第二章 漆
「……もう良いのですか?」
未晶は、特製の薬草茶を入れながら、目前に空気のように、佇んでいる青年を一瞥した。
おそらく、付き合いの長い未晶でなければ、見逃していただろう存在感のない男は、しかし、口を開けば、誰もが無視できない存在であることを、未晶は知っていた。
白い着物一枚を、だらりと着こなす葉明は、肩くらいまで肌を露出し、髪はぼさぼさだった。
鎖骨の辺りが痒いのだろうか、別段隠すわけでもなく、ぼりぼりと掻きながら、未晶の背後に座る。
炊事場には狭くなるので椅子を置いていない。地べただ。
それは、さすがに……、
(寒いだろう)
未晶は椅子として、代用している木の切り株を、無言で葉明のもとに置いた。
葉明もまた当然のように、ゆっくりと座る。
葉明の母は、生前、葉明と一緒にいると「老人介護」のようだと言っていた。
息子ながら、何一つ自分でやることが出来ず、ぼうっとしている息子を憐れんでいたのだろう。
しかし、未晶はそれで良いと思っていた。要は、周囲が葉明に世話を焼きたくなれば良いのだ。
何一つ自分で出来ないのなら、周りの人間がやりたいと思えば良い。
葉明は、相手を不快にさせず、それをやらせてしまう妙技のようなものを持っていた。
「うーん。寝ているのも、ちょっと疲れてきたかな」
「動きますか?」
「そろそろね。あれから何日経ったの?」
寝すぎのせいで、隈の出来ている目を擦りながら、葉明は自分で指を折り始めた。
……ゆっくりと。
「三十日……くらい?」
「六十三日ですね」
未晶は葉明の言葉を待ってから、訂正した。
ちょっと、意地の悪いことをしてしまったと自覚はしている。
しかし、葉明はまったく気にしていない。
「王都・維領から、紫天まで往復出来るかな?」
「常人には無理でしょう」
「無理なんだ」
「でも」
未晶は、調理台の前の四角い小さな覗き窓から、外をちらりと眺めた。
今日も快晴だった。
「常人でなければ可能でしょう。ここ、最近ずっと晴れてますしね」
「そろそろかな?」
「ええ」
未晶は出来たての茶を、木杯に入れ、葉明に渡した。
葉明はあからさまに、顔を顰めたが、こういう時は、未晶の方が強い。有無をも言わせなかった。
「計画はうまくいっていますよ」
「……そう」
他人事のように、葉明は首肯する。それが少しだけ悔しい未晶は、更に続けた。
「貴方がいなくなって、貴方の存在の大きさが噂されるようになりました。たかだか魚屋の倅なんて、茶化した文句も、魚屋が皇子だって良いじゃないかと、そういう形に変化してきたんですよ」
「阿呆の葉明は健在かなあ?」
「その渾名も、親しみと、敬意を込めた言葉に変わっていくかもしれませんね」
「阿呆の言葉の価値まで、高くなったら、面白いけどな」
葉明は薄く笑う。冗談を言う時ほど、この青年は笑っていないことに、ようやく未晶は気がついたところだった。
「何故、会わないのですか?」
未晶は今まであえて避けてきた話を振った。
今だからこそ話した方が良いと思ったのだ。
時機を逃せば、葉明は決して答えをくれず、いつもののらりくらりで、煙に巻いてしまうだろう。
それでも、ぽかんと大口を開けてしらばっくれようとしている葉明だったが、未晶がじっと待っていることに降参したのか、やっと口を開いた。
「沙々のことでしょう」
「はい」
子供がすねたように、下唇を突き出して、茶を啜る。
喉を通る茶の苦味を言葉に託すように、葉明は呟いた。
「暗殺に、とうとう、拉致、監禁。しかも未成年の女の子でしょ。物騒な単語が並んだものだよね。まったく」
「やむを得ないことでしょう。それに、いささか拉致とは違うと思いますよ」
「そうかなあ……」
「私は不思議でした。貴方がここから出て行こうとするあの子を止めなかったことに」
「ああ……、そのこと?」
葉明は平然と答える。
本心を掴むことの出来ない、仮面のような微笑がそこにあった。
「そりゃあ、僕だって平和的に止めようとしたんだよ。でもね、沙々ったら、ずかずか行っちゃうんだ。そしたら、僕だってもう何も言えないでしょう?」
「でも、貴方なら、目的のために自分が何を言えば、相手にとって効果的なのか、瞬時に判断がつくでしょう?」
「嫌だな。前から思っていたんだけど、未晶は僕を買いかぶりすぎだよ」
「しかし、貴方は否定をしない?」
うっと喉に何かを詰まらせたように、黙り込んだ葉明は立ち上がって、調理台に置かれている薬草の残りを千切って口に運んだ。
腹が減っているようには見えない。
(照れ隠しだろう)
未晶は笑った。
葉明は口に含んだ直後に咽ている。
「何故、正直に話してしまったのです? 適度な嘘をつくことなど、貴方の得意技じゃないですか? 私にだって、貴方は目的のためなら、いくらだって嘘をつくでしょう。それなのに、何故、あんな小娘相手にその手を使わなかったのですか?」
「未晶。僕はねえ」
葉明は、わざと通らない声でぽつりと呟いた。
「たまに、自分が喋っている言葉に支配されてしまうことがあるんだよ」
澄ました笑顔は変わらない。しかし、未晶は葉明が初めて自分に本音を語ってくれていることを確信した。
「貴方がすべての言葉を意図して使っているのなら、それはすぐに露見するでしょう。ただの嘘つきになってしまいます。でも、真実の言葉の中に、明確な意図が含むからこそ、人は騙されるのです。それが、貴方の魔術なのですよ」
「うーん。そうじゃないんだよ。未晶、それは僕の限りなく表層に近い評価だ。本当はね。僕は淋しい人間なんだよ。だってさ、口先だけの男だから、いろんな言葉を使うんだ。でもね、その言葉の何処にも、本当の僕は存在してないんだよ。それって、凄く悲しいことじゃない」
「今の言葉が貴方ではないのですか?」
宥めるように、未晶は諭すが、葉明はにこりと笑って、小さく頭を振った。
「この言葉を君に聞かせることすら、僕の意図するところなのかもしれないよ」
「そう、なのですか?」
「なんて、本気で言ってたら、僕は天才なんだろうけどね」
「……はあ?」
何だか気が抜けて、持っていた包丁を落としてしまった未晶は、慌てて拾おうとしたが、その目前に手があることに気がついた。葉明だった。
葉明は、悪戯が成功したような子供の笑顔で、未晶が落とした包丁を拾い上げた。
「僕は、自分自身がよく分からないんだ。……だから」
包丁の刃に映りこんだ自分の顔を眺めながら、葉明は今度こそ消え入りそうな声で言う。
「真っ直ぐな人は、怖いんだよね」




