第三章 壱
悠威は、黒一色の私室から、窓の外を眺めて、溜息をついた。
広大な屋敷を包み込むように存在している黒い壁。
屋敷の内部もまた「黒の迷宮」と呼ばれたことのある、複雑な造りをしている。
祖父が築いたこの屋敷は、悠威にとって自慢でもあったし、刺客はおろか、鼠一匹入り込むことも、逃がすこともないように作られているはずだった。
そして、悠威の治める「紫天領」もまた、この屋敷と同じく彼の屋敷のようなものなのだ。
この屋敷内の警備が行き届いているのと同様、彼の収めている領内で、人間を逃すようなことがあるわけがないのだ。
……なのに。
葉明が見つからない。
葉明を助けた者も。
刺客の小娘も。
新たに雇い入れた元魄という刺客すら、見つからない。
(これは、一体どういうことだ?)
葉明が殺されたのなら、死体を回収して大々的に葬式を執り行う予定だった。
皇子が今の国王に殺されたという評判が広まれば、近隣の領地もまた国王に不満を持つきっかけにはなるだろうし、紫天領の立場も良くなる。
国王側も、まさか国民が疲弊しているこの状況で、戦争を仕掛けて来るはずがないし、それならば、多少紫天領が高圧的に出ても、許されるはずだ。
平和的に解決できるだろうと思っていた。
悠威は、この紫天がすべてであって、他のことはどうなろうが知ったことではなかったのだ。
しかし、葉明の遺体は発見されない。
そもそも、死んだのかさえ、悠威の位置からは確認できなかった。
死角になってしまい、読唇術すら使えなかった。
沙々という小娘が葉明を刺したのか、庇ったのか?
まったく分からなかった。
それでも、葉明が悠威の前に姿を現さないということは、死んだのだろうと、決め付けて、死体がないまま、葬儀を行おうとした悠威だったが、すぐさま、それに批判の声があがった。
悠威もこんなことで、自分の家臣や、民衆を取り締まっても仕方ないので、葬儀は伸ばすことにしたが、国王が葉明を狙ったという噂は、瓏国の属領として、燻り続けていた民衆に火をつけてしまった……らしい。
こんなはずではなかった。
(こんなことなら、単純な気持ちで、葉明を祭り上げるのではなかった)
酷く後悔した。
今も屋敷の外では、国王に目にものを言わせてやると、息巻く街の人間が押し寄せている。
(愚かなことだ)
悠威は正直ついていけない。
戦争がどんなに残酷な結末を呼ぶか、民衆はまったく理解していないのだ。
人一人の命で解決出来る問題ではない。
無能な国王とはいえ、まだ紫天領は危害を加えられているわけではないのだ。
このまま待っていれば、自ずと疲弊した都の民が立ち上がり、国王は斃されるだろう。
(それで、良いではないか?)
何故、あと少し待てない。
意見を主張するだけなら、誰にでも出来るのだ。
焦燥感を打ち消すように、悠威は長い銀色の髪を掻きあげる。
……刹那、
「お困りのようですね?」
空気が振動した。
中性的な声が張り詰めた空気を解きほぐすように響いた。
(こんな、従者はいただろうか?)
一瞬、疑問に感じつつも、悠威はそちらを見ようとはせずに、
「一人にしてくれと言ったはずだ。出て行け」
藍色の着物の袖を振り、動物を追い払うように、扉の外を指し示す。
しかし、すぐに声は大きくなった。
……大笑いをしていた。
「やはり、面白い方ですね」
「何!?」
ハッとして振り返る。その時になって悠威は気がついた。
この声を聞いたことがあったのだ。
「お前?」
見事なまでの赤髪に、単身痩躯。庶民が着ている粗末な茶色の着物。
街の裏市場で会った男だった。
(確か名前は?)
「未晶と申します」
未晶は女性のようにしなやかな動作で、頭を下げた。
先日会った時と雰囲気が違う。
柔和な面持ちの中に得体の知れない殺気のようなものを宿していた。
「お前は、元魄と戦って死んだのではなかったのか」
悠威は疲労感を覚えながら、告げた。
ならば、筋書きは何となく読めてくる。
「お前が葉明を助けたのだな?」
未晶の存在を視認したわけではなかったが、この男以外葉明を助けようとする男もいないだろう。未晶は浅く頷いた。
「いかにも」
「どうやって、ここに侵入した?」
「ここの抜け道は、我が一族には伝わっています」
「何だと?」
「私の先祖は、貴方のお祖父様にも世話になったようで」
「なるほど。そういう一族の者か」
刺客など、外部から来るだけのものかと思っていたが、身近にも存在していたらしい。
悠威は面食らいながらも、威儀を正すつもりで、愛用の革椅子に腰を落とした。
「葉明は……、小娘も、元魄も一体何処にいるんだ?」
「それを、わざわざ私が貴方に報告しに来たとでも?」
「金は積む」
「殿下を渡したら、貴方はどうするのです? 殺しますか?」
「それは、お前が知らなくて良いことだ」
「自分の蒔いた種で足元をすくわれるとは、厄介ですね」
「何だと?」
「領主さま」
未晶は穏やかな声音で呼びかけながら、ふっと消えた。
「……なっ?」
悠威が瞬きを数回するうちに、首筋に冷たいものがあった。
「お気をつけなさい。暗殺というものがどのようなものか、今、この場で知らしめて差し上げても良いのですよ」
首の皮を撫でるように、鋭い刃が当てられていた。
「くっ」
悠威は、咄嗟に顎をひいたが、何の意味もなかった。
(こんなことが、あってなるものか……)
悠威とて、次期領主として武芸には、励んできた。
剣を持って戦えば、負けることはないという自信があった。
それが、今簡単に覆されている。
(命が脅かされている)
未晶の血のように赤い目が、ぎらぎらと光っていた。
いつもの笑顔が嘘のように、獣のような獰猛さを宿していた。
(殺される……)
「やめろ」
未晶に訴える悠威の声は、情けなかった。
葉明がいつも悠威に我儘を嘆願する声に似ていた。
このまま、死ぬのか。
こんな簡単なものなのか……。
得体の知れない恐怖に耐え切れなくなって、悠威は目を瞑る。
その時だった。
「分かりました」
呆気ないほど冷静に、刃の矛先をずらした未晶は、ぽんと悠威の肩を叩いた。
おずおずと、悠威が目を開くと、そこには先ほどと同じ位置で優雅に佇む未晶がいた。
(コイツ、化け物か?)
今更、噴き出してきた汗を着物で拭いながら、悠威はふって湧いた疑問を未晶に投げつけた。
「何故、私を殺さなかった?」
「殿下の仰せなので……」
「今まで、私はお前の存在に気がつかなかった。お前はずっと葉明に仕えていたのか?」
「ええ。私は貴方が殿下をこちらに招く以前から、殿下に仕えています。隠れてたんです。貴方を見定めるために……」
「ふん。ずいぶんと偉そうなものだな? それで、お前は私の何を見定めた?」
「言ってしまって、よろしいのですか?」
「もったいぶるな。言え」
「正直、貴方は巧緻に長けていると自分で思い込んでいるようですが、ツメが甘い。まだまだのようですね」
涼しい顔で、未晶は酷いことを言う。
しかし、悠威はそれに反論することも、怒ることも出来なかった。ぐったりとしている。
「では、葉明はそれ以上のものを持っているというのか?」
「さあ」
未晶は首を捻った。
ここまで来てその回答かと、悠威は何だかおかしくなった。
「じゃあ、アイツは何なのだ?」
「何だか分からないからこそ、みんな、あの人に賭けたくなるのではないでしょうか?」
(訳が分からない)
しかし、これ以上問答していても、答えがでないことは、悠威にもよく分かっていた。
所詮、悠威には葉明が分からないし、未晶というこの男も分からないのだ。
「……で、何故お前は今私のもとに来たんだ?」
未晶はその質問を、待ちわびていたかのように、大きな瞳を瞬かせた。
「蛇の道は蛇といいます。私はとうに引退した者ですが、横の繋がりは、そう簡単に絶てないようでして……」
「何だ?」
「貴方はさりげなく王の怒りの矛先を変えようと尽力されていたようですが、目論見通りにはいかなかったようですね」
「どういう意味だ」
「王が視察に出るそうですよ」
「…………それが?」
「皆まで言わなければ分かりませんか。視察とは名ばかり、王の目的は紫天領を叩くことです」
抑揚なく告げられて、悠威はむしろ茫然となった。
「ばっ、馬鹿を言うな。大義名分もないのに、そんなことできるはずが……」
「貴方は光逸の性格をご存知ないようですね。葉明殿下がここにいる。それだけで、立派な謀反となるのです。それに、この領地だけが、他領に比べて栄えているのもご存知でしょう。いつか、こんな日が来ると、貴方も用心していたはずです」
「そうだ。私は……」
「だから、今回その通りになったのです。もっとも、大義名分がないのは事実なので、適当にでっちあげるのでしょうけど」
「そんな莫迦な……」
こうならないように、悠威は必死に今まで立ち回ってきたのだ。
しかし、嘘だと断言する理由もない。
「さあ、貴方の領主としての真価が問われるときがきましたね。精々、頑張ってください」
「ま、待てっ!」
しかし、伸ばした手は宙を切るだけだった。
すでに遅かったのだ。
……何もかも。
立ち上がった悠威は、目の前に悪夢を見た。




