第8話 嘘と薪と、まだ終わらない朝
机の上の紋章が、朝の光を受けて鋭く光っていた。
──なんで、扉が開いているんだろう。
使者が去って三日。日常は戻ったはずだった。朝はクロエが薪を割り、水を汲み、竈の上に粥を用意する。わたしは患者を診て、薬草を精製して、夜にノートを書く。いつも通り。
でも、クロエの様子がおかしかった。
手帳を書く時間が長くなった。夜中に起きている気配がある。食事の時、視線がどこか遠い。使者を追い返した日から、この人の中で何かが変わった。
その朝、クロエは水汲みに出ていた。
奥の部屋の扉が──開いていた。
いつもは閉まっている。鍵はないけれど、クロエは必ず扉を引いて閉じる人だ。それが今日は、手のひら一つ分だけ──隙間が空いている。
(疲れてるのかな。使者のことで)
閉めてあげようと思った。それだけのつもりだった。
扉に手をかけた時、隙間から机が見えた。
机の上に書類が広げてある。封蝋の跡がある羊皮紙。紋章の押印。──あの紋章だ。双翼の獅子。使者の馬車にも、クロエの調査令状にもあった、ルクレシア王家の紋章。
(調査令状の原本かな……いつもは鞄にしまっているのに)
目が、吸い寄せられた。
原本の下に、もう一枚の書類が見えた。角が少しだけはみ出している。
署名欄が見えた。
──第二王子クロード・ルクレシア。
足が、止まった。
読み間違いではないかと思った。目を擦った。もう一度見た。
第二王子。クロード。ルクレシア。
(第二王子……第二王子殿下……)
頭の中で、歯車が噛み合う音がした。
宮廷式の完璧な口上。鉋を使いこなす手。国王の署名入りの調査令状。使者を一言で黙らせた法的知識。あの冷たくて正確な声。「行政府の調査は国王の権限で行われます」──当たり前だ。国王の息子なのだから。
第二王子。王太子アルヴィンの、弟。
わたしを断罪した王太子の──弟が、この辺境に来ていた。
足が震えた。
扉の前で、動けなくなった。
◇
水汲みから戻ったクロエが、わたしの顔を見て──止まった。
わたしは居間に立っていた。扉は開いたまま。机の上の書類が見える位置に。
「……見たんですね」
クロエの声が、低く落ちた。
「第二王子クロード・ルクレシア。──それが、あなたの名前なんですか」
声が震えた。震えていることが分かった。でも止められなかった。
クロエは──何も答えなかった。
桶を下ろして、わたしの前に立った。灰色の目が、まっすぐこちらを見ている。否定しない。言い訳もしない。
──沈黙が、答えだった。
「……あなたは、第二王子殿下なんですか」
「……はい」
一言。
たった一言で、半年が崩れた。
この人が淹れてくれた茶。作ってくれた棚。割ってくれた薪。雨の日にかけてくれた外套。使者の前に立ちはだかってくれた、あの背中。
全部──第二王子殿下の、調査の一環だった。
「わたしは──わたしの生活は、わたしのこの辺境は」
声が裏返った。
「全部、あなたの調査対象だったんですか」
クロエは──クロードは、口を開きかけた。
唇が動いた。何かを言おうとした。でも──閉じた。
(……なんで)
なんで何も言わないの。否定してよ。「違います」って言ってよ。言ってくれれば──信じるかどうかは分からないけど──少なくとも、言葉を聞けるのに。
でもこの人は、言葉で気持ちを伝えられない人だ。
知っていた。ずっと知っていた。手拭いで。棚で。外套で。茶で。──全部、手で話す人だった。
今も、手しか持っていない。そして今は──その手が、何も持っていない。
「……やっぱり、そうですよね」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに聞こえた。
「モブはモブなんです。王族の方が、わたしなんかのために──動くわけがないですよね。全部、仕事だったんですよね。お兄様の断罪が正しかったか調べる、それだけの」
「──違う」
クロエの声が、切れた。
鋭い、短い声。使者に向けた冷たさとも、普段の抑制とも違う──生の声。
でも──その先が、続かなかった。
クロエの唇が震えて、顎が引き締まって、目がわたしから逸れた。壁を見ている。壁のどこか一点を、睨むように。
(「違う」の先を、言えないんだ)
なんでだろう。なんで言えないんだろう。
──でも。
(「違う」って言った)
それだけが、胸の中に落ちた小石のように、沈んでいった。
◇
長い沈黙の後、クロエが口を開いた。
「……調査は、もう終わりにします」
静かな声だった。
「必要な情報は揃いました。これ以上、あなたの生活を乱すことはありません」
荷物をまとめ始めた。
手慣れた動作だった。手帳を鞄に入れる。ペンを布で包む。調査令状を丁寧に折り畳む。外套を肩にかける。──あの濃紺の外套。雨の日にわたしの肩にかけてくれた、あの外套。
わたしは──引き止めなかった。
引き止める理由が、わからなかった。いや、違う。引き止めたかった。でも──何て言えばいいのか、わからなかった。
(第二王子殿下に「行かないで」なんて、モブの令嬢が言えるわけない)
前世でもそうだった。研究室で一人。標本と論文が友達。誰かに必要とされることなんてなかった。──この世界でもそうだ。断罪された。追放された。父にも庇ってもらえなかった。
(わたしなんかのために、王族が残るわけがない)
分かっている。ずっと分かっている。
クロエが荷物を持って、戸口に立った。
「……リーネ殿」
振り返った。灰色の目が──揺れていた。使者の前では揺れなかった目が。
「辺境の薬草は、この国の宝です。あなたの仕事は──」
言葉が途切れた。
しばらく黙って──それから、小さく頭を下げた。
「失礼します」
扉が閉まった。
足音が遠ざかった。
──静か。
小屋の中が、急に広くなった気がした。薬草の匂いは変わらない。蝋燭の灯りも、乾燥棚も、クロエが作ってくれた三段の棚も、全部そのまま。
でも──音がない。
手帳を書くペンの音。水を汲む桶の音。薪を割る斧の音。粥をかき混ぜる匙の音。全部、なくなった。
壁にもたれて、座り込んだ。
泣いた。
声を殺して泣いた。断罪の日にも泣かなかったのに。辺境に来た日にも泣かなかったのに。なんで今、泣いているんだろう。
(……ばか)
誰に言っているのか、わからなかった。
◇
翌朝。
目が覚めた時、粥はなかった。
当たり前だ。竈は冷たい。水瓶は──いや、満たされていた。夜の間に、誰かが。
(……まだ、近くにいたの?)
小屋を出て、薪置き場に向かった。
──息が、止まった。
薪が、満杯だった。
壁際に積まれた薪が、屋根の梁に届くほど──ぎっしりと詰まっている。三日前まではまだ隙間があったのに。一晩で、冬を越せる量が積まれている。
誰が。
──決まっている。
あの人だ。去り際に、荷物をまとめた後で、夜の間に。声もなく、音もなく、薪を割って積んでいった。
(……なんで)
正体がバレて、追い出されて。「全部仕事だったんですよね」と言われて。それでも──冬を、心配したの?
薪に触れた。乾いた木の表面。丁寧に割られた断面。均等な太さ。この人の仕事は、いつも均等で、丁寧で──。
涙が出そうになって、唇を噛んだ。
もう泣かない。
(やることがある。患者が来る。薬草を精製する。わたしの仕事は変わらない)
小屋に戻って、自分で竈に火をつけた。自分で粥を作った。クロエの粥より具が少なくて、味が薄かった。
◇
午後。
診療所の扉を叩く音がした。患者かと思って開けると──使者ではなかった。
村の少年が、手紙を持っていた。
「リーネ先生、隣村の行商人が持ってきた手紙です。王都からの公文書だって」
封蝋。紋章。──双翼の獅子。
また王家の紋章。胸が痛む。でも、開けなければならない。
封を切った。
──領主会議の招集状だった。
『辺境管理困難領・管理官リーネ・ヴァレンシュタイン殿
年次領主会議に辺境管理官として出席せよ。会議において辺境の年次報告を行うこと。
日時:秋分の月、第三週の月曜
場所:王都・領主会議場
国王オーギュスト・ルクレシア』
国王の署名。
国王陛下が──わたしを、領主会議に呼んでいる。
辺境の追放者を。断罪された令嬢を。モブのわたしを。
全領主と王族が揃う、あの場に。
(……これは、誰が手配したんだろう)
招集状の日付を見た。使者が来る数日前。──クロエがまだ、ここにいた頃。
(まさか)
確証はない。でも──この招集状は、ただの年次手続きではない。辺境の管理官を領主会議に呼ぶ理由は、通常はない。誰かが、意図的に手配しなければ──。
手紙を握りしめた。
手が震えている。でも──断罪の日とは違う震えだった。
(やることがある)
議事録の写し。あの日、宮廷裁判の場で請求した議事録の写し。ずっと荷物の底にしまっておいた、あの一枚。
鞄を開けた。布に包んだ羊皮紙を取り出す。断罪の日の議事録。王太子の発言が、一字一句記録されている。
『──あの辺境の地が再び栄えることがあるならば、余の不明を天下に認めよう』
何度も読んだ一文。辺境に来てから、何度も。辛い夜に、何度も。
──今、この言葉が、ただの記録ではなくなろうとしている。
辺境は栄えた。薬草園は稼働している。診療所には患者が来ている。伯爵の推薦状がある。村人たちの信頼がある。
あとは──この事実を、あの場で報告するだけだ。
招集状を畳んで、議事録の写しと一緒に布で包んだ。
窓の外を見た。薬草園が夕日に照らされている。クロエが作った棚が、診療所の壁に並んでいる。薪置き場には、冬を越せる薪が満杯に積まれている。
(あの人が残してくれたものが、まだここにある)
棚も。薪も。──それから、あの「違う」という一言も。
まだ終わっていない。
わたしの辺境は、まだ終わっていない。




