第2話 監視役は使い倒すに限る
土を耕す手が、もう豆だらけになっていた。
指の付け根と手のひらの境目に、硬い皮がいくつも盛り上がっている。断罪の日にはなかったものだ。一ヶ月で、わたしの手はすっかり農婦の手になった。
(……貴族令嬢として終わったんだから、当然か)
空は薄曇り。風は乾いて冷たいけれど、日差しは悪くない。わたしが耕した薬草畑は、旧管理官小屋の南側に広がっている。石を拾い、根を掘り返し、前世の記憶を頼りに区画を分けた。
フユハッカは日当たりのいい斜面に。カノコソウは湿り気の残る窪地に。ヨモギギクは乾燥に強いから、水の届きにくい端に植えた。
問題は、水だった。
小屋の裏手に井戸はあるが、畑全体に水を撒くには圧倒的に足りない。前世なら灌漑設備があった。ここには鋤と、わたしの腕二本しかない。
──だから、乾燥に強い種を優先した。
地面に這うスベリヒユの葉を、指先で軽くつまむ。肉厚で、水分をたっぷり蓄えている。この子は放っておいても育つ。偉い。
「……あの」
背後から、おずおずとした声。
振り返ると、村の女が立っていた。頭巾を深く被って、手には籠。わたしと目が合った途端、びくりと肩を揺らす。
「あ、あの、その……畑の端に、うちの山羊が入っちまって……」
「大丈夫ですよ。山羊が食べたところ、もともと間引く予定でしたから」
笑って答えると、女は信じられないものを見るような顔をして、ぺこりと頭を下げて走り去った。
──一ヶ月。村人たちの反応は、だいたいこんな感じだった。
遠巻きに見ている。話しかけてはこない。でも、わたしが畑を耕しているのは知っている。山羊が入ったと謝りに来るくらいには、気にしてくれている。
(まあ、「王都から追放された罪人」が突然やって来たんだから、警戒して当然だよね)
膝の土を払って立ち上がった。腰が痛い。でも、畑は確実に形になりつつある。試験的な精製も始めている。乾燥させたフユハッカを石臼で潰して、煮出して、濾過して──前世の論文で読んだ工程を、原始的な道具で再現する日々。
地味だ。
ものすごく、地味だ。
でもわたしは、この地味な作業が嫌いじゃなかった。
◇
異変は、昼を少し過ぎた頃に起きた。
畑で雑草を抜いていたわたしの耳に、馬の蹄の音が届いた。辺境の道を馬で来る人間は珍しい。行商人は荷馬車だし、村人は徒歩だ。
顔を上げると、砂利道の向こうから一頭の馬が近づいてくるのが見えた。
乗っているのは──若い男だった。
濃紺の外套。きちんと整えられた襟元。馬の手綱を片手で操る姿勢がやけに端正で、辺境の風景から浮いている。
馬が小屋の前で止まった。男が降りる。背が高い。灰色がかった髪が風に揺れて、額にかかった。
わたしは畑から動かなかった。鋤を握ったまま、その男を見上げる。
「辺境管理困難領の実態調査のため、王都行政府から派遣されました」
低い声。抑揚が少なくて、感情の読めない話し方。灰色の瞳がこちらをまっすぐに見ていた。
「クロエと申します。しばらくこちらに滞在させていただきます」
──監視役。
直感がそう告げた。
王都行政府。実態調査。言葉は丁寧だけれど、要するに「追放した令嬢がちゃんと辺境で朽ちているか確認しに来た」ということだろう。
(……乙女ゲームに、こんなキャラいたっけ)
記憶を探る。『聖光のエルディア』の攻略対象は王太子アルヴィン。サブキャラに騎士団長と神官がいたはず。行政府の調査員なんて、影も形もなかった。
(モブ、かな。わたしと同じ)
「リーネ・ヴァレンシュタインです。……元、ですけど」
名乗りながら、畑から出る。膝も肘も泥だらけ。爪の間に土が入り込んでいる。断罪される前の自分が見たら卒倒しそうな姿だけれど、今さら取り繕っても仕方がない。
「お部屋は小屋の奥に空き部屋があります。狭いですけど」
「……ありがとうございます」
クロエと名乗った男は、わたしの泥だらけの格好を一瞥して──何も言わなかった。嘲りも、同情も、驚きもない。ただ、頷いた。
(変な人)
王都の人間なら、追放された令嬢が土まみれで畑を耕している姿を見て、何かしら反応するものだと思っていた。
でもこの人は、何も言わない。
◇
荷を置いた後、クロエは辺境を見て回ると言って小屋を出た。
監視の一環だろう。好きにすればいい。
わたしは畑に戻って、乾燥棚に吊るしたカノコソウの束を確認していた。葉の色が少し褪せてきている。あと二日で取り込み時だ。
──ふと、気配を感じて顔を上げた。
クロエが、畑の縁に立っていた。
ただ立っているのではなかった。薬草畑の全体を──ゆっくりと、視線で辿っている。日当たりで分けた区画。種ごとに整えた畝。水の流れを計算した溝。
その灰色の目が、わずかに細められた。
(品定めしてる)
胸の奥がちりっとした。
調査員だから当然だ。この畑がどれだけの規模で、追放された令嬢が何をしているか、報告書に書くのだろう。「追放者は荒地を耕して遊んでいる」とでも。
「何か」
声をかけると、クロエはこちらを向いた。
「いえ。……よく整備されています」
それだけ言って、また歩き出した。
──よく整備されている?
褒められたのか、記録用の所見を口にしただけなのか、判断がつかない。この男は表情が動かなさすぎる。雪でできた彫像みたいだ。
(まあ、どう思われても構わないけど)
構わない。構わないのだけれど。
一ヶ月、誰にも見てもらえなかった畑のことを、初めて「整備されている」と言った人間がいる。それが監視役でも、ほんの少しだけ──。
いや。
余計なことを考えるのはやめよう。
◇
「クロエさん」
「はい」
「どうせ監視するなら、薬草の運搬も手伝ってもらっていいですか」
夕暮れ前。わたしは乾燥棚から取り込んだ薬草の束を抱えて、小屋の作業場に運び込んでいた。一度に運べる量が少なくて、往復が多い。一人暮らしの一ヶ月で、地味に一番困っていたことだった。
クロエは、一瞬だけ目を見開いた。
灰色の瞳がまん丸になって──すぐに元の無表情に戻る。
「……監視ではなく、調査です」
「調査でもいいです。どうせここにいるなら、運搬くらい手伝ってください。人手が足りないんです」
我ながら図々しい要求だと思う。王都から来た調査員を荷物持ちに使おうというのだから。
でも、わたしには余裕がない。畑の規模は広がる一方で、精製に必要な道具も薬草も、全部自分で運ばなきゃいけない。もう一人いるなら使わない手はない。
クロエは少し間を置いて、答えた。
「……わかりました」
あっさりだった。
反論も、条件交渉もなし。ただ頷いて、乾燥棚に向かって歩き出す。
(え、本当にいいの?)
正直、断られると思っていた。少なくとも嫌な顔くらいはされると。
わたしが呆気に取られていると、クロエが棚から薬草の束を三つまとめて抱え上げた。わたしが一度に一つしか運べない量を、片手で持っている。
(……力、あるんだ)
調査員という割に、やけに身体ができている。外套の上からでも、肩幅がしっかりしているのが分かる。
──まあ、深く考えないでおこう。手伝ってくれるなら何でもいい。
作業場に薬草を運び終えた時、わたしの手は泥と草の汁でぐちゃぐちゃだった。指先が緑色に染まって、爪の間は真っ黒。
その手で次の束を受け取ろうとしたら。
目の前に、白い布が差し出された。
手拭い。
清潔に折り畳まれた、白い手拭い。クロエの手が、それを無言で差し出していた。
「……ありがとうございます」
受け取って、手を拭く。布地が柔らかい。辺境の水で洗った自分の手拭いとは、肌触りが全然違う。
クロエは何も言わなかった。手拭いを返そうとしたら、首を横に振った。
「どうぞ」
それだけ。
(几帳面な人だな)
調査員だから、手が汚い状態で書類や薬草に触られると困るのだろう。報告書に影響するとか、そういう理由に違いない。
でも──白い手拭いを握った指先が、ほんの少しだけ温かかった。布地に残った体温だ。ここ一ヶ月、自分以外の人間の温度に触れていなかったことに、そのとき初めて気づいた。
◇
夜。
小屋の作業場で、薬草の精製ノートを書いていた。
蝋燭の灯りが揺れるたびに、羊皮紙の上に影が踊る。今日採取したカノコソウの葉の乾燥具合。フユハッカの精油の抽出手順。分量と工程を書き留めていく。前世で何百回とやった作業の記録だけれど、道具も環境も違うから、数値はすべて測り直さなければいけない。
──奥の部屋から、小さな物音がした。
クロエが荷解きをしているらしい。革鞄を開ける音。衣類を畳む布擦れの音。
……ふと、顔を上げた。
作業場と奥の部屋を仕切る扉は、建て付けが悪くて完全には閉まらない。隙間から、蝋燭の明かりがわずかに漏れている。
その隙間の向こうで──クロエの手が、何かを素早く押し込んだのが見えた。
鞄の底に。布のようなもの。
一瞬、金糸の刺繍が光った気がした。
(……何だろ)
首を傾げかけて、やめた。
他人の荷物を気にしたってしょうがない。調査員なら書類でも公文書でも持っているだろう。
わたしはノートに視線を戻した。カノコソウの精油の抽出温度を書き足す。六十度で三十分。いや、この世界の鍋は熱の伝わりが遅いから、もう少し長めに……。
蝋燭が一本燃え尽きた。
新しい蝋燭に火を移して、ノートを閉じる。明日は水汲みの回数を増やさないといけない。カノコソウの畝がそろそろ水を欲しがっている。
(人手が増えたんだから、水汲みも手伝ってもらおう)
監視役は使い倒すに限る。
そう決めて、寝台に潜り込んだ。毛布は薄い。夜風が壁の隙間から入り込んでくる。けれど一ヶ月前──あの荒野にひとり立った夜よりは、ずっとましだった。
目を閉じる。
……わたしの畑を「よく整備されている」と言った、あの抑揚のない声が、なぜかなかなか消えなかった。




