消長の前兆
キンと痛覚が耳を襲ったのも束の間、ハルタイトの目の前の黒い風は散々に弾け消えた。
この魔法を食い止めた正体、それは_
「言うなれば雑音、です」
後ろの吟遊詩人は、真珠の八重歯がはみ出す笑顔を作り言った。
「くそ!」
吸血鬼が生み出した暴風の力は掻き消され、そこでようやく彼は顔を歪める。
彼が焦る、その隙に。
「良いぞシーラス!一気に畳み掛ける!!」
「はい!」
大地を力強く蹴り、青銅の剣を構えるハルタイト。
剣士と共に迫り来る大剣を避けようと、血色の目を光らせ吸血鬼が筋肉に信号を送ったとき、嫌に耳障りな音楽が脳みそに働きかけた。
「ぐぐぅう!!!!!」
_またこの感覚!
吸血鬼は苦しそうに歯を食い縛り、その場で頭を抱え、必死に敵へ向かおうともがく。
痛みにつられて動いたその腕は、頭蓋骨を潰そうか、救おうか、どちらともとれるほど強張っていた。
「なぜ?なぜそこの吸血鬼には効かない……!?」
「音波は操ることができます。
丁度、あなただけを捉えた様に」
ハープを鳴らしながら、蒼い半鬼は謳う。
その得意気な詩に、吸血鬼の血管はプッツリと切れ、彼は怒りをあらわに叫び狂った。
「くそ!くそ!
なぜこんなことに!
吸血鬼ならば聞いているはずだ!!
魔王様のことを!」
叩撃に向かっていたハルタイトは彼の言葉に新たな緊張を取り入れ、その靴は地を離れることを諦めた。
「…魔王………!?」
「知らない?
通りで!
魔王様はお前らのような吸血鬼はすぐ潰す!!
私を殺しても別が来るだけだ!」
魔王。
聞き覚えのない、しかし語られるべく童話には幾度も登場する単語に、シーラスの指はハープの演奏を止めた。
しんと、夜中にぴったりの静寂が訪れる。
このほんの少しの驚愕の合間を吸血鬼は見逃さず、脚は半円を描いて逃亡へと道を据えた。
「は!
さようなら、私は自主性を持って国際市場に来ただけなんでね!
途中見覚えのあるやつは喰ってこうかと思ったけれど、さっさと帰ることにしますよ!」
捨て台詞を吐きながら、吸血鬼は馬も抜かせそうな速さで走り出していた。
今からでは追い付かない。
ならばこうするしか_!
「待て!!!」
重さが宙を滑空する。
鋭い空気の刃を纏い、ある体を目掛けて。
鈍い音の訪れが殺人の吸血鬼を振り向かせる。
速度に合わせて、死の予見が溢れて、吸血鬼の核はどくんどくんと激しく波打つ。
そして、彼の目に入ったのは_
コンっ!!
「うっ………」
_剣の蓋である、鞘だった。
「ハルト!!」
「おお!ありがとう!」
倒れ伏した吸血鬼に追い付きしゃがむハルタイトに、それを確認したシーラスが物を放った。
空で解けかけるロープを、筋肉質な腕が掴んだ。
「うぅ………」
「これでよしっと」
逃げられないようキツキツに縛って、巻かれた吸血鬼を覗き込んでから、男は立ち上がった。
「なぜ…殺さ、なかった?」
絡まる思考から捻出した言葉。
死ぬ自分が、見えたのに。
なぜ?生かした?
「…俺は、お前らとは違う」
ハルタイトは言った。
「俺は誰も、何も、殺したくない」
対のハーフは、もう彼を見ていなかった。
その先に続く道、王都を目指さんと歩き出す。
「魔王様に、拾ってもらうんだな」
かくして、二人が城下町の前にたどり着いたのは、もう夜中も終わる頃であった。
瞳はキラキラと紅く輝き、開かずの門を見上げていた。
安全を保つべき門番も、完全に落ち着いてしまい家に帰ったのだろうか、何人も出てこようとはしなかった。
「これではさすがに、門を開けてはもらえませんね…」
「だなあ…、誰か起きてないのか?」
「無理でしょう。皆寝静まっています」
「うーん…」
「ハルト、諦めましょう。朝一で入れば、どうにか_」
「それじゃ駄目だ!」
突然の半鬼の大声に、もう一方の半鬼の鼓膜がビリビリと揺れた。
「さっきだって吸血鬼がいただろ!
悠長にしていられない!!」
「そうですが…しかしどうやって入りますか?」
ハルタイトの気持ちもしっかりと受け止めて、それでも成す術がないとシーラスは反論した。
そこで言われた青年は、ニヤリと口角を上げ揚々と提案する。
「溝があるだろ?」
「そんな、泥棒のようなことは…したくありません…」
「善は急げ!緊急事態だぞ!!」
「急いでるのは悪事では…」
「行くぞ!」
ハルタイトが走り出したので、仕方なく相棒もついて行く。
乗り気ではないシーラスを鼓舞しながら、城壁の回りを半周ほど歩くと、暗い長方形が視界に入った。
これまたニヤつくハルタイトに、目を細めて一瞥するシーラス。
「ほら、あったぞ排水溝!」
全くあなたという人は、と説教を始めるシーラスをよそに、ワクワクするようなことには目がないハルタイトが格子に手をかけようと腰を折ると、微かに音が聞こえた。
「なんか聞こえるぞ?」
「おや?…クラシックのようですね…。
あっハルト…!」
鉄の塞ぎを地に捨てて、ハルタイトが暗闇に身を進めていくので、心配そうにシーラスも屈み中へ入っていく。
手探りで狭い横長を行くと、音楽も段々と近付いてくる。
そして、不意に温かい光がやってきた。
優雅な音も、この開けた空間から鳴っているようだ。
「いらっしゃいませ、お客様」
上に顔をやると天井が遠かったので縮めていた脚を伸ばす。
すると清楚なベストを纏った赤目が現れた。
「吸血鬼…!」
散々駆けた。
もう戦う体力はない。
この状況を、どうすれば_
「そう警戒なさらずとも、あなた方も吸血鬼でしょう?
見たところ、アレではないようですが」
「………」
「ここは酒場です。
このサリザンテースに住む吸血鬼の情報交換の場」
穏やかで緩やかな空気の流れる空間に、ぐるりと視線を行き届かせると、眼前の吸血鬼が言うように幾らかの鬼が席について談笑していた。
「とすると、あなたと彼らは吸血鬼軍には属していないのですか?」
「ええ、争いは好みませんもので。
常にこの地下水路に隠れ住んでは、時たま帽子を被って上に出ます。
昼の国の方々は非常に人柄が良い………!」
ベストの彼は半ばうっとりして語る。
「じゃあ、街の中に出る階段とかあるのか!?急いでるんだ!」
「あ?
ええ、ありますが…ついてきてください」
一瞬驚いてはいたが、ベストの吸血鬼は素直に二人を導いた。
「こちらです。閉じているので、暫しお待ちを」
吸血鬼が登り、下半身に掛けたエプロンのポケットから鍵束を取りだして、上の扉の穴に挿し捻る。
キィと掠れた木の仕草と共に、街への道が示される。
「ありがとう!」
「行きましょうハルト!」
「ああ!」
「行ってらっしゃいませ、またのお越しを」
酒場の店員は入れ替わりに去っていく赤目に、微笑んで手を振った。
こそこそと、先程詩人が言ったようにまるで泥棒な二人は街中を疾駆して、宮殿を目の前にできる位置まで着いた。
門番は顔を下げて、すーすーと幸せそうな呼吸を繰り返している。
「し、失礼………」
巨大な入り口を開く為の鍵を、シーラスが眉を曲げて怪訝に盗み、手早く解放する。
戸は彼らが通ることを許した。
「よし!」
もはやハルタイトの思いは、昼の王にしか向いていなかった。
明かりも点いていない大広間へ脚を踏み入れる。
止まりはしない。
善は急げと言ったのは、彼自身だった。
_とにかく高い階へ、そうすれば王室に近付けるはずだ!
まさに、この戸の奥。
そんな豪華さを持った造りの観音開きの扉が自ずと出現する。
「この先ですね…」
出来る限りの無音で後ろに添っていたシーラスが、最小限伝わる大きさの声を発した。
「王様は起こす。
明けてからじゃ、遅い…!」
決意しながら、押すと_
「こんな夜更けに私を訪ねるとは、稀な民だね」
影が喋る。
二つのハーフの、紅さが揺らめいた。