朝焼けから来た者
「な、なんだお前!」
青年は、突然目の前に表れた存在に驚き、思わず問うた。
国際市場を行き交う人_中には別の生き物もいるだろう、ただ、それらの人々は店頭にならぶ品物を眺めもすれば、足早に己の目的に進むものだ。
まるで蟻のように、先を行く者に付いて、流れを絶やさぬよう歩くのである。
その道の中部に障害物があれば、もちろんそれを無いもののように綺麗に避ける。
今で言えば、別れを告げるために立ち止まっていたハルタイトだ。彼はこの人混みの中で、邪魔者で当然であった。
しかし、ハルタイトの前には一匹の蟻がいた。
決して彼を避け損ねたわけではないようだ。
動く雨雲から切り取られたように、ずっと、ハルタイトを前方に突っ立っている。
それは、異様なまでに蒼さを放つ人_いや、半鬼の瞳は確かに眼下の存在を異なったものと認識した。
ハルタイトの紅い瞳がきらりと月に照らされる。
_吸血鬼だ!!
それもまた、彼と同様に、もしかするとそれ以上でもありそうな血の赤黒さを目に灯していた。
さらには、ハルタイトにはない、真珠の光沢を持った鋭い歯が月色を宿して、青ざめた薄い唇から溢れていた。
先の質問に、ブドウの樹をようやく越すほどの背丈の吸血鬼は、常人では密接していなければすぐに雑踏に消えて聞こえなくなってしまうであろう小声で答えた。
「………見ての通り、吸血鬼です。イレギュラー」
その単語はハルタイトの鼓膜にまっすぐに刺さった。
瞠目した顔は見えなかったのだろうか、目の前の吸血鬼は、被っていた犬耳を模した飾りの付いた群青のハットを外し、礼をする。
イレギュラー、と。
はっきりとした判断を食らったのは、生まれて初めてだった。
父親の店に通う常連は、小さい頃からハルタイトの素性を知っていて、家族のように接してくれた。村の友人もだ。
昼に村の外部の者に会うのは、何の問題もないだろう。
だが吸血鬼の性質が表面化する夜では、まず間違いなく人と同じ扱いはされなかった。
あっちいけ、化け物。
偶々家の前を通りかかった行商は、そんな言葉を浴びせてきたっけ。
と、驚愕の後の追憶に浸っていると、蒼い吸血鬼は細く喉を震わせた。
「ここで話すのも何ですから」
詠うように言って、混んだ石畳の上に立っていた内の一人は、首に巻いた布を風に踊らせて小道に逸れ入っていく。
「あっおい待てよ!」
残されたもう一人も、つまみがみっちり詰まった重たい布袋を茶髪の上に乗せ、暗い脇道に駆け込んだ。
金色の美少女と出会い、ほんの短い時間でも市場を回ることができた。そんな酔いは、夜の冷気にすっかり覚めてしまった。
ハルタイトは真剣な表情で、ほしひめではなく、銀色とも見える髪を持つ、言ってしまえば美しい吸血鬼を見澄ましていた。
けれど、その身なりは質素を通り越しているように思えた。
ハルタイトとて贅沢できる暮らしではなかったが、胸当ては常にぴかぴかであり、酒場の赤い制服も母のお陰で清潔に保たれていた。
本日着てきた服も、遠出だし多くの人の目に触れるということで、いつもは着ないようなお洒落な衣類だった。
それだから、ほしひめに話しかける勇気もあったかも知れないのだが。
吸血鬼の来ている服は、お出掛けというには距離があった。
何年もこの服一着限りで生活してきました。と言わんばかりに汚れているのだ。
それがハルタイトには少し疑問だったが、それよりも、その存在事態が不可思議だったので、ポカンと忘れ気に止めなくなった。
暁に白く染まる青空のような肌色の吸血鬼は、辺りをくるりと見回してから、どうやら二人きりになったことに安心したようで、はあとため息を吐いた。
「突然失礼。僕はシーラス。シーラス=シュレイナー」
背の低いシーラスがハルタイトを見上げる顔は中性的で、女かと一瞬、ハルタイトは考えた。
しかし、その口ずさむ声は、男の低さを有していた。
「イレギュラー、あなたには話しておきたいことがあります」
ハルタイトも血が親しむ街灯のない闇に落ち着いて、荷物を下ろし、ほぐれた言葉で答えた。
「よろしく、シーラス。俺はハルタイト、ハルトで十分だ」
不安定な時勢である。
ハルタイトも不振人物には警戒し、その対処も心得ていた。
が、彼はシーラスに手を差し出した。
ファミリーネームを含む全てを名乗った吸血鬼は信用に足ると感じたのか、もしくはこの細さでは、暴れだしても抑えられると思ったのかは分からない。
とにかくシーラスの言う「話したいこと」が胸を逆撫で、嫌な空気を肺に送り込んだ。
だから、急いで握手を終えハルタイトは尋ねた。
「で、話したいことって何だ?」
ピンと、張りつめる気配。
「では、単刀直入に言います。ハルト、決して忘れぬように聞いてください」
暗黒が刺す路地裏に響く、詠うような口調に、ハルタイトはこくりと頷いた。
「隣国の暁の国が、もうすぐ吸血鬼の支配下に置かれます」
覚えたような完璧な口振りに、ハルタイトは意図せず待てを入れた。
「どういうことだ!?だって、暁の国は…」
暁の国に吸血鬼が現れた。
そう言って新聞をばさり!とテーブルに叩きつけたのは父だった。
ハルタイトが国際市場を目指して馬車に乗る数日前のことだ。隣と言えど、遠い土地のこと。そう思ったハルタイトは何も気にせずに、酒場の手伝いを務める日々を送ったのだった。
シーラスはその髪と同色の長い睫毛を垂れて、異国のメロディのように続けた。
「次は…」
台詞は止まる。
まるでしっかりと、台本に載っていたように。
彼は、恐ろしく低い音を吐き出した。
「ここです」
「なんだって!?…なんだって、そんな早く」
質問するために語尾を上げるのも辛かった。
心臓の音が全身を駆け巡る。
うるさい、静かにしろ。俺の思考が纏まらないんだ!
「シーラス!お前は何者だ!?
まさか、吸血鬼軍の一員じゃないだろうな?
この事を俺に教えてどうする!?」
捲し立てるハルタイトに、シーラスは哀しげに帽子を被った。
この悲憤を滲ませた声から己を守るように、深々と。
そうして、静かに語り出した。
「…僕もあなたと同じ、イレギュラーですよ」
4話目です。
まだまだ投稿していきたいと思いますので、どうかよろしくお願いします。