第五章 肆
紫天領の血気盛んな若者は、訳の分からない上からの指示に、困惑と怒りと安堵がない交ぜになった状態になっていた。
「ここまで来て、田畑を耕して帰れっていうのは、どういう了見だ」
「何でも、勝手に敵方の大将と話し合って、決めちまったらしい」
「戦いになるのを、土壇場にきて恐れたのよ。だらしねえ」
「紫天領で実践出来るように、しっかり農業を学べだと?」
「一体、俺たちはここまで来て、何やってるんだ?」
ここ最近の会話はそんなことばかりだ。
家に帰れることに喜び、一時の感情の昂ぶりで、戦争なんかに加担してしまった自分を反省する心はもっている。
……が、一度振り上げた拳をおさめるところがなかった。
そして、行き場のないどうしようもない憤りの標的は、何故か紫天領主、悠威に向かっていた。
「……何で、私なんだ!?」
天幕の中。
紫天から持ち込んできた机を、悠威は両手で激しく叩いた。
「仕方ないんじゃないか。あんたは顔が怖いんだから」
沙々は純粋な気持ちで、そう指摘してやった。
天幕の中は狭い。
三人いると、窮屈なので、沙々は早々に悠威には、日課となっている巡察に出て行ってもらいたかった。
「なあ、葉明、あんたもそう思うだろ?」
賛同を促すと、布団に寝転んでいる葉明は、悠威の顔を指差してにやっと笑った。
「沙々は良いことを言うね。悠威の顔は、子供が見たら泣いちゃう顔だよ。あははっ」
「だろう?」
しかし、正直な意見は身を滅ぼすことになった。
眉間に皺を寄せた凶悪な顔を、沙々に向けた悠威は、沙々に対する嫌味を並べはじめた。
「小娘が言うようになったじゃないか? 喚き散らすだけで脳もないくせに。大体、助かったのなら、大人しく寝てれば良いものの、こんな男所帯の軍勢の中にのこのことやって来て。一層、私の仕事を増やすだけではないか」
「な、何だと!」
かっとなって言い返したが、それは分かっていた。
図星である。
迷惑だということは、百も承知だ。
未晶と二人で軍営に来てしまった沙々に、専用の天幕があるはずがない。
結局、女性を男所帯の天幕と一緒にするわけにもいかないということで、葉明と悠威が天幕を共有することになったのだ。
それがまた悠威の精神的な苦痛を、増やしているらしい。
悠威は、葉明と一日中一緒にいると、とんでもない疲労感を覚えるらしい。
何しろすべてが正反対の二人だ。うまくいくはずがない。
しかし、葉明は悠威の存在など気にもしていないようだし、沙々が悠威に気を遣う理由は、少しもないのだ。
「ふんっ。みんな死なないで済んだのは、私のおかげなんだぞ」
「……まさに、そのとおり」
いつの間にか、起き上がった葉明は、欠伸を一つして、悠威を明らかに小馬鹿にした笑みを浮かべていた。
「沙々が僕の身分を証明してくれたおかげで、首が繋がったていうのに、その礼すら言えないで、自分の苛々をぶつける良い年した男なんて、悲しいよねえ?」
「その大切な証拠品を、小娘なんかに渡した愚か者は貴方でしょうが? しかも、いらないだなんて。よく言えたものです。大体、貴方がうまく奴らをまとめられないから、私のせいになっているんじゃないですか?」
「……とりあえず、こいつは魚屋の暢気息子だから、非難の的にもならないように出来ているんだよ」
「ふざけるな。小娘。それでは、世の中の魚屋はみんなそういうふうに、責任逃れするぞ!」
「うまいこと言うね、悠威。冗談の才能が開花してきたんじゃないの?」
悠威は、鼻をぴくびくさせて、怒鳴りつける機会を窺っているようだった。
沙々も日に数度、この場面に遭遇しているので、慣れてしまった。
悠威は、現在、護衛をつけて歩かなければならないほど、非難中傷の対象になってしまっていることが耐えられないのだろう。
しかし、日頃から存在感が薄い葉明が出歩いても、若者は葉明の存在すら気付かないのか、襲撃はおろか、声をかけられることすら少ない。
もっとも、葉明は外に出る時は、いつもの特徴的な白い着物ではなく、庶民の格好をしている。
皆には、着物の形くらいしか覚えられていないようだった。
「では……!聞きますが、あ、貴方は、一体、この先どうするおつもりなのですか!?」
何とか最初の言葉のうちは、悠威も冷静になろうとしているようだったが、とうとう最後の方で震える声は、激しい怒声となっていた。
葉明も沙々も、耳を塞いで耐えきり、肩で息をしている悠威を確認してから、両手を耳からはずした。
葉明はやれやれと溜息をついた。
「どうするも何も、君に非難が集中しているなら、それにこしたことはないじゃないか?」
(それは、もっともだ)
一度、欺かれ、殺されかけた沙々は、悠威に少なからず恨みがある。
葉明と出会う以前の沙々だったら、殴りかかっていたに違いない。
悠威はよろよろと、机の横に置いた椅子に座り込んだ。
「何と、無責任な」
「良いじゃない? 殺されそうになる経験ってそうそうないことだし。貴重な経験でしょ?」
「……貴方、意外と執念深いんじゃないですか?」
「そうか!」
沙々は座っていた敷布の上から立ち上がった。
「まだ、国王の軍勢は引き上げたわけじゃなかったな」
沙々は、未晶がそれを葉明に話していたことを知っていた。
「葉明、あんた、もしかして、みんなが国王の軍勢に、手を出すことを恐れているんじゃないのか?」
葉明は頷くでもなく、ぼんやりと虚空を眺めていた。
沙々の答えにはっとした悠威も、考えを述べる。
「しかし、兵士達は、国王軍がどこにいるかなど知りもしないでしょう? この近くにいること自体、知る由もない。あんな奴らに情報収集能力など……」
刹那、視点が定まっていない葉明の目に黒い光が宿った。
天幕がふわりと風をはらんで揺れた。
「……殿下?」
「うん」
外界から齎された白い陽光を浴びて、天幕の一歩外に膝をついている未晶がいた。
「そろそろ、国王軍が動くようです」
「……そう」
「もっ、申し上げます!」
直後に、悠威の武装した家臣が走ってきたものの、悠威は溜息をついて、追い払った。
「もういい。お前が告げようとしている話は、今聞いた」
葉明は首を回しながら、よろよろと立ち上がった。
「ねえ、悠威。僕の……、あの派手な赤い服持ってきたんでしょ。あれ着せてくれない?」




