第二章 肆
「やっぱり、正装っていうのは、重たいねえ」
不満というより、単純な感想を漏らした葉明は、重ね着した衣装をめくりながら、着込んだ服の数を数えていた。
金色の刺繍を施された真紅の上着に、漆黒の袴。幾つもの宝石が連なった大きな冠は、派手ではあったが、常日頃存在感のない葉明には、このくらい派手でないと、威厳を示すことが出来ないのだろう。
しかし、位の高い格好をしていても、本人が何処吹く風では意味がない。
葉明は、暑いのか、手で扇いでいる。
「暑がりですからねえ……。葉明さまは」
とにかく、誰に対しても、あけすけな葉明は、悠威の屋敷に仕える女官たちからも、気さくに声をかけられていた。
「そうなんだよ。もっと偉くなったら、重たい服禁止令を出そうかなあ」
「まあ」
くすくすと、上品な笑いが一面大理石の豪奢な室内に反響した。
とても、これから命を奪われに行くような人間の姿勢ではない。
知らないということは恐ろしいことだ。
きっと……、
悠威は、大きく広めてしまってから、葉明が愚者だとばれてしまうことを、恐れたのだろう。
今、ここで葉明を始末してしまえば、葉明の人格は関係なくなる。
しかも、大勢の目撃者の前で命を落とせば、噂はすぐに広がるはずだ。
葉明は悲劇の皇子として、名を馳せ、それを狙った国王勢力は一層評判を落とすに違いない。
(だからって)
死んでから、偉くなったって何の意味もないではないか。
沙々は部屋の隅の古い木椅子に腰を下ろしながら、淡々と葉明の様子を観察していた。
屋敷の外には、広大な庭の一角に会見場所が作られているはずだ。
領主である悠威が重大な発表をする時だけ、設置される演壇は、たったの一昼夜で完成していた。
既に、人が集まっているのだろう。
聴衆の声が、奥まった部屋の隅にまでこだましている。
(本当に三日で集まりやがった)
悠威の権力で人が集まるのならば、凄まじい統制力だ。その時点で、既に葉明は悠威に負けている。
(今、ここで逃げてくれたらいいのに)
沙々は、心の何処かで願っていた。
葉明が嫌いではなかった。
最初は、沙々も馬鹿にしていたが、権力者としてはともかく、温良な人柄に、好感を抱いている。もう少し話をしてみたいとまで、思っていた。
しかし、どんなに悩んだところで、沙々は悠威からも、依頼主からも、逃げることはできそうもない。
この三日、何度となく、葉明に打ち明けようとしたが、結局出来なかった。
話したところで、どうにもならないことが、沙々には簡単に予見出来てしまうからだ。
きっと、葉明は一緒になって悩んでくれるだろうが、解決策を提示してくれるような人間ではない。
それでは、秘密を打ち明けたところで、沙々は自分を追い詰めるだけだ。
両親と葉明を天秤にはかけるるまでもなく、沙々にとって両親は大切な存在なのだ。
沙々が命令に背いても平気な保証など、何処にもないではないか。
「失礼します」
すべての元凶である悠威は、何食わぬ顔で葉明の部屋に入ってきた。
こんな時だけ、礼に則り膝を折って、葉明に向かい、頭を下げる。
「準備が出来ました」
「うん。じゃ、行こうか」
従者の手を借りずにのっそりと立ち上がった葉明は、後ろからしっかりとついていく沙々を振り返った。
「あれ、沙々も見るの?」
「わ、悪いか?」
動揺を押し殺そうとした沙々の声は、怪しいくらいに上擦っていた。
「悪かないよ。せっかくなんだし、来ればいい。でも、沙々は僕を殺すんじゃなかったけ。好機到来っていうやつ?」
「……なっ!?」
驚愕のあまり、肩を震わせている沙々を、悠威が庇った。
「暗殺を働こうしている人間が、演説中の人間を狙うはずないでしょう。目立ってどうします?」
「そ、そうだ。馬鹿を言え。あんたを殺す時は、今日ではない。……近々には違いないがな」
「二人でそう言うのなら、そうなんだろうね。僕も緊張しているのかな? ごめんね。沙々」
「葉明……」
そんなふうに、純粋に謝られると、沙々はどうして良いか分からなくなる。
沙々も壇上で、葉明に詫びながら、剣を向けなければいけなくなってしまう。
「行きましょう」
悠威が葉明を促して、赤い影が扉の先に消えて行く。
何となく、引きとめようとして、伸ばした手は宙で浮いた。
沙々は溜息をつく。
一歩外に出れば、葉明は歓声に染まっていた。
集まった民衆は、顔を紅潮させて、口々に叫んでいる。
「おおっ。魚屋の倅が来やがった!?」
「魚屋が、前国王の息子だっていうのか?」
――嘘だろ?
という声と、
――そうなのか
という、どよめきが波のように広がる。
熱狂と興奮にお祭り騒ぎになっている現場を、冷眼視しながら、沙々は深呼吸した。
演壇の色は、まっさらな純白。
淀みなく、壇上の中央に陣取った真っ赤な衣装の葉明は、おおらかに手を振った。
そして、待ちに待った最初の一言は「やあ」
……それだけだった。
「………………最悪」
沙々は、頭を抱える。
もはや、ここまでと、悠威は、早速沙々に目配せした。
(やるのか……)
憂鬱になる。あと少しだけでも、葉明の演説を聴いてやっても良いのではないかと、苦い気持ちだったが、仕方がなかった。
どうせ、殺すことには変わりない。
沙々は袴に挟むようにして隠しておいた短剣を取り出し、口に挟みこんだ。
跳躍する。
数段だけ設けられた階段の上で笑顔を振りまいていた葉明は、驚くでもなく壇上に上がった沙々に、気安い顔を向けた。
「ああ、沙々じゃない。どうしたの?」
緊張感が一気に吹き飛ぶような一言だった。
しかし、沙々が剣を抜いたのを確認した葉明は、穏やかに苦笑した。
「すまないが、葉明。やっぱり、死んでもらう」
聴衆の歓声は、悲鳴へと一変した。
「それは、面白い催しだけど、困ったな……」
葉明は、いつものように空を仰いだ。
沙々も、葉明につられる。しかし、途中で寒気に身を強張せた。
視線を聴衆の中へ…………。
葉明には見えていないだろう。
きらりと光るものが、沙々にははっきり見える。
(矢尻の先だ……)
沙々には分かった。
――葉明を狙っているのが誰なのか……。
「……元魄かっ!?」
沙々は矢が放たれるのを待たずに、葉明を押し倒した。
何がなんだか分からなかった。ただ、気がつけば体が動いていた。
「沙々?」
直後に、鋭い痛みが腕を貫く。矢が沙々の左腕を掠ったようだった。
「何やっているんだよ。君は!?」
初めてだった。
声を荒げた葉明の姿を目にしたのは……。
しかし、その物珍しさに感慨を覚えている暇はなかった。
「うるさいな!大人しくしてろ!」
力任せに、葉明の頭を自分の胸元に抱え込む。
「馬鹿だなあ。君は」
しかし、沙々の腕の中で響くのは、くぐもった笑声だった。
「何……?」
緊張感を奪われ、目をやれば、葉明の屈託ない笑みが沙々の至近距離にあった。
「僕も怪我しちゃったじゃないか」
「……はっ?」
葉明は、暢気に怪我したところを見せ付けてきた。
赤い服が血を含んでどす黒くなっている。
葉明は、右腕をやられていたらしい。
「ははっ。何だ……」
荒い呼吸の中で、沙々は泣き笑いした。
「私は、人を庇うことも、まともに出来ないのか……」
痛みのせいで感情が霞んでいく。
おぼろげな視界の隅に、沙々は、未晶の姿を見た。
未晶は、沙々を抱きかかえ、葉明をおぶった。
(天国への案内かな?)
悠威の怒号が追いかけてきたが、沙々にはもう何も分からなかった。