第一章 弐
「そうだよねえ、やっぱり、悠威には、ばれないはずがないよねえ」
うーんと、腕組みしながら、唸る葉明に悲愴感は、微塵もない。
一体、何処でどうして計画が崩れてしまったのだろう。
殺すべき男は目の前にいるというのに……。
沙々はげんなりとして、うなだれた。
狭い馬小屋の中。
結局、紫天領郊外にある限りなく城に近い広壮な悠威の屋敷に連れ込まれた沙々は、早速、葉明と引き離されそうになった。
拷問部屋行きになるくらいなら、舌を噛んで死んでやろうと覚悟を決めた矢先に、葉明が沙々を強引に浚ったのである。
悠威の目を盗んで、葉明が沙々を連れ込んだのは、ここだった。
他の部屋はことごとく悠威の目が光っていて、会話が筒抜けになるのだそうだが……。
(だからって……)
時々、馬の嘶きが聞こえてきて、何だか沙々は落ち着かないし、独特の獣臭に頭が痛くなっていた。
「悠威はねえ、良い奴なんだけど、刺客となると目の色が変わるんだよ」
「待て。それが普通だろう」
「ああ、そっか。そうだった。僕は当事者だったね。忘れてた」
(何なんだ。一体?)
そうあからさまに、言われて、開けっ広げに微笑されると、沙々はどうして良いか分からない。
朗らかに両手を広げている人間を、正面から殺すことほど勇気のいるものはないのだ。
「じゃあ、やっぱり馬小屋で二人きりはまずかったか」
「まずいどころの話ではないんじゃないか?」
「女刺客さんは、なかなか怖い発言をするなあ」
けらけらと、よく笑う。
沙々が耳にした、上位貴族の下卑た笑いとはまったく違う。庶民的なものだ。
衣装だって、上質な着物には違いないが、先ほどの騒動による汚れと、馬小屋に敷かれている干し草がくっついて、ぼろぼろになってしまっていた。
白いので余計目立っている。
しかし、葉明は、まったくそれを気にしていない。
遊び疲れた悪戯坊主のように、後ろ向きに大きく寝転んでしまった。
「こう言うと、君の仕事妨害になるかもしれないけど、僕、まだ死にたくないんだよね」
「そう言う割には、無防備すぎるぞ。あんた」
胡坐をかいて、沙々は腕を組む。もしや、二人きりと公言しながら、周囲に護衛がいるのかと、神経を集中して周囲を探ってみるが、その様子はまったくない。
隙だらけの人間に限って、危害を加えようとしている人間の一挙一動に、大きく反応を示すものだというが……。
気持ち良さそうに両腕を枕にして寝そべっている葉明は、どうしたって、沙々の気配に敏感になっているようには見えなかった。
(一体、何なんだ?)
今、ここで命のやりとりをしようなんて、考えられないほど安閑とした風景だった。
(眠っちまったんじゃないか? こいつ)
ぺらぺらとよく口が回る青年が急に黙り込んだので、気になって距離を縮めたら、唐突に口を開いた。
「僕ねえ」
「うわっ!」
密かに驚いた沙々を尻目に葉明はへらへらと続けた。
「これから、偉くなるつもりなんだよねえ」
「…………えっ、偉く?」
「そっ」
「今でも、十分偉いじゃないか?」
「えーっ? これが偉い? そんなことないよ。毎日のごはんだって、そんなにお代わりできないんだから」
「はあ……」
この男の偉い基準は、食事の量なのだろうか?
「まあ、それは、大変だな」
育ちざかりなのだろうか。
その割には、病人に近いくらい、ひょろひょろしている。
「そうだよ。婿に入ると、こんな感じなのかなあってくらい、悠威のところは肩身狭いし、悠威は小姑みたいだしさあ。どうせなら、この国の一番上がいいかなって思ってるんだよね。だって、ほら、頑張ればさ、僕って国王の隠し子じゃない? そこそこいけそうな気がするんだよね」
「………………そ……そうか」
「うん」
子供のように、無邪気に首肯する。
(こいつ、大丈夫だろうか?)
先代の国王の隠し子ともなると、物事の考え方が常人とは違うのだろうか。
しかし、葉明ののほほんとした馬鹿面は、とても王族の高貴な血を継いでいるとは、思えなかった。
「今のところ、悠威に客人として養ってもらっている立場な僕だけど、もういい年なんだし、そろそろ、独り立ちしないといけないよね。だから、もっと、出世しなきゃ」
「……あんたの頭の中は、私には、さっぱり分からないな……」
隠しきれない本音がぽろりとこぼれると、葉明は更に大笑いした。
「ええっ、そう? 分からないかなあ? 簡単なことだけど。うーん、僕って基本的に暇だしさ、このままくすぶってても、貧乏になる一方だし。だったら、仕方ないから、少し動こうと思ってるわけだよ」
「……はあ?」
「というわけで、沙々。……僕はまだここで死ぬわけにはいかないってことなんだけど? どうかな?」
ここまで長い意味不明な一人語りがあって、結局、話は最初に戻ったというわけか。
(まったくもって、不毛だ)
沙々は盛大に溜息を吐いて、肩を落とした。
今のこの状況、追いつめられているのは、どうしたって沙々のほうだ。
敵の巣窟にいて、拷問されていないこの状況こそ、稀有なものなのだから……。
ーーーまだ死ねないって。
葉明のその台詞を口にするのは、本来、沙々の方なのだ。
(何で?)
「葉明…………殿下。もう、どうせバレているから、腹を割って言うけどな。とにかく、……私はお前を殺さないと帰れないんだよ。お前の命を奪えないのなら、いっそ私を殺してくれた方がまだ良いんだ」
「うん。そりゃあ、そうだ。お仕事だもの。仕方ない。暗殺業も大変なものだよね」
同情されても、困る。
だが、そんな沙々の心情を知ってか知らずか、葉明は干し草の上で寝返りをうって、うつ伏せになると、軽く手を叩いて、沙々にもっと近くに寄るように手招きした。
「ねえ。沙々。僕、良いこと思いついたんだけど?」
「はっ?」
沙々は呆れ果てた。だいたい、葉明にとっての良いことが沙々にとって良いことのはずがない。
しかし、葉明は相変わらず暢気な口調でこう言った。
「君もお仕事があるだろうし、そちらの機密事項……、たとえば、誰が依頼主かなんて、そんなこと教えてくれなんて絶対言わないけど、給金を弾むから、僕の下で働いてみるっていうのは、どうかな? 暗殺者に副業が禁じられているってことはないんでしょ?」
「要するに、私にお前でない誰かを暗殺をしろというのか?」
もしも、葉明が暗殺しろというのであれば、沙々は従うふりをして、葉明を殺せば良い。
(しかし、一体この男は、誰を殺すつもりなんだろう?)
物騒な想像に頭を回転させていると、じっと沙々を凝視する葉明の黒い双眸があった。
「……な、何だよ?」
「嫌だな、沙々。そんな危ないこと、女の子にさせられるわけがないじゃない。せっかくだしさ。違う仕事に挑戦してみるっていうのは、どうだろうって、僕は提案しているんだけど?」
「だから、お前の言っていることは、さっぱり分からないんだ」
「ああ、もう。つまりだね、僕が言いたいのは、悠威の目を欺きながら、しばらく密偵生活を送ったら良いってこと。恋人同士なんて面白い設定じゃない? 一度やってみたかったんだよね。そういうお芝居。まあ、無理にらしさを強調する必要もないけど」
「馬鹿な」
「君だって僕の命を狙うのなら、僕の近くにいた方が良いわけでしょ?」
「私は、絶対またお前の命を狙うぞ」
宣言してみるが、直後に後悔した。
(本音をぶつけてどうする?)
ここで葉明が恐れを為して、大声を張り上げたら、沙々の命はないのだ。
(ああ、どうして、うまい演技が出来ないんだ。馬鹿だ。馬鹿すぎる)
今更、前言撤回が出来ない沙々に、葉明は至極当然といった面持ちで、うなずいた。
「まあ、仕事だからね。僕に君を止める権限はないでしょう。君の好きにしていいよ」
「葉明?」
「……で、沙々。最後に一つだけ、質問があるんだけど」
突如、仰向けに寝た姿勢から、葉明は手を上げた。沙々はたじろぎつつも、恐る恐る頷いた。
「何?」
「君は本当にここまで一人で来たの?」
葉明は真顔だった。
どんなことを訊かれるのか、身を固くして待ち構えていた沙々は、頭が真っ白になった。
「……一人だが?」
「そうか。一人かあ。都から遥々、一人でここまで来たなんて、大変だったねえ」
「それはどう解釈すれば良いんだ?」
「どうって、その通りの意味だけど?」
殺そうとしている相手に同情されるなんて、想像もしなかった。
これで良いはずがない。
(もしかして、ここで殺そうとしても、意外に騒がないのでは?)
刹那、思い立った沙々は、隙をつくような形で、葉明の腕を抑え込んでみた。
「あれ?」
「……葉明?」
余りにも簡単に両手の自由を奪うことに成功して、拍子抜けする。
間髪入れずに、沙々は、無心で葉明の首をしめた。
――が、葉明は笑うばかりだった。
「く、苦しいよ。沙々~」
苦しいはずだ。沙々は殺すつもりで、両手に力をこめている。
しかし、沙々が本気でないとでも思っているのか、葉明は強請られた時のように、大きく取り乱すことはなかった。
(……何故?)
困惑して、手を放すと、葉明は責めるでもなく、へへっと、鼻を啜って深呼吸をした。
腹が立つのに、何でか殺せなかった。
それは、自分が未熟なのか、葉明がそれを狙っているのか……?
絶好の機会だったはずなのに。
(何なんだ。こいつ……。何で、私は殺せなかったんだ)
それでも、何だかよく分からないが、命拾いはしたのだ。
しかも、獲物の近くにいることもできるという謎の特権つきで。
(もう少し時間をかけて、見極めてやろう。……紫天領の情報収集も必要だろうしな)
沙々は自分自身に対する言い訳のように、そう考えた。