第3話 薬草と、名前と、小さな手
「咳が止まらないんだ──頼む、あんたしかおらん」
朝もやが残る小屋の前に、老人が立っていた。
村長のトマス。日に焼けた顔に深い皺が刻まれた、背の曲がった男。わたしが辺境に来てからの一ヶ月半、一度も話しかけてこなかった人だ。
それが今、頭を下げている。
「孫のルカが……三日前から発作がひどくなって、夜も眠れんのだ。村には医者もおらんし、王都から薬を買う金も……」
声が震えていた。皺だらけの手も。
わたしの後ろで、クロエが静かに立っている。この人が来てから二週間。朝の水汲みと薪割りは完全にクロエの仕事になっていて──いや、今はそんなことはどうでもいい。
「ルカくん、何歳ですか」
「八つだ」
「……診るだけなら、診ます。ただ、わたしは医者じゃありません。薬草のことしか分からないので」
トマスの目に光が灯った。枯れた井戸の底に水が戻ったみたいな、すがるような目。
(わたしでいいのだろうか)
正直、怖かった。前世では植物学者であって、医師ではなかった。薬草の薬効は知っている。精製法も知っている。でも、この世界の子供に自分の知識が通用するかどうか──。
考えていても始まらない。
トマスの家に向かった。
◇
ルカは、小さかった。
藁を詰めた寝台の上で、丸くなって咳き込んでいる。ぜえぜえという呼吸音が、薄暗い部屋に響いていた。頬がこけて、唇の色が悪い。
傍らにしゃがんで、額に手を当てた。微熱。
「ルカくん、息を吸って。──はい、ゆっくり吐いて」
言うと、少年はくしゃりと顔を歪めながらも従った。吸うときにひゅう、と細い笛のような音がする。
(……気管支の慢性炎症だ)
前世の記憶が、知識を引き出す。この音。この呼吸パターン。小児喘息に近い症状。放置すれば気道が狭窄して、最悪の場合──。
「トマスさん、この子はずっとこの咳を?」
「三つの頃からだ。ひどくなったり、おさまったりを繰り返しとる。王都の治癒師に一度だけ診てもらったが、治らんかった」
治癒師。つまり、治癒魔法でも治せなかった。
(蒸気吸入と煎じ薬の併用で改善できる。ただし──)
必要な薬草を頭の中で並べる。フユハッカ、カノコソウ──これは畑にある。タイム──乾燥させたものがまだ少し残っている。
問題は、もうひとつ。
「銀葉草が要ります」
「銀葉草?」
「葉の裏が銀色の、細い茎の薬草です。気道の炎症を鎮める成分が含まれている。……ただ、これは畑に植えていません。自生地を探すしかない」
前世の知識で推測する。銀葉草──和名でいうならウスユキソウの近縁種。高地の冷涼な環境、岩場の日陰、適度な湿度。
辺境の奥地。北側の山道を上がった先に、条件の合いそうな場所がある。一ヶ月前に遠目に見たときの地形を思い出す。あの岩場なら──いけるかもしれない。
「取りに行きます。半日で戻ります」
トマスの目が見開かれた。
「あんた、あの山道を──」
「急いだほうがいい症状です」
言い切って、立ち上がった。
◇
山道は、思った以上にひどかった。
石がごろごろ転がる獣道。両脇から低木が張り出して、枝が顔をかすめる。足元は不安定で、何度か滑りかけた。
クロエが、前を歩いていた。
頼んだわけじゃない。わたしがトマスの家を出たら、黙ってついてきた。「山道は危険です」とだけ言って、先に立った。
(調査員の義務感、かな)
わたしが山で怪我でもしたら報告書に書けなくなるから、くらいの理由だろう。
クロエの背中を見ながら歩く。濃紺の外套の裾が揺れる。歩幅が大きくて、たまに足が追いつかない。でも──不思議と、歩きやすかった。道が、クロエの通った後だけ妙に平らになっている気がする。
(……気のせいか)
岩場に出た。
北向きの斜面。苔むした大岩の間に、細い草が群生しているのが見えた。
駆け寄って、膝をつく。葉を裏返す。
銀色の細かい毛。
「あった……!」
声が裏返った。恥ずかしい。でも構わない。銀葉草だ。前世の記憶通り、この気候と地形なら自生する。
必要な量を計算する。蒸気吸入用に生葉を一掴み。煎じ薬用に乾燥させる分を二掴み。念のためにもう一掴み。
素手で丁寧に摘み取る。根を傷つけないように、茎の途中から折る。群生地を根こそぎにしてはいけない。次もここから採れるように。
「……手」
クロエの声がした。
振り返ると、また手拭いを差し出されていた。
「帰りの道で手が滑ると危ないので」
「あ、ありがとうございます」
受け取って、泥と草の汁にまみれた指先を拭く。白い布がたちまち緑に染まった。
(この人の手拭い、もう何枚ダメにしたっけ……)
申し訳ない気持ちになりつつ、摘んだ銀葉草を布で包む。急がないと。ルカが待っている。
◇
トマスの家に戻ったのは、昼を過ぎた頃だった。
ルカの咳は、朝より悪くなっていた。ぜえぜえという音の合間に、小さな呻きが混じる。トマスが寝台のそばで拳を握り締めていた。
わたしは作業台を借りて、薬の準備に取りかかった。
銀葉草の生葉を石臼で潰す。フユハッカを細かく刻む。カノコソウの根を煮出して、濾過する。蒸気吸入用に銀葉草を湯に浸し、布で覆いをかけた器を作る。
手は泥だらけだった。山を歩いて、薬草を摘んで、石臼を回して。指先が茶色と緑に染まっている。
──ルカの寝台の前に膝をついた。
器を持ち上げる前に、手を止めた。
手拭いを取り出して、指先だけ──丁寧に、拭いた。
爪の間も。指の腹も。子供の肌に触れる部分だけ、できる限り清潔にする。
「ルカくん、ちょっとこの蒸気を吸ってくれる? すうっとする匂いがするよ」
小さな頭を、そっと支えた。器の蒸気をルカの顔の前に近づける。銀葉草とフユハッカが混ざった、清涼感のある匂いが立ちのぼった。
ルカが二回、三回と蒸気を吸い込む。
──咳が、少し和らいだ。
(効いてる)
続けて、煎じ薬。苦い。ルカが顔をしかめた。
「にがい……」
「ごめんね、でもあと少しだけ」
ルカが涙目で残りを飲み干した。えらい。
蒸気吸入をもう一度。今度はカノコソウを足して、気管支の筋肉を弛緩させる成分を加える。
──待った。
蝋燭の灯りが揺れる薄暗い部屋で、ルカの呼吸音を聴いた。ぜえぜえという音が──薄くなっている。
もう一度吸入。
十分。二十分。
ルカの呼吸が、静かになっていった。
「……あ」
トマスが声を漏らした。
ルカが、眠っていた。
苦しそうな顔ではなかった。頬に少しだけ赤みが戻って、口が薄く開いている。規則正しい、穏やかな寝息。
──咳が、止まっていた。
「止まった……止まっとる……!」
トマスが寝台に崩れるようにしがみついた。皺だらけの手がルカの小さな手を握って、肩が震えていた。泣いている。声を殺して、泣いている。
わたしは、寝台の傍らに座ったまま動けなかった。
(よかった)
胸の奥が、じんと熱い。泣いてるのはトマスなのに、なぜかわたしの目頭まで熱くなっている。
──部屋の隅で、クロエが立っていた。
何かを書く手が、止まっていた。手帳を持ったまま、こちらを──わたしの手元を、見ていた。
目が合った。
クロエは視線を手帳に戻して、何事もなかったように書き始めた。
(……調査の記録、かな)
当たり前のことをしただけだ。医者でもない、ただの薬草の知識しかないモブ令嬢が、たまたま知っていた治療法を試しただけ。
そう思った。
◇
夕暮れ。
トマスの家から小屋に戻る道で、村人とすれ違った。
トマスが話したのだろう。すれ違った男が、わたしに向かって深く頭を下げた。
「リーネ先生」
──先生。
足が止まった。
リーネ先生。この辺境に来て一ヶ月半、わたしの名前を呼んだのはクロエだけだった。それ以外の人間は「あんた」か「王都の人」か、何も呼ばないかのどちらかだった。
先生。
それがわたしの新しい名前になった。
◇
小屋に着いた。
日が沈みかけていて、西の空がだいだい色に燃えている。辺境の夕焼けは、王都よりずっと広い。遮る建物がないから、空が全部見える。
作業場で薬草の残りを片付けていると、クロエが奥の部屋から出てきた。手帳はもう閉じていた。
「クロエさん」
呼んだのは、自分でも考えるより先だった。
「今日、手伝ってくれてありがとうございました。山道も、薬草の運搬も」
言ってから気づいた。この人の名前を呼んだの、初めてかもしれない。二週間ずっと一緒にいたのに、「あの」とか「すみません」で済ませていた。
クロエが、一拍──止まった。
手帳を持つ指先が、微かに強張ったように見えた。
「……はい」
短い返事。低い声。いつもの無表情。
でも──その一拍の間が、妙に長かった気がする。
(考えすぎかな)
考えすぎだろう。この人はいつだってこう。表情が動かない。声に抑揚がない。雪の彫像。
でも。
今日、ルカの治療が終わった後、クロエの手帳を持つ手が止まっていたこと。わたしが指先を拭いてからルカに触れた瞬間、あの灰色の目が──わずかに見開かれていたこと。
気のせいかもしれない。蝋燭の影のせいかもしれない。
でも──覚えておこうと思った。
夜風が小屋の隙間から入り込む。蝋燭を吹き消して、毛布にくるまった。今日は、いつもより少しだけ眠れそうだった。
明日もルカの様子を見に行かないと。煎じ薬は三日分作ってあるから、朝と夜に飲ませる分量をトマスに伝えないと。それから銀葉草の群生地、もう一度行って──。
考えることがたくさんある。
一ヶ月半前、王都を追われたモブ令嬢が、辺境の子供の咳を止めた。
それだけの話だ。
──それだけの話なのに。
「リーネ先生」と呼ばれた声が、まだ耳の奥に残っていた。




