過ぎたこと
大変わかりづらいですが、ただの『男性』と『スーツ姿の男性』は別の人物です。その点に注意しつつ、読んで下さいませ。
雲一つない青空と穏やかな日差しの中、小さな男の子が自分の身長の倍以上ある竿を握って目の前の湖を真剣に見つめていた。
「パパ!絶対に動いちゃだめだからね!!」
男の子は小さな顔を上に向け、後ろから抱きしめるように男の子の体と竿を支える大柄な男性に声をかけた。
「へ~い」
やる気のない返事に男の子は可愛い顔をしかめた。
「もうっ!ちゃんとやってよ!パパ!!」
大きな声で必死に抗議する男の子に、男性はニヤリと笑って男の子の唇に自分の人差し指をあてた。
「しー。でかい声だすと魚が逃げるぞ」
からかうように言われた男の子は、不満げに男性を睨んだ後プイっと湖の方をを向いた。そんな男の子を見て男性は今度は優しく微笑んだ。
ラフな格好にお揃いの大きめの帽子。
二人は、誰が見ても休日を楽しんでいる仲のいい父子だった。
その時、一台の黒い車が湖の対岸に現れた。
湖を周りながらこちらに向かってくる。
「うわー!見て、パパ。すごく高そうな車がこっちに来るよ!」
男の子は憧れの眼差しを車に向けた。男の子の視線をたどりその車を見た男性は、今までの優しく息子を見守る父親の表情を一瞬で消し、ぽつりとつぶやいた。
「・・・来たか・・・」
と。
その声はあまりにも小さかった為、男の子には聞こえなかった。
一目見ただけでも高級車であることがわかるその車はゆっくりとではあるが確実に男性と男の子に近づいてきた。
そして―――
車は男性と男の子が釣りをするすぐ側に止まった。
「パパ!近くに止まったよ!!どんな人が乗ってるんだろう?」
男の子は男性の肩に手をかけ、身を乗り出すように車を見つめる。
車から出てきたのは、黒いスーツを着た背の高い男性だった。
顔立ちは冷たく感じられるほど整っており、黒く短い髪を後ろになでつけている。
スーツ姿の男性は車から出るとすぐに男の子に視線を向けた。その表情は固くこわばっていた。
「あの人、こっち見てる・・・。パパの友達?」
「いや・・・。もしかしたらパパのファンかもしれないな。サインを書く準備をしておかないと・・・」
男性は真剣な顔で言ったが、その真剣さが逆に冗談くさかった。
男の子も素早く「絶対ちがうよ!」と言い返した。
じゃれあうようにかわされる会話。
そこに違和感など全くなかった。
そんな二人の様子をスーツ姿の男性がなぜか苦しげに見ていた。
車から降りたその男性は、男の子の方をじっと見ているもののそれ以上、二人に近づこうとはしなかった。
「ねぇ、パパ。あの人、ずっとこっちを見てる・・・。どうしたんだろう?」
「ん~パパのファンじゃないとすると・・・すごい照れ屋さんな迷子なのかもな。聞きたいけど、恥ずかしくて道を尋ねられないくらいシャイな人なんだろう、きっと!」
「・・・そんな風には全く見えないけど」
男の子はスーツ姿の男性が助けを必要としているとは思えなかった。
むしろ、何でも一人でできそうに見える。
だが、目の前の男性はそんな男の子の意見など聞いちゃいなかった。
「よし!自称世界で一番いい人であるパパがあふれんばかりの優しさをもって声をかけてあげよう!!」
「自称じゃダメなんじゃないの?」
あきれたように言葉を返した男の子に男性は不敵に笑って見せた。
「それじゃ、他の人にもそう思ってもらえるように今から努力することにしよう!・・・だが残念なことに地図は車の中だ。というわけで息子よ。俺は竿を見てるから、お前が取ってきてくれ。ついでに俺のたばこもよろしく!!」
男の子に向かってウインクしながら男性は言った。
「ただ、たばこ取ってきてほしいだけじゃん!!」
男の子の鋭い言葉に男性はとぼけるように眉をあげ、肩をすくめた。
「ちがうぞ。俺は世界平和の為の第一歩をだな・・・」
「もういいよ!」
なおも、でまかせを言おうとする男性の言葉を男の子が遮った。
拒否したところでどうせ上手いこと言いくるめられて結局行かされることになると男の子にはわかっていた。
「ちゃんと竿、見ててよね!!」
つきあってられないとばかりにと怒りながら男の子は立ち上がりを「いつもめんどくさいことは僕にやらせるんだからっ!」と文句を言いながら少し遠くに停めてある車に向かって駆けだした。
その背を見ながら男性は静かに言った。
「いい子に育ってるだろう?」
その問いかけは男の子の跡を追いかけるようにふらりと近づいてきたスーツ姿の男性に向けられたものだった。
返事はなかったが、歯を食いしばるような音がかすかに聞こえた。
そして、次の言葉が発せられた瞬間、今度は確かにガリッという音が静かな湖に響いた。
「お前が捨てた子は」
彼らの周りの空気が一瞬で凍った。
スーツ姿の男性はうつむいて、拳を握り震えるほど全身に力をこめ、必死で何かをかみ殺しているようだった。そんなスーツ姿の男性の方を見ることなく、男性は続ける。
「いや、正確にはお前がボロ布みたいに捨てた女が勝手に生んだ子だったな」
男の子の小さな背中が見えなくなると、男性は帽子を深くかぶり直し湖の方を向き竿を握った。
「彼女は身持ちが悪いと周りに吹き込まれていたお前は、子どもができたと告げた彼女をどしゃぶりの雨の中へ放り出したんだよな」
男性の声には抑揚が全くなかった。
ただ、淡々と本でも読んでいるかのように。
「あの日、侮蔑の言葉だけを彼女に与えてお前の人生から追い出した」
男性は目をつぶり、その時の記憶を呼び覚ます。
ひどい雨の中、一人の女が豪邸の前で泣き崩れている場面を。
「あの時の俺はただの傍観者だった・・・」
あの時、友人であったこの男の非道を止めることができなかった自分。
その後、傷心の彼女の心につけこんだ自分。
なんて愚かで罪深い。
だが・・・
「今は違う。彼女は俺の奥さんになって、あの子は生まれた時から俺の可愛い息子。俺らは家族―――」
ゆっくりと目を開き、刺すような視線をスーツ姿の男性に向けた。
「今度はお前が傍観者だ」
スーツ姿の男性の顔がなおいっそう苦しげにゆがんだ。
「どうやって俺らの居場所をつきとめたかは聞かない。だが、ここまでだ。法的にも、あの子の感情的にもお前がつけいる隙は全くない」
スーツ姿の男性は目の前にいるかつての友人が言っていることが、全て事実であることをすでに知っていた。どれだけ法律の本を読み返しても、あの子が彼のものになる根拠はなかった。それでも、一目会いたくて、こんな遠くまでやってきて彼が見たものは、完璧な父子の姿だった。
そこにいるのは自分であったはずなのに・・・。
父親の席は完全に埋まり、あの子と繋がっているのは血だけだと思い知らされた。
だが・・・彼女はどうだろう?
かつてあれだけ盲目的に私を愛していた彼女がそう簡単に心変わりをするとは思えない・・・
彼女だけでも、もう一度・・・
「ん?お前、もしかして彼女に近づこうとか思ってるのか?だとしたら、それは無理だぞ?」
「何故そう思う?彼女は・・・!」
きっと今でも私を・・・!!
「うちの奥さん妊娠9ヶ月なんだ。だから、今日は家でお留守番。もちろん俺の子だ」
軽い口調で言われた言葉は彼の心を打ちのめした。
スーツ姿の男性はくずれ落ちるように地面に膝をついた。
「・・・そ、そんな・・・彼女が・・・」
「あれだけの仕打ちしといて、まだ彼女に愛されてると思っていたのか?随分おめでたい思考回路だな。見た目と違ってお堅い彼女が好きでもない男と結婚するわけないだろ。嘘でもなく振りでなく、ちゃんと俺のこと愛してくれてるさ。かつてお前に捧げられていたもの全部、今は俺に惜しみなく与えてくれてるよ」
うっとりするような表情で男性は言った。
スーツ姿の男性は完全に打ちのめされ、頭を抱え震えていた。
そんな男性に頭上から冷たい声がかかった。
「あの日、自分がやったこと――お前は一生、後悔し続けろ」
そして、遠ざかっていく足音とかすかにパパーと呼ぶ声が聞こえたあと、水の音しか聞こえなくなった。
それから、しばらくしてスーツ姿の男性が顔をあげた時、彼の周りには誰一人いなかった。
読んで頂きありがとうございました。この話を思いついたのは、ロマンス小説を読んでいた時でした。あまりにひどいことをするヒーロー(たち)への反発心からできた作品であります。この作品の最後のセリフをね、ヒーロー(たち)に言ってやりたかったんです。…後悔はちょっとしかしてません。