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愚者の野望  作者: 森戸玲有
終章 愚者の私情
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終章 壱

 未晶は黒い屋敷の中で、白い着物を身につけている葉明と対面していた。

 地に膝をつき、一通り最近起こった出来事を報告しているが、一向に反応がない。

 不安になって顔を上げると、窓枠に腰を下ろしている葉明の伸びた襟足を、優しい風が静かに撫でていた。

 一応、眠ってはいないようで、未晶の視線に気付いたらしい、葉明はやっと口を開いた。


「そうか、光逸の方に動きなし……か」

「都で活動を始めた元魄からの情報です。しばらく内政に尽力することに決めたんでしょう。あちらには切れ者の法斉がいますから」

「うーん。でも、近いうち動き出すのは確かだろうなあ」

「……つまり、殿下がそうさせたいのですね?」


 未晶はにやりと口角を上げた。


 実のところ、今回の光逸の出兵にも、未晶は一枚噛んでいる。


 王宮の奥深くに配下を配置することなどたやすいことだ。

 まして、疑心暗鬼という病に罹っている皇帝を焚き付けることなど、容易い御用である。


 勝ち負けの問題ではない。


 そんなものを、未晶は考えてもいない。

 この一触即発の状態に、誰かが小石を投げるだけで、世界が変わるだろう。

 その様を見てみたいだけなのだ。 


(この人と……)


 葉明はいつもの笑顔でさらりと言った。


「だって、国王さまって太り気味なんでしょ。動かないと、そのうち動けなくなるんじゃない?」

「だったら、今回でも宜しかったのに? なぜ逃がしたのですか?」

「…………さて。何でだろうね?」


 そんなふうに、またしても、葉明ははぐらかす。

 未晶は、努めて抑揚なく告げた。


「今度こそ、光逸は私が仕留めます」

「ははっ」


 葉明の肩が震えた。

 どうやら、笑っているらしい。

 この青年の本音が見えないことは、その内面をあれこれと憶測するのに、楽しいときもあるが、今のように酷く苛立つときもある。


「本当、はりきってるよなあ。未晶は。すごいよ」

「ええ。いまだに、殿下に邪魔されたことを根に持っていたりします」

「ふーん。未晶は、そんなに光逸さんをどうにかしたかったの? じゃあ、僕のこと怒ってるよね。悔しい?」

「いえ。……私はただ」

「ただ?」


 葉明は、瞳を輝かせて振り返った。

 未晶が仕方なく気持ちを吐露するときだけ、敏感らしい。


「……思っただけです。貴方は最初から沙々さんが屋敷の中まで乗り込んでくると、よんでいたのではないかと?」

「僕が? まさか? 沙々が僕を追って来たのだって、奇跡といえば奇跡じゃない?」

「貴方が母君の形見の指輪を、彼女に渡していたとは、私も驚きました」


 形見という部分を未晶が強調して言うと、葉明は意地の悪い笑みで応酬してきた。


「そうそう、僕も驚いたよ。まさか、未晶が沙々をいじめたなんてさあ」


 話の本筋を、強引に蹴り飛ばして、ちくりと刺す。

 葉明は、沙々を紫天領と宋禮領の国境近くまで、駆けさせたことを言っているのだろう。


「誰から聞きました?」

「僕に教えてくれた君のお友達を責めないでよ」

「別に私は怒っていませんよ」


 おそらく、待ち合わせていた元・手下が葉明に喋ったのだろう。それ以外考えられない。

 しかし、いつの間に葉明は、未晶の手下とまで口を利くような仲になっていたのだろう。

 未晶が昔率いていた組織の名は「死令(しれい)」と呼ばれている。

「令」というのは、命令の「令」だ。絶対逃れることが出来ない死の命令。

 それが、未晶たちだった。

 集団には鉄の掟があって、些細なことも口外してはならないというのがその一つだった。

 ……でも。

 その掟は、もうない。

「死令」がなくなった時点で、消滅したのだ。

 それでも、未だに未晶の元・手下たちは、勝手に忠実に護っている。

 それを、未晶は可哀相だと、同情していたのだが……。


((あるじ)が……、変わったのかもしれないな)


 未晶ではなく、葉明に……。

 だから、手下は未晶ではなく葉明に傾いているのだ。

 腹は立たない。

 むしろ、それが葉明の能力なのだから。


「私は、貴方が沙々さんのことを最後の最後まで巻き込んだ意味が分からなかっただけです。いけないとは思っていましたが、彼女のことを試してしまいました」

「それで、意味は分かったの?」

「私なりに、分かりました」

「………………えっ?」


 即答すると、窓枠から足を下ろした葉明は、目を丸くしていた。


「本当に?」

「はい」


 今回ばかりは、葉明に感情の波が見える。

 それが、未晶には真実、腹を抱えて笑いたいほどに、嬉しかった。


「あの……。それねえ、僕にはよく分からないんだけど?」

「表面的には分かっていないのかもしれませんね。でも、貴方の深層では、それは当然のことだったのでしょう」

「あのさあ、未晶。さっぱり、意味が分からないんだけど?」

「殿下が分かるためには、閃きが必要だと思います」

「つまり、自力で気付けってこと? 困ったな。どうしようもなく、気になってきた」


 葉明は腕を組んで未晶の横をぐるりと一周した。

 その先の行動も、今日の未晶には読めていた。

 葉明は、扉の前まで跳ねるように移動して、横開きの扉に手をかけた。


「もしかして、沙々さんの所に行くんですか?」

「あれ? 何で、……分かったの?」


 葉明はいつもの未晶ではないと思っているようだったが、いつもと違うのは葉明の方だった。


「それなら、あちらから、殿下に訪ねてくると思いますよ」

「……そうなの?」

「ご両親と沙々さんは、紫天領から出て行かれるらしいです」

「………………はっ?」


 扉を半分まで開けていた葉明の手が止まった。


「なぜ?」

「まともに生計を立てて生きていくためとおっしゃっていましたが……」

「それにしたって。何だって急に。…………やっぱり、未晶の家が狭かったのかな」


 葉明はおそろしいほど、単純に狼狽している。

 未晶は不覚にも噴き出してしまった。


「しかし、あの家で良いと言ったのは、彼らですよ」

「お金が足りなかったとか?」

「仕事柄、多少の蓄えはあったようです」

「じゃあ、一体なんでだろ? 昨日会った時は普通だったのに」

「直接、本人に聞けばよろしいのでは? 丁度、今からここに来るんですから」

「未晶、あのね、僕……、急に用を思い出したんだよ」

「は?」

「悠威には、そう言っておいて」

「殿下?」

「じゃっ!」


 あっという間だった。葉明は追い立てられるように飛び出して行った。


(あの人にも、人間らしい部分があるんだな)


 いや、唯一の良心というべきなのか。


(多分……)


 沙々の口から別れの挨拶など聞きたくなかったのだろう。

 もしかしたら、自分に挨拶をしていないという理由で、引き止められると考えているのかもれしない。


(何て、幼稚な発想なんだろう……)


 長く一緒にいて初めての反応だった。


 ………………遠い昔。

 毎日人を殺して、糧を稼いでいる自分に嫌悪し、心を病んでいた未晶に、葉明は仕事を辞めれば良いとさらりと言った。

 そんなこと出来るはずがないと突っぱねたら、自分は国王になると豪語した。


『残念なことにね。僕は不可能だなんて、これっぽっちも思ってもいないんだよ』


 よく分からない人間だと未晶は思っていた。

 それは今も変わっていない。


 でも、沙々にはちゃんと分かっているのだ。

 未晶以上に……。

 そして本人よりも、葉明という人間のことを理解しようとしている。


 だから、葉明は恐れていたのだろう。

 そして、手放したくなかった。


(下らない理屈など、関係ないか)


 未晶はしばらく部屋に留まってから、やがて扉を開けた。

 予想通り、侍女を挟んで、悠威と口喧嘩を繰り広げている少女がいた。


 ……沙々だった。


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