第五章 伍
葉明は、頭に金色の冠を戴き、真っ赤な着物を何枚も重ね着すると、先日、悠威に殺されかかった時と、同じような格好で、外に出た。
「歩くには、暑いし、重い」の不満を漏らしながら、悠威の腹心や、未晶に命じたのは、たった一言だった。
「紫天領のすべての軍勢に、僕の後について来るように言ってくれる」
今日は晩春の長閑な良い陽気だ。
(ああ、あったかいからか?)
沙々は笑った。
頭に何かわくには丁度良いのかもしれない。
「葉明。あんた、国王に奇襲でも吹っかけるつもりなのか?」
「へっ?」
悠威がせっかく綺麗に着付けてあった葉明の襟元を引っ張った。
「貴方、今の今まで、私が非難の対象になるなら、それで良いって言ってたじゃないですか? ここにきて、一体何をやろうっていうのです?」
語尾の方は、蚊の鳴くような声だった。
悠威は、決断を決めた時の葉明に対しては、すこぶる腰が低い。
もう、自分の手から大きく問題が離れてしまったことを確信するからだろう。
そして、やはり問題は大きくなっていた。
続々と、葉明の周囲には、農作業を中断して、鍬や鋤を持った人間が集まり始めていた。
「じゃあ、行こうか」
馬車に乗り込んだ葉明は、もはや掛ける言葉もなくなっている沙々と悠威を伴って、小山の頂上付近まで向かった。
馬車を止めて、地上に降りた葉明と悠威に、真っ先に文句を言おうと詰め掛けていた若者達は、しかし葉明の正装を見て、むしろ呆気にとられてしまったらしい。
葉明は変わらない笑顔で、軽やかに人ごみの中を通過していった。
勿論、遠くから元魄と、近くで未晶が葉明を護っていることは、沙々も気付いていた。
人騒がせな奴だと、沙々は思っている。
けれども、さすがに今回だけは、素早く葉明の考えを読み取ることが出来た。
「ねえ、沙々。ここは省海山っていうらしいよ」
爽やかな山の風に、刺繍入りの重そうな衣装をひきずりながら葉明は進み、立ち止まった。眼前の開けた景色を目を細めて眺める。
「本当、あんたはやってることと、言ってることが、めちゃくちゃだな」
文句を言いつつ、しかし、沙々は葉明の視線の先を捉えていた。
「ここ、あんたを追いかけてきた時、通ったよ」
「そうだね。紫天領から来るには、この道が一番近いらしい。未晶が言ってたよ」
「言いたいことは、それじゃないだろう?」
その時だった。
わあっと、周囲にどよめきが走った。
皆の視線が、葉明と沙々と悠威と同じところに、集中した。
沙々は、見た。
黒い耕地を横断する膨大な数の人影を……。
土煙を竜巻のように発生させ、動き出した圧倒的な人の群れを……。
……………………そして、傍らで、それを俯瞰し、ほくそ笑む男の顔を。
「葉明。……あんた?」
「三倍どころじゃないよね? 法斉さんは本当策士だ」
こちらが脱力してしまうほどの軍勢だった。
まさに圧巻ともいうべき、行軍は粛々と行なわれていた。
「私たちは、あんな軍勢と戦うつもりだったのか」
沙々の後ろにいた悠威がぽつりと呟いた。
米粒ほどにしか見えないものの、正規の軍勢ではない者が多数だというのは、沙々も把握することが出来る。
しかし、数は半端ではない。
「……あれには、敵わないな」
誰かが言った。
「やってみなきゃ、分からないぞ!」
などと、怒鳴りつつ、早速、背を向け始めている者もいた。
しかし、大部分は「結局、何だったんだろうな」と、幻術が解けたように、放心する者がほとんどだった。
「本当、何だったんだ。殿下。一体、貴方は何がしたかったんだ?」
悠威が生気の失せた顔のまま、葉明に訊く。
「簡単なことだよ」
葉明は苦笑しながら、さらっと言った。
「……国王暗殺」
「はっ?」
葉明は崖の方へと数歩進んでいる。
気の抜けたその場の人間は、誰も葉明を止めない。
旋風に体を預けながら、葉明は佇んでいた。
赤い華奢な後ろ姿が、沙々の琥珀色の瞳に鮮烈に焼きついた。
動きはじめた軍隊が、ぴたりと足を止める。
じっと、こちらを見ていた。
……葉明を。
葉明の真紅の衣を。
息を潜めるように。静かに、淡々と。
「でも、やっぱり覇道っていうのは、自分でつくらないとね……。だから」
そして、黒の軍隊は何事もなかったかのように、再び動き出す。
葉明は言った。
「良い布石になってもらわなきゃ」
「葉明……」
沙々には、分からない。
分かりたくなかった。
葉明が目指している道の先も。
何処か狂ったような、その笑顔も。
それでも、この男には、どうしようもなく人を惹きつける何かがある。
それを、その場にいる全員も感じているようだった。
悠威が膝をつき、葉明の前にひれ伏した。
「正直、私は貴方という人が出会った時から理解出来ません。結局のところ、今回の出来事の発端だって、貴方だったのです。それを、巻き込まれた私は、狐につままれたような気持ちで一杯です」
「……はあ」
葉明が助けを求めるように、沙々に視線を送る。沙々はぶるぶると頭を振った。
悠威は酔っ払いのように、有無を言わさない勢いで、熱く畳みかけた。
「今もどうして、自分がこんな場所で貴方の前に額ずいているのかが分からない」
「そ、そうなの?」
「しかし、貴方はやはり、私には敵わない何かを持ってらっしゃる。もう、私は、貴方についていくしかないのでしょう……」
「そんなこと、言われても」
葉明は困却しながら、重たそうな頭をかきわけた。
悠威は、葉明の沓の先に、頭を押し付けるようにして言い放った。
「あの時、貴方が法斉さまのはったりを見抜いた時、認めたくはありませんでしたが、私は貴方の凄まじい洞察力を感じとりました」
「ああ、それか」
葉明は用が終わったとばかりに、すたすたと歩き出した。
「あれは、はったりじゃないよ」
「えっ」
悠威は、瞬時に顔を上げた。
「法斉さんは、本気だったんでしょう?」
「ちょ、ちょっと待って下さい。えっ。それじゃあ、貴方がはったりで? えっ?」
「……僕も本気」
葉明は他人事のように言い捨てながら、人垣の中で、自分に頭を下げる未晶に笑みを送った。
――酷薄な微笑。
沙々を通して見ていた葉明と、未晶を通して、見えてきた葉明。
無邪気さは冷酷の裏返しで、優しさは非情に通じていると思った。
……怖いと感じる。
葉明も未晶と元魄と一緒の人種なのかもしれない。
足が竦むほどの魅力と、狂気を秘めている。
一歩あの男に近づくたびに、沙々は振り回されて、翻弄されて、抜け出せなくなってしまうような気がしていた。
結局、利用された挙句、それが自分の生きがいだと感じてしまったら、せっかく手に入れた自由も鎖になる。
(今ならまだ離れられる)
葉明のことをもっと知りたいと思って、指輪を渡すのを口実にここまで追いかけてきた。
……もう、いいではないか。
(葉明は所詮、私のことなど、道具程度にしか思っていないんだから)
沙々は、密やかに決意を固めた。
――心に宿りはじめた炎は、無視をした。




