っている葉明は、相変わらず屈託がない。
しかし、沙々は落ち着かなかった。
未晶が勝とうが、刺客が勝とうが、どちらにしても、沙々にとって絶体絶命には、変わりがないのだ。
「さて、小娘。いい加減、明らかにしたらどうだ? どうせお前の知り合いか何かだろう。吐いたらどうなんだ?」
「悠威!」
珍しく荒い口調で、葉明は悠威を止めた。しかし、沙々も黙っていられなかった。
「知らない! 私は何も知らないんだ」
「ほう……」
半目で、沙々を見下ろす悠威の方が葉明よりも偉そうだ。
当事者である葉明は他人事のように、頭を撫でていた。
「まあ、沙々だって知らないって言ってるんだし、良いじゃない? どうせ僕なんて切羽つまらなければ運動もしなさそうだし、丁度良い機会になったのかもしれないよ」
「貴方は馬鹿か!」
悠威は太い声を轟かせながら、葉明にずかずかと迫っていった。
「自分の命を狙っている小娘を、わざわざ身近に置いてどうする? 自殺でもしたいのか!」
「死にたくはないけど」
子供のように、ぽかんと大きな口を開いていた葉明は、やがていつもの考えが見えない、間抜けな微笑を浮かべた。
「でも、せっかくだし、仲良くはしたいものだね」
「……呆れた」
言ったのは沙々だった。
「何が仲良くしたい……だ。そんな訳の分からないことを言うから」
「殺したくなるか?」
やってきた悠威が沙々の両手を羽交い絞めにした。
「放せ!」
「洗いざらい吐いてもらうぞ。いいですな。殿下!?」
厳しい言い方で、念を押す悠威だったが、葉明は哀れみ一杯の眼差しを沙々に送っていた。
「……却下」
一言だった。
「な、何と言った?」
動揺する悠威の手が緩んで、沙々は自由になる。しかし、呆気にとられて、動くことも出来ない。
「駄目だ。悠威。僕は嫌だ」
「嫌で済む問題ですか!?」
「だって、嫌なものは嫌なんだから仕方ないじゃないか」
……致命的だった。
もう、何がという話ではない。
問題は解決したと言わんばかりに、黒々とした目を、川辺に向けた葉明は、のんびりと仰向けに、草の中に体を横たえた。
「ねえ、そんなことよりさ。覚えている? 悠威。僕たちが出会った時のこと」
悠威は悪夢から我に返ったように、苦々しく言い放った。
「貴方はここで釣りをしていた」
「本当、あの時、僕は途方に暮れてたんだよね。母さんが死んじゃって、家業を継ぐしかなくて。悲しいくらい一匹も釣れなかった。潜れば良かったんだろうけど、僕泳ぐのも苦手だったから、困った、困った。魚屋なんて、やってられるかって思ったんだよ。そしたら、悠威が豪華な馬車に乗って迎えに来たんだ」
「……懐かしい話ですな」
出来れば、思い出したくないといった風情で首肯する悠威だが、気にも留めない葉明は、沙々に微笑を傾けた。
「人生って何が待っているか分からないよね。僕、王様の子供だなんて考えたこともなかった。あの日から、悠威は僕にとって恩人になったんだ。幼馴染みの未晶も大切な友人だよ。沙々だって会って月日は短いけれど、良い関係が築けそうだって、僕は思っているんだよね」
葉明の姿は、陽光にきらきらと輝く川面に染まっていた。
(コイツは愚か者だ)
沙々は心底苛立っていた。そんな綺麗事や、理想が通るほど世の中は甘くないのだ。
そう、大声で怒鳴りつけてやろうかと思った。
…………なのに、沙々は悠威が帰ると言い出すまで、黙って葉明の能天気な横顔を眺めていた。