序章
煩雑な路地の一角。暗い裏通りに青年はいた。
「すいません、もう、勘弁して下さい」
「一律、渡せばそれで済むんだよ。な?」
「律」とは、ここ瓏の国の通貨の値である。
「万律」が一日分の大人の稼ぎと言われているのだから、「一律」といったら、子供が駄菓子を買う程度の値だ。
(なかなか、可愛い盗人だな……)
沙々は、そう思った。
まだ年端のいかない少年二人が青年を壁際に追い込んでいた。
庶民には手の届かない白い錦糸の衣装を着た青年と、着崩した着物の半端な袖から汚れた肌を露出させている少年二人。
特に少年達の顔つきは幼く、遊びと犯罪の区別がついていないようだった。
……まあ、何処の街でもあることだ。
どんなに富める街であっても、犯罪の手口は似たり寄ったりだ。
脅しであっても、金額が少ないのは、少年達に邪気のない証拠だろう。
しかし……。
沙々にとって、腑に落ちないのは、青年の方だった。
少年たちよりも年長なのは確かだ。
沙々の位置からは、青年の襟足にかかった黒髪しか見えないが、事前に仕入れていた情報によると、青年の年齢は、二十を優に越えているらしい。
簡単なはずだった。
大人の頭を働かせて、彼らを撤退させることも、大人の腕力を使って、彼らを追い詰めることも、ありとあらゆる方法がとれるはずだ。
選択肢は、少年たちよりも多いはずだろう。
(何で?)
沙々は信じられない光景に、何度も瞬きをした。
青年は動揺している。
みっともないくらい、体を震わせて、周囲をきょろきょろと見回している。助けを待っているのだろうが、来る気配はまったくない。
(一体、これはどういうことなんだ?)
沙々は、青年の頭上、人家の屋根にいて、のんびりと一部始終を見届けるつもりだった。
しかし、それはあくまでも、青年の出方を観察しようとしていたからで、青年が反撃するのは、沙々のなかでは絶対条件だった。
「おい、何びくついてんだよ! これか? ああっ? 財布は!?」
少年はいかにもな素人の声色で、青年の懐から布製の青い財布を取り出した。
「ああっ! だ、駄目だって、そのお金は、僕だけのものじゃなくて!」
青年の悲壮な声が周囲に響く。
だが、青年の声はくぐもっていて、よく聞き取れない。たとえ通行人がいても、その言葉の意味を理解することは出来ないに違いない。
(ああ、もう)
苛々する。
両手を強く握り、奥歯を噛み締める沙々に対して、少年達は、青年の財布の中身を確認して、にんまりしている。
一律なんか比ではない、途轍もない金額を見たようだった。
(私は、こんなヤツのために、遥々ここに来たのだろうか)
落胆しつつも、もっと間近で見られないものかと、沙々は身を乗り出した。
重たそうな黒い頭があたふた揺れている姿は見えるものの、表情は窺い知れない。
(あと、もう少し……)
しかし、強く屋根の瓦を掴んだ途端、いきなり、その瓦ははがれて、地面に落下した。
「……あ」
大瓦は、音を立てて割れる。
(終わった……)
沙々は、衆目を自分が集めてしまったことに気がついた。
(何をやっているんだろう。私は)
逃げるわけにも、知らないふりをするわけにもいかなかった。
(仕方ない)
渋々、沙々は、その場から飛び降りた。
「な、何だ、この女?」
「空から降ってきやがった」
沙々にとって、小気味良い驚きの声が飛んできた。
不本意だったとはいえ、なかなか気持ちの良いものである。
「その財布を返せ」
沙々は、余裕綽々に腕を組んだ。
――が、少年達は白い目で沙々を見ていた。
「何だ、この小さいの?」
「男か、女なのか分からねえ……」
「何だと! 見て分からないか!?」
「はあ?」
惚けている少年二人が小憎らしい。
確かに、沙々は動きやすさを優先して、一つに髪を結わっているし、少年達と同じような黒袴姿だが、最近大人っぽくなったと、母にだって褒めてもらった。化粧だって身だしなみ程度にはしている。
男と間違えられるなんて、屈辱だった。
「――容赦しないからな。お前たち」
沙々は低く宣告すると、自慢の回し蹴りで、二人まとめて地面に叩きつけた。
「ぐふっ」
口から泡を吹いてのびている、少年の手元から財布をとり、機敏に背後の青年に財布を投げつけた。