第4話 雨と外套と、知らない温度
薬草を乾燥させる棚から、甘い青い香りが部屋中に広がっていた。
フユハッカとカノコソウが混ざった匂い。最初は鼻の奥がつんとしたけれど、一ヶ月も嗅いでいると、これがないと落ち着かなくなる。
──診療所、と呼ぶにはまだおこがましい。
旧管理官小屋の作業場に、寝台を一つと棚をいくつか入れただけ。壁は相変わらず漆喰が剥がれているし、窓は木の鎧戸で、明かり取りは蝋燭だけ。
でも、人が来るようになった。
ルカの治療が噂になったらしい。最初は同じ村の住民がおずおずとやって来て、「膝が痛い」とか「傷が化膿した」とか、小さな症状を相談してきた。そのうち隣の集落からも馬に乗って来る人が現れて、今では一日に二人か三人は誰かが訪ねてくる。
薬草の棚が足りなくなった。
乾燥途中のものと精製済みのものを分けて保管しないと、成分が混ざって効果が落ちる。前世の研究室なら冷蔵庫と密閉容器があったけれど、ここでは乾燥棚と布袋が全て。棚の数と配置が生命線だった。
「ここに、もう一つ棚が欲しいんですけど」
朝。わたしが壁の空きスペースを指さすと、クロエは一度だけ壁を見上げて、頷いた。
「寸法は」
「高さが……わたしの肩くらい。幅はこの窓と同じくらい。三段」
「わかりました」
それだけ言って、外に出ていった。
昼過ぎに戻ってきた時、クロエの手には鉋と釘と、どこから調達したのか角材が積まれていた。
そこから三日で、棚が出来上がった。
きっちり三段。幅は窓と寸分違わず。しかも板と板の隙間が均等で、空気の通りがいい。
(……この人、何者なの)
調査員。王都行政府の調査員。名目上はそうだ。でも調査員が鉋を使いこなすだろうか。釘を一本も曲げずに棚を組み上げるだろうか。
「クロエさん、棚作りが上手すぎませんか」
「実家で少し」
それきり、口を閉じた。実家で少し。どんな実家だ。
(まあ、助かるからいいけど)
深く追及しない。これがわたしたちの暗黙の距離感になっていた。
◇
共同生活が日常になるのは、思ったより早かった。
朝、目が覚めると薪が割ってある。水瓶が満たされている。竈の上に、簡素だけれど温かい粥が湯気を立てている。
全部、クロエの仕業だった。
わたしが起きる頃には、すでに一仕事終えた顔で手帳に何かを書いている。
「有能すぎる執事ですね」
ある朝、粥をすすりながら言った。
クロエは手帳から目を上げて、わたしをちらりと見た。
「調査員です」
「調査員が朝ごはんを作ってくれるんですか」
「……自分の分を作るついでです」
嘘だ。
わたしの分は明らかに量が多いし、粥に混ぜる乾燥果実の種類まで毎日変えている。「ついで」でここまでやる人がいるだろうか。
──でも。
こういう距離感が、不思議と心地よかった。
感謝を伝えれば「仕事です」と返される。追及すれば口を閉ざす。けれど行動は止まらない。薪が減れば補充され、水が切れれば汲んである。
(この人は、言葉じゃなくて手で話すんだな)
そう思って、それ以上は踏み込まないことにした。
◇
雨が降った。
辺境の雨は重い。灰色の空から、太い糸のような雨が落ちてくる。道はたちまち泥濘に変わって、小屋の屋根を叩く音が途切れなかった。
こんな日にも、患者は来る。
隣の集落のおばさんが、腰を押さえながら馬車で来た。慢性の腰痛。カノコソウの湿布を作って患部に当てると、「あったかい……」と目を細めた。
「三日ごとに取り替えてください。湿布がなくなったらまた来てくださいね」
「ありがとう、リーネ先生。あんたが来てくれて本当に助かっとるよ」
見送ろうと戸口に立った時、雨が強くなっていた。
おばさんの馬車は小屋から少し離れた場所に停まっている。泥濘がひどくて、足を取られそうだ。
「あ、わたしが──」
送ろうとした瞬間、肩に布の感触が落ちてきた。
濃紺の外套。クロエの外套。
振り返る間もなく、クロエはすでに戸口を出ていた。外套を脱いだ薄着のまま、雨の中を歩いている。おばさんの腕を取り、馬車までの泥濘を避けて、安全な足場を選びながら送っていく。
──濡れている。
髪が額に張り付いて、薄い襯衣が肩に貼りついて、それでもクロエの背筋はまっすぐだった。おばさんを馬車に乗せ終えるまで、一度もこちらを振り返らなかった。
馬車が去った後、クロエが戸口に戻ってきた。
びしょ濡れだった。
灰色の髪から雫が顎を伝い、足元に小さな水たまりを作っている。
「なんで傘を──」
「患者の足元が危なかったので」
それだけ答えて、奥の部屋に入っていった。着替えるのだろう。
わたしは戸口に立ったまま、肩にかかった外套を握りしめていた。
(患者のため、ね)
わかっている。執事として当然の仕事。患者が足を滑らせて怪我でもしたら、診療所の評判に関わる。だから自分が濡れてでも送った。合理的な判断。
──でも。
この外套が、わたしの肩にかけられている。
患者に渡したんじゃない。わたしに残した。
(……考えすぎだ)
外套を畳んで、作業台の上に置いた。濃紺の布地に雨水がにじんでいる。
体温は、もう残っていなかった。
◇
夜。
蝋燭が二本。わたしは精製ノートを書いていて、クロエは手帳に何かを記録していた。
雨は弱まったけれど、まだ屋根を叩く音が続いている。小屋の中は薬草の匂いと蝋の匂いが混ざって、不思議と落ち着く。
二人きりの夜。
ルカの治療以来、こういう時間が増えた。わたしが精製ノートを書き、クロエが報告書を書く。会話はほとんどない。でも、静かな作業音だけがある部屋は──嫌じゃなかった。
前世でもそうだった。研究室で一人きり、標本と向き合う夜が好きだった。でもあれは「一人」の静けさで、今は「二人」の静けさだ。
「……こうやって人に必要とされるのは、前世でもなかった気がする」
口からこぼれたのは、独り言だった。
ノートに視線を落としたまま、指先は乾燥ヨモギギクの精製手順を書き写している。
「前世では研究ばっかりで、標本と論文が友達みたいなもので。誰かに『ありがとう』って言われることなんて、ほとんどなかったな」
何を言っているんだろう、わたし。
こんなこと、クロエに話す必要なんてない。調査員に前世の愚痴を聞かせてどうする。
──でも。
この静かな部屋で、薬草の匂いの中で、蝋燭の灯りに照らされたノートの上の文字を追っていると、つい気が緩む。
「でも今は、ルカくんが『先生ありがとう』って言ってくれて。おばさんが『助かる』って言ってくれて。……変な話ですけど、それだけでいいかなって思うんです」
返事はなかった。
ちらりと目を上げると──クロエの手が、止まっていた。
手帳を持ったまま、ペンの先が紙から離れている。灰色の目が──こちらを見ていた。
蝋燭の炎が揺れて、その目に光が映り込んだ。何かを言いかけたような、それとも飲み込んだような、微かな──。
「……クロエさん?」
呼びかけると、クロエは視線を手帳に戻した。
「いえ。……続けてください」
ペンが紙の上を走る音が戻った。
(今、何か言おうとしなかった?)
気のせいだろう。いつもの無表情。いつもの抑揚のない声。雪の彫像は、今夜も雪のままだ。
ノートの続きを書いた。ヨモギギクの精油成分。蒸留温度。抽出時間。
──でも、さっきのクロエの目が、ちょっとだけ頭の隅に残った。
◇
翌日の昼過ぎ。
隣村から来た行商人が、薬草の注文と引き替えに、噂を置いていった。
「あんた、気をつけなよ」
荷物を馬車に積み込みながら、行商人は声をひそめた。白髪交じりの髭面。辺境と隣領を行き来して、食料品と雑貨を運ぶ男だ。
「王都の神殿から通達が出たらしい。辺境で出回っている薬は、検証されていない危険なものだと」
──危険。
「聖女様のお名前は出とらんが、神殿経由の通達だから、まあそういうことだろう」
行商人は肩をすくめて、馬車を出した。
わたしは診療所の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
(……危険な薬)
わたしの薬が。ルカの咳を止めた薬が。おばさんの腰痛を和らげた湿布が。
危険。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。石を飲み込んだみたいな重さだ。
「リーネ殿」
クロエの声がした。いつの間にか、後ろに立っていた。行商人の話を聞いていたのだろう。
「……わたしの薬は危険じゃないです」
声が、少しだけ震えた。
「前世の知識で、成分を確認して、分量を計算して、精製して──ちゃんと効果があるから、みんな来てくれてるんです」
クロエは何も言わなかった。
ただ──小さく、頷いた。
その頷きが、何の意味だったのかはわからない。「知っています」なのか、「記録しておきます」なのか。
でも、わたしは息を吸って、背筋を伸ばした。
危険と言いたい人には言わせておけばいい。通達が何通出ようと、ルカの咳は止まった。おばさんの腰は楽になった。隣の集落から馬で来る患者は増えている。
(わたしにできることをするだけだ)
診療所に戻った。午後の患者がもうすぐ来る時間だった。
薬草の棚──クロエが作ってくれた、板と板の隙間が均等な美しい棚──から、フユハッカの束を下ろす。今日の患者は、確か手の痺れを訴えていた老人だ。
鋤を握って豆だらけになった手で、薬草を刻み始めた。
王都が何を言おうと、この手は止めない。




