第二章 陸
「成功したのか?」
「一応、そのように、報告が入っております」
「一応とは? 面妖だな」
暗い室内で、真っ赤な果物に齧り付いている巨体の男は、現在の瓏国王、光逸だ。
その見たこともない丸い大きな果物に、気を取られつつも、慇懃に返事をした腰の曲がっている老人が元・宰相の法斉である。
宰相の地位はとっくに他人に譲っているというのに、法斉が度々王城、しかも光逸の私室にまで呼ばれるのは、頭が切れて、光逸に意見出来る人間が他にいないからだ。
光逸は、自分で目にしないと、誰の言うことも信用しないような男だったが、父と兄に仕えていた法斉の言葉だけは、真摯に耳を傾けていた。
今夜も、策謀を巡らせている密談なのだが、光逸は法斉から講義を受けているような格好になっていた。
「葉明は死んだのだろう?」
「計画自体は失敗です。暗殺ではなかったのですから。何でも、私が放った別働隊が民衆を集めて、大々的に名乗りを挙げようとした葉明を、どさくさに紛れて弓で狙ったようです」
「ん? おかしいではないか。お前の話では、小娘が葉明を討つということではなかったのか?」
「小娘も壇上に上がって、葉明に襲い掛かったそうです。そして、その後、自刎したのだとか。私にも、詳細は分かりませんが。しかし、私はあくまで葉明の人格を知るために、小娘を送り込んだようなものなので、小娘のことはどう転んでも良かったのですよ」
「何だと?」
脂肪の中に埋もれてしまった黒い瞳を、光逸は瞬かせている。
法斉は、背筋を伸ばして座り続けることが年齢的に限界を越えていることを、腰の痛みで実感しながらも、表情に出さないように気を配っていた。
「……確かに、小娘があの男をこっそり殺してくれれば、重畳だったのですが、最初の仕事を、たった一人でこなせるとは思ってもいません。一番の目的は葉明の出方でした」
「そんなものを観察してどうするんだ?」
「万が一のためを考えたのです。もしも、葉明なる男が自分を狙ってきたからといって、小娘を血祭りあげれば、その程度の男なので、今まで刺客が返り討ちに遭ってきたのも、偶然でしょう。容赦なく葬ることが出来ます」
「では、小娘を生かして返せば、英傑の証拠とでも、お前はいうのか?」
「返すだけならば、それは単に徳の高い人物でしょうね。ただ道理に従っただけでしょう。為政者ではなく、学者になれば良い」
「では、何だったら、お前は脅威と見るのだ?」
「それは、分かりません」
法斉は皺だらけの顔をくしゃりと崩して、光逸に頭を下げた。
法斉には、自分なりの答えはある。しかし、それを口にしたところで、答えにはならないのだ。
叶うことなら、法斉は光逸に答えて欲しかったのだ。
そして、君主の資格があるか見極めてみたかったのだが、言葉通りに法斉の答えを受け取り、不機嫌な表情をしている光逸には、聞くまでもなく、その資格はないようにも思われた。
「どちらにしても、すべてが謎のまま葉明は去ってしまったようです。遺体がないので、死んだという確証はありません。ですが、もしかしたら、ただの魚売りが出世することに、恐れをなして、姿をくらましたのかもしれませんし、あるいは、葉明の存在が重荷になった紫天領主が葉明を葬ったのかもしれません」
「それは面白い」
激しく音を立てながら、果物を咀嚼して、嚥下した光逸は、手に伝う果汁を舐めはじめていた。
近臣であっても、眉を顰める光景だが、再三嗜めても直らないので、法斉は諦めていた。
目を瞑って、言葉を繋げる。
「まだ調査は必要ですが、この一件は、落ち着いたのですよ、陛下」
「そうかな」
光逸は鼻息荒く言い張った。
「余は分かるぞ。法斉。紫天の者は、反乱を企てている。暗殺に失敗したということは、奴らは、余が葉明を殺そうとしたことを知っているのだろう」
危機感に対してだけは、敏感に反応を示す光逸は二重顎を揺らしながら、震えている。
無論、法斉だってその点は想像がついている。
「しかし、紫天の民がそれを知ったところで、何が出来ましょう? 葉明は死んだのです。旗印がなくなりました。紫天は確かに力をつけてきていますが、戦争を避けるために、葉明を葬ったのかもしれません。だとしたら、今、陛下に敵うほどの力は持っていませんよ」
「つまり、紫天領は戦するほどの力を持っていないということか」
「御意」
「では、……勝てるのだな?」
何を思ったのか、明るい笑顔を大きな顔一杯に浮かべた光逸は、特別に作らせた椅子から、立ち上がった。
金色の衣装が部屋の明かりに反射して、法斉の目に悪い。
「陛下。もしや、不穏なことをお考えになってはおりませんよね?」
光逸は、単純な思考の持ち主だ。長所は、喜怒哀楽がはっきり表に出るだが、短所は、感情が極端すぎるところだ。
(まさか)
法斉は自分の予想が外れることを祈っていたが、光逸はある種、法斉の予想を裏切らない男だった。
「思い返してもみろ、法斉。元々、紫天は、余に対して生意気だったではないか。拝謁にも年に一度くらいしか来ないし、貢物も少ない。こちらが金に困っていても、融通すらしない。そのくせ、温暖で農作物も、資源にも恵まれているときている」
(よくも、そこまで紫天に不平不満を思っていたものだな)
むしろ、感心に近い感情を持ってしまった法斉の目の前を、何度も往復していた光逸は、やがて決意を固めたように、言った。
「ちょっと、脅してやろうではないか?」
「何をおっしゃいますか。ご冗談を……」
「余は本気だ」
「本気?」
元々、そんな言葉を口にすることが度々あった光逸だが、まさか本気だとは、法斉も思ってはいなかった。
意識が遠くなる。
だが、まだあの世の迎えというわけではないらしい。
(愚かな)
この場で、いっそこの男を見限ってしまいたかった。
事あるごとに、兄、叡台は愚かであったと吹聴している光逸だが、殊更に兄を貶めるのは、強烈な憧憬を持っているからだと、法斉は見ていた。
王座に就いてから、光逸は一度も兵を動かしたことがない。
いつか、自分の手で兵を指揮してみたいと、子供のような夢を抱いているのだ。
その機会がようやく巡ってきたのだと、勘違いしているらしい。
(そんなことで、これ以上、人命を犠牲にしてたまるか……)
法斉は効果的な言葉を発掘して、光逸を説得しようとしたが、やがて、即決してしまった光逸の心を動かすことが難しいことを、悟った。




