第四章 参
沙々は、未晶についていくだけでやっとだった。
眺めているのならば、この上なく美しいなだらかな山の稜線と蒼天の境界も、これから自分が登るものだと想像したら、ぞっとした。
自分一人だけだったら、この道程をこんなにも辛いと感じることとはなかっただろう。
体力には自信があったのだ。
考えることも、剣術も、てんで駄目だと自覚していたから。
ならば、自分には持久力しかないと、沙々は見定めたばかりだった。
(私が、甘かった)
上には上がいるのだ。
ただ歩いているだけの男を追うだけで息が上がってしまうなんて、刺客失格も良いところである。
いくら、未晶の屋敷に長期間籠もっていたからって、ここまで自分の体力が通用しないなんて思ってなかった。
最初の三日間は、筋肉痛で毎日動くのも億劫だった。
それが過ぎてからは、体の方は楽になったものの、疲労が重なって動きが鈍くなっていた。
男と女の違い。
いや、そうではない。
未晶は沙々の荷物も持っている。
十分、沙々よりも不利な条件であるはずなのに、沙々よりも断然速度が速いのだ。
(きっと、未晶さんと私では根本的に何かが違うんだ)
そう考えるしか、自分を慰める術はなかった。
未晶は、申し訳なさそうにしているものの、速度を落とすつもりはないらしく、時々振り返って、沙々が追いつくのを待ってからまた歩き出す。
夜もほとんど歩いている。
眠るのは、夜明け前の一時だけだ。
それが丸七日続いている。
当然だと思った。
未晶は葉明を心配しているのだ。
急いで合流するためには、沙々が足を引っ張るわけにはいかない。
近道を進んでいるのだろう。
沙々が紫天領に入るために使った大道ではなく、山越えをして宋禮領に向かうらしい。
山中に入ってしまうと、見えるのは遠くの未晶の背中と、行く手を阻む先の尖った枯れ枝ばかりだった。
痛い。
一応、鎖の胴衣は着物の下に着込んできたのだが、手や顔は無防備だ。
枯れ枝が皮膚を裂き、薄っすら血が滲んでいた。
頬と手の甲がずきずきした。
しかし、声を上げるのは我慢した。
自分が声を出したら、未晶は止まってくれるだろうが、そんなことをさせたくはなかった。
早く、葉明のもとに追いつきたい。
ただ、それだけだった。
――指輪を返そうと思った。
こんな高価なものはもらえないと……。
しかし、その程度のこと未晶に頼んで渡してもらえば良かったのだ。
それを。
沙々が自分の手で渡そうと躍起になっているのは、単純に葉明に会いたいからだ。
(もう一度、会って話を聞いてみたい)
葉明の本当を知りたかった。
たとえ、この道の先に危険が待ち構えていたとしても……。
たったそれだけのことに、沙々は滑稽なまでに突き動かされている。
これも、葉明の策略の一つなのだろうか。
(それでもいいんだ)
あともう少しだけ頑張ろうと、沙々は速度を上げた。
…………その時だった。
今まで、遥かに遠かった未晶の背中が急に近づいてきた。
「未晶さん?」
未晶は立ち止まって、沙々を待っていたようだった。
沙々が追いついた途端、背負っていた布袋を地面に下ろし、こちらを振り返った。
「少し休みましょうか」
「はっ?」
(何故?)
そんなことを言うのだろうか。さきほど昼飯を食べたばかりなのだ。
戸惑う沙々の頬に、未晶は懐に入れていた手巾に竹筒の水をかけてから当てた。消毒のつもりらしい。
「実は、沙々さん、この七日間、私は貴方を探っていたのです」
「はっ?」
「殿下に頼まれていたわけではありませんが、殿下にとって貴方がどういう人間なのか、私の目で確かめさせてもらおうと思いまして」
意味が分からない。
唖然としている沙々の手の甲の傷にも、未晶は手巾を当てると、肩掛けの鞄の中から小さな木製の容器を取り出した。
蓋を開けると、香りが鼻につんとくる。
「特製の薬です。切り傷にはよく効きますよ」
未晶は言いながら、沙々の傷口に白い粘状の薬を塗りつけた。
一瞬、鋭い痛みが走ったが、傷口に薬が染みこんでいくと痛み自体が消え失せた。
「私が貴方に怪我をさせたと知ったら、殿下に叱られそうですからね。しっかり治して下さい」
「それで」
沙々は呆然としたまま、未晶に問いかけた。
「未晶さんは、私を試したと?」
「ええ。良かったです。意外なまでに根性のある方で」
完全に開き直っていた。
(まあ……)
試すと、騙すでは意味が多少違うだろう。
沙々は自身にそう言い聞かせて、何とか心を浮上させた。
「ここまで、先を急ぐ必要はありませんでした。私はいつ貴方が帰ると言い出すか、待っていたんですよ」
「はあ……」
何だかもうどうでもよくなった。
どうせ、彼らの行動には、裏があるのだ。
未晶は沙々の上目遣いを受け流すでもなく、当然のごとく答えた。
「貴方が生半可な気持ちならば、私の素性は知られたくないと思ったんですよ。その点、貴方は合格でした」
「関係って、未晶さんは葉……、いや殿下との幼馴染みなんでしょう?」
「まあ、一言で言えばそういうことなんでしょうね」
聞いているこちらが苛々するほど、歯切れの悪いことを言いながら、未晶は手際よく、沙々の手に包帯を巻いた。
(そこまで重傷じゃないんだけど)
沙々は未晶につられるようにして、一角だけ枯れ枝のない開けた場所に、腰を下ろした。
「沙々さんは、私が何者であるのか、今まで一度も疑問に思わなかったのですか?」
「あー、野菜を売っているだけとは、思ってもなかったけど……?」
「今は、ただの野菜売りですよけどね」
「そんなふうに、もったいぶられても困る。何が言いたいんだ?」
「気付きませんでしたか? 昔、私は貴方と、貴方のご両親と同じような仕事をしていたんです」
「えっ?」
常人ではないとは思っていたが、正直沙々は未晶が何者であるかなど、考えたこともなかった。
沙々の素っ頓狂な声に察したのだろう、未晶は初めて仮面のような微笑ではなく、声を上げて笑った。
「面白い人ですね。貴方は。まったく刺客の家に育った娘らしくない。鈍感もいいところだ。確かにご両親も、できることになら、貴方には普通の生活を送ってほしかったって、言ってましたしね」
「馬鹿にして……」
「褒めているんですよ。少なくとも殿下は貴方に興味を持っている」
「そうかな。だとしても、私が物珍しいだけの話だよ」
「しかし、沙々さん。物珍しい人間になるということは難しいことなんですよ。貴方にも、殿下のようにも、私にはなることが出来ません。直情的に動くことなど、私には絶対に無理なんです。だから、以前の私にとって、殿下はただの分からない人でした」
「意外だな。未晶さんって最初から、殿下に尽くしている感じがしたから……」
「今だって、別に尽くしているわけではないですよ。子供時代からの延長です。殿下とは、私の実家の仕事上付き合っていかなければならない間柄だっただけなんです」
「実家って、裏家業の?」
未晶は竹筒の水を一杯口に含んでから、
「こんな話を人にするのは、初めてのことですが……」
……と、前置きをして、語りはじめた。
「私の父は、殿下の母君を暗殺するように言われていたんです。殿下の母君は、他領の貴族の出身で、誰が依頼人なのか私も聞かされませんでしたが、その時、母君は既にご懐妊されていたようです」
「……じゃあ、葉明の父親は?」
やっぱり、先の王「叡台」かもしれない。
身ごもっている女性を暗殺だなんて、通常考えられないではないか。
ごくりと息を沙々は息を呑んだ。
「殿下」と言わずに、葉明と呼び捨てしてしまったが、もう構わなかった。
しかし、未晶は軽く頭を振って、答えた。
「殿下の母君は、私達に父君の名前を死ぬまで明かしませんでした。すべて知っているのは殿下ただお一人です」
「でも」
沙々は納得いかなかった。
「魚屋なんておかしいぞ。そんな……、貴族出身の人がいきなり魚屋やるなんて」
「仕事の斡旋を行なったのは、我々です。父は殿下の母君を殺すことが出来なかったんです。馬鹿馬鹿しい依頼だと思ったのか、殿下の父君を知っていたのか、理由は私にも分からないのですけど」
「それで、葉明のお母さんは魚屋に?」
「いろんな仕事を紹介したそうですが、母君はなぜか魚屋に興味を示したそうです。闊達な方でしたから、閉じこもってする仕事より、動き回る仕事が性に合っていたのでしょう。平和な紫天領に落ち着いてから、水が綺麗だから、じゃあ潜って魚を獲ろうという話になったようです」
(その点は親子だな……)
その不思議な発想方法が、葉明と似ているような気がした。
「未晶さんは、元々紫天領にいたのか?」
「いいえ。私と家族は国中を転々としていました。居場所が割れることを恐れていたんです。しかし、彼女を殺すことが出来なかったという事実は、こちらとしても家名を落としかねないことですからね。彼女を見張るためにも、拠点をこちらに設けなければならなかったんです。私はまだ子供で、そんな事情まったく知りませんでしたから、とにかく年下とはいえ、殿下が苦手で仕方なかったんです」
「それが、どうして、今こんなふうに?」
未晶は静かに破顔した。
「簡単なことです。あの方が私におっしゃったからです」
「何を?」
「そんな仕事、辞めれば良いんじゃないかって」
「はあっ?」
驚愕のあまり、後ろにひっくり返りそうになりながら、沙々は深呼吸して自分を落ち着かせた。
「それって、一言だけ?」
「特に長話をしていたわけではないですね。殿下は魚釣りをしていて、会った途端、いきなりそうおっしゃいました」
葉明のことだ。
どうせ、一匹も釣れてなくて、退屈だっただけだろう。
(魚屋なんて……、仕事を辞めたかったのは、自分の方なんじゃないのか)
沙々は頭が痛くなってきた。
「でも、未晶さん。私はそう簡単に、裏家業が辞められるとは思えないんだが。私の両親も、抜けることが出来なくて、長い間、私のために仕事をしていたんだ」
「沙々さんの場合はね……」
含みのある言葉に、どきりとする。改めて、質問しようと、沙々が口を開いたところで、遮られた。
「そうですね」
いきなり、肯定された。
未晶は微笑んでいる。いつもの笑顔だった。
「確かに、辞めきれてはいないでしょうね。この仕事には、どんなに逃げようとしても忘れられない、暗い高揚感がある。でも、殿下は私のそれをひっくるめて分かっているのだと思います。……多分、感覚で」
そして、未晶はゆっくりと目を閉じた。
彼を囲むように、一陣の風が吹く。
申し合わせたように、陽が翳った。
大きな影が日差しを遮断していたのだ。
(――えっ?)
「お話し中に失礼します」
「わっ!?」
動じている間もなく、長い影は沙々の足元にまで伸びてきた。こちらに人が近づいているのだ。前方の枯れ枝が大きく揺れた。
「未晶様。万事整いました。いつでも進行できます」
低い男の声が響いた。
進行なんて言葉を使うくらいだ。まだまだ仲間がいるのだろう。
(信じられない)
どうやら、未晶には、手下がいるらしい。
沙々の家と同じような構図に、未晶の方もなっているというわけではないらしい。
「分かりました。すぐに合流します」
未晶は素っ気無く頷き、影を遠くに行くよう目配せした。
「さあ、沙々さん。行きましょうか」
未晶は速やかに立ち上がると、困却する沙々に手を差し伸べた。
「……貴方が行けば、あるいは、殿下の望みも見えてくるかもしれません」