第四章 弐
「何か疲れてきたんだけど」
(だったら、いっそ死んでくれ……)
悠威は奥歯を噛み締めながら、葉明の戯言に耐えた。
頭に血がのぼった若者中心に、電光石火に紫天領を出て、三十日以上経っている。
隣国が紫天領の行軍に横槍を入れてこなかったのは、ある意味驚きだが、悠威は、正直なところ、邪魔をしてくれれば良かったのにと、思っている。
何しろ、葉明が急げと、悠威以外の人間を突っついたので、準備も半端、武器も農具をぶらさげた程度の、見るからに素人集団を引っ張って、戦場にいかなければならなくなってしまったのだ。
(もう、どうとなれ)
半ば自棄になっていた悠威だったが、それでも実質的な采配をふるわなければならないのは、悠威であり、行軍を進めるにあたっての諸問題に頭を悩ませるのは、悠威以外誰もいなかった。
(私は、一体何をしているのだろう?)
特に近頃、切迫しているのは、兵糧についてだった。
紫天領を出る際、慌てていたので宋禮領まで、片道丁度分くらいしか、用意出来ていなかったのだ。
だが、案の定足りなくなってきた。
今、紫天領から兵糧を送わせようとしているが、行軍に参加した若者に比べて、街に残った者は、年寄りや女性が多い。
無事に、人数分届くかが心配だった。
(何処かで調達するにしても、宋禮までは山道ばかりだしな……)
しかも、最近ではその食糧の少なさや、旅の疲れから、血気盛んな若者達が苛々し始めたのか、内部での喧嘩が絶えない状況だ。
幸いまだ怪我人はいないが、戦をする前から、喧嘩で負傷するのも、ずいぶんとお粗末な話だった。
(悩みの種はまだまだある。細かなことを数えあげたらキリがないだろう)
しかし、食糧の問題や、若者の愚かさだって、この男の存在に比べたら、まだくだらない問題に過ぎないだろう。
(……何が疲れただ。そんなことで、この男本当に戦うつもりなのか?)
「うわあ。凄い山だねえ」
疲れたと言ったその舌の根が乾かないうちに、葉明の頭は周囲の景色に切り替わってしまっている。
いちいち相手にしている悠威が馬鹿げているのだ。
出来れば、顔も合わせたくない。
だが、この男は悠威が目を離すと、すぐにちょこまかと動き回って、ろくなことをしない。
つい先日は、葉明の顔を知らない若者の喧嘩に巻き込まれて、もう少しで殴られるところだった。
今日は休憩を取っている最中に姿をくらまし、あやうく置いて行くところだった。
(いっそのこと、置き去りにしてしまいたい)
この鬱蒼とした山道に、葉明を打ち捨てて行けたら、どんなに爽快だろう。
実際、悠威は何度も夢想し、実行しようともしていた。
それでも、敗戦になったときの責任は、すべて葉明に取らせるつもりなので、そのためだけに生かしておく必要があったのだ。
「僕、考えてみたら一度も紫天領を出たことがなかったんだ。やっぱり、世界っていうものは凄いね。広いねえ」
葉明は馬車の窓から見える素朴な山の風景に、心を躍らせているようだった。
(このガキが……)
得体の知れないガキなので、一層性質が悪い。
「いつか、世界一周の旅にでも出てみたいものだよね。そしたら、もっと珍しいものが見れるだろうし」
「その前に、貴方の命の方が、風前の灯ですけどね」
「何か言った?」
「別に」
悠威は、最近心の声を人知れず口に出すことを覚えてしまったようだった。
これでは、単なる愚痴だと、姿勢を正した悠威は、形式的な家臣として、葉明に苦言を呈した。
「先日、貴方自身が巻き込まれたから、身に染みてご存知だと思いますが、若者が苛立っています。すぐに戦でもなく、毎日二食の侘しい食事に飽きはじめたのでしょう。やはり、紫天領を出たのは、間違いだったのではありませんか?」
「そうそう、昨日は死ぬかと思ったな。あの子たち僕の顔狙っていたからね。顔は女も命だけど、最近は男も重要視されているんだよ」
「殿下、質問の答えになっていませんが!?」
殺気立っているのは、悠威も同じだ。一喝すると、葉明は肩を竦めて、逃げるように、外界に視線を向けた。
「やっぱり、紫天領の若者は熱いね。喧嘩するほど熱い。そして、その若者を戦に送り込んだ女の人たちだって、意気盛んだ。元気だね。普通、自分の子供が死地へ送られるとなったら、誰だって死ぬ気で嫌がるよ。それをやって来いって言うんだから、凄いよね」
「彼らは熱に浮かされているのです」
「悠威、君は市井に下りたことがあまりないね?」
葉明は偉そうに、半目で悠威を見つめる。
戦の時とはいえ、上位貴族は戦場に出るまで鎧は身に着けない。
葉明は上質の絹布を使用した白い衣をだらりと着ているだけだ。
今まで、何度悠威が直しても、撫で肩のために、すぐに着物がおちてしまう。
違う服を用意させようとしたが、葉明はそれで良いと言った。
(結局、上品な衣はこの男には似合わないのだ)
悠威はそう思っていた。
(所詮は偽皇子。この庶民が……)
見下していたのは、悠威の方だった。
しかし、今、悠威が庶民でないことを、葉明に見下されているような気がしてならない。
「紫天領は、昔から自由な気風で、移民を沢山受けいれてきたよね。彼らは自分の生まれた故郷を忘れたわけではないんだ。いろんな事情で、やむを得なく故郷を出てきた人たちだもの。自分の故郷が苦境に立たされているのに、黙って見過ごすことが出来ないんだよ」
「だからといって」
「悠威はせっかく紫天領の主になったというのに、自分の領地を誇れないわけ?」
謎の敗北感を覚えて、悠威は黙り込んだ。
「悠威、紫天領は小さな世界なんだよ。世界の動向には、各国も敏感になるものさ」
葉明はにっこりと笑って、馬車の窓枠に頬杖をついた。
見事に話をすりかえられた気がしていた。
悠威は遠征の失敗を、葉明に詰問していたのだ。
それが。
(どうして、私がやりこまれなければならないのだ?)
「そろそろ、宋禮だよね?」
「はあ。あと二日のうちには、到着するでしょう」
「宋禮に着く前に、ちょっと寄りたいところがあるんだけど、悠威も来る?」
含み笑いを浮かべながら、葉明は悠威を誘う。今まで、葉明が悠威を誘ったことなど一度もない。
(一体、何を考えている?)
「いえ、私はここで指揮を取らなければなりませんから……」
馬鹿げたことに巻き込まれたくはない。
所詮、葉明のすることなど、たかが知れているのだ。
……しかし。
「残念だなあ。せっかくの楽しい宴なのに。お客さんは、国王の側近だよ」
「えっ?」
「とりあえず、誘ってみたら会ってくれるって。宋禮領主がもてなしてくれるそうだから、久々においしいものが食べられるかもしれないなあ……」
「ちょっと、待って下さい。それは一体どういうことですか?」
よどみない葉明の口調に、悠威はすっかり翻弄されていた。気がつけば、葉明の襟元を掴んで大きく揺さぶっていた。
「どういうことも、そういうことも……」
「名前は? 相手側の名前は、一体誰なのです!?」
「ほっ、法斉さん」
苦しげに葉明が呟いた名前に、悠威は呆然とした。
「元、宰相法斉のことか? 陛下に唯一意見できる切れ者と呼ばれている……」
(何故?)
そんな人物が、この男に会おうとするのか?
のびている葉明を、視界の隅に入れながら、悠威は深い溜息をついた。
「……私も行きます」
「えっ。だって、悠威はやることがあるって?」
悠威は葉明を睨みつけた。
「私の腹心に、現場の指揮をまかせていけば、大丈夫でしょう。それとも、法斉は、我が軍に騙し討ちをするつもりなんですか?」
葉明は暫時「うーん」と唸ってから
「じゃあ、むしろ、悠威は残った方が良いんじゃない」
と言った。
無論、悠威は、せっかくの平和的な解決への糸口を、逃すつもりはなかった。