年を取るという事は、悪い事ばかりなのか、人生の経験は無駄な事ばかりなのか
冴えない一介の係長、学歴偏重の社会で、もし、このような事が経ったとしたら、世の中も捨てたものではないのだが
夕暮れ
登場人物
佐藤秀成 主人公
良子 妻
大塚雅夫 会長
大塚佳代子 妻
澤田栄一 山王精機社長
小林香織 社長秘書
永沢英次 秘書室長
堀内弘人 総務部長
前沢 総務課長
井戸隆 こうじょう委員会副会長(佐藤のブレーン)
林幸一 元クラタの工員
桜木健太 佐藤の同期の同僚
倉田総一郎 クラタの元社長
山本武 (大塚のボディーガード)
河合実 ( 〃 )ガッチリ
山田拓海 技術部係長
児島 常務
高野誠一 大日産業 社長
佐々木晃 〃 専務
高橋保 〃 常務
日向幸一 クラタ 社長
山王精機製作所
大日グループ
クラタ
目次
第一話 嫌な奴 3
第二話 嫌がらせ 7
第三話 抵抗 10
第四話 退職 17
第五話 出逢い 22
第六話 転機 30
第七話 返り咲く 41
第八話 改革 52
第九話 ふれあい 61
第十話 パート大塚
序章
年齢を三で割った答えが、人生時計の時間だという事を聞いた事がある。
六十歳の人間の人生時計は60÷30=20、つまり20時つまり、午後8時という事になる。
だが今の世の中、現代には当てはまらないと思う、3では無く、4で割ってちょうど良い時代ではないか、しかも人生時計は、サマータイムがちょうど良い。
今は定年が六十五歳、つまり65÷4=16とあまり1、十六時チョッと過ぎ、サマータイムで午後四時は退社時刻、人生時計にすると定年退職という時間だ。
会社が終わってもまだ日は暮れていない、これからが仕事から解放されて自分の好きな事のできる、素敵な自由時間なのだと思いたい。
第一話 嫌な奴
地元では一番大きなホテル、その大広間での宴会、かなり盛り上がってきている、皆自分の席から、思い思いの相手の所に移動して、隣り合う席は座布団が並ぶだけ、離れ小島のような状態の佐藤は、それでも自分の席に座ったまま動かなかった。
お世辞やお愛想が苦手なのだ、どんな宴席でも作り笑いやお世辞でお酌して回る事が出来ない不器用な人間だった。
決められた宴席の作法のように、皆それぞれお酌して回りあう、習慣として回るもの、気に入った相手に辿り付くまでの席にお酌して、目的の相手まで辿り着くと其処から動かなくなる者、皆それなりに楽しそうだ
そんな仲間を他所に、酒の飲めない体質なのでの、出ている料理を一人堪能していた、飲めないからと言って、このような雰囲気は決して嫌いと言うのではない、どちらかというと好きだし楽しい、素面のままだから、浮かれる事の出来ない自分がもどかしく思う事もあるが、今更、酒飲みになりたくもないし、性格は変えられない、仲間も分かっていてくれるから、敢えて誰もよって来ない。
今日は総務の仕事で、一番忙しい決算期を無事乗り越え、部の慰労の為の宴会だ。
一番上座に部長の堀内が上機嫌で座っている、その周りにはゴマすり社員達が群がっている、何時も通りの光景だが、嫌気がさす。
「さすが部長は・・・」
「部長のお陰でこの会社は・・・」
佐藤にすれば、聞くに堪えないお世辞を連ねている、それを嬉しげに聞いている、部長の程度が知れるというものだ
「私の出身大学は・・・・・」
「今時、大学は出ていないと・・・」
「私の大学の同級生には・・・・」
何かというと学歴を自慢する奴がいる、有名大学を卒業した事が、それ程自慢したいのか、それ以外に自慢する事がないとしたら、自分が如何に哀れな人間なのだと、何故気付かないのか、教えてやりたい、自慢気に話す姿を見る度にそう思う
高校を卒業してこの会社に入社した佐藤は、総務一筋に勤めてきた
今は係長だ、出世は此処までだ、十分に承知している、佐藤よりずっと後から入社してきた堀内が今は部長、追い越されて妬んでいる訳ではない、高校卒だから追い越されるのは、初めから分かっていた事だ。
だが学歴優先とは言え、堀内が部長の器ではないと思っている事も事実だ。
そう思っているせいなのか、人間的になのか、どうしても堀内と言う人間が好きになれない。
如何に嫌いでも職場の上司だ、逆らう事はせず極力合わせる努力はしているが、お世辞を言うとか、ご機嫌を取る様な事は一切しなかった、と言うより出来ないのだ。
そういう雰囲気が口に出さなくても、何と無く伝わってしまうのか、自分が堀内に嫌われているのは明白だ、酒が入り盛り上がってくると、思い思いのグループが出来て、広間に幾つかのひとの島が出来ている
みんな楽しそうに談笑し食べて飲んでいる、一人ポツンと席を動かない佐藤の処に、同期の桜木がやってきた、空いている隣の席に黙って座ると
「退職後、どうする」
入社同期の桜木が聞いてきた
「うん、別に決まっていないよ、気にはなっているんだが」
「そうか、今時再就職もなかなか難しい様だし、上にゴマすって嘱託で残るのも嫌だしなぁ」
「まだ何か月も先のことだ、今から気にしたってしょうがないよ、なるようにしかならない」
「それはそうだが、お前は昔から、呑気で良いな」
「お前が心配しすぎなんだよ、心配して何とかなるのか」
「ならないよ」
「そらみろ」
桜木も普段はどちらかというと、細かい事は気にしない性格だが、長寿の時代になり、長い退職後の事が気になるのは自分も同じなのだが、考えてもどうしようもないと割り切る事にしている。
桜木も佐藤と同じく総務の他の部署の係長だが、上には余り評判が良くない、部下の評判は良いのだが。
いわれるまでも無く退職後の事は心配だ、退職金だけでは、老後を生きるには足りない事は分かって居る、何とかしなくてはならない、厚生年金も僅かなものだ、今の日本では年齢的に再就職は難しい、かといって、この会社に残る気はさらさら無かった。
最近は嫌な上司の言う事に従うのが、億劫に感じる事が多くなっている
盛り上がりを見せている宴会場に、何故か秘書室長の永沢が入ってきた。
この男も三十代だが、出世は早い方だろう、上にへつらい下に威張り散らす、大嫌いな男だ、何時もブランドのスーツで決め、それを自慢げにふるまう奴だ。
戸口に立って、ざわめく宴会場を見回している、視線が止まった先にいる、堀内部長の所に歩み寄って行くと、なにやら封筒を取り出し渡しながら耳打ちしている、堀内が立ち上がって
「皆さん、社長から金一封をいただきました、きょうの費用に使わせていただきます」
拍手が沸いた、永沢は自分が拍手されているように、どうだというような顔をして立っている
全く辞めて欲しかった、佐藤の嫌いな二人が並んで立っているのだ、嫌な気分が二乗倍、楽しかった気持ちが一瞬でなえてしまった、宴会もそろそろ終わりにして貰いたい気分だ
第二話 嫌がらせ
総務の仕事は多種多様だ、中でも営業とは別の会社対会社、株主の冠婚葬祭、関連業種の行事への参加、自社の行事、その他諸々の雑用事が回ってくる、特に自社の行事のときには佐藤は忙しくなる。
長い間の経験から、行われる行事の大体は頭に入っている、冠婚葬祭に関わる様々な事に対応してきた、例年通り、前年とは変わる事柄、判断する事が多々ある、臨機応変に対処する事が必要だ、そのため経験がものをいう、マニュアルなどは存在しない事の方が多い。
株主対策とか、工場の騒音などに関する苦情対策、会社の在る地域と、如何にトラブルなく操業していくか、これも大事な総務の仕事だ
佐藤の出張と急な行事が重なって、係りの社員達が右往左往する事があって以来、佐藤の出張の回数は極端に減った、会社の行事その他、分からない事は佐藤に聞け、皆そう思っている、要するに社内の便利屋みたいな立場だが、それなりに遣り甲斐を感じていた
春先のある日、工場周辺の人達と、意見交換の会合が開催された、地元と問題なく操業して行く為の、懇親会のようなものだ。
会社側の責任者として堀内部長が出席する事になり、課長の前沢と一緒に佐藤も同行した。
堀内は会場に入る時は、偉そうに胸を張って堂々と入っていった、場所は地区の公民館、会場には三十人ほどの出席者が顔を揃えていた、折り畳みの椅子を並べ、向かい合わせで会社側の席が設けてあった、堀内は中央に胸を張るようにして座った
特に大きな問題は無かったので、比較的に穏やかに議事は進行していった。
地元の意見や会社側の説明が終わり、質疑応答の時間になったその時だった、出席した人の些細な質問に対して、部長として初めて出席した堀内が、何時もの大柄な態度で応じてしまったのだ、出席者は気分を害し、反感を買ってしまった
態度がでかい、生意気だ等と、住民にコテンパンにやり込められた、情けない、場所をわきまえずに、こんな場所で部長風を吹かせたのだ
自分を目立たせようとした報いだった。
このような話し合いには、慣れている佐藤のとりなしで、何とかその
場は凌ぐ事が出来たが、帰りは肩をすぼめ小さくなって、会場を後にした事があった。
そんな事があって以来、更に佐藤が煙たい存在になったようだ、万事がこの調子で、自分が輝ける場はご機嫌だが、自分の不手際を部下に指摘されると、その部下が気に入らなくなるのだ、上司としては最低の男なのだが、学歴がものを言い出世している、これが今の社会の現実だと諦めている、自分がどう思おうと、それがこの会社の人事なのだから、どうしようもない。
社則に規定されている訳ではないが、現実として高卒者はどんなに仕事が出来ても、どんな人望があっても、出世は係長まで、それ以上は昇進を望めない、前例は皆無という既成事実があった、反面、大学を卒業、それが一流大学ならば、人格より学歴、人望など考えてもいない、望んでもいない、この会社の人事とは佐藤にはそう見える人事だった
大学を卒業して入社してきた堀内は、世渡り上手というか、上司への取り入り方が上手かった、お気に入りの同僚や部下には愛想が良い、佐藤の様に愛想の無い者には冷たい。
順調に出世して、今では社内で一番若い部長だ。
彼の入社以来、何の因果かずっと同じ職場で、その姿を見て来た佐藤には、この男がどうして出世するのだろう、と疑問に思う事ばかりだ、そういう会社だと分かってはいても、納得できない思いだった。
そんな事から佐藤の勝手な分析だが、この会社は歴史ある会社だ、倒産は無いだろう、だがこれ以上成長は出来ない、管理職にこんな奴を取り立てている会社では、先は暗いと思っている。
改革しようとか、意見を言おうとか、そんな気は全く無い、勿論自分ごときの意見が、通るとか通らないの問題でもない、もう少しで定年、という事もあるが、たとえ若かったとしても、無駄と分かっていた、身の程をわきまえて居る心算だ、という事にしておこう、そう思わなければ自分が惨めになる、大学まで行かせて貰えなかった、親の経済力を恨む事にもなりかねない。
創立記念を兼ねた株主招待日という行事がある、招待状の発送、会場設定や催し物、会場、席の配置など、準備しなければならない事が山済みされていた、課長の前沢は現場から総務に移ってきた経歴から、ここ数年は全てを熟知している佐藤に全てを任せている。
自分が指図するより、経験の多い佐藤に任せた方が、万事スムースに進む事が分かっているからだ。
だが部長の堀内は違った、株主といえば、中でも大株主は、重役達より更にゴマすり効果が高い、と思っているような人だ、
招待日当日の事だった、会場に来て自分がどう目立とうかと、例年とは違う、思いつきのような、佐藤には見当違いの事を命令して来る、いつもの事なので、やむを得ず合わせていたのだが、そこに、秘書室長永沢までが現れるに至って、佐藤の忍耐に赤信号が点滅した、目立とうと顔を出したのが見え見えだ、そして二人が交互に、持ち株数が多い人は誰々とか、社会的にどの人が偉いとか、挨拶の順番だの、席順だのと、文句を付けて来るのだ。
「だから駄目なのだ、私達が眼を通さないと、まったくどうなっていたか」
堀内が永沢に言っているのが聞こえた、もう限界だった忍耐も限界を超えた、押えられなくなり、とうとう切れてしまった、課長の前沢の所に行くと
「あの二人が好きなように、やって貰いましょう、私はこれで失礼します、後はよろしくお願いします」
「冗談じゃないですよ、佐藤さんがいなくなれば、此処はどうなるんです、気持ちは分かります、腹も立つでしょうが、頼みます、何とか抑えて、ね、会社の為にお願いします」
「いえ、もう限界です、私がいても、あの二人は意見を通すでしょう、私が居ても同じです、有給休暇がたまっていますので、今日は休みにしてください」
まだ何か言っている前沢を振り切って、会場を出ると早退してしまった、大人気ないとは分かっていたが、我慢できなかった。
その後は幸いな事に、行事に支障をきたす大きな事件は無かったが、小さな事で問題が、数々あって大変だったらしい、それは予想通りだ、知った事ではなかったが、何とか大事にならず無事に終わったらしい。
どうせ後僅かだと思うと、今迄出来ていた我慢が出来なくなっているようだ。
嫌な上司でもゴマを擂っておけば、続けて嘱託かパートで使って貰えるのだが、其処まで人間として卑しくなれなかった、大人になれという人もいるだろうが、こんな嫌な奴らの下ではもうウンザリだ。
嘱託やパートになれば、彼らの態度が今以上に、高飛車になる事は明白だ、そんな惨めな思いには耐える自信が無い、今迄は最悪時にも自分を曲げて我慢した、そうしなければ生活に支障が出て、と思っていたが、今回の事でキッパリ、会社と縁を切る決心が付いた、すると何故か清々しい気分になった
第三話 抵抗
創立記念日の翌日、何時ものように出勤すると課長の前沢が
「佐藤さん、ごめん、私の処では止められなかった、申し訳ない、部長が呼んでいる、何とか説得しようとしたのだが、申し訳ない」
そう言って両手を合わせ拝むしぐさをする
「大丈夫ですよ、それを覚悟でやった事ですから、それより課長にトバッチリは行きませんでしたか」
「ええ、でも少しだけ、佐藤さんがいない事に腹を立てていて、私の事は頭にはないようです、佐藤さんは体調が悪くて帰ったと言ったのだが、私の言う事を取り合ってくれなくて、ごめん」
再び片手で拝むしぐさをする
「気にしないでください、私こそ、課長に嫌な思いをさせて、申し訳ありませんでした」
頭を下げる、人の良い課長まで、巻き込んでしまった事には胸が痛んだ
「いえ、私は分かっているつもりですから」
「有難うございます、まぁ、怒らせる為にやったようなものですから、行ってきます」
そう言ってチラッと舌を出す、前沢は苦笑して
「余り怒らせないようにしてよ」
小声で言う
「できるだけ」
我慢します、までは言わず前沢に軽く頭を下げると、課長席を離れ部長の席に向かう、まったく怖くも気後れもしなかった。
堀内は気になるくせに、課長と話している佐藤を無視した振りをして、書類に判を押していた
「おはようございます、お呼びだそうで」
今気が付いたというように、書類から顔を上げる
「昨日は、どうしたのですか、いつの間にか居なくなって」
興奮せずに話す心算だったようだが、顔を見て我慢できなくなったのだろう、怒りもあらわに聞いてきた
「課長に言って帰りましたよ、具合が悪くて帰ると」
「私がいるのに、何故、私に言って行かない」
腹が収まらない様子だ、今迄ならこんな時、対応に苦慮しただろうな、他人事のように考えていた。
以前ならこんな行動は間違ってもとらなかった、こうならないように我慢してきたのだ。
目の前で怒っている堀内を、冷静な目で見ながらそう思った、そして
「私の直接上司は課長なので、課長に言って帰りましたが、それとも課長を通り越して、部長に言わなければいけないのですか」
「そう言う事ではなくて」
「どういう事ですか」
笑みさえ浮かべながら、畳み掛ける佐藤に
「何か間違いがあったら、どうするつもりだったのだ」
怒鳴りだした、周りの社員は、聞かない振りをして、聞き耳を立てている
「係長風情がいなくなったって、天下の堀内部長がいるじゃないですか、何が起こるのですか」
わざと声を大きくして言う
「私がいても、いや、それはそうだが、大事な行事なのだ」
「大事な行事だから、社員は具合が悪くても、休んではいけないのですか」
「そう言う事ではなくて、佐藤さん、貴方は、まったく」
そう言って佐藤を睨んでいたが
「もういい」
呼び捨てにするとか、命令口調にはならない、その辺は自重できている事は褒めたものだが、自分で何を言って良いか、分からなくなったようだ、煙を払うような手つきをして、帰れというしぐさをする
「すみませんでした」
嫌味なくらいに深々最敬礼しながら、これが慇懃無礼という事だろうな、留飲を下げた気分で自分の席に戻った。
聞き耳を立てていた同僚達が、良くやったとばかりに笑いを堪えているのが気配で分かる、目で合図して来る者もいる、可哀想に、普段堀内にゴマすりしている者達まで、喜んでいるようなのだ、面従腹背という事だ。
聞いた処によると、参加してくれた大株主の一人が、会場の出口で、社長や重役達と挨拶を交わした後、如何にも行事の責任者ですという顔で、ご機嫌でお見送りをしていた堀内に、
「今年の責任者は君かね」
そう尋ねたそうだ、堀内は誇らしげに胸を張って
「はい、如何でしたか、本日は参加していただきまして、有難うございました」
そう答えた、すると
「今年は、進行の仕方から、慰労のサービス迄、例年とちょっと違ったよね、内容は何時も通りだが、何時もの気配りが欠けていた、質が落ちたというか、なんかこう雰囲気とかが今一良くなかった、そんな気がしたよ、どうしてかな」
「いえ、はい、何時も通り精一杯努力させていただきましたが」
「そうかね、そういう事が大事なのだよ、責任者の君が分からん様では、いかんな、勉強しなさい」
そう言って去っていったらしい、御機嫌だった堀内の表情が、一変した事は言うまでもない、課長の前沢の所にやって来ると
「前沢君、どう言う事かね、何時もと違うそうじゃないか、毎年誰が中心でやっているのかね」
「責任者はあくまで私ですが、例年、万事を知り尽くした、佐藤係長が担当していますが」
「その佐藤君はどうしたのだ」
「先程、体調が良くないとの事で早退しました」
「こんな大事な日に」
それから不機嫌が始まったようだ。
招待といっても、いろいろな人が居るが、昨日のような場合、持ち株数とか、社会的地位で判断してはいけないのだ。
歴史のある会社の、古い株主で、毎年参加する人達には、持ち株数でも、地位でもない、お互い話が合う仲間のような、グループが出来ている
佐藤はそのグループを把握し、様配慮して席の案内をするよう心掛けていた
この日、年に一度会えるのを、楽しみにしている仲間のような人達は多かった、だから長年の経験で、そういう人達同士の席が、隣り合えるよう気配りをしていたのだ。
それを持ち株数によって席を決めたり、社会的地位で決めたり、自分たちの常識で決めてしまった二人が悪いのだ、ただ席順を決めれば良い、というものではない事が色々あるのだ、気配りを欠いた接待に、何がしかのクレームが付くのは分かっていた。
予想通りだ、ざまをみろ、そう言う気持ちだった、堀内がどう思おうが、自分の存在価値を確認できた気がして、胸がスッキリした
退職の日が刻々と迫っている、そう実感する毎日を送っていた会社の保養施設に、久しぶりに同期の仲間が集まって、飲み会をする事になった。
保養施設の予約受付は総務にあるので、代表して佐藤が自分の名前で予約をした。
全国各地の営業所、工場から参加する者も多い、久しぶりの集まりが楽しみだった、出席者は今年中に退職するものばかりだ。
同期入社の大卒者は、役員になれた者以外、課長以上でほとんど四年前退職してしまっていた、役付きは五年退職が早いのだ、従って参加者全員、高卒者の集まりと言う事になる、ほとんどが同じような条件、環境、待遇で仕事をして来た、そういう意味で、心を許せる本当の仲間達だ。
係長になれた佐藤などは良い方で、工場で未だに班長か平社員のままの者もいる、どんな愚痴が出るやら、だが仲間はいつも明るい、楽しい仲間達だ。
ある種自分達の置かれている環境を、達観してしまっているので、愚痴もジョークに変えてしまう、何も言わなくても分かりあえる、そんな仲間達が集まるのが嬉しかった、今からその日が心から楽しみだ。
仕事の手を止めて、一息ついているとき
「佐藤さん、保養所の予約、日を変える事できますか」
保養所の受付を担当している部下が聞きに来た
「どうして」
そう聞くと
「永沢さんのグループがこの日使いたいそうなんです」
「秘書室長の永沢さん」
「そうです」
「予約が埋まっているといって断れば」
「それが、どうしてもこの日で無ければ拙いと言うんですよ、予約者は誰かというから教えました、そうしたら佐藤さん達に日を変えるように言えというのです」
「どうしてだ」
「分かりませんが、あちらにはメンバーが課長クラスだからでしょう」
あり得る事だ、担当の社員は、板ばさみになって、困り果てたと言う顔をしている、その時電話のベルがなった
「総務、佐藤ですが」
「秘書室の永沢だが」
最初から高飛車な物言いだ、慣れてはいても近頃は特にむかつく、予約の件という事はすぐに分かったが、知らない振りをした、
「何でしょうか」
「保養所の件だけど聞いてない」
「聞いていませんが何の事でしょう」
あくまで知らない振りをする
「実はどうしてもその日に使いたいのだが、君の方の日を変えてくれないか」
頼むのではなく半ば命令口調だ、事情によってはしょうがない、日を変えてやろうかと思っていたが、申し訳ないとか、せめて、すまない、の一言でもあれば考えないでもなかった、ところが、それが当然という言い方に、カーテンときたので
「先に予約したのはこちらです、そちらが日を変えてください、それが決まりでしょう」
そう言ってしまった
「なに、おとなしく頼んでいるのに、変えられないというのか」
脅しにかかってきた、ますます腹が立ってきた
「その言い方が大人しい、頼んでいる言い方だというのですか、日本語を勉強しなおした方が良いですね、その言い方は誰に聞いても、お願いしている言い方ではありませんよ」
一気にまくし立てた
「日本語を勉強しろだと、貴様」
二十数歳年下がこの言い草だ、完全に頭にきた
「予約は変えませんよ、そちらが変えなさい」
そう言って一方的に電話を切ってしまった、受付担当者は、はらはらして聞いていた。
「大丈夫ですか係長、相手は秘書室長でしょう」
「うん、そうだよ、秘書室長だからどうにでもなると思わせても、返って良くない、彼のためだよ、たまには言う事は言ってやらないとね、今後も無理強いが通ると思って、調子に乗ってはいけないから、私はもうすぐ退職する身だが、君達の今後の為にも、はっきり言わないといけない、まあ、君の責任じゃあない心配するな」
そう言って肩をポンと叩き、帰るように促した。
暫くすると部長の堀内がデスクの前にやってきた
「佐藤さん、永沢君と何かあったの、私に部下の躾がなっていないと、相当怒っている様子で、電話があったけど」
「そうですか、それはすみません、ですが永沢さんこそ、どんな躾で育ったのか、親の顔が見たいですね」
「君、何があったか知らないが、それは言い過ぎじゃないですか」
面倒だったがざっと事情を説明した
「ふーん、そうだったの、そうですか、私だったら譲るけどね、今の佐藤さんじゃ無理か」
部長の自分が、課長連中に譲る訳がないだろうが、格下が上に逆らうなと、意味ありげな一言、例の一件があるから苦い顔はしたが、永沢の味方をするような事は言わなかった、言うだけ無駄と思っているのだろう、ただ
「相手は社長の側近です、余りプラスにはなりませんよ」
そう言った、それとなく釘を刺したつもりだろう
「そうですか、もう退職する身ですから、そんな事、全く関係ありません」
「そうですか、そうですよね、それなら仕方ない」
諦めたように言って自分の席に戻っていった。
仕事に戻り書類を整理していると
「佐藤さん、最近変わりましたね」
顔を上げると、いつの間に来たのか、課長の前沢が机の傍に立っていた
「何が、ですか」
「聞いていましたよ、以前は穏やかで、どちらかというと長いものには巻かれろ、的な考えの人だと思っていたのに、最近、人が変わったようで、私には敢えて逆らっているように見えますよ」
「そう見えますか、あえて逆らっている訳ではないのですが、会社ともあと少しだと思ったら、馬鹿な上司に盲従するのが、馬鹿馬鹿しくなりましてね、残り少ない時間、間違いは間違いとちゃんと指摘して、世の中、本来の常識を、通してみようと思ったのですよ、勿論首になるような事はしないよう気をつけていますが、退職金が出ないなんて事になったら大変ですからね」
そう言ってニヤリとする、自分より年下だが、何かと配慮してくれている前沢には、本音を打ち明けた、すると前沢が小声で耳元に
「見ている方は気持ち良いし、ざまを見ろ、と思いますが、程々に」
言うと手でバイバイをして、自分の席に戻っていった
「気をつけます」
後姿にそう応えて、時計を見る、間も無く終業の時間だ、以前は定時に帰る事など、勤務評価が気になったり、周りに気が引けたりで出来なかったが、近頃は出来るだけ定時に帰る事にしている、今夜の夕食は何だろう、そんな事が頭を過る、永沢の事など気にもならなかった。
以前なら上司と対立などしたら、こんな穏やかな気分ではいられなかっただろう、定年退職を控えて、怖いものが無くなった強みだ、自分の中で正しいと思う事を主張し、最後のあがきとも言えるような数ヶ月間だった。
穏やかで羊のようだった男が狼に変身した、周りにはそう映っていたようだ。
部長の堀内はそれを敏感に察知して、必要以外には佐藤に近づかなかった、狼に噛み付かれないよう用心していたのだろう、危険なものには近寄らない、その辺を見極める力で出世してきた男だ、流石だと思う賞賛に値する
そうした佐藤の変貌の割には、大した事件も無く季節は過ぎて行った、会社という組織の中の一係長風情が、多少変わったにしても、何の関係もなく機能するのが、会社というものなのだ。
また、そうでなくてはならないとも思う、何はともあれ、四十年余り勤めた会社を無事に退職した、此の先不安がないわけではないが、考えていたより、気持ちがスッキリしていた、最後の日会社の門を出て振り返って見た、工場から事務棟へと目を移す、様々な過去が思い浮かんでは消えた、胸の内に一瞬寂しさの風が吹きぬけた。
第四話 退職
今日も暑くなりそうだ、水道水を口に含むと冷たさが気持ち良かった。
口の中を軽くすすいで、歯磨き粉のついた歯ブラシを咥え、窓の外を見る、真っ青な空が広がっている、青空の下に山が霞むように連なって見える。
新緑だった山々も、今は淡い緑色に代わり、濃淡で境を見せながら連なっている。
数年前迄は裾野まで見えていた山々が、今は裾野までは見えない、見えるのは山頂部分だけだ、水田だった土地に住宅が立ち並び、景色の邪魔をしてしまっている、見えている山々の中央の峰に、純白の雲が一つポッカリと、山頂に乗っかるように浮いている、絵に画いたような、アニメの一シーンを見るような、気持ちが晴れやかになる、最近になって、ようやく精神的に落ち着いてきたのか、そう感じられるようになってきた
仕事を退職した直後、自分でも意外だった、スッキリした気分で退職したと思っていたのに、終わりの数ヶ月間、意地を張り通し、自覚もなく緊張していた反動なのか、やはり四十年以上勤めた、職場への未練なのか、寂しさなのか、何か心の中に埋めることのできない、空洞のようなものが出来てしまい、落ち込んでしまった、自分では考えても見なかった心境だ。
偉そうに言っていても、自分が如何に会社というものに、寄りかかって生きていたのかを、改めて実感せざるを得なかった。
寄り掛かっていた、つっかえ棒を外されて、心が倒れた、立っていられないような、不安定な気持ちだった、これからは世の中に必要とされない人間、只生きて行く、それだけの人間になってしまった、そんな無力感があった
その一方で、嫌な客や上司に追従する必要の無い、自由に開放された未来への期待も、僅かではあるが心のどこかにあった。
だがこれからの人生、明と暗を秤にかけたら、比べようも無く、暗の部分が圧倒的に重いだろう、暗闇を生きるが如く、夢も希望も持たず生きて行かなければならない、そんな自分しか想像できなかった。
目的も無く進む方向もない、気分が落ち込んだ、何をする気にもなれなかった
定年退職する事は、ずっと以前から、自分なりに覚悟はしていた心算だった、いろんな想像もした、覚悟もしていた心算だった、それが、このような状態になるとは、意気地の無い自分を自覚し、失望した、どうしていいのかは分からなかった。
何故か父が死んだときの事を思い出していた。
入退院を繰り返す父を見ていて、最悪の事態は覚悟はしていた、もし死ぬような事になれば、どんなに悲しいだろう、分かっているつもりだった、どんな形でも良い、生きていて欲しいと願った、だが願いもむなしく亡くなってしまった。
その時の悲しさは、想像していた悲しさの比ではなかった、悲しさと言う表現では表せない、途方もない絶望感に思えた、涙が止まらず心に激痛が駆け巡った、言い表せない悲しさだった覚えがある。
例えが違っているかもしれないが、その時に似ているような脱力感があった。
現実に体感する嫌な事というのは、想像していた何倍にも感じる、計り知れない差があるという事だ。
暫くの間は、鬱状態で毎日を過ごした、雨だろうが、晴だろうが、空模様も季節さえも気にならなかった、
明日がある事を忘れていたように思う
有難かったのは、そんな抜け殻のようになった夫に対し、妻が何でもない様に、何時もと変らぬ態度で接してくれた事だ。
その時は気が付かなかったが、何時もより少しだけ優しかったように思う、その少しだけの優しさが、意気地のない自分を救ってくれたような気がする
それは、妻が自分に無意識に処方してくれた、薬だったように思う。妻と言う者にしか出来ない、思いやりという有難い妙薬だ、短期間で気持ちを落ち着かせ、平常心を取り戻す事が出来た、一番の薬だったと今は思う
考えてみれば、夫婦喧嘩の時を除いて、何があってもどんなときでも、無条件で自分の味方をしてくれるのは、世界でただ一人妻だけだ、今にしてそう思う、心から感謝しているし、何時も有難うと、そう思ってはいるが照れ臭くて、面と向かっては絶対に言えない。
結局、偉そうにしてはいても、妻が守ってくれている家があったから、帰る家があるからこそ、長い期間外に出て、仕事だけに没頭できたのだ、今更ながらそう思う、今後は死ぬまで偉そうには出来ないな、心の中でそう思っている
日が経つにつれて気分も落ち着き、何もせずに家にいるのが退屈だと感じるようになってきた、通常の自分に戻りつつあるようだ
晴れた日は窓の外の景色が、すっきり感じられる様になっている、晴れようが雨だろうが、毎日、何の変化も無い、一日が始まるのだが、やはり晴れた日の方が気分は良かった。
朝起きると、する事も無く居間のテーブルの前に座り、暫くテレビを見ながら時間を過ごす、芸能人のスキャンダル、アイドルの交際相手がどうとか、何処のラーメンがおいしいとか、グルメがどうとか、この国は何処まで平和な国なのだろうと思う、決まった時間にウォーキングに出かける、これが雨の日以外の日課になっている
狭い家に居ても、妻の家事の邪魔になるだけだ、誰の邪魔にもならないように、生きていく事、それがたとえ妻だとしても、これから生きていく自分に課した第一目標だ。
家を出ると散歩より少し早足で歩く、ウォーキングだと勝手に解釈している。
十五分ほど歩いた所に、釜無川の堤防に沿って、二キロほど遊歩道の続く公園がある、遊具のある場所、入浴施設、その向こう堤防下を、舗装されたサイクリングロードが、樹木の下真っ直ぐに続き、欅や榎の大樹が、そびえるように何本も立っていて、日差しを遮っている。
大樹の下に生えている下草は、先日刈り取り作業が行われたばかりで、綺麗に刈り取られ、所々に刈り取られた草の小山ができている
サイクリングロードの横を、遊歩道が大樹の間を縫うようにして伸びている、日差しの中を歩いて来て公園に入ると、一瞬薄暗く感じるほど木の葉が生い茂り、太陽光を和らげている。
冬の間は葉が落ちて枝越しに見えていた空も、今は生い茂る葉に遮られて見えない、心地よい日陰の遊歩道が県道と交差するまで続いている
大樹の木漏れ日の下を、自転車に乗った人や、歩いている人、犬を連れた人もいる、ジョギングの人が走りすぎる
行き交う人の中に混じって速足で歩く、顔見知りになった人達と、挨拶を交しながら。
現役の頃には味わえなかった、季節の色や香りを、存分に味わうように感じながら、額の汗を首に巻いたタオルで拭う、気持ちの良い汗だ、生きているという実感がする、そう感じたいと言う、強がりな気持ちも混じっているのだが。
此処に来始めの頃は、会う人全員に挨拶していた、新参者はそうしなければいけないような気がしたからだが、毎回挨拶しても挨拶を返してこない人が居た、そう言う人に挨拶するのは迷惑なのだろう、そう思い何時からか相手を選ぶようになった。
笑顔で返してくる人、無表情に返す人、色々な人が居る、健康の為の人、リハビリの為の人、目的も様々だろう
この公園は春から秋にかけて、土曜日、日曜日は木陰でバーベキューパーティーをする人達で賑わう、会社の仲間、家族連れ、ママさんグループ等、東南アジア系の外国人のグループも珍しくない、時代が変わっている、カラオケを持ち込んで、賑やかにやっている人達も時々居る、時には孫と遊ぶおじいちゃん、おばあちゃんも見かけるが、ほとんどが若い人達だ。
土日祭日はそんな状態の公園だが、平日は逆に六十代以後の人達が、ウォーキングに散策にと訪れる
公園のベンチに腰掛けて休んでいると、話しかけてくる人が多い、不思議にその人は挨拶しても、無愛想な顔で睨むだけの人だったりする、気安く挨拶はしないが話しはする、何か解釈が難しい人だなと思っていると、次の日からは向こうから挨拶してくる、話をして合格しなければ、挨拶をしてくれないのだろうか、なかなか難しいものだ。
初めて会話する人でも話題には事欠かない、生きてきた時代が同じだと言うことは結構話があうのだ、リタイアした人間にはなにかと共通点があるものだ
毎日来る人はだいたい決まっている、男性、女性どちらも六十を過ぎた人たちがほとんどだが、皆歳より若く感じる、よく出て来る話題は孫の話と病気の話、中でも病気となるとほとんど常連の誰かが経験しているのには驚いた、下手な医者に聞くより、体験談だから信用できる。
叔母ちゃんたちは、情報の宝庫だ、あの人は何処の誰なのか、聞けば大概分かる、町の噂もいろいろ教えてくれる
現代の大きな事件ばかりではなく、昔の大きな事件も話題にできる、こんな集まりだからこそできる事だ
公園で出会う人達は、皆同じ時代を生きて来た、同志のようなもの、そう思うと、無愛想な叔父さんや叔母さんでさえも親近感が湧く、皆、健康を気遣い、生きる事を大切に思う人達だ、愛しささえ感じてしまう
何と無く始めたウォーキングだったが、得られる思いと、教えられる事が多かった
気軽に声を掛け合う公園友達も増えた、五体満足で病気もせず、こうしてウォーキングしている、それ自体が幸せなのだ、感謝しなければいけない、改めてそう思うようになった
生きている事、すべてはそれから始まる、後は成るようにしか成らない、そう考える事ができるようになってきた、元々性格は呑気な方だと、自分では思っていたのだが、定年退職とはそれ程迄の、人生の節目なのだという事を思い知った
出会い
毎日平和で平凡な日々が過ぎていった、家から公園迄歩いて行く途中、民家が途切れた畑や水田ばかりの中に、其処だけが周りを木立で囲まれた空き地がある
その場所に最近、青いシートを張ったホームレスの小屋の様な物が二つ出来た
見るとはなしに見ていると、佐藤より年輩に見える男性が、小屋に住んでいる、その隣にある小屋には、四十代に見える男二人が住んでいるようだ
ホームレスのように見せたつもりだろうが、ホームレスには見えなかった、何の目的で此処に居るのか想像がつかない、奇妙だが気になる人達だ
この近辺のホームレスの人達は、結構清潔な服装をしていて、ホームレス小屋以外ではすれ違っても、一見普通の人と区別がつけにくい、昔のように垢にまみれたボロボロな服等は着ている人は少ない、こざっぱりとした清潔な服装をして、彼らなりに充実した生活を送っているように見える
公園内のホームレスの人達は、都会のホームレスの様にまとまらず、一人ずつ離れて住んでいる、何箇所かに数人のホームレスの人が分散して住んでいる、散策もすれば小屋の前で読書をしているのを見るときもある、結構悠々自適に生活しているように見える。
気分が落ち込んでいたときは、ホームレスの人達を見ると、人生何があるか分からない、明日は我が身かもしれない、そう思いながら見ていたものだ
第五話 出逢い
老人たちのいる、その広場は公園とは全く離れた場所にある、耕作放棄した畑を、埋め立てて造成した場所のようだ、手入れが良く、歩く部分は砂利を敷き詰め、他は刈り込みの手入れはしてないが、雑草の混じった芝生になっている
住んでいる三人は、特に仲が良さそうには見えないがいつも一緒に行動している、小屋が留守らしいときは三人ともに居ない、だから、いつも一緒に行動していると想像がつく
彼らも小屋に来て居るときは、公園内を散策している、歩いていると時々顔を合わせる
いつも老人が真ん中だ、まるで現代版の水戸黄門御一行のようだ、老人は白髪に赤銅色の顔をしている、口と顎に髭、赤銅色に日焼けした顔、ワザとらしいような何か違和感があるが、ホームレスというにはどこか品というか、威厳がありすぎるように感じる。
自分などとは何か違う、品格のようなものを感じる、身に具わった貫禄さえ感じさせる。
擦違うだけで、何故か威圧感を感じる、服装もわざわざ貧しそうにしているが、故意にヨレヨレにしているのが見え見えだ、そう感じるのは、俺だけだろうか
何度も顔を合わせていると挨拶だけではなく、老人とはちょっとした雑談くらいはする仲になった、若い二人は無口だ、ほとんど口を利かない、こんな場所に全くそぐわない、歩いていて会えば挨拶をする、若い二人も一緒の、爽やかな返事が返ってくる、気持ちの良い人達だ、佐藤にとっては何処か謎の人達であり、興味深い人達でもあった。
後日、ある事件がきっかけで、顔見知りと言うよりお付き合いをするようになってしまうのだが、この頃は、そんな関係になろうとは思っても見なかった。
気力が出てきたのは良いのだが、ついでに悪い性格も出てきた、ただ歩けるだけで幸せ、なんて思っていたのは数ヶ月だけだった、我ながら困った性格だ、せっかく始めた、毎日運動をする、という良い習慣を続けたいのだが、何と無くつまらなくなって来てしまった、
歩くだけでは余りに単純過ぎる、ジョギングに変えるのは、運動を辞める時期を早めるだけだろう。
見慣れた景色にも飽きてきた、毎日綺麗な女性でも来ていたら、それを楽しみに飽きないかもしれないが、ふとそんな馬鹿な事を考えている自分に気付いて驚く、そんな気持ちになる事なんて無いと思っていた、俺の鬱病も完治したのかな、そう考えると馬鹿な考えも喜ぶべき事なのかもしれない、まして明日の事を、その先の事を考えている自分に驚いていた。
何とか飽きずに運動を続ける、良い方法は無いものか考えた、このまま続けてもストレスになっては、逆に体に良くないなどと、自分勝手な理由を点けている、我儘な考えだと分かっているが、そう簡単に良い方法なんて無いだろうが、考える価値はあるだろう時間はたっぷりあるのだ、それまでは挫けずに続けよう、そう思った。
変な話だが我儘な自分が嬉しかった、生きている事が少し嬉しかった、明日の有る事が嬉しかった。
今日も公園内のベンチで休みながら、あれこれ考えていた、無言で向かいのベンチにおじさんが座った、話しかけてくれるなと願ったが、案の定話しかけてきた、相槌を打って空返事をしながら考える、良い天気だ、日差しがまぶしい、榎や欅の大樹より樹高の低い、桜の木の木漏れ日が風に吹かれ、地面に映ったモザイク模様の光が揺れている、目の前を自転車に乗ったおじいさんが通り過ぎた
「おはようございます」
会えば挨拶をする叔父さんだった、挨拶を返し何と無くその後姿を見送っていた、おじさんの自転車はママチャリだ、ほとんど毎日ここで会う、自転車は体に良いと言う事で、此処のサイクリングロードを走る自転車が増えてきている、健康志向の世相も手伝って、流行っているようだ
「自転車か」
そう呟いてみて
「まてよ」
何かが頭に浮かんだ、以前マウンテンバイクに、興味を持った時の事を思い出した、その時は、年甲斐も無く今更やっても、と思い止めた事があった、だが今なら有効なのではないか、マウンテンバイクなら、飽きずに体力づくりができるような気がした、自転車ならウォーキングでの折り返し地点よりずっと先の先まで足を伸ばせる、何倍もの範囲を動ける、遠く迄行く事が出来る、運動量だってウォーキングに負けないカロリーを消化するだけ走ればいい筈だ
ウォーキングから帰ると、早速、近くのホームセンターに行ってみた。何十台もの自転車が陳列してあった、マウンテンバイクも三十台ほど、
並んでいる、暫く見て回った、価格も手頃な物が多い、性能については詳しくないから分からない、見た目がちょっと変わっている一台が気に入った
その日は見るだけにして帰った、衝動買いで何度も後悔した事があるから、落ち着いて考える事にする、歳をとった分若い頃より、多少慎重になっている自分に気づき、一人苦笑してしまった。
幾日か考えた末に、結局最初見たとき気に入った、マウンテンバイクを購入する事にした
前のギヤが三段後のギヤが六段で十八段変速、銀色のマウンテンバイク、価格も手ごろだった。
選んだ根拠は見た目が気に入った、それが全てだ、性能云々は分からない。
そんないい加減な見立てで購入し、始めた自転車だったが、当たりだった。
初めてマウンテンバイクに跨ったとき、なんだかワクワクして心が躍った、大袈裟に言えば、何か、今迄と違う世界に行けるような、何か宝物にでも出会えそうな、忘れていた久しぶりの、高揚感を感じたのだ。
こんな些細な事に高揚感を感じるとは、高望みさえしなければ、喜びは、身近に沢山あるのかもしれない、そんな事が頭を過る。
購入した店から、自転車に乗って家に帰る事にした、サイクリングと言えるかどうか分からないが、想像していた以上に気分爽快だった、だが慣れない為なのか、短い距離なのに疲れた、やはり年なのだ、無理は禁物である、始めは短い距離を、無理せずに走って体を慣らしていった。
短い距離短い時間だが、体に当る風が気持ち良かった、しかし体力には余り自信が持てなかったが、次第に距離を伸ばしていくに連れて、自転車ならではの試練が沢山出てきた。
歩いる時は気にもならなかった場所が、坂である事に気が付く、そんなに傾斜しているとは感じなかった坂が、自転車に乗ったままでは登れなかった、仕方なく自転車を降りて押して登った、変速機を一番減速しても登れなかったのだ、非常に情けない思いだった。
歩いているとき、そよ風は心地よかった、ところが自転車でそよ風に向かって走ると、心地良いどころではなかった、なだらかな上り坂が、急坂を登っているような抵抗感なのだ、そういう体験は、して見なければ分からなかった
歩く時とは違う筋肉を使うのか、脹脛が筋肉痛になった、太腿が腫れたようになった事もあった、慣れるまでは色々なアクシデントもあったが、それでも嫌にはならなかった、大いに気に入っていた、飽きないのだ、これなら続けられると確信した。
公園内を自転車で走るのには、気を使わなければならない事がある。
遊歩道ではなくて、サイクリングロードを、ウォーキングの人たちが多く歩いているのだ、その人達を追い越しながら走らなければならない、真剣に前を向いて歩いている人、会話しながら歩く人達は、自転車が近づいても、気付く人は少ない、通れそうなときは、歩いている人の脇を、擦りぬけるように通り過ぎるのだが、はっと驚いて飛び退く、そんな人が多い、年配者が多いので、そんな時心臓発作でも起こされては大変だ、人を追い越すときは気を使ってしまう、かといって自転車が近づいた事を知らせようと、後ろからベルを鳴らしても、話に夢中で、気付いてくれないおばちゃん達は、近づいてから気が付き
「びっくりしたぁ」
結局驚くのだ、ベルの音だけで驚き飛び退く人も居る
サイクリングロードではなく、遊歩道を歩けば安心なのにと思うのだが、年配者にとって舗装をしてない土の儘の遊歩道は、各所に大樹の根が土を盛り上げながら横断していて、歩きにくいのだ、余りに多くの人が先を歩いている時は、こちらが遊歩道に下り追い越す事もある、避ける事が出来ない木の根がいたる所を横断していて、乗り越えるときマウンテンバイクの車輪がショックで悲鳴を上げているような気がする
舗装の道を走っていると自転車が静かな事は、鳥達を見ていてよく分かる、歩いているときは足音がするせいか、人の姿が見えるか見えないか、の距離で飛び去ってしまう鳥達が、自転車だとすぐ傍に行くまで逃げない、気付かないのだ
大きな青鷺が、目前に近づくまで、自転車が付かず居たのに、気付かなかったのだろう、突然おおきな羽音をたてて、飛び立って行った時には、こちらも驚いた、自転車とはそれほど静かな乗り物だ
始めの頃は五キロ程で疲れを感じたが、慣れてくると、二十キロくらいは平気で走れるようになった、当然今までの範囲の何倍も遠くまで行ける、色々な発見があって楽しかった。
春先は何時ものコースを外れて、川や田畑の土手などの見える場所お山菜を探して走る、竹薮の傍で筍を見つける事もあった、時には鴨の親子が道路を横断するのを、止まってやり過ごす事もあった、微笑ましい光景に走って来た車も皆停車して、渡り終わるのを待ってくれた。
微笑ましい光景に文句を言う人は誰も居ない、なにか心が温かくなる
今日も何時ものように自転車で、サイクリングロードを走っていた
サイクリングのお陰なのか、近頃、気分爽快と感じる日が多くなった風が心地良い、余り急がずにゆっくりとサイクリングロードを走っていた、道が土手の下から土手の上に登る、少し傾斜のきつい坂がある、その坂を登りきると、堤防の上を走る道路と並行して走る、釜無川が見える更にその遥か向こうに、甲斐駒、鳳凰三山、櫛形山等の山々が見えて来る、お気に入りの景色は、急坂を息を切らせて登った御褒美だ、晴れた日に此処に来ると、心が洗われる思いがする、その景色もすぐに桜並木で遮られて見えなくなる、少し前に刈り取られた下草がもう伸び始めて、雑草の強さを誇るように、緑の広がりを見せている、色々な緑が映える季節だ。
道が真っ直ぐに見通せる場所に来た、百メートル程前方の大樹の陰から、老人達三人が歩いてくるのが見えた、見慣れた黄門様ご一行は遠くから判別できる
前方でサイクリングロードはカーブしているので、見えたというより、カーブの陰から直線コースに現れたという感じに見える、ワイシャツにグレーのスラックス姿をした老人を真ん中にして歩いてくる
「うん、この距離で老人の服装が、分かるという事は、老眼は進んでいないな」
自問自答しながらペダルを漕ぐ、もう何年もメガネを変えずにすんでいるので、時々このような事で、視力を確認して自分を安心させている。
いつも三人に出会うと、水戸黄門のドラマが頭に浮かぶ、黄門様一行が悪い奴に襲われて、助さん角さんがそれをやっつける
「悪人たちを懲らしめてあげなさい、なんていってね」
独り言を言いながら、自転車のスピードを上げる、その時、眼の端にキラリと光る物が見えたような気がした、普段は有り得ない妙な違和感だ、見えたと思う方向に眼を凝らして見る。
前方を男が歩いている、がっしりとした体格で、後姿ではっきりしないが、三十代くらいだろう頭を短く刈り込んで、グレーのトレーナーを着ている、危険な雰囲気を感じた、良く見ると前から見えない様に、右手を後ろに廻し、その手にナイフのようなものが握られている
前方に神経を集中しているらしく、静かに走る自転車に気付いていない、野生の鳥でさえ気付かないときがあるほどの静粛性だ、男は佐藤が近づいているのに全く気付いていない様子だ、
「何だ、冗談でしょう、本当に事件だ」
思わず声が出そうに成るのを押えて胸の中で叫ぶ。
「危ない、どうしよう」
気配から、男が老人達を狙っている事は、一種独特な殺気の様な感じで伝わって来る、咄嗟に考える、ドクンドクンと自分の胸の鼓動が聞こえる。
老人達はまだ佐藤に気付いていない、何か話しながら歩いて来る、男の正面から来る老人達からは、男の隠し持っているナイフは見えない、全く警戒している気配は無い、危ない、危険だ、突然のとんでもない事態に胸が苦しい、頭の中が真っ白になっている、男がこちらに気付いたらこちらが危くなりそうだ、何かしなければ、もとより逃げるという考えは浮かばなかった、何とかしなければ、そう必死で考えていた
「どうしよう、どうしよう」
呟いてみても何も思い浮かばない
無意識に自転車のスピードを上げていた、前方ばかり注意している男は、まだ佐藤に気付いていない、老人達は話に夢中のようで、佐藤の方を見ていない、男に気付いていないのが分かる、もう少しで男と老人達がすれ違う、そうなれば結果は見えている
無言のまま更に加速した、自転車で男の背中に突っ込んだ。
男は思いもしない後方からの攻撃に、もんどりうってサイクリングロードの舗装の上に転がった。
ナイフが男の手を離れ、アスファルトの歩道に、カチャンっと乾いた音を立てて落ちた
老人の連れのふたりが、遊歩道に落ちたナイフを見て、咄嗟に全てを悟ったらしく、身体の何処かをしたたかに打って、痛さに呻いている男を取り押さえる
佐藤は自転車ごと倒れたが、スピードの割には男にぶつかったため、倒れる時はほとんど停止した状態だったので怪我は無かった、
自分で何をしたかもはっきりしないまま立ち上がり、倒れた自転車が心配になった、幸い無傷のようだ、自転車を起していると老人が近づいてきた
「大丈夫ですか、申し訳ありませんでした、危ない所をありがとうございました、助かりました、つい油断をしてしまった、まさかこんな処まで、申し訳ない、貴方には迷惑をかけてしまって」
油断した、佐藤には意味不明な部分はあるが
「いいえ、自分が何をしたのか、夢中で何がなんだか、貴方達こそ大丈夫でしたか」
「私達は大丈夫です」
自分のとった行動を、スローモーションの映像のように、思い返していた。
我に返って事態がようやく理解できた気がした、起きた現実に実感が湧いて来る、背筋に悪寒が走り身震いしそうになった
「怪我はありませんか」
「えっ、ええっ、何ともありません」
答えたが、今頃になって動揺して冷や汗がドッとでたが、平静を装って引きつった笑いで誤魔化した
「それは良かった、助かりました、貴方は命の恩人です」
「いや、そんな大袈裟な、偶然ナイフを見てしまったから止む無く」
「いいえ、恩人なのです、お礼は後日改めて、本当に有難うございました、お名前をお聞かせください」
「いいえ、お礼なんて」
「そうは行きません、それではこちらの気がおさまりません、お名前と、良かったら携帯の番号、教えてください」
凛とした威厳のある声で言われた、妙に固辞するのも変なので、住所と電話番号を教えた、すると老人は眼を瞑り、佐藤の名前と番号を呟いている、記憶しているようだ、こんな場所ではメモする物も無いので、そうして脳に記憶しているのだろう、そして目を開けると
「迷惑をかけてしまいました、貴方にこれ以上面倒をかけるわけにはいきませんな、貴方はここには居なかった事にした方が良いでしょう」
そう問いながら佐藤の顔を見ている、やっと落ち着いてきた頭で考える、確かにこれは事件だ、警察だの新聞記者だと言う事になる、事目撃者として事情聴取、記者の取材そんな事になるのは嫌だし面倒だ、ほんの数分の間の出来事だった、幸い辺りに人はいない、犯人と老人たち、そして佐藤だけだ、見える範囲に人陰が無いのは、奇跡に近い、老人の言っている意味は分かった
「そうさせてもらっても良いですか」
「ええっ、そうしてください、後は私達で処理します」
こんな事態は想定していた感じだった、男を取り押さえながら目礼する二人と、老人に見送られて、早々にその場を離れる為自転車にまたがったがった。
何時ものコースを走り、目的地の青少年会館前で折り返す、帰りには先程の場所を通らないように、遠回りして家に戻った。
家に戻っても暫くの間、興奮が収まらなかった、生まれて初めての経験だ、平静を装っていたが、流石に妻には分かってしまったようだ、異常を感じたのか
「何かあったの、変よ」
妻に聞かれ、余計な心配をさせてはいけないので、何も言わなかった
「何でもない、ちょっと走りすぎて疲れたかな」
「なら良いけど、気をつけてよ、もう若くないのだから」
若くないという言葉に妙に納得する自分が居る。
出来事から数日が過ぎた、警察や新聞記者が来る事はなかった、悪い事をした訳ではないのに、何処かほっとした気分だ。
不思議な事に、事件そのものが、無かったかのようになっている。
公園に警察が来たとか、事件があった、という噂話も聞こえて来なかった。
更に不思議なのは、その事が何故か、気にはならない自分だった、根拠は無いが、始めからそうなるような気がしていたのだ。
年甲斐も無く、無茶な事をやってしまった気はするが、あの場合仕方なかった、上手く男を倒せたから良かったが、死傷者でも出ていたら大騒ぎになる所だった。
怪我人も無く、皆、無事だったのは、全て運が良かったと思う、あの男も二人がかりで取り押さえられていたが、身をよじって抵抗していたから、打ち身くらいはあるだろうが、大丈夫のように見えた、とにかく無事に全て収まったようだ
第六話 思わぬ転機
数日後、高級な菓子折りと、高級なコーヒーセットが一緒に届いた、妻と買い物に出かけ家を留守にして戻ったとき、隣の奥さんに預けられていた、あて先は佐藤だが送り主は書いてなかったが、誰なのかは、すぐに見当が付いたが、事情を話すわけには行かないので、送り主を説明するのに苦労した、在職時に仲良くしていた取引先と言う事で、妻は何とか納得してくれた、大きな会社なので郵送せずに、業者を雇って直接配る所だから、送り主の記入ミスだと、苦しい嘘で切り抜けた
「本当に、お礼しなくても良い所なの」
そう言って心配したが
「大丈夫、そういう相手ではないから」
冷や汗が出た、妻に秘密を持つ事は、体に良くない。
何時もの様に自転車で、広場の前を通りかかると、久しぶりに小屋の前のベンチに、老人が座っていた
「おはようございます」
「おはようございます」
何時ものように挨拶が返って来た。
老人が微笑みながらこちらを見ている、当然、佐藤が小屋に寄っていく、そう決めている顔だ、立ち上がると黙って小屋の中に入っていく。
佐藤も自転車を降りて、当然のように後に続く、小屋の中は明るかった。
あの事件以来、すっかり親しくなって時々お邪魔している
通りすがりに見るだけで、ホームレスの小屋としては大きいなとは思っていた、内部は建設会社の現場事務所の様なものだろう、と考えていたのだが、初めて小屋の中に入ったときは驚いた。
「えっ」
思わず声を上げてしまった、外部は青いシートで隠されていたが、中は高級なキャンピングカーの中だった、それも超が付く程の高級感だ、呆然として立っていると
「此処には誰も招待した事はないのですが、佐藤さんは特別です、何しろ命の恩人ですから」
「そんな、もういいですよ、そんな事、いつまでも、恩に着なくても」
中を見回しながら言った
「いいえ、事実ですから、仕方ありません」
その言葉を聞こえなかったように
「驚きましたね、凄い豪華」
佐藤が言うと、老人はニヤリとしながら
「たいした事はありません、ホームレスの小屋は小屋です」
「いったい、貴方は何者なのですか」
聞きたくて我慢していた事を素直に質問した
「不審に思うのは分かりますが、何れ時期が来たらお話します、それまでは勘弁してください、話すと貴方に迷惑が及ぶかも知れないのです、もう暫く、ただのホームレスの爺にしておいてください、それと、この小屋の事は絶対に他言無用ですよ」
そう言って佐藤の眼をじっと見る
「分かりました」
聞きたい事が沢山ある老人だったが、ややこしい事や面倒な事は自分も嫌いだ、特別に知らなければならない事でもないのでそう答えた。
この豪華ともいえる部屋を、ホームレスの小屋らしく見せるのにも、訳があるのだろう、小屋の仲を見れば誰でも分かる事だ
「その辺に座っていてください、コーヒーで良いですか」
「はい」
老人はキッチンの方に行ってしまったそれにしても内部は、カーテンで仕切られた、高級そうなベッドや、調度品がそれ程広くないスペースの中に、センス良く配置されていた。
驚いて気付かなかったが、室温が心地良い、冷暖房完備のようだ、普通の家なら一軒が楽に立てられるくらいの、金がかかっていそうだ、価値が分からない内部の豪華さに、総額はどのくらいになるのだろう、庶民感情として気になってしまう。
部屋の中を一通り見回す、外からはカモフラージュされていて分からないが、天井部分から、上手に採光してあるらしく室内は明るかった
目立たないよう地下配線をして、電気を取り入れているようだ、流し台の右手の奥に、ブレーカーボックスが見える。
老人が、良い香りのするコーヒーを、トレーに乗せて持ってきた。
「どうぞ、こんな場所ですから、粗末なカップで失礼ですが」
「自慢じゃないですが、器を気にするような暮らしは、した事がありません」
「はっはっはっ、佐藤さんは面白いお方だ」
そう言って笑った、一口啜って
「美味い」
思わず声に出して言ってしまった、飲んだコーヒーをジッと見つめる、見た目は何の変わりも無いコーヒーだ、お世辞ではなく素晴らしく美味いのだ。
尖ったような嫌な苦味が全く無く、香ばしいまろやかな旨味のような苦味は実に美味かった。
特別コーヒーに詳しいわけでは無いが、コーヒーは好きなので、色々なコーヒーを味わったが、こんな美味いコーヒーを飲んだのは初めてだった、世の中にこんな美味いコーヒーがあるのを初めて知った思いがした、単に自分の好みに合っているだけなのかもしれないが、兎に角美味かった、この老人には驚かされる事ばかりだ。
「お口に合いましたかな」
「口に合うなんてものではありません、こんなおいしいコーヒー生まれて初めてです」
「生まれて始めてはオーバーですね、この間、御送りした物と同じですよ、でも気にいって頂いて良かった、貴方さえ良かったら何時でも飲みに寄ってください」
「そうなのですか、淹れ方が違うんだな、こんなコーヒーを毎日飲みたいものです」
「次にお会いするまでに、此処の鍵を作っておきましょう、こんなコーヒーでよかったら、勝手に入っていつでも飲んで行ってください」
「そんな、とんでもない、毎日なんて冗談です、頂いたコーヒーで淹れ方を研究します、鍵なんて冗談じゃありません、いらっしゃる時に、たまに寄らせていただきます」
「たまにではなく遠慮しないで、私が居るときは必ず寄ってください」
「有難うございます」
事件の事にはあえて触れなかった、当たり障りの無い世間話を十分程して席を立つ
「ご馳走様でした」
「外交辞令ではなく、本当に寄ってください、待っていますよ」
「有難うございます、お言葉に甘えてそうさせていただきます」
一ヶ月のうち半分ほど小屋は留守になるようだったが、小屋にいる事が分った時は、時々立ち寄らせてもらっている。
自分の名前は言わなかったが、佐藤の名前は分かっている、通りがかりに、いつもおいしいコーヒーを飲みながら談笑して帰る、ただそれだけの事だったが、佐藤の楽しみが一つ増えた。
老人の名前を知る必要は無かった、謎がいっぱいある人でも、悪い人ではない事は当然の事だ。
老後を過ごすこれからの人生に、良い友が出来た、そう思った、信頼できる人物だという事は、直感的に分かっていた。
何十年もの付き合いのような、心の安らぎを覚える、掛け値無しに、心から打ち解けられる気がした。
老人も佐藤と話すのを、心から楽しみにしているという、お世辞でなく、本当にそんな雰囲気が感じられて嬉しかった。
隣の小屋に住む二人とは、たまにしか顔を合わせない、佐藤が行くと、ほとんどの場合二人は出て行ってしまう、たまに四人で談笑する事もあったが、彼等の名前も紹介なしだった。
退職後、知り合う人は、皆名前を知らない人ばかり、こういう場合知り合いではなく、顔見知りというのだろうか、現役の頃は名刺交換、まず名前から付き合いが始まっていたものだが。
テレビで、何社かの企業の、社員教育の方法を流している、自分には過ぎ去った遠い世界の話だ、そう思いながら画面を見るともなしに、ボーと眺めるようにして見ていた
現役社会と縁が切れたと感じてから一年以上になる。
今、気になるのは、外に出かけられるかどうか、その日の天気くらいのものだ、収入の事も気になったが、年齢的にアルバイトもパートも雇ってもらえない、つましく暮らせば何とか生きていけるだろうと、仕事を探しは諦めた。
割り切ってしまえば余り気にならない、何事も現実味が無く、ニュースも物語を見ているのと同じ感覚で見ている。
知識として知っていなければ、公園のおじさん、おばさんと話すとき話題が無くなるから、見ているだけだ。
居間の座椅子に座ってテレビを見ながら、冷めてしまったお茶を一気に飲み干した、湯飲み茶碗を置いて、テレビのチャンネルを変えようと、リモコンに手を伸ばした、そのとき、携帯の呼び出し音がなった、腰の携帯電話ケースから取り出し、電話に出る
「佐藤です」
「もしもし、分かりますか」
落ち着いた重厚な声が聞こえた、珍しく老人からだった
「ええっ、分かりますよ、今日は来て居るのですか」
「はい、先程参りました、今から時間取れますか」
「自慢じゃありませんが、時間なら、何時でもたっぷりとれますよ」
電話の向こうで笑っている
「よろしかったら、ちょっと来ていただけませんか」
「そちらにですか」
「はい、恐縮ですが」
「いいですよ、喜んでうかがいます、どうせ暇をもてあましている身ですから」
「ご足労かけて申し訳ありません、お待ちしています」
そう言って電話を切った、何時もと違った、何処と無く真剣な話しぶりだったような気がする、ちょっと気になったが、出かける支度をする。
慌てる事はないのだろうが、する事も無いので、すぐに自転車で小屋に向かう
近頃は通いなれた小屋に入ると、何時ものコーヒーのいい香りがしていた
「ちょうど来る頃だと思い、コーヒーをいれたところです、タイミングが良いですね」
老人の声がして、コーヒーをトレーに乗せた老人が、キッチンの暖簾を分けて出てくる、暖簾で見えなかった姿が見えて
「えっ」
良く驚かせてくれる人だ、声は同じだが顔が違う、高級そうなスーツを着て、まるで別人だ
顔は赤銅色でなく、どちらか言えば色が白い、髭も無い、何時もの老人ではないのだ、いや老人というより、自分より若いかもしれない、そう見えた
「驚かせてすみません、事情があって、何時もは変相していたのです」
「そうですね、本当によく驚かせてもらいます」
そう言って笑うと
「申し訳ない、驚かせる心算はありませんでしたが、今日は変相なしです」
何時もの席に座って
「時間が無かったのですね、忙しいのか、じゃあ、ゆっくりコーヒーを味わってはいられませんね」
「そんな事はありません、そろそろ佐藤さんに、正体を明かしても良い頃だと思ったものですから、だから変相は止めました」
ゆっくりとした動作で向かい側に座る、佐藤がはじめてみる事になる素顔は、穏やかだが風格のある顔立ちだ、話し方が何時もより真剣さを感じる、何故だか何時もより重苦しい雰囲気だ
「今まで名前も告げず失礼いたしました、私はこういうものです」
名刺を差し出した、名詞の肩書きには、日本有数の大企業大日グループの会長、大塚雅夫と書いてあった
「堅苦しい連中との付き合いに疲れましてね、此処に来ると人間に戻った気がする、年寄りのわがままで、仕事を離れて此処で、命の洗濯をさせて貰っていたのです」
そう言えば、テレビでよく見る顔だった、日本人の誰もが知っている大企業のトップ、これだけの地位に座ってしまうと、会社は勿論の事、自宅に居ても自由はないのだろう。
例え別荘にいても同じ事、プライバシーは無いに等しいだろう事は想像が付く、此処で別人になって居る時は、自由を得られ、好きなときに歩き、好きなときに食べて、好きなときに本を読んで、好きなときに寝て、最高の時間だった。
だが例の事件以来、此処もなにやら騒がしくなってしまった、世間に知られてしまうのも時間の問題らしい
「暫く此処は閉鎖する事にしたのです、それで、佐藤さんにはお世話になったし、黙って居なくなる事は出来ません、それと是非検討して頂きたい事がありまして、それで来ていただいたわけです」
「そうですか、それはお気遣いいただいて」
中小企業の係長で退職した佐藤などにとって、雲の上のまたその上のような人だ。
一生お付き合いなど出来ない部類の人だが、肩書きについてはさほど驚かなかった
思っていた以上に大物の肩書きではあったが、そのような人物ではないかと想像はしていた
「実は、お願いしたい事がありまして」
「はい、私ごときが出来る事ならなんなりと、どんな事でしょう」
姿勢を正して、話を聞く体制になる、大塚が話し始めた。
最近の事だが県内に本社のある企業が、外資系の会社に、買収されそうになった、歴史と技術はあるが、とても資金的に太刀打ちは出来なかった。
その時たまたまその会社の社長と知り合いだった、大塚の友人が中に立ち、外資系に買収されない為の援助を要請してきた、大塚は友人の頼みを無碍に断るわけにも行かず、その会社を調べてみた、かなりの歴史ある会社だった、一般には余り知られて居ない技術だったが、その特殊技術の分野でのシェアは全国一、いやおそらく世界でも屈指の会社である事が分かった。
外資系企業が欲しかったのはその技術のようだ。
経営陣はそれなりの利益を上げている、特定の会社の系列下には無いが、全国の一流企業と取引があった。
外資系に買収されないように、特定の取引会社に援助を頼むと、他の取引関係が良い顔をしない、援助してくれる会社に、吸収合併される可能性も大きい、以前からそういう合併話が何度もあったようだ。
そこで取引もあるが、個人的に親しいという、大塚の友人に相談したのだった。
技術を外国に流出させる事は、将来の日本にとって、決してプラスにならない、援助する事にしたが、世間に知られずに、秘かに進行している買収騒ぎが、大日グループとして応援すれば、大騒ぎになってしまう、外資と対決と言う事も面倒だ。
大塚は秘かに個人として知り合いを使い、手を打って外資を退散させようとした。
その情報が何処からか相手に漏れて、大塚さえ居なければ買収劇に勝てる、相手の担当者はそう考えたようだ。
外資系の会社は大塚を狙い始めた、映画のような話だが、内容が内容だし立場上大騒ぎするわけには行かず、例の二人がボディーガードとして、四六時中ガードしながら、計画を進行させていたのだ、佐藤が助けた一件も、その話に絡んで起きた事だった。
あの時、こちらは被害を受けずに、男を捕えられた事が幸いした、あの時襲ってきた男を、警察に引き渡さない、事件にもしない代わりに、無条件で撤退するよう、外資系企業に交渉したのだ、
相手企業は驚いた、警察沙汰になっては、企業イメージが失墜処の話ではない、株の暴落、資金の提供者に手を引かれかねない、条件を飲むしか方法はなかった、そして無事に買収劇は終わったのだそうだ。
外資系企業の買収担当者が、焦ってやった事で、幹部達は慌てふためいた、何も知らなかったのだ、話を聞いて驚き、謝罪した、買い占められた株は、現在の相場より相当に安く買い戻させ、こちらの言いなりの条件で、即刻撤退して行ったという
「全て円満に解決しました、本当に恩に着ます」
「いえ、恩になんか、気にしないでください、偶然に出くわしてしまったものですから、思わずやった事でして」
「いえいえ、偶然とはいえ、咄嗟の判断で、あれだけの事は、誰にでも出来る事ではありません、本当に助かりました、あの時、怪我人でも出ていれば世間が騒いで、とてもこういう展開は難しかったのです、考えようによってはラッキーでした」
「そうだったのですか、でも、私ごときに、そんな裏話までして大丈夫ですか」
「ええっ、良いのです、この話にはまだ続きがあるのですから、と言うより此処からが本題のようなものです」
そう言ってコーヒーカップを持ち上げ一口飲むと
「失礼ながら、貴方の事を調べさせてもらいました」
「調べたのですか、私の事を、ですか」
「はい」
「調べられて困る事はありませんが、こんな一介のしょぼくれた老人を何故?」
「訳はこれからお話します、買収をされずに済んで、その会社の社長は大喜びでした、そこ迄は良かったのですが、今回だけで私との絆を切りたくない、私の関係者を誰か役員として送り込んで欲しいというのです、今後の会社の為にも、社長は会長になって、その人には社長の座を渡しても良いとまで言っています」
「何処とも合併したくないといった、その社長がどうしたんでしょうね、よほど大塚さんに感謝したという事ですか」
「というより、会社もある程度になると、一匹狼ではやっていけない世の中だと、思い知ったと言っていました、私の傘下に入りたいと言い出しましてね、私の地位やコネとの繋がりがほしいのでしょう、何れにしろ、それはありがたいのですが、今回の事は、あくまでも私個人が、世間に内緒でやった事、はっきり私が関係している事が、会社や世間に知れると、色々と面倒な事になってしまうのです、そうかといって無下に断れば、見捨てるというか、偉そうにお高く留まっているようで、嫌なのです、そこで私が個人的に信頼の置ける人を、その会社の役員として入ってもらおうと考えたのです、それで信頼はしていますが、念の為失礼を承知で調べさせてもらいました、その結果驚きました、何と言う偶然、佐藤さんは山王精機を退職なさったのですね」
「山王精機製作所ですか」
「そうです、その山王精機製作所です」
「その会社って山王精機だったのですか、退職した後でそんな事があったとは知りませんでした」
「世間に公表せずに解決しましたからね」
「成程そういう事ですか、ですが話が理解できません、役員を送り込むのと、私と何の関係があるのでしょう」
自分の古巣がそんな事になっていたとは、いかに世間から隔絶されていたか、今更ながら実感した
「大いに関係があるのです、佐藤さん、隠居するのにはまだ早いでしょう、もう一度働く気はありませんか」
佐藤の顔をジッと見つめている
「会社の内容は良くご存知の筈ですし、貴方以上の適任者は居ません、働くのが嫌でなかったら役員として」
唐突な話で、大塚の言っている意味が分かるようで、分からなかった、嘱託かパートならばお断りだ、俺にもまだ意地があるそう思うが、役員として、つまり重役としてなどと、佐藤の良識の物差しでは、計れない話が突飛すぎる、中小企業といっても、山王精機製作所はもう僅かに規模を広げれば、大企業の仲間入りが出来る会社だ
「話が良く分からないのですが」
役員を送り込むという話は分かるが、それが自分だという、その部分が理解不能だ。
社員だった頃、社長とは直接話をした事も無い、地方の会社とは言え、この地方では名の知れた会社なのだ
「ですから、貴方が役員として、山王精機製作所に入って頂きたい」
聞き違いではないようだ、だが実感が伴わない
「夢のような話ですが、話が間違っています、どうして私ごときが役員と言う話になるのですか、とても無理です、大塚さんの会社に比べれば、それは小さな会社しょう、でも零細企業ではないのですよ、山王精機がそんな話受け入れないでしょう、馬鹿にするなと怒られますよ」
「いいえ、出来ないなんて事はありません、佐藤さんにお願いするのは、ただ親しくなったからというのではありませんよ、決して長いお付き合いとはいえませんが、貴方の事は分かっているつもりです、相手の話を真剣に聞く事、相手に合った話し方、人間性がとても現れています、自分を卑下するほどに、相手を立てる、人として大事な事なのです、他人を決して上から目線で見ない、私のような人間は悲しいかな、どうしても使う立場で、上から相手を値踏みしてしまいますが、貴方はそうではない、自分の意見を相手に押し付けない、ただ自分の考えを相手に分からせる努力をする、感心していました、私はあなたに勉強させてもらっていたのですよ」
「勉強なんてそんな、冗談でしょう、からかわないでください」
「からかってなどいませんよ、相手の立場になって考える事、思いやり、私に欠けていたというのか、忘れていたものを教えてくれたのです」
「あなたほどの人が、そんな」
「いいえ、本当の事です、お蔭で周りの者に、最近変わったといわれます、女房まで、最近あなたは穏やかになったといってくれます」
言うことばもなく、意外な話を黙って聞くしかなかった
「話がそれましたが、この話、何より大きいのは、貴方が私の危機を救ってくれた、そしてそのときの犯人を道具に、買収を切り抜ける事が出来た、全て佐藤さんのお陰のようなものです、結果はすでに佐藤さんが、山王精機製作所を買収から救ったのです、これがまさしく運命と言う事でしょう」
確かに拡大解釈すれば、そうなるのかもしれないが、だからと言って、常識では理解しがたい話だ
「この際、私に繋がる人間が会社に在籍する、それだけで社長は安心するのです、売り上げを上げろとか、業績を云々と言うのではないのです、それに社長さんにはすでに、佐藤さんの事を伝えてあります」
「えっ」
驚いて息がつまりそうだ、言葉も出ない、其処まで話が具体的なのが信じがたい
「最初は、社長は自分の会社にいた人間と、私との繋がりを不審そうにしていましたが、少し脚色はしましたが、あなたとの経緯、そして、私がどのくらいあなたを信頼しているか、話したのです、驚いていましたが、そういう人なら、会社の内容も分かっているだろうし、是非にと喜んでいましたよ」
思いも寄らぬ展開に、何を言って良いのか分からなかった
「勝手に決めさせてもらって、申し訳ないと思いますが、お願いします、私の顔を立てると思って」
申し訳ないなんてとんでもなかった、良かれと思って決めてくれたのは分かって居る、しかし、話が意外過ぎて
「どう考えても、私ごときが、役員なんて、改めて言いますが、大塚さんから見れば、小さい会社でしょうが、私にとっては、山王精機は一介の係長で、定年退職した会社ですよ、社長の顔は知っていますが、話した事も無いのです」
「私ごときなどではありません、佐藤さん、この話は貴方でなければ駄目なのです、それと人生の転機なんてこんなものですよ、神様が隠居生活をするのは、まだ早いと言っているのです」
「こんな、想像も出来ない話、にわかには信じられません、なにより、自分の身の程は分かって居る心算です、本当に無理です、私では大塚さんの信用を落とす事になるのは確実です」
「大丈夫です、私は自信を持って推薦しました、何があっても私が責任を持ちます、どうぞお願いですから了解してください」
「そう言われても」
とても受けられる訳がない、戸惑いだけが頭を駆け巡っていたが
「よろしいですね話を進めますよ、細かい事は社長から、貴方に直接電話が行くと思いますから」
有無を言わせぬ言い方だったが、威圧する感じではなかった、夢のような話を受けろと言う、此処まで信用されて、段取りまでしてくれたのだ、断る事は出来そうもない、一生懸命努力すれば何とかなるだろうか、心配ではあるが覚悟して
「何処まで出来るのか、買い被りだとは思いますが、其処まで言って頂くと断れませんね、そう言う事なら、だけど自信は全くないですよ」
「大丈夫です、貴方なら出来ます」
決めてはいたが佐藤の返事が心配だったらしい、一気に大塚の顔が明るくなった
「また偉そうに上から目線で話してしまいました、勘弁してください」
そう言いながらほっと胸を撫で下ろしている様子が伝わってくる
「とんでもない、こんなありえないような話、まだ信じられませ、気が動転していて、何と言えばいいのか、とにかく、ありがとうございます」
何を言っているのか自分でも分かって居ない。
人生の夕暮れ近くにたたずむ、極めて平凡な人生を送ってきた男に、朝日が射したような、それも眩し過ぎる光が、身体全体を照らしてきたような、目眩がしそうな不思議な気分だ。
後は黄昏の余生を送るだけ、そう思っていたのに、今迄考えた事も、想像すらできない、異次元に近い世界の、入り口が突然現れた、入り口を入ったらその先、どんな世界が自分を待っているのか、嬉しいより、恐怖の方が多い、表現しがたい心境だった
「前祝というわけでは有りませんが、安心したら、お腹が空きました、食事に行きませんか」
望んでも有りえない話、気持ちの中でまだ消化出来ないでいたが、いわれるままに頷いて立ち上がり表に出る、いつの間にか黒塗りのレクサスが止まっていた、脇にいつもの二人が立っていて眼で挨拶してきた、今の話を知っているのかは分からないが、何と無く照れ臭い思いで二人に目礼して、車のドアを開け乗った、自転車に鍵をかけるのも忘れたままだった。
第七話 返り咲く
あまりに現実とかけ離れた話で、妻にはまだ話せない、というより、話しても信じるはずが無い
「何を馬鹿な事言っているの、頭大丈夫」
なんて言われるのが落ちだ、暫くは秘密にしておこう、そう心に決めた、あの話は無かった事に、となってもおかしくないのだ。
家の電話にはほとんど妻が出る、内緒にしているのに、勤めていた会社の、しかも社長から直接電話などが来て、妻が応対などしたら、どう説明したら良いのか困ってしまう、だが便利な世の中、今は携帯電話と言うものがある、直接本人の携帯にかかってくるのだ。
社長の顔は勿論知っているし、遠くから見た事はあるが、入社して退職する迄、直接会話した事はなかった、社長は佐藤という人間の存在すら知らなかっただろう
公園のサイクリングロードを、走っていると電話が鳴った、道脇に自転車を止めて電話に出る
「佐藤ですが」
「山王精機の澤田と申します、今、お話大丈夫でしょうか」
雲の上のような存在だった社長に、敬語で話されるとなんだか妙な感じ、で現実感が無かったが緊張した。
「はい、だいじょうぶですが」
「大日産業グループの大塚会長さんから、話を聞いていただけましたか」
「ええ、まあ」
現実には有り得ない話が、自分の意思に関係なく、向こうから迫ってくるような気がした、つい返事が曖昧になってしまう
「わが社に勤めておられたそうで、一度もお話しする機会が無く、御見それして申し訳ありません、私の未熟さ故に」
社員時代の佐藤を知らなかった事を、しきりに悔やんでいるという、しきりに詫びていた
「一介の係長風情に、社長がいちいち気を使っては、社長の実が持たないでしょう」
「いや、そんな事ではいけなかった、今迄の私が至らなかったのです、これからは全社員と、直接会話するように努めますから、どうか力を貸してください」
社員時代、顔は知っていたが、直接縁の無い地位の人、社長の人柄など気にもしないし、知る必要も無いと思っていた、だから知らなかったのだが、結構良い人なのだと感じた
定年退職で辞めた会社の社長に、重役として来てくれと懇願された、なんて、そんな有り得ない話、やはり妻にも誰にも言える話ではない、それに、大塚の事は何処までも信用しているのだが、突然、あの話は間違いでした、無かった事にしてください、という事になっても少しも不思議ではない程、あり得ない話なのだ
社長の低姿勢で気持ちのこもった要請を受け、後日会社で会う日を約束し電話を切った、携帯電話を腰のケースに戻し、暫くそこに立ち尽くしていた、夢ではなかった、現実を実感し体が震えた,自転車の脇に佇んで気持ちを落ち着ける
「こうなったら、やるしかない、精いっぱい努力してダメだったら、素直に大塚さんに謝ろう」
何時ものコースを辿りながら、人生のコースが大きく変わろうとしている、明日からは毎日は此処には来られないのだな、そう思いながら、やるからには頑張ろう、そう思い意欲が湧いて来た、割り切ってしまうと、清々しい気持ちになって、自転車のペダルをこぐ足に力が入った。
その日の夕食の時
「会社でまた使ってくれるというから、行く事にしたよ」
そう話しただけだった、退職した仲間が、嘱託として、何人か勤めているのを知っている妻は、何の疑念も無く
「無理に努めなくても、何とか暮らしてはいけるわよ、嫌な上司ばかりだって言っていたじゃない」
「大丈夫さ」
「なら良いけど、無理しないでね、本音を言えば助かるけど、これからも色々物入りだもの、毎月決まったものが入れば、有難いし」
妻は嘱託か、パートとして勤めると思っている、そう思うのが常識だ、それで良い、この話が絶対と言う確信が持てたら、その時話そうと思う。
社長から携帯に電話をしてきた、居間で妻とテレビを見ている時だった、テレビの音を消し応対したが、社長から丁寧に敬語で話されると、やはり元社員としては冷や汗が出る思いがした、向かいに座って聞いていた妻は、電話が終わると、全く普段どおりの顔で
「会社からなの」
と聞いてくる、社長からなんて思わないだろうし、とても言えない、ばれなくてほっとする
「うん、出社前に、一度来てくれって」
「ふーん、そうなの」
不審がられる事は無く、話はそれで終わった
翌日、自転車で山王精機製作所本社に向かった、一年ほど前まで通いなれた会社の正門を入る、家からは十キロ程離れた所にある、市街地を少しはずれた場所だ、社員時代は車で通っていたが、健康のためにも、雨の日意外はマウンテンバイクで通うつもりだ。
地方の会社としては大きい、工場団地内の他工場を圧する、広さと敷地の工場だ、道路を挟んで向かい側は住宅地になっている。
高校を卒業して、この会社に就職が決まったとき、親戚や周りは、必ずといって良いほど
「良い所に就職したな」
そう言って祝ってくれたものだ、両親も誇らしげだった事を思い出す
守衛所の受付に行き、用件を告げようとすると
「佐藤さん」
定年退職する頃、秘書室長だった、永沢英次が守衛所の横から出てきた、寄りによってなんで此奴が、と思ったが。
「永沢さん、お久しぶりです」
挨拶をして頭を下げる。
「社長が待っています」
挨拶も無視してそう言う、相変わらずだ。
「はい」
顔を見たとき想定できた反応なので、素直に返事をする、やはり好きには慣れそうもない男だ。
行く場所は分かっているが、わざわざ迎えに来ていた、無愛想な永沢の後を付いていく。
「社長と何かあったの」
相変わらず上から目線で聞いてくる、何も聞いていないようだ、逆らってばかりいた憎らしい男、退職した元係長ごときを迎えに出されたのは心外だ、という腹の内が伝わってくる。
「ええっ、ちょっと」
言ってないという事は訳があるのだろうし、こんな奴に説明するのも面倒だった、曖昧に誤魔化して返事をする、高飛車な態度など慣れている苦にもならない、秘書室長が出迎えるのは、会社にとってある程度、重要なお客様だろう。
重要な客以外は、他の秘書室の者か、担当部署の人間が迎えるのに、こんな奴に、どうして俺が迎えに出なくてはいけないのか、気に入らない、そう顔に書いてある。
会社で秘書室長といえばエリートだ、佐藤が係長時代も、高卒で係長止まりの社員と俺とは格が違う、そういう上から目線で見ていた事は、退職する間際の、保養所予約事件ではっきりしている、こういう人間が一番嫌いだ、今更ながらそう思う。
今まで自分が高卒という事を、恥じた事は一度も無かった、佐藤の親の財力では、高校を卒業させるのが精一杯だったのだ
「大学に行かせられなくて、ごめんな」
勤め始めた頃、何時も父はそう言っていた、高校にいけない者も多かったその頃、遠い昔を思い出す。
話す事もないので、黙って社長室まで歩きながら、久しぶりの会社内を、それとなく見ながら歩く、相変わらず活気を感じない、冴えない雰囲気の会社だ。
永沢がノックをして、何も言わずにドアを開けると、社長が慌てて立ち上がり、ドアのほうに歩いてくる、永沢を横に押しやるようにして、後ろにいる佐藤の前に来ると
「お初にお目にかかります、と言って良いのか、複雑な事になりまして、貴方が佐藤さんですか、わが社に居るうちにお話できなくて、本当に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる
「いえ、もう、その事は」
恐縮して、どう対応して良いのか戸惑ってしまう。
「迎えの車を断られたから、何か気に入らない事でもあるのかと、心配していましたよ」
社長の車を迎えに寄越す、というのを断ったのだ、大袈裟な事は性に合わないし、そもそも妻に説明するのも大変だ、黒塗りの高級車が迎えに来たりすれば、近所で何事かと思われる、何事も分相応にしなくては
「迎えの車なんて、とんでもない」
「いや、でも、これからは無理にでも、迎えの車を使ってもらわなくてはならない時もありますよ」
ニヤリとしてそう言いながら、握手を求めてきた、佐藤が手を出すと、その手を両手で握って。
「よろしくお願いします、出来る限りの待遇をさせていただきますから」
それを見て、永沢が唖然としている
「社長、余り大袈裟には」
「分かっています、派手な事はしません、だが必要な事はさせてください」
女性秘書がコーヒーを持って入って来た
「兎に角お掛けください」
言われるままに応接セットのソファに座る
社長と差しで話をするなんて、気持ちが舞い上がってしまうのではないかと心配だったが、意外に落ち着いている自分が、なんだか信じられない気持ちだ
「どうぞ」
何をしていいか分からず、すすめられて出されたコーヒーを一口啜る、美味い事は美味いが、大塚さんのコーヒーが飲みたいな、ふっとそう思った
「こうしてお会いできて安心しました」
社長が満面の笑みを浮かべて言う、佐藤に対してというより、大塚への繋がりが、確実になった事への安堵だろう
「あのう、社長」
「ああ、永沢君、まだ居たのか、丁度良い、君には言っておいた方が良いね」
壁際で唖然として、成り行きを見ていた永沢が、社長の座ったソファアの傍に歩み寄る
「これはまだ重役以外には言ってないのだが、秘書室長として知っていなければ拙いから、言っておくが、此処以外は、まだ他言無用だからね」
そう言ってソファに座ったまま永沢を見上げる、永沢は何事かと、直立不動の体制で立っている、佐藤には高飛車な物言いをするくせに、社長には卑屈なくらい、かしこまった態度だ
「分かりました」
「佐藤さんだけど、今度我社の、取締役として来ていただく事になった、名目は平の取り締まりだが、実質は専務、いや社長以上と思って従うように」
これには永沢も驚いただろうが、佐藤も驚いた
「それはおかしいですよ」
思わず言ってしまった
「いや、私は本気です、そうするつもりです、ですからよろしくお願いします」
そう言って頭を下げる、今度は佐藤が唖然とする番だった、永沢は
「どうしてそう言う事になるのですか」
思わず聞いしまった様だ。
「理由は色々あるが、これも口外しては困るが、この間、我社が外資に買収されそうになったのは知っているね」
「はい、忘れるわけがありません」
「あのとき助けてくれた、大日グループの会長大塚さんに、誰か人材を送り込んで欲しいと頼んだのだ、それではと、会長の大塚さんが佐藤さんを推薦してくれたのだよ、大塚さんも佐藤さんには頭が上がらないといっていた、詳しく話してはくれないが、買収の件も佐藤さんのお陰で、防げたようなものだそうだ」
「そんな、どうして、ですが、佐藤さんはこの間まで、我社の総務係長だった」
そう言い出した永沢の話を遮って
「何か文句があるのかね、私の決めた事に」
「いえ、そう言う訳では」
「君が納得しようが、しまいが、私は一向に構わないが、君は、佐藤さんが昔、自分より下の地位にいた人間だと、馬鹿にしているのではないか、その考えは間違っているよ、佐藤さんがこの会社でどうだったのか、申し訳無い事に私は知らなかった、今までの経緯で君がどう思おうが、現実に佐藤さんは君以上に、社会的には実力があるという事が証明されているのだよ、どこかの企業の社員が、ノーベル賞を受賞したが、その人物を平社員で使っていて、その企業は、人を見る眼の無い会社だと、世界中の笑いものになった、その企業は慌ててその人を部長に昇進させた、君もその話は知っているだろう」
「はい、聞いた事があります」
「私にとっては、いや我社にとって佐藤さんは、ノーベル賞以上の存在なのだ、気に入らないのなら、意見を言いたまえ、私もそれなりに考えるから」
ノーベル賞以上とは、とんでもない事を引き合いに出したものだ。
「気に入らないなんて、そんな事は決してありません」
社長の剣幕に驚いて、永沢は消え入りそうにしている
「社長、そこまで言われると、返って私が居辛くなります」
「申し訳ない、つい興奮してしまって、余りに不甲斐無い奴なので」
佐藤に言った後、しょげている永沢に
「言い過ぎたかもしれない、だが、この際だから言っておく、君は有名大学を出たかもしれない、家がこの地方の名家かも知れない、それが何だというのだ、いくら家柄は良くても、それを鼻にかけ、人を見下す人間は最低だ、そう言う思い上がりは良くない、人間的に貧しいと思う直しなさい、いつか言おうと思っていたのだが、この際言って置く」
流石に会社のトップになるだけの事はある、見る所は見ている、この会社を少し見直した思いがする、消え入りそうにしている永沢に
「もういいから下がりなさい、よく反省するように」
永沢が両肩を落し、悄然として出て行った後、社長がチラッと舌を出しながらニヤリとした、この社長だったら、この会社も思っていたより安泰なのかもしれない
「すみません、佐藤さんに対して生意気な態度が、見え見えだったものですから、ちょっとお灸を据えました」
「ああいう態度には慣れていますから、余り気遣いいただくと返って」
「いいえ、これから佐藤さんを馬鹿にする者は、我社を馬鹿にするのと同じです、いつでも言いますよ、止めませんよ」
佐藤が困ったという顔をすると
「分かっています、永沢も根は悪い人間ではないのですが、甘やかされて育った感があるので、将来ある社員だからこそ、お灸を据えたわけです、佐藤さんの事はなるべく、目立たないようにしますよ」
取締役会でも承認され常勤の役員として勤める事になった、一般社員には伝えられていないが、役員には事情が話された。
買収されたら自分達は辞めさせられた筈だ、それを助けてくれた功労者、反対する筈が無かった、もし意義を唱える者がいたら、その人間の地位が危なかっただろう、それほど社長は佐藤に入れ込んでいた、全会一致できまった。
役員は株主総会でも承認が必要だが、株の六割近くを社長以下重役が持っていた、その他ほとんどを会社に協力的な、安定主達が占めている、買収という痛い経験で得た結果の安全策だった、二度と買収などされないよう、大塚の指導の下、万全の構えが出来ていた
調査役室という看板のかかった部屋を一部屋与えられた。
仕事は会社に関わる調査全般という曖昧なものだった、佐藤のために名目上出来た部署だ。
全ての部門を調査する権限があるという事になっている。
大きなデスクに重厚な椅子、高そうな応接セット、その他書棚などの調度品も高価なものだ、高級すぎて居心地が悪かった。秘書を付けると言うのを断った、自由がなくなると思ったからだ。
部屋はなんとも落ち着かない、社内で一番落ち着く事が出来そうな場所は、考えるまでも無かった、退職前に働いていた職場を覗いてみたくなった、みんな元気でやっているだろうか、廊下を歩きながら、すれ違う社員が全員頭を下げて通る、妙な気分だ、ある意味社内では有名人、噂の男なのだ。
総務の部屋のドアを開ける、入ってすぐカウンターがある、皆、真面目に仕事をしていた、佐藤が入って行ったのに誰も気が付かない、嫌な堀内部長は席に居ない、シメシメ、そう思ったが無断で中に入るのも気が引けた。
「川原さん、すみません、課長さんを」
部下だった女子社員に声をかける
「係長」
驚いて思わず言ってから、しまった、というように右手で口を押える。
「いいのだ、もう係長でもないけど」
「すみません」
恐縮している女子社員に
「良いって、気にしないで」
重役になった事は、驚きとともに全社員が知っている。
退職するときまで上司だった課長の前沢が、パソコンに向かって、真剣な顔で仕事をしている、相変わらずだ、懐かしくてちょっと胸が熱くなる
「課長」
女子社員が課長を呼ぶ、前沢は顔を上げると、佐藤を見てあっという顔をする、立ち上がると急ぎ足で、カウンターの向うに来た。
「佐藤さん、お久しぶりです、この度は」
おめでとう、と言いたかったのだろうが、片手を前に出してその言葉を遮る
「お久しぶりです、懐かしくて、顔を出してしまいました、またお世話になる事になりました」
そう言って頭を下げると
「困ります、重役が私風情に頭を下げるなんて」
前沢は真面目一筋で実直な人だった、大卒ではあるが佐藤達高卒組にも、分け隔てなく付き合ってくれた、本来はそれが当然なのだが、社内には大卒と高卒の境がはっきりと出来ていた、永沢のように大卒の者達の仲には、高卒者を下に見る傾向があり、高卒者は、それが当たり前のように思う風潮があった、会社での出世競争に、学歴の差は決定的なものがあった、高卒者が課長以上になるのは皆無だ。
「まぁいいじゃないですか、つい懐かしくて来てしまいました」
「本当にお久しぶりです」
「ちょっと、お邪魔していいですか」
「どうぞどうぞ、応接に行きましょう」
「コーヒーを」
女子社員に言って総務の応接室に入る
「この度はおめでとうございます」
「いえ、成り行きで訳も分からずなっただけです」
「いえいえ、詳しくは知りませんが、佐藤さんの人柄がそうしたのでしょう、あやかりたいものです」
「冷やかさないでください」
「冷やかしではないですよ、本心です」
そう言って笑った、冗談らしき事を言う、この人にしては珍しい事だ、なんだか昔に戻ったような気がして、気持ちがほのぼのとしてくる
「この歳では、使ってくれる所も無くて、隠居生活をしていたのですが、思っても見ない展開になって、正直まだ実感が湧いて来ないのです、前沢さんと話せば、少しは落ち着くかと思い、つい訪ねてしまいました」
「そうですか、それは光栄です、重役に向かって失礼とは思いますが、いつでも来てください、精神安定剤の代わりにお相手して差し上げますよ」
佐藤の顔を見てニヤリとしながら言う
「重役は辞めてください、佐藤で結構です、有難うございます、今は社内で落ち着く場所が無いものですから」
「良いばかりではないのですね」
「まあ、贅沢な悩みかも知れませんが」
「そうですね、贅沢です、私だから良いのですが、他所では言わない方が良いですよ、弱気は見せず、どっしり構えてください、わが社の救世主と聞いています」
「冗談でしょう」
「本当に噂ではそうなっています」
「偉い事になっているのですね」
そう言って二人で顔を見合わせて笑った、その時ドアをノックする音が聞してドアが開いた、総務部長の堀内弘人が入ってきた
「佐藤さん、水臭いじゃないですか、私も仲間に入れてくださいよ、前沢さんも教えてくれなきゃ」
佐藤はキョトンとしていた、せっかく前沢とリラックスした気分になっていたのに、最も合いたくない邪魔者が来た
「どうしました」
「どうしましたは無いでしょう、佐藤さん、総務に来たら、私のところにも寄ってくださいよ」
早速ゴマを擂ろうというのか、佐藤が重役になったからだろう、就任した時、部課長の前で紹介された、事情も伝えられた、が個々に挨拶には回らなかった、そういう事は苦手だったし、大塚の言う居るだけで良い、という言葉に甘えて、暫くは会社に居るだけにするつもりだったからだ。
社内で訪ねたのは前沢が初めてだった、ふと怒りが湧いた。
「いえ、総務部長さんには、係長時代嫌われていましたから」
素っ気無く言う、堀内には、そんなイメージしかなかったから
「嫌ったなんて、そんな、同じ総務の飯を食った中じゃないですか」
下出に出てくる、聞きながら昔の事を思い出した。
「以前、社員の頃貴方は言いましたよ、ちょっと意見を言ったとき、高卒は高卒らしくし、でしゃばるな、と言う意味の事を、だから私は今でも高卒の儘ですから、総務部長様に用事もないのに会いには行けませんよ、あのときの,お言葉は肝に銘じております、一生忘れません、だから必要意外貴方には会いたくありません、今の私にそれくらいは許されるでしょう」
思いっきり皮肉を言ってしまった、係長時代だったら解雇される所だが
「そんな事を私は」
「それと、この際言っておきます、自分がそうだから、というわけではないけれど、高卒でも仕事の出来る人は、課長でも部長にでもなれるよう、社長に提言する心算です、大卒だからといって、大した仕事もできないのに威張っていると、大変な事になりますよ、部下に人気の無い部長課長はドンドン格下げになるかもしれませんからね」
顔が引きつっている、それを見て吾ながら大人気なかったと思い返し。
「まあ、何れそうなるかもしれないという話ですが、つい思っていることを言ってしまいました」
どうしていいか戸惑っている堀内に
「すみません、大人気ないことを言ってしまいました、昔は昔です、これからは、よろしくお願いします」
立ち上がって、堀内に右手を差し出す、恐る恐る出した堀内の右手に握手すると
「前澤さん、お邪魔しました」
よく言ってくれたと言う顔をして、見ていた前沢にウィンクして総務の部屋を出る、ちょっとキザだったかな、そう思ったが成り行きだった、積年の鬱憤が晴らせたような気がして、気持ちがすっきりした。
重役の力というものを、まざまざと実感した、エリート面して威張り腐っていた堀内が、何も言い返せずに小さくなっていた、この力を間違った方向に使ったら恐ろしい事になる、心しなければと自分に言い聞かせた。
第八話 改革
時が経つにつれて自分の置かれている立場、権限を実感として把握していった、係長時代とは全く違う世界だ、係長時代に遣りたかった事を、やろうと思えばほとんど実現可能だろう。
経営者は社内を上から見ているだけだが、佐藤は四十数年、会社を卑屈なくらい下から見てきた、上から見たら影になって見えない事のほうが多いはずだ、物事の欠陥は外観では見えない、内部が重要なのだ。
これは、にわか重役の強い武器になると考えている。
普通の職場は情報の範囲が、自分の職場だけになりがちだが、総務という職場は会社全体の情報が入る、山王精機製作所を、裏から表から知り尽くしている心算だ。
在職時代に気になっていた事が、今はどうなっているか、調べてみる事にした。
見て回るだけで変化が分かる事もあった、帳簿などを調べるような難しい調査はしない、気になっていた部署の担当者と、雑談しながら聞き出し、現在どうなっているかは、確認すれば見当が付いた
例えば各地にある工場、下請け等の不良率を報告させ、本社で統計を取っている、毎日報告が入る、分析した結果を各工場で減らすよう努力する。
行われている趣旨は良いのだが、報告する作業、その事が形骸化してしまっている、報告する事が仕事で、不良品を減らすと言う肝心な事が疎かになってしまっていた、同じことの繰り返しになってしまっているのだ。
本社に報告をあげる事が重要視され、不良を減らすという肝心な事がなおざりになっていた、本末転倒だ、極論を言えば不良が無ければ報告など必要ないのだ、この辺から手をつけることに決めた。
佐藤が直接やれば目立ってしまうので、問題の部署の、信頼の置けそうな担当者を捜し、説明してレポートにまとめさせ、提案という形で、佐藤の処に上げさせた、それを佐藤の権限で具体化させる。
始めはそんな形で上からの指示ではなく、下から、特に現場の人間達から、上がった形にした、そして、皆が認める良い案には報奨金を出す事にした。
いくつかそのような方法をとっているうちに、徐々にではあるが、現場サイドから、自主的に考える流れが出来上がり始めた。
そうした事にかかる経費や報奨金等の費用は、佐藤が会社に認めさせた。
半年ほど過ぎると如実に効果が出てきた、不良品が大幅に減少した、それは当然会社の利益の増加と、社員のやる気にもつながっていった。 月日が経つにつれ更に不良率が更に減少し、その事が会社の技術に対する、業界の信用にも貢献した。
会社が一体となって、製品を向上させる為に、力を合わせるようになっていった、これまで各部署でお互いに張り合い、各部署に壁のようなものが存在したが、製品向上の為に各部署が壁を越えて、連携する傾向が強くなって来た
社内の改革改良に関して思いつくと、佐藤のところに直接提案書を持ってくる者も出てきた。
佐藤も良い事案に対しては、提案者と話し、納得すれば積極的に取り入れるよう会社に現場に働きかけた。
調査室に提案書を持ってくる社員は徐々に増え、噂を聞いて、他県にある工場からも、わざわざ休暇をとって迄、佐藤の所に提案書を持って来る者迄も出てきた。
来る者には必ず会って話をした、係長時代に培った、社員への配慮の気持ちを存分に生かして対応した
こうした風潮は会社の隅々までに広がって行った、気になる事を提案し、出そうか迷っている社員達に勇気を与えた、門前払いは無いという事が、調査室へ来る事を躊躇する者達の、背中を押す事になり、提案書の件数は増えていった。
何時からか調査室は、就業時間を過ぎ仕事が終わると、若い社員で賑わう様になっていた、一人で広すぎると思っていた部屋が、最近は手狭になって来た。
佐藤に相談の為に来る者ばかりではなく、会社について志のある社員同士が、話し合いたくて来る事も多くなった。
会社を良くしようという意見、会社の悪い点も遠慮なく出して、話し合い、それをどう良い方向に変えていくか、意見しあっていた。
社内の部署を越えた、連帯感のようなものが芽生えて来たのだ。
提案書の件数が増えてくると、佐藤一人では手に負えなくなってきた為、提案が出てきた時点で、集まった者たちに発表させ、ディスカッションさせてみた、内容は多岐に渡ったが、事案の大小に関わらず、大事に話し合う事に注意する様気を付けた。
次第に、たまにある質問には応えるが、後は黙って見ているだけで良くなった
「この部屋は役職、学歴は関係なく、思ったことを言って良いのだぞ」
役職や学歴を鼻にかけている様な者には、それとなく注意した、皆が遠慮して、意見が言えなくなるのを恐れたからだ。
注意されて、それを直す人間は続けて顔を出したが、顔を出さなくなる者もいた。
全員が同じ土俵で意見を言い合える、通常言えない意見も多々出る様になって来た。
意外だったのは、何時からか、秘書室長の永沢が時々部屋に来るようになったのだ、最初は佐藤が会社にいた頃の、あの態度の大きい永沢と思えないほど、部屋の隅の方で小さくなっていた、ある日、佐藤の所に来ると、気まずそうな顔で言った
「調査役、時々来ても良いですか」
可愛そうなほど小さくなっている
「どうぞ、この部屋は来るものは拒みませんよ」
「僕でも」
「ええ、だれでも、社員であれば誰でも、社外の人はお断りですがね、秘密がいっぱい話し合われますから」
「ありがとうございます、分かりました」
「それと此処では役職は関係なくみんな平等ですからね」
「それを言わないでください、本当に心底悔い改めましたから、もう許してください」
「分かっていれば言いのです」
「十分以上に分かっています」
その時は、そう言って帰って行った、どのくらい改心したのか半信半疑だったが、その後、時々顔を出すようになり、今ではほぼ毎日顔を出すようになった、最初永沢を知る者達は敬遠気味だったが、、今では気軽に話しかけたり、かけられたりして、話し合いの輪の中に溶け込んでいる。
人前で話が出来ない、提案を佐藤だけに話したい、と言う社員も少数だが居る、本人の話を聞いて、匿名で佐藤が提案書を発表してやった。
そう言う者の意見は、意外に良い提案だったりするものだ、控えめな社員の提案が具体化すると、それが本人の自信に繋がった、また一生懸命考えよう、という気にさせる、そして自分で発表出きる様になっていった。
色々なアイデアや改善提案などが具体化されていった、それは会社全体に滲みるように驚くような効果を現した。
安定はしているが、上向く事の無かった会社の業績が、明らかに上向いていったのだ。
こうした経緯が社長の耳に入らないわけは無い
「佐藤さんの部屋でだけでなく、会社として集まりをバックアップしたい」
そう提案してくれただ、そう来るとは思っていた、予定通りだ、此処まで来れば大成功だ、社長の指示で広い部屋が確保され、“山王精機製作所 こうじょう委員会”なるものが誕生した。
“こうじょう”は、工場と、向上を意味する。
労働組合が管理するような話になりそうだったが、佐藤が反対した。組合員も役付きも、関係なく話しあえる場で無ければ意味が無い、規
約として、こうじょう委員会の会員は、会社での役職は関係無く皆平等とした、役付きも平社員も、対等の立場である事を強調した。
また会社は工場が主体、社員の大半が従事している、委員長は事務方ではなく、現場の人間からというのも規約として決めた。
営業や事務方よりも、圧倒的に多い現場の人間の励みにもなるだろうし、品質や合理化、安全等一番分かって居るのも現場だからだ。
絶対になってもらわなければ困ると乞われ、成り行き上、顧問と言う立場を、引き受けざるを得なかった、本当は目立つことはしたくなかったのだが。
月日の経過に従って、こうじょう委員会も、目的どおり何とか機能するようになってきた、何か所もある各地の工場、営業所にも支部が出来た。
当然の結果として、会員は社員全員といっても良かった、一部の役員も時々顔を出す、社長までがたまに顔を出し、何も言わないが嬉しそうに目を細めて、討議し、簡単な図面で、改良点を検討する社員達を見てご満悦だった。
こういう集まりは労働組合のようになりがちだが、役付きでも参加できる事が、そうなる事のブレーキになった、発足の意義が違う事を明確にしていた。
労働組合よりも人数が多くなるのは当然の事だ。
社員が真剣に、会社の事を大事に思う機運が高まって行く、それは時代錯誤かもしれないが、愛社精神というものに磨きをかけた。
会社が良くなれば、自分達も良くなる、事実売り上げが増えたお陰で、僅かだがボーナスも良くなった、そうなると経営陣も、真剣にその事を受け止めざるを得なかったのだ。
上からの命令でやるのではなく、社員全体が自分から良くしようとして、経営陣がそれに応えようと努力するのだ、会社の為に悪い筈は無かった。
そんな流れの中で、会社を躍進させる、予想外の展開があった。
山王精機の技術を生かし、自社製品を作って見ようという意見が多く出てきた。
製品化できそうなアイデアが、すでにいくつか挙がって来ている、その中の一つを選んで製品化する為、試作品を作って見ようと言う事になった。
費用は、研究所などの無い会社だから、研究費という名目で、会社がこうじょう委員会に出してくれる形になった、勿論、佐藤が会社に交渉し出させたのだが、あくまでも会社側が率先して出した事になっている、その辺も社員の受け取り方が微妙に違う、会社が率先して出したという事は、この事を会社が応援していると思うのだ、思い入れが違ってくる、努力する張り合いが違う。
元々技術力の有る会社なので、問題が発生する度に、解決できそうな部署同士が集まり、工夫して解決していった。
予想外に早く試作品は完成した、皆時間外に自主的に作業していたが、その全ては無理だが、ほとんどを残業扱いの手当てを出すように社長に進言した。
アイデアに基づいて作ってはいたが、製作途中で気がついた点は、開始時の案よりも改良されていた、その為、完成したときは予想外の出来映えだった。
数個しかない試作品だったが、余りの出来映えに、この製品を売り出したらどうなるだろうと、担当したもの全員がそう思った。
こういう場合、便利な時代だ、ネット販売なら今日からでも始められる、試しにネットで販売して見てはどうか、軽い気持ちでそういう事になった、こうじょう委員会の名で売り出してみたのだ。
時代がたまたま望んでいたのか、時代にマッチした製品だったのか、数個の製品に対して、千件以上のオーダーが上がってきたのだ。驚きだった。
誰もが期待を抱いては居たが、これは予想を遙かに上回る反響だった、その為、断るのに大変だった、購入希望者多数の為、苦肉の策で抽選という事になり、わずか数人に購入してもらっただけだったのだが、 どうしても欲しいというメール、電話が殺到して困りはてた。
元々将来の自社製品にしたいと、試験的に造ってみただけだったが、即量産化は無理だろうか。
結果を急遽、会社側に相談した、量産化を検討するように、こうじょう委員会から提案を伝えると、会社も売れると言う事が分かっていて、反対するわけが無い、役員会で社長以下全員賛成、二つ返事で量産化が決定した
まずは出来る範囲で生産する事になった、本社工場の空いているスペースで生産し、販売を始めたのだが、最初から注文に対して、生産が間に合わなかった、まさしく嬉しい悲鳴を上げた。
営業は既存の営業に、片手間的でやって貰っていたのだが、急遽ネットでの対応部署、及びコールセンターが必要になってきた、プレハブではあったが、新しい建物を建て新しい部門ができてしまった、
下請けの工賃と比べ、利益率は比べ物にならない、しかも商社などは通さず直販で売れてしまうのだ、会社の利益は鰻登りに上がって行った。
調査室から始まったこの展開に、経営側も当の従業員達も驚く結果だった。
製品は、既存の工場の一部と、プレハブの工場で作っていたが、注文に追いつけない、製造工場を新しく作らなければ間に合わなくなってしまった
初めは一過性のものではないか、という懸念はあったが、経過を見て会社の方針が決まった、メーカーの下請けではなく、小さくてもメーカーとしての会社を目指そうと動き始めた。
現場の社員達の力が、会社の経営方針まで左右し始めたのだ
この機に乗じて、学歴による昇進の差別を撤廃するよう、社長に提言した、重役会にはかり、規則としてはなかったが、既成事実を撤廃するよう努力する事になった。
年に一度部下が上司を評価する、その結果を役員会が判断し反映させる事になった、考えを改めなければならない、既存の役付きは大勢居るはずだ。
高卒者は頑張る張り合いが出来た、大卒者は頑張らなければ、うかうかしていられない、高卒者に追い越される、社員全員が頑張るしかないのだ
これで社内にあった学歴による偏見が無くなり、皆同じ土俵で働くようになったが、初任給の差はどうしようもない事だった、四年余計に学費を払ってくるのだ、それはどうしようもないと譲った、高卒者が努力すれば四年で、大卒者の初任給を上回る事は容易になった筈だ。
山王精機製作所は躍進を始めた、表には出ないが佐藤の実績である事は、社内の誰もが知る事実であった。
役員や役付きの者の中で、佐藤を何処か、成り上がり者のような眼で見ていた者達も、認めざるを得ない結果なってしまった、佐藤を会社に引き入れた社長は鼻高々、ご満悦だった。
「やはり佐藤さんは只者ではなかった、私の眼に狂いは無かった」
行く先々でそう言って自慢していた
最近は取締役会で末席に座っていると、他の役員や社長までが、それを気にするようになった
「席なんてどうでも良いじゃないですか、私が一番新参者の役員ですから、これでいいのです」
年功だけで余り実績の無い役員達は居心地が悪そうだった
「皆さんに判断を仰いで、新参者の私の案を通していただき、運の良い事に業績アップに繋がったのです、役員の皆さん全員のお陰です、感謝しています、皆さんに反対されていたら、今の実績は無かったのです、会社を発展させようという思いでは、私も皆さんと一体です、これからも頑張りますので、よろしくお願いいたします」
そう言って深々と頭を下げた、偉そうに言うのは嫌だったが、言わざるを得ない状況だ。
佐藤ばかりが光って、他の役員の覇気がなくなっては困るのだ、そういう事が、それこそ会社の危機に繋がりかねない、先頭立って頑張ってもらわなければならない人達だ
佐藤の言葉に、役員達は自分の居場所が出来たように、ほっとした表情になった、役員会も活気が出てきた
「佐藤さん、そろそろ専務を引き受けてくれても」
社長が言う
「ありがたいのですが、私には平取締りでも重いのです、勘弁してください」
再三断っているのだが、社長はあきらめない、健康を理由に引退した専務の席を空けたままにしてある。
正直今の平取締役でも、生きて来た世界と違いすぎて肩が凝る、取引会社との接待はほとんど勘弁して貰ったが、社長以下三役ほどではないが、どうしても来社した人と会わなければ、失礼にあたる場合がある、係長時代とは、会う相手が違いすぎた、肩書きが、名の知れた企業の、社長や専務、重役だ、自分を卑下する心算はないが、慣れないから、なんだか肩が凝るのだ。
役員になって困ったのは、背広も靴も安物は駄目だという、吊るしの安物しか持っていない、高級品を身に付けるだけの給料は貰っているのだから、文句は言えないが、いまだに慣れない。
安物を身に付けていては対外的に失礼だというのだ、見栄としか言いようが無いが、吊るしの背広を着ていた頃と、桁違いの給料を貰っていては逆らえなかった、世の中収入に応じて色々な事が遣うようになっているらしい。
平取締役でこれだから、専務などになったら大変だと思う、とても引き受ける事はできない。
若いときから、出世したいなどと思った事は無いのだ、入社したときから、高卒は課長にもなれないと聞いていたし、出世なんて考えた事も無かった、係長になれたのは運が良い、平社員のまま終わり、退職していく人達を、何人も見ていてそう思っていたくらいだ、同期では、主任迄で退職した者の方が多かった、自分は高卒では出世頭、そう思っていた。
だが、今は最低でも平取りと言うこの位置には居ないと、意見が通らない、佐藤を頼りにしている者達の為にも、末席の平取締役で頑張らなければならないと思っていた。
こうじょう委員会も、佐藤がいるから機能しているし、会社に意見が通る、委員長以下三役は今もそう思っている、自分達の実績だといっても信じない。
会社の業績が上向いて評判になると、噂を聞いて講演依頼まで来るようになった、とんでもない話だ。
当然の事だが全部断った、大勢の前で話す事は大の苦手だし、成り行きで此処まできたようなものだ、講演など出来る訳がなかった、何をどう話せというのだ。
会社の関係工場などに、打ち合わせには行くが、大勢集めて演説をするようなことは絶対にしなかった、と云うより出来ない。
若い社員とテーブルを囲んで話す事は沢山あったが、他社に行って話すことなど決してしなかった。
役員としては失格だろうが、他社との交際は皆無だ、頼まれてもそういう場は辞退した。
本来の役員としては、役を成していないのだろうが、有難い事に、社長はそれを黙認してくれた。
お陰で出勤も帰りも、サラリーマン時代とほとんど変わらないですんだ、他の重役達は接待したり、されたりで、不規則な日々を過ごしているようだ
妻は相変わらず給料以外は、会社の事には無関心だ。
係長時代と大きく変わった事は給料だった、妻に全額渡せば説明が面倒だったので、給料の一部を渡すだけだったが、それでも係長時代に近い事に驚いていた。
パートの給料とは違うと思っただろうが、深くは聞かず、大喜びした。
最初の給料を貰った時は驚いた、係長で終わった、四十年余りの退職金より、今年の年収の方が遥かに多くなってしまう、それ程の額だった。
何だか怖くなった事を思い出す、それが今では更に多くなっている。、素直に有難いと思わなければいけないのだろうが、それこそ贅沢な悩
みだろう
貧乏性というのか収入が増えても、贅沢をする事はできなかったが、安定した生活、それ以上の暮らしが出来る事に感謝して、頑張らなくては、という思いが湧いて来る、まさか退職後に、こんな展開が待っていたとは、人生何が起こるか分からないものだ
第九話 ふれあい
飽きる事なく、マウンテンバイクでの運動は続いていた、晴れている限り土日はサイクリングに出かけた、公園での知り合いも更に増えた。
釜無川の岸辺のサイクリングコースを走る、川風が気持ちよく体に当る、南アルプスの山々が左手に見えている、橋の下を抜ける、この辺に以前は、ホームレスの小屋があったのだが、いまは無くなっている。 大雨のとき、浸水する恐れがあるからと、立ち退かされたようだ。
また支流の小さな橋の下だが、五十歳くらいのホームレスの人が、柴犬の雑種と住み着いていた。
ある日その橋の下を通ると、驚いた事に小屋は燃えてしまって焼け跡になっていた、ニュースにもならなかったので、住んでいた人がどうなったかは分からない。
その焼け跡は市役所の手で、すぐに綺麗に片づけられていたのだが、その後一ヶ月以上の間、主人の帰りを待っているのか、毎日柴犬がその場所を離れずに、うずくまっているのが見えた。
それを気の毒に思ってか、毎日餌を与えてやる人もいたのだが、その犬もいつの間にか居なくなってしまった事を思い出す、何処に行ったのだろう、誰かが引き取ってくれたのなら良いのだが、野犬として保健所行きは考えたくなかった。
その場所を通る時、そんな事を思い出す、人間より犬の事が気になるなんておかしいと思う、俺はそんなに薄情な人間なのか。
公園の中には四本柱に屋根だけ、中にベンチを並べた、東屋のようなものが幾つかある、その中の一つには、毎朝同じ時間に同じ人達が集る。
佐藤も週末はその仲間に入る、そして、そこで仲良しになった人達が沢山居る、その中のある老人は、週末に佐藤が行くのを、何時も待っているようだった。
名前は知らないが物静かな、いかにも大人しそうな老人だ、佐藤の顔を見ると嬉しそうに手を上げる、世間話や愚痴を聞いてやる、佐藤の話も楽しそうに聞いてくれる。
いつも十分ほど話すと、満足そうに帰っていった、自分も老人だが、その老人は八十近いように見える、今日もその場所に行くと、老人がベンチに腰掛けていた
「おはようございます」
挨拶すると
「おはよう」
と返してきた、何時ものようにニコニコしながら、こちらを見ている
「良い天気ですね」
声をかけながら向かいのベンチに座る
「少し雨が欲しいね」
「野菜でも作っているのですか」
「うん、自分の食べる分だけね」
雑談や愚痴話から察すると、老夫婦と息子達孫の六人家族、孫は可愛いばかりだが、息子も嫁も気に入らない事だらけ、気が利かない嫁だとか、嫁の味方ばかりする息子だという、愚痴を言っているつもりのようだが、結構幸せに生活しているようだ、嫁が気が聞かないのではなくて、老人が好き勝手に生活できるように、細かい事にはかかわらず、面倒くさいという嫁が頼む事も、頼りにされているという自覚のある老人は、ぼけないという事を知っている嫁が、わざわざ頼んでいるようなのだ、要するに出来た嫁という事だ。
それを分かって居て、息子は妻の味方をしている事になる、親孝行な息子ではないか、解釈の仕方によって色々な見方ができる、良いとも、悪いとも言わず、相槌を打って聞いていた。
老人が突然黙ってしまった、話の途中なのに、そしてズルズルとベンチの背にもたれたまま、横に倒れて行く、向かい側のベンチから驚いて近寄り、体を支えた
「どうしました、大丈夫ですか」
声をかけても反応が無い、眼を閉じて意識が薄れている様子だ、ベンチにそっと寝かせて、急いで携帯電話を取り出し救急車を呼んだ、そのただならぬ雰囲気に、歩いていた人達が心配そうに立ち止まり覗き込でいる、十分ほどして救急車が来たときには、周りに人垣が出来ていた。
救急隊員が老人の様子を見ている、ここの常連達が集まって来た、傍で心配そうに見ていた
「誰かこの人の家を知っていますか」
尋ねると
「おう、知っている、この人の近所だよ、帰り道だから知らせて行くよ」
一人のおじさんがそう言ってくれた
「お願いします、貴方の携帯電話番号を教えてください」
救急隊員にメモしてもらう
「すみません、後で病院から電話して貰いますから、入院先を家族の方に伝えて貰えますか」
「あいよ、分かった、電話してくれ、必ず伝えるから」
命に関わるほど悪くなければいいのだが、早く治りますようにと、祈るような気持ちで、救急車を見送った
救急隊員によれば、かすかに意識があるという、命に別状はないだろう、との事だった、一安心だ。
この公園には高齢者が多く来るので、こういった事はまれにある。
この日は、サイクリングの続きは中止にして家に戻った、家に入り水を一杯飲んでいると
「どうしたの、顔色が悪いわよ」
そういわれて事の顛末を話した
「明日はわが身よ、貴方も気をつけて」
「うん、俺もそう思う、気を付けよう」
あの人の歳になるまでには、まだ少し時間はある。
健康に気を付けなくては、病気になったら全てが、終わりになってしまう、そう言う歳になっているのだ。
第十話 パート大塚
久しぶりに大塚と会う約束をした。
忙しい人なので、こちらから連絡する事はなかったが、大塚から時々電話があった
「お変わりありませんか」
「おかげさまで、変わりなく過ごしております」
「大塚さんも変わりないですか」
「私も変わり有りません、何か変わった事があったら、連絡くださいね」
変わった事とは、困った事があったら電話しなさいという事だろう。
「有難うございます」
「遠慮はだめですよ」
「わかりました、その時はよろしくお願いします」
いつも、こういった内容だ、慣れない環境に置かれた佐藤を気遣っている、それが分かるから電話が来る度に、有難くて胸にジンと来てしまう。
大塚の率いる多くの会社に比べれば、極小さな会社だが、一応役員となると、それなりの情報が入って来る、知れば知るほど大塚が如何に大物なのかが分かる。
本来なら佐藤など、会いたいと申し込んでも、会わせてはもらえないような存在なのだ。
そんな大物が、いつも気遣ってくれて、さらに向こうから会いたいと言って来る事など、有り得ない話だ。
繁華街にある割烹料理屋の一室、いつも利用するのは、高級料亭ばかりであろう大塚が、田舎のこんな店で、大丈夫なのかと心配してしまう。
気にし過ぎかもしれないが、大塚と一緒だと、傍にいるだけで気後れして、体が硬くなるのを感じる。
「ご無沙汰しています、ご活躍のようで、私も紹介した甲斐がありました」
「とんでもない活躍なんて、たまたま少しいい結果が結果がでただけです、これも全て大塚さんのお陰です、何時も気遣っていただいて、有難うございます、」
「いや、謙遜しなくても、これが貴方の実力なのです、佐藤さんは出来る人なのですよ、もう少し自分を認めなければ」
大塚の声は心に響くものを持っていた、この声が懐かしかった、この人のお陰で人生の夕暮れに佇み、日が陰り、希望もなく、味気ない世界で生きる筈が、目も眩むような光の中に入れて貰えた、想像もしなかった、まぶし過ぎる生き方をさせてもらっている。
「有難うございます、過分な評価ですが、光栄です」
現しがたい感謝の気持ちに、それしか言えなかった、大塚はそんな佐藤を、親しげな眼で見ていた
「久しぶりに会ったのだから、堅い話はこれくらいにして、以前のように、気楽に話しましょうよ」
昔だって気楽に話せていたかは分からないが、大塚の正体を知った今では、尚更、以前以上に気楽では居られない
「そうですね」
そう答えるしかなかった、落ち着いて来ると、気になる事があった、いつも一緒だった二人の事だ。
「お二人はお元気ですか」
「元気です、今日も来ていますよ」
「外で待っているのですか」
「そうです、彼らは私の秘書兼ボディーガードなので」
「分かっていますが、久しぶりなので、二人も一緒にどうですか」
「それは、彼らが嫌がるでしょう」
「大塚さんは慣れているから、気にならないでしょうが、私は二人が待っていると思うと落ち着きません、よろしければ呼んで来て良いですか、其の方がゆっくり出来るし、懐かしいからお二人とも話がしたいので」
「そうですか、そうですね、佐藤さんが良ければ、私は良いですよ」
そう言って頷いた、正体を知ってしまってからも、威張っているわけでもないし、気を使わないよう、気配りしてくれているのは分かるのだが、二人きりでは、息が詰まるような気がしてならない、二人を無理にでも連れて来ようと決めて席を立つ
店の奥にある座敷から、カウンターの客の後ろを通り出口に向かう、店内の客はカウンターの三人だけだ、出入り口の引き戸を開け暖簾を分けて外に出ると、待っていたように
「佐藤さん」
と声をかけられた、辺りを見回して声の主を探す、夕暮れの雑踏に溶け込むように、見覚えのある男が立っていた、気配を感じない程目立たない、人目に付いたら、不審者に思われてしまうからだろうが、さすがにプロだ、心の中で感心してしまう、近寄って来た
「ご無沙汰しております、どうかしたのですか」
「こちらこそご無沙汰しています、いやっ、どうもしません、あなたがたを呼びに来たのです」
「えっ、どういう事です」
驚いたように言う
「中に入って一緒にどうですか」
「いや、私達は仕事ですから」
予想通りの返事だった
「仕事だったら余計に、大塚さんの近くに居た方が良いでしょう」
「それはそうですが」
困ったという表情で見返してくる
「気を使って嫌なのですか」
ズバリ言うと
「そう言う訳ではありません、そういう事をしてはいけない、規則になっているのです」
「本当にそういう理由だけですか」
「本当です」
「大塚さんの了解があってもですか」
「えっ」
「大塚さんには申し訳ないけれど、二人きりでは息が詰まりそうなので、助けると思って」
片手で拝むようにして正直にそう言うと、分かります、という様に小さく頷いて、佐藤の顔をじっと見ながら考えている様子だったが
「分かりました、じゃあ、ちょっと待っていてください」
そう言って脇の駐車場に歩いて行く、佐藤も駐車場の見える位置まで移動する、車の中に居たもう一人となにやら話している、待ち時間が長くなるのを見越して、交代で見張る事にしていたのだろう、やがて二人して佐藤の所にやってきた
「本来、こう言う事はやってはいけないのですが」
気のせいか、重い足取りで付いてくる。
二人を連れて部屋に戻る、所在無げに座っていた大塚が、二人を指差して
「すぐにオーケーしなかったでしょう」
そう言って笑っている
「ええっ、おっしゃるとおりでした」
「佐藤さんの言うとおり、二人も一緒に、今夜は無礼講でやろう、私からもお願いするよ」
「そんな、お願いなんてとんでもありません、分かりました、遠慮なくご馳走になります」
二人とも少し硬い表情のまま用意した席に座った
「佐藤さんには二人の名前を、紹介してありませんでしたね」
「ええ、お名前はまだ」
「紹介しましょう、こちらが山本」
体格は二人とも同じくらいだが、やさしい顔立ちの一人を指す
「それと河合」
眼光が鋭くがっちりした方を紹介した
「よろしくお願いします」
改めて佐藤が頭を下げると、二人も頭を下げた後で、照れたように顔を見合わせていた
「久しぶりに四人揃いましたね、懐かしい」
「本当に、あの頃は楽しかった、あそこに居ると心も体も解放された気分でした」
「僕達も解放され過ぎてしまって、佐藤さんに助けられた訳です、大変な大失態になるところでした、驚きましたよ、佐藤さんには」
山本が言う、四人だけに分かる話だ。
「こうして笑顔で話せるのも、佐藤さんのお陰だ」
大塚が言うと二人も大きく頷いていた。
「またですか、もうその話は止めましょう」
「いえ、あの時、会長がかすり傷を負っただけでも、私達は、今、此処にこうしていられなかったのです、忘れる訳がありません、佐藤さんは私達二人にとっても恩人です」
「またぁ、そんな、大袈裟な」
照れている佐藤に、大塚が
「佐藤さんのそう言う驕らない所が、人に好かれるのでしょうが、貴方が嫌がっても、忘れるわけには行かないのです」
そう言ってまた笑った、料理が運ばれてきた、刺身、肉料理、揚げ物等、佐藤にすれば豪華な料理が出てきたのだが、大塚には決して豪華とは言えないだろう。
こんな時酒が付き物なのだが、佐藤が飲まない事を知っている大塚は、自分も酒を頼んでいなかった、山本も河合も立場上飲む事は出来ないので、全員お茶と食事だけで談笑した
「この街が気に入ってしまって、建設予定のデータセンターの、候補地がいくつかあったのですが、この街に造る事に決めました、だから此処に来る口実が増えましたよ」
嬉しそうに言う
「そうですか、大塚さんの関係会社って、幾つもあるじゃないですか、どの会社なのですか」
「全部です、グループ全体のデータセンターですよ、ソーラー発電を始め、小規模な水力発電所を備えた、あらゆる災害に対応したものを作る予定です、何があっても大丈夫というセンターです」
「凄いですね、用地も広大でしょうね」
「ええ、だから、お宅の社長にも、力を貸していただいているようですが、準備は準備事務所と、この近くにあるグループ関連会社に任せてあるので、私はたまに顔を出すだけです」
「そうなのですか、それは知りませんでした」
「今は、用地買収を秘密裡に進めている処です、公になると地価が高騰しますからね、それと予定地は、佐藤さんの住んでいる地区の近くらしいですよ」
そんな話は聞いた事が無い、地区内であれば、何れ公園で情報がはいるだろう、何しろ地獄耳のおじさんおばさん達が、多く集まる処だから、聞けば誰かが知っている筈だ。
食後のデザートとコーヒーを頼んで更に談笑した、酒が無ければ間が持てないかと思ったが、大塚が普段は聞くことの出来ない、財界の裏話をしてくれた。
有名ビルのオーナーが、もったいないと自宅には新聞を取らず、会社に来て読む、自家用車はぼろぼろの国産車で・・・・
そんな話でケチと無駄のちがいの話を上手にしてくれた、話し上手な事に感心した、ドラマ化したら面白そうな話ばかりなのだ、聞かなければ想像できない、立場上の苦労話まで話してくれたのだ、河合が
「こんな会長は始めてだ」
小さな声で呟いた、それほどご機嫌という事らしい、大塚が大いにリラックスしているのが分かる、会話が途切れ、皆黙って話の余韻を味わっていると。
「佐藤さん、今度奥さんに会わせて下さい」
突然言い出した
「えっ、大塚さんに会わせられる様な、女房じゃないです」
「いいえ、良い人の奥さんは良い人に決まっているのです、是非会いたい」
嫌と言う訳ではないが困った、こんな偉い人に会わせて、がっかりされたら妻が哀れだ、それに今の会社での立場、隠し事がばれてしまう。
酒の上での事なら、忘れる事もあるだろうが、コーヒーを飲んだだけでは、
「分かりました、其の内」
適当に話を濁そうとしていると
「適当に誤魔化そうとしてもだめですよ、近いうちに、佐藤さんの家を訪ねます」
「ええーっ、大塚さんが家に」
「そうです、これからは家族ぐるみのお付き合い、、奥さんに会わなくては、うちの女房も紹介します」
困った事になった、大塚を妻にどう紹介すれば良いのか、今の立場を説明するのが大変だ、嘱託やパートが付き合える人ではないのだ、全て説明しなければならない、有り得ないような話を説明しても、信じて貰えるか、様々な心配が頭に浮かぶ
「大塚さんが来るのはかまいませんが、いえ、大歓迎ですが、事情がありまして」
困り果てた、正直に事情を説明するしかない、妻には嘱託として勤めている事になっている事、その他の事情を説明した。
「佐藤さんが、嘱託という事になっているのですか、奥さんには、これは良い、わっははは」
声を上げて笑い出した
「いい、ほんとに良い」
ひとしきり笑った後。
「分かりました、そうですね、佐藤さんの考え、分からない事はないです、秘密にして置きたいというなら、私はパート仲間という事で行きましょう」
実に楽しそうだ
「冗談じゃ有りません、そんな事、絶対無理です」
「大丈夫、同じ人間です、それとも私は人間じゃないのですか」
「そうでは有りませんが、天下の大日グループの会長に、パートの真似をさせるなんて、出来ません、それに山本さん達が困ります」
「彼らは関係有りません」
「そんな、困りますよねぇ」
山本と河合に同意を求めると。
「以前の危険な時期と違って、今は土曜日曜、会長が休みのときは、私達も休みですから、大丈夫じゃないですか」
つれない答えが返ってきた、二人とも佐藤が困っているのを、楽しんでいるように見える。
万事休す、断る理由がない、困った事になった、日本でも屈指の実業家が、パートの真似をして、上手く行く訳がない、そう思ったが大塚はもう決めてしまっている顔だ、楽しそうに料理をつついている、断る事は出来ない、どうなる事か、頭が痛い。
二人は興味深そうに、しかし、微笑んで佐藤の顔を見ているだけだ。
観念するしかなさそうだ。