第五章 参
「……陛下」
法斉は皺だらけの顔を硬直させた。
「やはり皇子、葉明さまは生きていました」
向かい合っている光逸は、巨体を何とか天幕に押し込んでいる。
座っている椅子は、王城のものより造りが簡易なもので、光逸が座ると、ぎしぎしと不気味な音を立てていた。
「やはり、生きていたのか?」
光逸は、法斉が葉明との会談に赴いていたことを知っている。
法斉は事前に報告としていたのだ。
多分、光逸は、狼狽していて、自分がどういう対応を、法斉にしたのかも、覚えていないだろう。
法斉はその混乱をついて、
『もしかしたら、罠かもしれない。そのような危地に向かうのは、自分と、その家臣だけで、十分だ』
と言い残して、本営を出てきたのだ。
光逸は、怖いもの見たさといった感じで、法斉に尋ねた。
「お前が見ても、本物だったのか?」
「……私が暗殺に失敗するわけです」
そっと、顔をそらした法斉の顔を、光逸は小さな黒い瞳で追いかけた。
「やはり、兄上の御子であるのか」
やりきれないような、暗い嘆息が光逸の大きな口から零れる。
法斉はその問いにうなずくことはせずに、さりげなく話を進めた。
「既に、他の領地にも伝わっていることでしょう。……面倒なことになりました」
「しかし、葉明が生きていたとしても、ここで叩いておけば、他の領地も何も言えまい。幸い、余の軍は紫天領よりも圧倒的に多い。葉明を殺すことなど容易いことではないか。何故あの会談の時に、合図を送らなかった?」
法斉が葉明に言ったことは、はったりではなかった。
…………法斉は本気だったのだ。
地の利は自分にある。
もしも、葉明が少しでも対応を間違っていたのなら、法斉は容赦なく合図をして、味方の軍勢に、紫天領の軍勢を攻めさせていただろう。
しかし、法斉はそれをしなかったのだ。
出来なかったのである。
光逸は葉明との会談の折、法斉が仕掛けていった罠が発動しなかったことに、不満があるようだった。
全面降伏でなければ、争うつもりだったらしい。
(葉明に会うことすら、恐ろしくて出来なかったくせに)
法斉は整えたばかりの白髪を撫でながら、言葉を選んだ。
「私もそのように考えておりました。会談に臨んだのもそのためです。おそれながら、私はあの場で葉明さまと差し違えても、すべての決着をつけようと考えておりました。
……しかし」
「しかし?」
外界の砂を含んだ風が天幕の白い布を揺らした。法斉は地べたに頭をつけて、詫びた。
「葉明さまも、また私と同じことを、考えていらしたのです。あの時、この地は、葉明さまの手勢に囲まれていたのです」
「馬鹿な!」
「我らが気付かないよう、夜陰に紛れて近づいていたのでしょう。数は絶対的に少ないとは思いますが、だからこそ、内部に潜り込みやすい。葉明さまは、おっしゃいました。むざむざ自分たちの兵が負けるわけがないと」
「……むう」
光逸は顎をぶるぶると震わせて、怒りとも恐れともとれない、複雑な表情を浮かべた。
結局、莉央にはあの場を収めるために、ああは言ったものの、葉明が嘯いたことの真偽など法斉にも分からない。
近くにいた葉明の精鋭部隊といったら、精々四、五人くらいなものだろうとも思える。
しかし、法斉が動けば、葉明は何をするか分からない危うさを秘めていた。
演技であれば良いのだ。
それならそれで、騙されたふりをして、光逸に報告するのも手だと、法斉はあの短い時間に考えたのだ。
法斉は深刻な表情で、額の汗を拭う真似をした。
「陛下の命が危険だと考えた私は、あえなく策を実行することを、断念したのです」
「だ、だが、どうするのだ。このまま膠着状態というわけにもいくまいだろう?」
すっかり、戦意が喪失したのか、それとも、もはや遠征という長旅に疲れたのか、光逸は怒り肩をすっかり落として、弱りきった声音で言った。
「葉明さまと敵対するとしても、一度都に戻って、軍の建て直しをはかる必要があるでしょう。今回の遠征は、脅し程度のもので、大々的な戦を想定してのものではありません。それは、軍統も承知のことです」
光逸が率いる王軍の軍部は、三つの部隊によって編制されている。
左軍と右軍、央軍だ。それを、束ねているのが軍統と呼ばれている宰相より一つ下の地位にいる権力者である。
今、軍統の地位にいるのは、法斉の息子である。
この軍統を経て、宰相に上り詰めるのが、瓏国の基本的な出世の過程だった。
要するに、法斉は息子に言い含めただけに過ぎない。
しかし、光逸は、それが絶対の意見のように、小さくなっていた。
「だが、余は負けるわけにはいかぬ」
「負けるも、何もないではありませんか? 陛下。我らは、各領地がどのような施政をしているのか、昨年の大旱魃の被害状況をただ視察に来ただけです」
「だ、だが……」
なおも食い下がる光逸に、法斉は子供をあやすように丁寧に言った。
「陛下。葉明さまもまた今回は穏便に事を済ませたいとのことです」
「軍勢を備え、ここまで進軍しておいて……、葉明はそれを、お前に申すのか?」
「紫天領の軍勢は、紫天領民がほとんどだそうです。彼らが持っているのは、武器ではなく、家の隅で眠らせていた農具ですよ」
「農具で戦うつもりだったのか?」
光逸もまた新緑の着物の袂で、汗を拭った。
こちらは、本物の汗だろう。
冷や汗か、本当に暑いせいか、分からないが……。
従者が気を利かせて大きな団扇で、光逸を扇ぐ。
今度こそおかしな気を起こさせないように、法斉は素早く話題を結末に運んでいった。
「宋禮領は、昨年の大旱魃の影響で、農夫が都に出稼ぎに出たきり、戻らないそうです。紫天領は、商人の街として栄えていましたが、このたび、山を切り崩して、農地を開拓しようとしているそうです。最近の若者は農業がどういうものか分かっていないようで……。せっかくなので、宋禮の農業を学んで帰るそうです」
「はっ?」
光逸は短い首を大きくひねった。
確かに、法斉だって無理があるということは、承知していた。