第二章 伍
目を覚ますと、天井があった。
老朽化のせいか、色落ちして元の色が分からない。
「橙色? いや、黄色か?」
ぼんやりと呟いてから、ゆっくりと上体を起こした沙々は、隣に葉明が寝かされていることに気がついた。
「起きた?」
見れば分かるだろうに、尋ねてきた葉明は、いつもの高級な白い着物ではない、粗末な白い着物を纏っていた。
そして、沙々もまた葉明と同じ白い着物に着替えさせられていることを確認した。
誰が着替えさせたのかが問題だったが、騒ぐほどの体力が今の沙々にはなかった。
思い出したように、腕の痛みが襲ってくる。
顔を歪めて、確認すると白い包帯が巻かれていた。
「手当てしてくれたのか?」
「未晶がね」
「やっぱり、あれ夢じゃなかったんだな。未晶さん、生きてたんだ……」
「うん。最初からね」
葉明は天井を見上げながらあっさりと言った。
つまり、未晶は死んだように見せかけていただけだったということらしい。
そして、それを葉明も知っていたのだ。
葉明は沙々が口を挟む隙を与えずに、捲くし立てた。
「君、三日も眠りこけていたんだよ。よほど疲れが溜まっていたんだね。ゆっくり休んだほうがいいよ」
葉明の黒髪が白い枕に散らばっていた。
彼は病的なまでに生白い顔をしていたが、白い空間にいると、それが尚更際立って見えた。
「あんたの方が、寝てたほうが良いんじゃないのか?」
茶化したつもりだったが、葉明はしっかり頷いた。
「そうだね。あとしばらく寝ているつもり」
葉明らしくない。何だか笑顔がぎこちなかった。
「落ち込んでるのか? やっぱり、私のせいか、それとも悠威のせいか。私と悠威のせいなのか?」
沙々は立ち上がった。
体はきついが、こうなってしまっては、一刻も早く紫天を出る必要があった。
沙々は両親のもとに駆けつけなければならなかった。
…………間に合うかどうかは別問題としても。
こうなってしまったのは、すべて沙々の責任だ。
葉明を殺そうとしたのも。土壇場で、葉明を殺せなかったのも……。
(すべて私が弱かったせいだ)
もう、葉明は殺せない。
いや、最初から沙々に人殺しなど無理だったのだ。
(私にはできない……んだ)
この先、二度と会えないのなら、去り際に後味が悪いのはごめんだ。
沙々は、寝台に横たわる葉明の枕元まで回ってから、勢いよく頭を下げた。
「すまない。あんたは私を信じてくれたのに。私は駄目だった。悠威に言われて、あんたを殺そうとしてしまった。どうにもならなくて。もっとも、謝って済むことじゃないだろうけど」
「なぜ、君は……」
葉明は言いかけて、沙々から顔を背けた。
いつもの陽気さがない。
初めてのことだった。
(おかしい)
沙々は本気で心配になった。
「葉明、どうした? 傷が痛むのか? 大丈夫なのか?」
「ねえ、沙々」
「どうした!?」
沙々は、しゃがんで葉明の口元に耳を近づけた。葉明の声が聞き取れなかったのだ。
……しかし。
「うーん、それは少し近いかな。沙々」
「そ、そうか」
慌てた沙々は、赤面して葉明から飛び退いた。それでもやはり気になったので、葉明の寝台と自分が寝かされていた寝台の隙間に正座した。
葉明は苦笑している。
沙々は数週間この男と一緒に過ごした。
しかし、こんな顔を見たことは一度もなかった。
初めての顔だった。
「君はさ、僕を殺そうしてたんだよ。なのに、こんな掠り傷でも僕のことを心配するんだ。本当、面白いよね」
「えっ?」
「……ねえ、沙々。君が謝る必要なんかこれっぽっちもないんだよ」
「しかし、葉明」
葉明は逡巡しているようだったが、諦めたように言った。
「謝るなら、僕の方なんだ。沙々」
謎の一言に、沙々は首を傾げる。葉明はばつが悪そうに肩を窄めていた。
「僕はなんとなく分かっていたんだよ。君があの場で僕を狙ってくるだろうって。だって、沙々はすぐに顔に出るからね」
「知ってたのか?」
「うすうす……。いや、がっつりと……かな?」
沙々は脱力して、その場に崩れた。留めをさすように、葉明は言った。
「でも、それだけじゃないと思っていたんだ。悠威が僕を狙うのなら、もっと徹底的に狙うはずだろう。幸い、未晶が元魄から情報を掴んでいてね。元魄は悠威に頼まれて、壇上で僕と沙々を同時に狙うって話だったから、僕は君と、元魄が狙ってくるのを待ち構えていたんだ」
「な、な、何?」
沙々は葉明の言葉がまったく理解できなかった。
「あの日、未晶が元魄を相手したのは、こちら側に取り込むためだったんだ。元魄は君よりも早く紫天に来てたから、僕は元魄にも、君にも見張られていることは知っていたんだ。問題は、二人が共同で僕を狙っているのかどうかだったけれど、とりあえず、僕は君と会ってみようと思った」
「会うって?」
「僕は君をおびき寄せるために、わざと柄の悪い少年に近づいた。芝居をうったんだよ」
「悪いが、私には、さっぱり意味が分からない。それで、つまりは、あんた達と元魄は手を結んでたってことなのか?」
葉明は、まだすべてを沙々に伝えることに、抵抗があるのか、しばらく黙っていたが、沙々の視線が逸れないことに、溜息をついて、仕方なさそうに、ぽつぽつと語り始めた。
「沙々の言う通りだよ。彼には三重の密偵をお願いすることになった。国王側の法斉に仕えつつ、悠威の意にも従い、僕らにも情報を寄越してくれる。もっとも、それを知ってるのは、僕たちくらいだろうけど」
「要するに、元魄があの場であんたを狙っている時点で、安全だって、あんたには、分かっていたんだな」
曖昧に、葉明は頷いた。
「なんだ。私は、かえって悪いことをしてしまったんだな。余計なことをして、あんたを傷つけてしまった」
「沙々……」
とうとう、起き上がった葉明は、いつになく真剣に首を振った。
「僕は正直、君が庇ってくれるなんて思ってもいなかったんだ。だから……、君を利用していたんだよ。……僕は」
葉明は、大きな瞳を感傷的に細める。
沙々は笑うしかない。
覚悟をしていた。
そんな話の方が、性に合っていた。
裏切るより、裏切られた方がいいなんて。びっくりするほど、お人よしだ。
(どうも、私は人が良いらしい)
今更ながらに実感した。
だからって、良いことなんて一つもないのだが……。
「あの時、僕が元魄に狙わせたのは君だったんだ。僕は君の命を狙うつもりはなかった。ただ威嚇出来れば、それで良かった。事件を察知して僕が君を庇う。そうすれば、僕は自分を狙った刺客を護った良い人になるだろ。国王は年端もいかない小娘を刺客に使った悪役になるわけだ」
葉明は、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「せこいよねえ。まったく」
沙々は首を振る。
解いてあった髪が、一緒に緩く揺れた。
もう、返す言葉はなかった。
沙々は、葉明を愚者だと思っていた。見くびっていた。
しかし、この男はちゃんと考えていたではないか。
それを見抜けなかったのは、沙々の方だ。
(だから、この男の手の中で遊ばれていたのだ)
「もう、いいよ。葉明」
疲労感に満ちた低い声で言うと、葉明の泣きそうな顔があった。
そう、これこそがこの男の力なのだろう。
どんな場合でも、そんな顔をされると、許してしまいそうだ。だから……。
これ以上、一緒にいてはいけない。
「私、行くよ。葉明。人質になっている両親がいるんだ。こうなってしまった以上、故郷に急がなきゃならない」
「……ごめん。僕のせいだ」
殊勝に謝罪されたからこそ、沙々は吹っ切った笑みを返すことができたのかもしれない。
「いや、いいんだ。しょせん、私には荷が重かったのさ。安易に暗殺など引き受けずに、故郷で両親を救う算段を練っていればよかったんだ。だから」
「だけど、沙々。君は怪我をしている。今動いちゃ……」
「じゃあ、お前は私に両親を見殺しにしろというのか?」
葉明は叱られた子犬のように、しゅんとなる。
そのくせ、引き下がらなかった。
「だ、大丈夫だと思うんだ。ご両親のことなら、多分。それに、ここで悠威に捕まる方が危険だし」
「多分で済む問題じゃないし、私だってこれ以上あんたの都合通りには動けない」
「……でも」
言葉を探している葉明を放って、沙々は気を引き締めながら、部屋を後にした。
足元がふらつく。
血を流したせいだろうか、貧血を起こしていた。
目眩に耐えながら、壁に寄りかかりつつ、狭い廊下を進むと、すぐに小さな炊事場があって、その先に出入り口があった。
やはり、誰かの家のようだ。
葉明の話からして、未晶の家なのだろう。
一言だけでも、未晶に礼を言うべきなのだろうが、いないのなら仕方ない。
沙々は外に出る。
履いていた靴は見当たらず、素足だったが、それもどうだって良かった。
病み上がりの体に染みるような、陽光に背を向けながら、長い石段を下りていく。
周囲には、この家しかないようだった。
一軒だけ崖の上に、浮いたように建っている簡素な住まい。
まるで、隠れ家のようだった。
石段の下には、水底まで確認できる透き通った川が流れていた。
(こんな場所があったなんて……)
紫天領は海には面してないが、河川は多いらしい。だからこそ、魚屋で食べていけるということなのだろうが。
(まだまだ私の知らない場所は多いようだ)
ここを去ったところで、何処をどう歩けば良いのか、沙々には見当もつかなかった。
しかし、とにかく前へ進むしかない。
額に浮いてきたのは、冷や汗だろうが、知ったことではなかった。
沙々が気にならないふりをして、右手を額にやると、しかし、前方に小さな影が見えた。
(幻……じゃないよな?)
人だ……。
場違いな麦藁帽子を被った優男。
じっと眺めていると、やはり見覚えがあった。
「未晶……さん?」
声をかけると、葉明とは種類の違う大人びた微笑が返ってきた。
「ああ、沙々さんですか」
葉明とは系統が違うが、のんびりとした返事だった。
「あの、色々とお世話になったみたいで、有難う……ございました。もう大丈夫なので」
沙々が慣れない言葉を駆使して、頭を下げると、未晶は麦藁帽子を取って、沙々と同じように、お辞儀した。
「いえいえ。まだまだ早すぎますよ」
「えっ?」
転瞬、未晶の手刀が沙々の首筋に鮮やかに入った。




