第9話 議事録と、沈黙と、最後の報告
あの日もらった議事録の写しを、わたしは一日も手放さなかった。
馬車に揺られながら、何度も読み返した羊皮紙を膝の上に広げる。王都までの十日間、毎晩宿で読んだ。文字は擦れて薄くなっている。端がほつれて、折り目が深く刻まれている。
この一枚が、わたしの全てだ。
辺境で育てた薬草も、治した患者も、作った軟膏も──全部、この一枚の上に載っている。
『──あの辺境の地が再び栄えることがあるならば、余の不明を天下に認めよう』
王太子アルヴィンの公式発言。断罪の場で、勝ち誇った声で言った言葉。議事録に記録され、全出席者が聞いていた。
辺境は栄えた。
あとは──それを、あの場で報告するだけ。
◇
領主会議場は、王城の東棟にあった。
高い天井。石壁に掛けられた王家の紋章旗。長い楕円形の机が中央に据えられ、椅子が三十以上並んでいる。
入口に立った瞬間、足が止まった。
(……ここに、あの人たちがいる)
断罪の日と同じ空気がした。蝋燭の匂い。石の冷たさ。大勢の視線。
──違う。
あの日は被告人だった。今日は、辺境管理官だ。
議事録を胸の内側に押し当てて、一歩を踏み出した。
末席に座った。当然だ。辺境の管理官は、出席者の中で最も格が低い。
席についてから、会場を見渡した。
正面の上座に──国王陛下。白髪交じりの髪。厳しい目。表情を読ませない顔。
国王の右手に──王太子アルヴィン殿下。金の髪を後ろに撫でつけ、涼しい顔で座っている。その傍に、白い衣を纏った聖女ミリアーナ。穏やかな微笑み。慈悲深い聖女の顔。
──そして。
国王の左手に。
灰色の髪の青年が座っていた。
王族の正装。白と紺の軍服に金の飾緒。あの執事服ではない。あの無表情でもない。
第二王子クロード・ルクレシア殿下。
(……クロエさん)
名前が、勝手に浮かんだ。違う。この人はクロエではない。第二王子殿下だ。辺境で棚を作り、薪を割り、茶を淹れた人ではない。
──でも。
あの灰色の目が、一瞬だけこちらを見た。
すぐに逸れた。
◇
領主たちの報告が順に進んだ。北方領。東部穀倉地帯。王都近郊。
わたしの番が来た。
「辺境管理困難領、管理官リーネ・ヴァレンシュタイン。報告をお願いいたします」
立ち上がった。膝が震えていないことを確認してから、口を開いた。
「辺境管理困難領の年次報告を申し上げます」
数字を並べた。
薬草園の栽培面積。精製した薬草の品種と数量。診療所の患者数──年間で延べ二百四十三名。治癒した慢性疾患の症例数。隣領への薬草供給量。村の雇用者数。
数字だけ。事実だけ。感情は一切入れなかった。
──会場が、静かになった。
最初の数字が出た時点で、誰かが小さく息を呑んだ。患者数が出た時には、隣の席の領主が顔を上げた。隣領への供給量が出た時には、ざわめきが広がった。
(知らなかったでしょう。辺境が、こんなことになっているなんて)
報告を終えた。全ての数字を読み上げ終えた。
──ここからだ。
「もう一点、ご報告がございます」
懐から、議事録の写しを取り出した。
擦り切れた羊皮紙。折り目だらけの、あの一枚。
「これは、わたしが断罪された日の宮廷裁判の議事録の写しです。被告人の権利として、当日に写しを請求し、正式に受領したものです」
会場が──凍りついた。
「議事録には、王太子殿下の公式発言が記録されております」
読み上げた。
「『あの辺境の地が再び栄えることがあるならば、余の不明を天下に認めよう』」
沈黙。
王太子アルヴィンの顔から、涼しさが消えた。
「辺境は栄えました。薬草園は稼働し、診療所には連日患者が訪れ、隣領の伯爵閣下にも薬草を納品しております。先ほどの数字の通りです」
それ以上は言わなかった。
言う必要がなかった。議事録が、数字が、全てを語っている。
王太子は──口を開かなかった。開けなかった。自分の言葉に縛られている。あの日、勝ち誇って吐いた言葉に。
◇
「──陛下、発言の許可をいただきたい」
声がした。
低い声。聞き覚えのある──でも、あの辺境で聞いた時よりずっと通る声。
クロードが立ち上がっていた。
「第二王子クロード・ルクレシア。父王陛下の密命により、辺境管理困難領の実態調査を行いました。調査結果を報告いたします」
会場がざわめいた。
(密命……)
国王が頷いた。「許可する」
クロードが壇上に進み出た。手に書類を持っている。あの手帳──辺境で毎晩書いていた手帳ではなく、正式な報告書の束。
「調査の結果、辺境管理官リーネ・ヴァレンシュタインへの断罪は冤罪であると結論します。根拠は二点」
一つ目。
「聖女ミリアーナ殿の託宣に基づく断罪ですが、当該託宣日の神殿祈祷記録を照合した結果、不整合が確認されました」
書類を一枚、机の上に広げた。
「神殿の規定では、託宣には事前に七十二時間の連続祈祷が必要です。しかし、当該日の祈祷記録には十二時間分しか記載がありません。記録は神殿の公文書であり、事後の改竄はできません」
──静寂。
ミリアーナの顔が、白くなった。
「そんなはずは──」
立ち上がりかけたミリアーナを、国王の視線が押し戻した。
「記録は公文書です」
クロードの声には、感情がなかった。あの辺境で茶を淹れていた人と同じ──抑制的で、正確で、冷たい声。
二つ目。
「さらに、聖女殿の治癒魔法の効果範囲について。隣領ブラント伯爵閣下の慢性関節痛は、聖女殿の治癒を受けた後に再発しております。同症例を辺境管理官リーネ殿の薬草治療で根本治療した事実があり──」
「異議なし。証人として発言する」
──ブラント伯爵が立ち上がった。
あの実直な顔。日焼けした肌。白髪交じりの髭。
「わしの膝は、聖女様の治癒で三ヶ月で再発した。辺境の薬師リーネ殿の軟膏で根本治療された。──事実だ。今もこうして、杖なしで立っている」
会場のどよめきが、大きくなった。
王太子の顔が──歪んだ。ミリアーナの手が、膝の上で震えていた。
◇
国王が立ち上がった。
会場が静まった。
「第一に。王太子アルヴィンの断罪は、聖女の託宣に基づくものであるが、当該託宣の正当性に疑義が生じた。断罪の再審査を命じる」
「第二に。聖女ミリアーナの聖女認定について、祈祷記録の不整合が確認された以上、聖女認定の再検証を命じる」
「第三に。辺境管理官リーネ・ヴァレンシュタインの名誉を、ここに回復する」
──名誉回復。
三つの言葉が、会場に落ちた。
わたしは──立ち上がった。
膝は震えていない。声も震えていない。
「辺境の報告は以上です」
それだけ言って、頭を下げた。
振り返って、歩き出した。末席の横を通り、扉に向かって。
後ろから視線を感じた。何十人分もの視線。でも──振り返らなかった。
足が動いている。ちゃんと動いている。一歩、二歩、三歩。扉が近づく。
(泣くな。泣くな。泣くな)
今は泣かない。断罪の日も泣かなかった。今日も泣かない。
扉を開けて、廊下に出た。
◇
廊下は、静かだった。
石壁に自分の足音だけが反響する。高い窓から午後の光が差し込んで、埃が金色に舞っている。
──足が止まった。
廊下の角から、人が出てきた。
灰色の髪。白と紺の軍服。金の飾緒。
クロード。
二人きりの廊下で、五歩の距離を隔てて、向かい合った。
クロードの口が──動いた。
何かを言おうとした。唇が開いて──。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。貴族たちが会場から出てくる気配。
クロードの口が──閉じた。
結局、何も言わなかった。
あの人はいつもそうだ。言葉を持たない。手で話す人。棚を作り、薪を割り、茶を淹れ、外套をかけ、使者の前に立ちはだかり、この壇上で報告書を読み上げた──全部、行動で。
でも今、わたしが欲しいのは──。
(……いや、今はいい)
クロードの目を見た。灰色の目。蝋燭の光ではなく、午後の陽が射し込んでいる。その目が──揺れていた。
(この人は、兄の前で、全ての貴族の前で、王太子の弟としての立場を捨てた)
密命を公開した。調査結果を報告した。それは──調査員の義務では、ない。
王太子は兄だ。兄の誤りを公の場で突きつけた。王族としての中立を捨てた。
わたしの名誉のために。
(あれは──全部嘘じゃなかった、ということ?)
棚も。薪も。茶も。外套も。あの「──違う」も。
答えは──まだ分からない。
でも。
わたしは、小さく頭を下げた。
「……報告、ありがとうございました。殿下」
殿下。クロエさんではなく。
クロードの目が──一瞬、痛そうに細まった。
それから、頷いた。何も言わずに。
足音が近づいてくる。貴族たちが廊下に溢れ始めている。
わたしは背を向けて、歩き出した。
王城の出口へ。馬車乗り場へ。辺境へ。
──帰ろう。
わたしの場所に。薬草が待っている。患者が待っている。ルカが待っている。トマスが待っている。
そして──あの人が残してくれた棚が、まだあそこにある。
議事録の写しを、もう一度胸の内側に押し当てた。
擦り切れた紙が、ほんの少しだけ──温かかった。




